常識やぶれの目標達成方法

ダイエット食品の宣伝に,「今のままなら今のまんま♪」という文句があった.
言い得て妙である.
なにか変化させなければならない.
そのために,これを食べてみましょう,というわけだ.

ダイエットであれ,企業経営であれ,これまでとちがう成果を期待するなら,これまでとちがうことをしなければならないのは,別に他人から言われるまでもないことだ.
しかし,あらためて言われて,はじめて「その気になる」ことがないと,じっさいの行動にならないのも確かなのである.

そこで,問題になるのは,「ゴール」である.
どんなゴール・イメージを描くのか?あるいは,どんなゴール・イメージが描けるのか?ということが,いきなり問われることになる.

じつは,問題をかかえたままでもがいている企業のおおくが,ゴール・イメージを「描けない」という状態になっている.
かんたんにいえば,どうしたらよいかがわからない,のである.
ところが,ここに重要な錯綜があって,どうしたらよいかがわからない,ということの意味には,日常活動も混じってしまっている.

つまり,ゴール・イメージと日常活動がかさなることで,はなしが「こんがらがる」のである.
この「こんがらがった」状態から抜けるには,こんがらがった糸を一本一本きれいになおすことが必要なように,はなしの筋を一本一本なおす作業がいる.
ふだん,丁寧な仕事をしている企業ほど,この作業を面倒がる.
それは,現状でも仕事がまわるからである.

ほんとうは,いまのままではいけない,とおもいつつ,現状はまわっている.
すると,余計なことをすれば,現状がまわらなくなるかもしれないし,たいがい,現場はいやがる.まわっている現状を変えるのは,現場にとっては余計なことだからである.

そこで,仕事の棚卸し,という作業が必要になる.
その仕事の名前と,その仕事が存在する理由すなわち目的と,今のやり方との整合性の確認だ.
これで現状が肯定されれば,その仕事は「変えてはならない」と決められる.
「もっとこうしたら」があれば,検討すべきだから「変えなくてはならない」仕事となる.

並行して,それで,なにがわれわれのゴールだったっけ?をかんがえる.
もちろん「利益を出すこと」がでてきてもかまわない.
とにかくたくさん,なんだっけ?を出すことだ.
ここで,「常識」にとらわれてはならないのが「コツ」である.

だから,複数の人間で,なんだっけ?をかんがえるなら,他人がだしたことに反論してはならないのだ.
むしろ,そんな突飛なことなら,こんな突飛なことでどうだ!でよい.
すると,「夢が膨らむ,あなたの胸に」という具合で,これまでかんがえたことがないゴールが見えてくるだろう.

さて,でてきたゴール・イメージを,端的にまとめてみる.
すると,たいがいのひとが,「えーっ!」と思うようなことになる.
ここで,一息.冷静になる.「こんなのできっこない」を鎮めるのだ.
そして,「どうしたらできるのだ?」に話題を集中する.

たとえば,何年かかる?
百年か?千年か?
十年ならどうだ?

もし,十年もあれば,ということなら,ここで紙に十年間の空白年表をつくる.
そして、十年後からこちらに向かって,この年になにをどうする?を書いていく.
一回できれいに年表ができるはずがないから,書き直しはいとわないことだ.

ここで,重要な発想法がある.
そのゴールが常識やぶれであれば,やり方もおのずと常識やぶれになる,ということを識っておくことだ.

すると,これができる企業とできない企業のちがいがみえてくる.
自由にものが言えるか言えないか?というちがいなのだ.
それで,自由にものが言えない企業こそ,現場から以上のやり方でやってみるとよいのだ.

わたしは,これぞ労働組合のあたらしい常識ではないかとおもっている.
働くひとが,みずから働き方をかんがえなくて,なにが働きかた改革なのか?
かつての組合員が,いまは経営者という企業は,大企業ほどあてはまるのが日本企業の典型だろう.

「安全地帯」にいる企業内昇格した経営者が,不思議と上から目線で,しかも,人件費は抑制されるべき,という「常識」に凝り固まっているのだ.この理由はかんたんで,そういう「常識」を言っていれば自身の身が「安全」だからである.
ここには,「いかに自社の付加価値を増やすか?」という経営者の役割に対する責任は微塵もない.

ならば,労働組合が,「いかに自社の付加価値を増やすか?」をかんがえなければ,誰がかんがえるのか?だれもいなくなってしまうのが,悲しいかな日本企業なのだ.
ところが,所詮,組合員から昇格して経営者になるのだから,時間の経過とともに,「いかに自社の付加価値を増やすか?」をかんがえる経営者になる可能性がいまよりも高くなる.

「ただしき」人民管理のチャンスである.

組織崩壊はめずらしくない

人間は理性的であると同時に感情的な動物であるから,その行動には,これらをみなもとにする「動機」がある.
マスコミがある意味どーでもいいことばかり意図的に連日報道しているうちに,興味深い事態が発生していた.ちなみにわたしは,この意図的に連日報道することを,「二分間憎悪」と呼んでいる.

さいきんの「組織崩壊」のひとつが,JR東日本労組の崩壊,である.
今年の2月1日には組織率80%だったものが,5月1日には25%になった.たった3ヶ月での55ポイントもの減少は,「崩壊」といっていいだろう.
こうした事態をまねいた執行部を,まるごと解任して新体制でのぞむことが決まったというが,誰のための労働組合か?からつくりなおすのは,容易ではなかろう.

ことのきっかけは,「春闘」における「賃上げ要求」闘争に,国鉄分割民営化以来封印していた「スト権」をもちだしたので,会社は「JR発足時」に締結した,「労使共同宣言」の破棄を通告したことだ.
むしろ,不思議なのは,スト権行使を嫌うおおくの組合員の声が,事前の決定要件になっていないことだ.つまり,「民主的ではない」という事実だ.

国鉄時代といえば,「国労」と「動労」という労働組合が,政治闘争に明け暮れていて,あまりの傍若無人ぶりに,国民の目線は冷たかったことをおもいだす.
これらには,「セクト」と呼ばれる政治的な活動集団が入り込んでいて,それが「労働組合」の本来あるべき姿から乖離してしまったことが当時も報じられた.
今回の大量脱退に,このあたりが臭うが,詳しい報道がないのは先に書いたとおりである.

一般に,日本の企業労働組合は,「ユニオンショップ」であることがおおいのだが,この事例では,労働組合を労働者の意志で脱退しても「解雇」にならないから,JR労組はユニオンショップ制ではないことがわかった.

会社側の労務政策も,「労使共同宣言」を廃棄したところまでしかわからないから,これからどうするのか?不明である.
そもそも,労働者がひとりだけでは,会社という組織に立ち向かえないから,不利益をこうむることになってはいけない.それで,労働組合法によって,組織とすることが認められている.

だから,このまま脱退した労働者を放置することも望ましくないだろう.
すると,またまた複数の労組ができるのか?
破たんしたJALには,労組が8つもあって,経営再建の妨げになっていた.
毎日乗る電車の会社が,これからどうなるのか?興味深いことである.

つぎの「組織崩壊」は,またまた,あの「雪印」である.
雪印メグミルクの子会社,「雪印種苗」が,牧草などの種子の品種を偽装販売していた.
これは,一気に組織崩壊したあとも,壊れつくしてしまったのではなく,ところどころでいまだ「崩落」が続いている事例だ.

このグループの不祥事の特徴は,あの「雪印(牛乳)事件」もそうだったが,死人がでないどころか,軽い下痢と異臭だったから,なんとなく「軽い」のだが,連山のように連なって不祥事を引き起こすまれな事例だ.
わたしが,この「雪印種苗」が気になる理由は,「雪印」というブランド以外に,「種苗」会社が種子の品種を偽装したこと,つまり「本業」でインチキしたからである.

つまり,これは,製造業でいったら,完全に製品偽装であって,安全基準を満たすみたさない,JIS基準を満たすみたさないという次元の問題ではないことだ.
タネ屋が売ったタネが,別の品種だった.しかも,インチキして,となれば,これを「偽装」と言っていいのか?きちんと,「詐欺」と言うべきで,刑事事件ではないのか?

捜査当局の裁量によって,これが立件されないなら,とうとう,刑事事件までもが「偽装」されていないか?と疑うのだ.
まじめなタネ屋からしたら,おとがめなし,では納得できないだろう.
すると,わが国は法治国家なのだろうか?という疑問すらうまれるから,注目したい「事件」だ.

最後は,連日報道の日大である.
これは,現在進行形だから,これからどうなるかわからない.
しかし,登場人物の意外さもふくめて,いよいよ「劇場化」してきた.
元えらい記者のありえない高圧的な司会ぶりは,ある意味,特攻精神にあふれていて,みごとな「二分間憎悪」を自ら演じた.

これで,大マスコミにとっての「スポンサーとしての日本大学」から,記事にして「売れる」日本大学に昇格したのは間違いない.拮抗していたであろう,マスコミ各社の広告営業の声が小さくなって,編集のイケイケの声がきこえる.
それを,大学広報部の人間という立場で,内部からやりのけたのだからたいしたものだ.

終わってみれば,日大改革の最大の貢献者は,このご老体だった,ということになるのではないか.すると,彼に依頼した広報部も,けっしてマヌケではなく,確信犯的である.
これが,「危機管理学部」の凄みだとしたら,こちらもそうとうな逆転劇になりそうだ.

たしかに,大学のあるべき姿,からすれば,「膿」をぜんぶ出す組織の大掃除が必要だ.
しかし,内部を知ればしるほど,「闇」は深かろう.
まともなやり方では,とても「闇」を追放することはできない.
そのための,近年稀な捨て身の大作戦が,あの記者会見だとすれば,司会者の言説もつじつまがあうから,驚くべき「役者」がいたものだ.

これで,翌日,とうとう「学長」が表に立たざるをえなくなった.
それで,記者から「理事長が出てこない」,という核心がはじめて飛び出したが,これは「編集」からの宣戦布告の号砲であろう.

学生が決死の記者会見をしているときに,理事長がパチンコに興じている姿はYouTubeにある.
各種「闇団体」とのおつき合いもチラホラ言われる「理事長」こそ,本命中の本命である.
内部からの包囲網構築に,この理事長はぜんぜん気づいていない様子だから,劇的な展開が期待できるというものだ.

しかし,まさかこれに水を差すかもしれないのが,「国家」である.
すでに「議員連盟」が,文科省と子会社のスポーツ庁に圧力をかけている.
かれらは誰のために行動するのか?理事長や「闇団体」側に有利なことにならないか心配だ.
今すぐにではなく,大学運営の「正常化後」を見すえて,私学助成金の減額をする,という嫌がらせの有無が,ひとつのバロメーターになるだろう.

盤石にみえる組織も,人間の集団にすぎない.
その人間は,理性と感情の動物であることを忘れると,ある日,突然の崩壊がやってくる.
しかし,ほんとうは突然でもなんでもなく,必然なのである.
人間の理性と感情は,化学反応でもあり,物理法則でもある.

だからこそ,「育ち」が重要なのだ.

自治会と自治体

むかしながらの「町内会」のことを,あたらしく開発された住宅地だと「自治会」という.もちろん,現代的立体長屋である団地やマンションも,「自治会」がある.
「自治会」は,「任意団体」だから,入会も任意だし,規約も任意である.
それで,入会したくない,といったらご近所からゴミ出し禁止や回覧板からはずされたりしていじめられる.

たまらんと訴えたら,最高裁が「任意」だと決めてくれた.
だから,自治会に入らなくてもいいし,いじめはいけないということになった.
それでは,会費だけ取られてバカバカしいから自治会になんか入らない,というひとも確実にふえているらしい.

ところが,定年して自治会なんてぜんぜん興味なかったひとが,あんまりヒマでやることなくて,自治会に集まってくる,という現象もある.
それで,むかしからの面倒なしきたりが改善されることもあるから,あんがい結構なことである.
じっさいに,自治会の役員というボランティアをやると,役所がぐっと近くなる.

もちろん,役所から近づいてくるのではない.
動くのは自治会の役員の方である.
こまごまとしたことが,とにかくたくさんあるものだ.
どうしてここまで住民のボランティアがいるのか?とさえ思うことがある.

もっといえば,自治会がないと暮らしにくい.
さすれば,自治会活動こそが自治体の重要な活動だとわかる.
ところが,すでに役員が高齢化しているから,回覧板のデジタル化なんてできっこない.
会費の徴収も,自動引落ができないから,相変わらず各戸をまわって現金で集金する.
それで,金銭トラブルになる自治会があとを絶たない.

これらの困ったをどうやって解決しようかとかんがえれば,役所の仕事が肥大化して,自治会を支えることとは別のしごとにずいぶんな資源が使われていると気づく.
あきらかに,パーキンソンの法則が有効になってしまっている.

これからの人口減少で,いかに役所のしごとを減らすか?ではなく,役所のしごととはなにか?から見直さないと,通常生活が厳しくなるだろう.
まっさきに,産業政策にかかわる部署は廃止して,資源の組換えにつかうとよいだろう.
商工会があれば十分.経済活動にとって,役所のからみこそ,邪魔でこそあれ役に立たないものはない.

ちなみに,商工会に農業者をいれないのは,幕府による「士農工商」の伝統でもあるのか?
「農商工会」にすればスッキリするのではないか?
そうすれば,日本型「コルホーズ」である「農協」から逃げてこられる可能性もある.
農業と商業・工業のつながりが,ないことのほうがおかしい.

住民は生活者であるのだから,地元の「農商工会」の活動が,自治会の活動とリンクすることで,より「地元」を理解できるようになる.
組合員に逃げられてはたまらんと,「農協」もなにかをはじめるだろうから,役所が余計な介入をしなければ,いいことずくめだ.

70年代に,東京の中野区役所が当時として画期的なシステムを運用した.
戸籍係の窓口番号が,ぜんぶ「1」番になった.
戸籍にかかわる手続きなら,どの窓口でも全部できるようにした.
これで,謄本も,印鑑証明も,転入も転出も,学校の転入学も転退学も,一箇所に一回並べばすむようになった.

これらの手続きが,番号で振り分けられていて,それぞれに並ばなければならなかった当時,全国の自治体から見学にやってきたというはなしがある.
住民からすれば,下手をすると,半日しごとになっていた.最悪なのは,順番待ちでお昼になると,容赦なく一斉に昼休みになったから,追加で一時間のムダもうまれた.それで食堂にいけば,フライングの職員の最後尾に並んでまた待たされた.

このときのシステム設計思想は,「なぜ住民は役所にやってくるのか?」ということからかんがえたのだった.
もちろん,この問いのこたえは,「そこに住人がいるから」である.

つまり,住人からの目線でシステム設計をしたら,ぜんぶ「1」番窓口になったのだ.
すると,全国の役所が見学にきたのは,それまでが,「役所の効率」という目線でシステム設計されていた,ということの証左でもある.
さらに,大挙して見学にはきたものの,中野区のシステムを真似た自治体は,しばらくの間この国のどこにもなかったのである.

住みやすい町は,自治会が最小単位になるから,自治会にとってのハッピーという目線がなければ,じつは自治体が自治体である必要をうしなう.
すると,おどろくほどのムダが見えててくる.

ヨーロッパの地方議会には,議員は無報酬,議会の開催は金曜夜8時からというところがふつうにある.
これは,そのへんのどこにでもある町内会・自治会の役員会に似ているではないか.
原点回帰という問題が,突きつけられている.

経営も,原点回帰レベルでの見直し作業が,おもわぬ発見をみちびくことがある.
数年に一回つくる,経営ビジョンなどは,まさにそのための手法である.
成功と失敗の分岐点に,誰のため?という自問があるのだ.

採算がわからないけど投資してきた

「採算」というのはどうやったらわかるものなのか?
ある商品を一個売ったら,いくら儲かるのか?がわかれば,こんなに簡単なはなしはない.
ところが,ほんとうにわかるものなのか?
とあらためられると,とたんに不安になったりする.

究極的には,「データ」を活用しないとわからない.
データの「活用」には,データの「収集」が必要で,なにが集めるべきデータなのかを決めることをしなければならない.

ところが,自社の範囲をこえて,他社のデータも必要なことがある.
たとえば,伝統的なデパートが仕入れにつかっている商習慣に「消化仕入れ」がある.
これは,納入者の商品がデパートに納品されると,所有権が一時的にデパートに移転して,デパートにきたお客が購入すると,その分の売上金を納入者の指定口座に振り込むことで決済するという仕組みである.

所有権が移転してしまうから,デパート内部でどういう記録を残すのかに運命がゆだねられる.
納入者が納入する商品が一種類しかなければまだしも,実務では複数の種類があたりまえだろうから,何が何個売れたのか?という基本情報すら納入者にはわからない.
全部がまとめて振り込まれるわけだから,デパートさんを信じるしかない.

ところが,納入者にとっては,入金があったからそれでよし,になるはずがない.
何が何個売れたのかがわからなければ,在庫がどのくらいかもわからない.
仕方がないから,だいたいこのくらいのはずだと見当をつけて,また納品する.
これが延々とくり返される.所有権が動くから,文句もいえない.

小売業の覇者だったデパートの凋落はいちじるしいが,まともな業者なら取り引きしたくないのが本音だろうから,多様化する消費者の選択から外れてしまったのは,こうした一方的な体制の維持に原因がもとめられる説もあってよかろう.ネットで売れるトレンド商品を扱う業者が,わざわざデパートに納品する理由がないから,消費者には,デパートに行っても欲しいものがない,になるのだ.

以上のような取り引きがあるから,売上=在庫=現金,という黄金律は,他社の都合でかんたんに破られる.
自社の管理体制を強化したところで,まったくの筋違いになるからだ.

では,自己完結型のばあいならどうか?
自社内での取り引きがあるような企業だと,こちらも意識して手間をかけないとわからなくなった.決算と納税事務を主とする経理部は,その手間をムダだとしていやがるからだ.

しかし,時代はデジタルだから,いまどき社内伝票が電子決済をともなわない企業以外は,かなりの確度で把握可能になったろう.
すると,いまどき社内伝票が電子決済でない企業があやしくなる.

企業情報の開示義務が,会社法と企業会計原則によってあらぬ方向へいっている.
「規制当局」は,株主利益のため,という大義名分を掲げているが,開示のためのコストがかさむ.そのコストは,株主負担であることは言うまでもない.
それで,上場を辞退する企業がでてくるから,なにごとも中庸が大切なのだ.

だったら,株主から委嘱される経営者には,「経営会計を活用しなければならない」という一文によって規制されたほうが,よほどの利益貢献になる.

しかし,突き詰めると,この問題は,経営者も,従業員も,規制当局の役人も,はたまた政治家も,この国には,資本主義の根本原則がわかっていないひとばかりではないかと思えてしまうのだ.

そもそも,資本は誰のものか?という問いに,株主のもの,とちゃんと全員が即答できるのだろうか?
「だから資本主義は問題なのだ」という,トンチンカンな回答は,もちろん問いに対するこたえになっていないから,論外なのだが,平気でこのようなことを言うひとがエライひとほどおおい.

アメリカンフットボールで,こうした時代を象徴するような事件があった.
問題の核心は,監督が危険なラフプレーを命じたのか命じなかったのか?である.
状況は灰色だが,もしも「黒」なら,まさに「採算」がわからないのに投資してしまった,ということだ.
企業に置き換えれば,違法な残業をさせてなお,残業代を支払わないのは,社長が命じたのか命じなかったのか?になる.

じっさいに被害者側が,警察に訴えたから,捜査,という段階になった.
こちらのほうは,前監督がすでに「二分間憎悪」の対象になったから,どんな事実がでてこようと,もはやより残酷な制裁から逃れようがないだろう.国民は他人の不幸を望んでいる.
くわえて,大学のトップも間もなく「二分間憎悪」の対象になるはずだが,大手広告代理店はどう動くのか?に興味がうつる.わが国最大規模の大学がもつ,広告予算の破壊力はいかほどであろうか?マスコミの健全性の試金石にもなるだろう.

これを企業に置き換えれば,監督官庁である労基署がうごくはなしだ.そこで,問題になるのは,もし労基署が「黒」としたばあい,株主は社長解任をふくめた処置をしないのはどういうことか?になるはずだが,この視点でマスコミは報道しないばかりか,「ブラック」だのなんだのと言ってお茶を濁すばかりだ.立派な経済犯罪なのにである.

まさか,残業代は社長のポケットマネーから支払われるものだとでもおもっているのか?
企業のお金は株主のもの.それを経営者が「運用」しているだけなのである.

これらの事例からもわかるように,この国の組織は,だれのものかがわからなくなって,責任者が私物化できるようになっているという特徴がある.
長期の「占有」が「所有」への錯覚を誘導するのは,日本人のDNAに組みこまれているのだろう.
それで,採算がわからないけど投資することもできたのだ.

デジタルデータの時代には,そうはいかない.

地銀統合と無関心

「人事」のことを「ヒトゴト」と言って,「他人事」と掛けることがあるが,このテーマは「他人事」の「ヒトゴト」ではない重要さをもっているはずなのに,あんがい「ヒトゴト」だとおもっている経営者はおおい.
政府部内で真っ向対立しているから,成り行きをながめているのかもしれないが,自社は「どうしたい」というアンカー(錨)をうっていないと,激流にながされてしまう危険すらある.

「競争」についての専門部隊が「公正取引委員会」であって,おもな法律は「独占禁止法」である.
一方,地銀は金融機関なので,規制当局といえば言わずと知れた「金融庁」である.
先月,金融庁の有識者会議「金融仲介の改善に向けた検討会議」というひとたちが,「地域金融の課題と競争のあり方」と題する報告書(官庁文学)を発表した.
例によっての「官庁文学」だから,誰に対して読んで欲しいのか?という根本的な観点が欠如しているが,これは「有識者」のみなさんの識ったことではないのだろう.

金融庁のお節介は,ノーパンしゃぶしゃぶ問題発覚で分離された,大蔵省銀行局時代からの伝統で,民間人には銀行経営はできない,という前提がある.
その証拠が,「はじめに」の最後に,「なお、本報告の取りまとめにあたっては、日本銀行より多大なるご協力をいただいた。」という一文である.

つまり,あの城山三郎をして「御殿女中」「小説日本銀行」と言わしめた,日銀という組織は,とっくにその独立性を失って,政府の御殿女中に変容している.

ちなみに,政府からの独立をうたった新日銀法ができたのは,なんと1998年(平成10年)のことであって,第二次安倍内閣は「アベノミクス」において,この法律を「改正」して,日銀を政府に従属させようとした.それで組織防衛のために,みずからの首を差し出したのが白川総裁で,「大蔵省」財務官だった黒田氏によって無血開城させていまにいたる.ここに,武士の情けはひとつもない.

公取委と金融庁の正面衝突は,長崎県の地銀統合問題から発する.
「人口減少」は地域経済の縮小も意味するから,県単位での地銀,という配置では経営が成り立たないから,県をこえて広域金融にしないと生きのびることはできない,という金融庁の主張に対して,そんなことしたら地域独占になって利用者の選択がなくなるからダメ,と言っているのが公取委の主張である.

要は,市町村でやった「平成の大合併」とおなじ発想なのが金融庁なのだ.
その市町村は,「人口減少対策」と称して,他地域からの「移住」にやたら熱心である.これは,完全ゼロサム・ゲームなので,一方が増えれば一方が減る.国全体としての人口が増えるはなしではないから,「事業」としてマクロでみればムダそのものである.

そもそも,地銀が一県一行というのも,地方紙が一県一紙なのも,国家総動員法による戦時体制がはじまりである.
金融庁は,この体制を維持することに汲汲としているから,だれのための合併(経営統合)推進なのか?といえば,業界優先,という鉄板ルールはかわらない.
つまり,民間人に金融機関の経営はできない,からお国が面倒をみてやるよ,というはなしである.
しかし,これは裏を返せば自らの権限を手放したくない,ということそのものだ.

すでにメガバンク三行は,個人の買いもの等の決済手段を統合したシステムを開発済みで,また,通信会社によるスマホを決済端末としたサービスもはじまった.
これが普及するとどうなるか?

キャッシュレス社会が日本より先行する中国では,個人の買いもの決済情報と企業の売上情報がリンクしていて,これに企業のキャッシュレスな仕入れ取り引き情報を組合せ,「信用情報」を構築している.
つまり,少額の運転資金の融資なら,経営者がスマホ・アプリをつうじて瞬時に実行されるサービスが実現してしまっている.

当然,これからの進化は,融資枠の拡大と,融資内容の自動化になるだろう.
つまり,これが意味することは,金融機関が貸出に応じる根拠が,企業活動情報,であることであって,日本の金融機関がいまだに不動産担保から抜け出せないのとは次元がことなるのだ.

これは大変なことになる.
キャッシュレス社会は,金融機関の店舗縮小だけでなく,融資審査をも自動化させる.すると,利用者側は,納税も自動化となれば,担保設定のための登記もいらない.
これだけでも,税理士と司法書士の苦悩の時代がはじまりそうだ.
すると,会社経理はどうなる?
商業高校や経理学校での簿記の授業は必要か?

宿の予約サイトのように,金融機関の融資サイトが林立し,これらサイトをひとまとめにした,もっとも有利な融資先が選択できるサイトもうまれるにちがいない.
すると,利子率は?
中央銀行の役割は?
ましてや,金融庁の存在意義は?

わたしたちの生活や職業までもがまちがいなく一変する.
もう間もなく,確実にやってくるから,無関心ではすまされない.

孟母の絶滅?

もはや「良妻賢母」をいうものがいなくなった.
フェミニズムや男女同権といった,あたらしい価値観をしばらくヨコに置いて,人類史という長いレンジを基盤にしたはなしをしようとおもう.
だから,フェミニズムや男女同権というあたらしい価値観から抜けきれないひとには不快な文になるだろうから,あらかじめおことわりしておく.

おとなになれば,「良妻」と「賢母」はちがうことに気がつく.
つまり,「良妻」=「賢母」とはかぎらない.
しかし,制度としての「家」があった時代には,「良妻」=「賢母」でなければならなかったろう.
少なくても長男には,「家を継ぐ」子どもとしての教育をしなければならないが,学校という制度もなければ,だれが教師をつとめなければならなかったかをかんがえればよいだろう.

すると,「家」の「奥」には,すなわち「大奥」のような子孫をつくる機能のほかに,「アドミニストレーション」(統治,行政,管理)という,「家」の維持にもっとも重要な機能をになう責任者としての「奥様」が存在した.ふるくは「政所(まんどころ)」と,ズバリと言った.
これは,首相の「女房役」とされる,「官房長官」機能とおもってさしつかえないだろう.

「専業主婦」というと,なにやら今時はかまびすしいが,本来は,家ごとの官房長官という重責をになうから,けっして気楽な商売ではない.むしろ,「専業」でなければ,とてもこなせる量と質ではなかったろう.

ついこの間まで,「専業主婦」はあたりまえだった.
ところが,「家事」という「労働」だけに焦点があたって,家電の普及によって革命的時間の余裕ができた,と喧伝された.洗濯機と掃除機のことである.これに,本来は炊飯器がくわわるが,ときの「三種の神器」では,価格の高い冷蔵庫が指名されたから,たぶんに電機メーカーの側の言い分である.

つまり,「専業主婦」という言葉には,「賢母」の意味が欠けている.だから「専業主婦」がさげすまされる.これが本来の理由ではないか?「物欲」と直結した「家事労働」が軽減されて,「三食昼寝つき」に,「賢母」のイメージはどこにもない.
しかし,家計は「主人」一人の肩にあった.それで,「ふつうの生活」ができたから,よくかんがえれば,家計の生産性はいまよりはるかによい.
共稼ぎでやっと「ふつうの生活」になるいまの暮らしには,ムダが多いといった方が適切か.

かつて,東芝を再建した,土光敏男氏の母は,戦時中に学校を創設した.
生前の土光氏は,政府の第二次臨調会長時代に密着取材したNHKの番組から,「目刺しの土光さん」と呼ばれるようになった.朝食で目刺しをかじるばかりか,その質素な暮らしに贅沢をもとめる日本中が驚いたからだ.
当時数千万円あった年収のほとんどを,みずから校長をつとめる学校法人に寄付し,妻と二人の生活費は年間百万円程度だった.

しかし,あの番組で,臨調のしごとは国民から乖離した.
だれもが,「目刺し」だけなんて嫌だとおもったのだ.そして,どんなに国の借金が増えようと,じぶんたちには関係ない,かんがえたくない,になってしまった.
土光家の暮らしぶり密着は,その本来の目的からはなれて,「偉人」と「異人」が混じってしまった.

「正しき者は強くあれ」,「国が滅びるのは悪でなく、その愚さによるのです」(土光登美).
まちがいなく,土光氏の母は「賢母」である.
「賢母」から「賢人」が育つ.いや,おそらく,賢母「からしか」賢人は育たないのではないか.

しかし,「賢母」は「奥様」でないとなかなかつとまらない.
政府による専業主婦を労働力に変えようという努力は,賢母「絶滅」のこころみである.
なるほど,おそらくこれをかんがえる人たちは,「専業主婦」の息子たちなのだろう.
みずからの母を,どういう目で見ていたかすら想像できる.学業優等生への「人格欠如」批判根拠
のひとつだろう.

いかにして「賢母」を継承するのか?
それは,事業継承よりはるかに重要で,はるかに困難なことにちがいない.

「プロが選ぶ」の信用度

探しだしてマッチングをさせる「サーチ理論」が,ノーベル賞をとる時代である.
つまり,みつけものをなかなか探し出せない,ということがあるのが現実である.

そこで,いろいろな「サーチ(探索)」を試みることになる.
ネット時代だから,だれでも「ググる」ようになった.
これに,専用のアプリも加われば,「電話帳時代」にはかんがえられない便利さで,おおくの情報をえることができる.

ところが,それだけでは得られない情報もある.
それでも探そうとするか,それともあきらめるか?ここが,分岐点になる.
安易なひとを批判するときに,グーグルで検索できなかったらそれでやめる,ということが対象になっている.

「ランキング」がテレビ全盛時代に流行ったことがあった.
「なんでもランキングの発表」というのが,一世を風靡した.
では,いまは下火かといえばそうではない.
「ランキング」は,もはや「常識」になってしまった.

情報過多で選択肢がたくさんあると,ひとは選ぶことができない.
駅の蕎麦スタンドとて,食券売機のまえで固まっているひとを見かける.
たくさんのボタンに,たくさんのメニューがあって,お金を投入しても一定時間がすぎると,ゲームオーバーとなって返金されるから,はやく選ばなければならない.
このプレッシャーが,さらに選択を困難にする.
それで,気の利いた店は,手作りポップで,「当店人気No. 1」とか,「おススメ」とかを表示して,選択肢を絞り込ませ,ボタンを押す手を楽にする工夫をしている.

「ランキング」には,この「絞り込み効果」がある.
だから,おなじ範囲でのランキングでも,「百位」から「4位」までは意味をなさない.
「トップ3」が選択肢としての限界になるからだ.
むかしからの,日本料理屋の「松」,「竹」,「梅」はよくできているメニューである.このばあい,まんなかの「竹」がいちばんよく売れる.
1位と2位の売上差は,半分以上にもなる傾向があるというから,3位ではかなり落ちるものだ.

ところが,「ランキング」には,誰に聞いた結果なのか?という「落とし穴」があって,およそ「統計学的」に有意とはいえないようなものがおおく混じっている.
サンプル数やサンプルの抽出方法,それに有効回答数などの基礎情報が公表されないものは,おおくが「あやしい」ものであるから信用できない.

そこで,じっさいに使ったひとが評価するという方法がでてくる.
「飲食店の案内サイト」に「旅行サイト」や「宿の予約サイト」などなどの「評価ポイント」である.
これらには,点数のほかにコメント欄があって,店側からの返答まである.
ところが,ここにも「落とし穴」がある.
利用したひとの生活感や価値観が,そもそも不明でわからない.
だから,自分との比較で,おそろしくトンチンカンな評価もあるのだ.

であればこそ,「プロが選ぶ」という「ランキング」に注目することになる.
ところが,驚いたことに,そこには「選者」も「選定基準」すらも表示されていないことがある.
いったいどの分野の「プロ」なのかが不明で,「プロが選ぶ」とはどういうことか?

わたしの最大の疑問である,「利益」が基準になっているとおもえないことも加えたい.
つまり,経営が赤字なのに「すばらしい」という評価をすることだ.
これには重大な問題がある.
おおくの店を,赤字経営に誘導するからだ.経営者をして,「目標」に「ランクが高い店」を置くのはある意味自然である.しかし,その店あるいは経営会社が「赤字」だったらどうするか?

「業界」が,あやしいプロたちの餌食になってはいないか?と疑うのだ.
そして、健全な店や経営会社を,「赤字」に誘導すれば,なんらかの「相談」があるかもしれない.つまり,商売になる,としたら,悪魔的な戦略ではないか.
この被害者には,従業員もふくまれる.
人的サービス産業の生産性が低いことの,間接的な原因のひとつになっていないか?

要するに,みずからの「絶対値」が必要なのである.
これがあって,はじめて他との比較基準ができるというものだ.
そうなれば,世の中の雑音に惑わされることはない.
情報過多時代とは,情報そのものが「甘いささやき」をしていることがある.

なるほど,「サーチ理論」が注目される理由がわかろうというものだ.

世界戦略 I’m lovin’ it.

いい広告とは,販売を伸ばす広告である.
この基準が,「業界」のなかの目線によってゆがむことがある.
この「業界」とは,「広告業界」のことである.
つまり,クライアントの金で,クライアントの満足ではなく,自分たちの満足を追求してしまう現象をいう.

有名な広告,無名な広告,さまざまあるが,有名な会社,無名な会社のことではない.
有名な広告は,「話題性」があるから「有名」になる.
しかし,その「話題性」が,販売増につながるかどうかはわからないことがある.
広告業界のなかでの「CM大賞」は,「話題性」が重視されるから,販売増にどこまで貢献したかはわからない.
ところが,授章式にはクライアント企業のえらいひとが呼ばれて壇上にあがるから,それで企業も「よかった」になるようなしかけがある.だから,作った者勝ち,なのだ.
じっさいに,なにがヒットしなにがホームランになるかわからないのが世の中だ.

民放では,番組編成の谷間の企画切れなのかしらないが,「CM特番」を放送することがある.
どんなCMが過去にながされてきたかは,一種の文化を形成する.
だから,単なるノスタルジーではなく,時代の「資料」として興味深い.
どうしてこのようなつくりかたをしたのか?
という解説のみごとな欠如,ほんとうにまったくないのは残念だ.
「CM特番」は,じゅうぶんに教養番組になりえるのだが,「企画切れ」としか感じない.

もっとも,そんな「教養番組」を一度でもつくったら,つぎの「企画切れ」の穴埋め番組がなくなるから,「企画」されないのだろう.
「感嘆」役のタレントを入れ替えれば,なんどでも「CM特番」はつかいまわしができる.
それで,スポンサーがつくのだから,「おいしい」はなしになるはずだ.
「CMは文化だ」といいながら,しっかり「CM」自体を消費してしまうのだ.

学校英語教育界を震撼させたというCMに,「I’m lovin’ it.」があった.
これは,世界最大のハンバーガーチェーンが,世界戦略として打ち出したもので,かれらが進出しているすべての国で,一斉につかわれた.
だから,外国に旅行しても,かならず目に触れるようになっている.

こまったことに,このフレーズには,重大な問題がある.
「love」が「進行形」になっているのだ.
感情をあらわす「love」は,進行形にはできない,から,まじめな生徒ほど疑問をもつ.
そこで,学校の英語教師に質問したのだった.

どうして「進行形」なんですか?
どうやって「訳す」のですか?

ほとんどの英語教師は,「文法的に間違っているから,気にするな」とこたえたそうだ.
それでも,納得がいかないまじめな生徒は,予備校の英語講師に質問した.
だって,アメリカの会社でしょ?
世界中でおなじフレーズを流しているんでしょ?
アメリカやその他の国のひとたちは,これをどう「解釈」しているの?

ひとつの「解答」はつぎのとおり.
「love」が進行形になっているのは,CMならではの「つかみ」だろう.
だれだって「アレ?」とおもう.
それに,ことばは生きているから,新語はどんどんつくられる.
日本語だって,告白することを「こくる」なんてちょっと前には言わなかった.

進行形には「途中」の意味があるから,「loveの途中」.
深読みすれば,健康にわるいとか肥るとかいうけど,食べてみたらやっぱり好きになるかも,って意味にもとれる.

予備校の英語講師に質問したらスッキリした.
こうして,学校英語教育界の信用はズタズタになってしまった.
これが,ひとつの課目だけのはなしならいいのだが,おそらくそんなことはあるまい.

世界戦略の一言には,意外な破壊力があった.
それで,「loveの途中」をうたった会社は,紆余曲折あるものの,あいかわらず販売を伸ばしているから,CMとしては成功したといえるだろう.
世界で「話題性」と「販売増」という二兎をみごとに仕留めた事例だ.

なにを食べてきたのか?

NHK教育テレビが,2011年から「Eテレ」と自称しだして,ぜんぜん教育的でなくなった感があるが,そのNHKが発行している「NHKことばのハンドブック」に「Eテレ」は馴染むのだろうか?とおもってしまう.

もっとも,それをいえば,いまの「テレビ朝日」は,1977年まで「NET(Nippon Educational Television)」と言っていたし,放送免許も教育番組を50パーセント以上、教養番組を30パーセント以上放送するという条件だったから,放送行政そのものもいいかげんなものだ.

まだ「教育テレビ」と言っていた1985年1月に,「教育テレビスペシャル」という大型シリーズ番組で,「人間は何を食べてきたか」という素晴らしく教育的な番組が放送された.
このシリーズは,五本が五日間にわたっての毎日で一気に放送されたから,なかなか全部を制覇できなかった.
ありがたいことに,横浜にある「放送ライブラリー」で,いまでも鑑賞することができる.

このシリーズは,「人類」という意味の「人間」がテーマだから,はなしが壮大である.
それで,自分の生活史レベルになると,まずは「日本」に絞らなければならない.
そこで,ご先祖さまが何を食べてきたか?となれば,すぐに思いつくのは「郷土料理」である.
「伝承写真館 日本の食文化」(農文協:全国12冊シリーズ)がでたのが,2006年だから,すでに暦は一巡している.

それでか,いまみると,写真がずいぶん古くみえる.
写真だけならいいのだが,かんじんの地域の伝統食も「古くなって」,もう再現できなくなっているものもあるかもしれない.

 

それで,もうすこし角度をかえて,地域ごとではなく開国からの歴史でみるとどうなるか?
小菅桂子「近代日本食文化年表」(雄山閣,1997年)というのがある.
続編がでていないから,年表は「1988年」でおわっている.「昭和」でいえば63年まで.つまり,事実上「平成」はない.
その「平成」もおわりがきまった.続編があったらなんと書くのか?
ヒントは,あとがきの「愚痴」にある.

この三十年,あたらしい食文化を形成したのか?といえば,「厳しい」時代だった.
あえていえば,化学調味料と添加物という化学物質による「インスタント」が完成した時代なのかもしれない.
それを,「食文化」といえなくはないだろう.
しかし,ファストフードは当然として,コンビニやスーパー,それに持ち帰り弁当チェーン,スナック菓子,清涼飲料すべてに添加物はあたりまえにはいっているのを,どこまで誇れるものか.

日本料理が世界遺産になったのを自慢するひともいるが,洋食もふくめた関係者の顔は暗い.
幼少時から添加物という刺激物になれてしまった舌は,化学物質による味覚破壊によって,「本物」の「うまみ」を感じなくなる.つまり,鈍感になった子どもがおとなになれば,本物を「本物」だと知識でわかっていても,味覚を感じないのだから美味くない.それで,ほんとうに「遺産」になってしまうのではないか,とおそれている.

もっといえば,「お袋の味」が添加物の味になるということだ.典型はみそ汁である.
すでに,かつおだし風化学調味料が家庭にはいって50年になるし,ダシ入り味噌すら30年の歴史がある.
さいきんは,これらの製品のCMで,「おかあさんの味がする」というブラックジョークまである.

じっさいに,本物の一番ダシとかつおだし風化学調味料を目隠しして味見すればわかる.
わたしをふくめ,おおくのひとが,化学調味料のほうを「本物」と評価してしまうのだ.
これは,和食だけのことではない.
洋食の世界でも,とっくに大手ハンバーガーチェーンのハンバーガーが美味しい,という子どもは30年前からいた.かれらはすでに中年で,中堅以上の幹部になっているだろう.

ファストフード店でみかけるが,年金で孫にやさしい振りをしているのも,いかがなものか?
将来,国が国民の健康問題に介入してくるようになると,ファストフード店にたいして現在の風俗店のように,成長期の子どもや青年だけの入店を禁止するようになるかもしれない.そうなると,おとなが同伴しても,入店させたおとなの知性がうたがわれるようになるだろう.

また,子ども手当の変形で,「食育」をうたって,「本物の店」がつかえるクーポンが配付されるようになるかもしれない.

これはこれで,星新一の「ボッコちゃん」のような世界である.

人間は食べなければ生きていけないが,何を食べてきたか?という問いは,「人生」をも意味する.
ケミカルな食品だからよろこんで食べる,というのは,ありがたい未来とはおもえない.

「甲州印伝」からかんがえる

伝統工芸品には二種類ある.
「伝統『的』工芸品」と『的』がない「伝統工芸品」である.
『的』がある「伝統的工芸品」は,「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」(昭和49年5月25日、法律第57号)に基づいて経済産業大臣により指定された日本の伝統工芸品を指すから,伝統工芸品のなかのエリートということになるはずである.

「はずである」というのは,例によって余計なお世話を役所がしだす可能性があるからである.
(産業)「育成」とかいって,補助金というちょっかいを出すと,補助金がないから育成できない,という論理で関係者を洗脳して,とうとう工程全体を支配してしまうおそれがあるからである.

「売れる」ということが,伝統的工芸品にも最も必要な要素である.
おおくの伝統的工芸品は,生活のためのものだった.
だから,伝統的工芸品だからこそ,現代的な生活センスが要求される.伝統的な生活センスではないところに注意したい.
現代的な生活センスが,グルッとまわって伝統的生活センスに回帰することもあるし,しないこともあるからだ.

山梨県の甲府には,その伝統的工芸品である「印伝」(「印傳」とも書く)が有名だ.
鹿革を材料にした,バッグや財布といった小物類をつくっている.
主流の技法は,「漆付け」と「燻(ふす)べ」の二種類.
「燻べ」は,奈良時代からあったというが,藁と松ヤニの煙でいぶして染めるという,じつに珍しい方法でつくられる.よくぞこんなことを思いついたものである.そのできあがりは繊細にしてみごとな幾何学模様である.

「漆付け」は,別途染め上げた鹿革に,型紙で漆を転写する技法だから,一種の印刷である.
これを400年前からやっている.
型紙は,「伊勢型紙」.その材料となる「紙」は,「美濃和紙」である.
伊勢型紙は,重要無形文化財(人間国宝)の技術をもってできる.
また,美濃和紙は,伝統的工芸品であり,重要無形文化財であり,ユネスコ無形文化財登録である.

つまり,「印伝」は,印伝自体が伝統的工芸品であると同時に,製造のための道具も,「人間国宝」や伝統的工芸品からできている.
だから,美濃和紙ができなくなると,伊勢型紙ができなくなり,それで印伝もつくれなくなるという「連鎖」ができている.

このての手仕事は,世界共通ではあるが,一度途絶えると将来,これを完全復活させるのはほとんど不可能となる.
だから,その「技術の継承」に目線がいきがちである.
これが高じると,「技術の継承」が自己目的化する.売れなくても技術さえ絶えなければよい,という発想だ.役人が陥る上から目線である.

「売れる」にはどうするか?という経営の視線が不可欠なのである.
誰が買うのか?
そのひとは,どんな生活をしているのか?
そこには,どんな価値観があるのか?

おおくの伝統的工芸品には,暗黙の永久保証がついている.
通常使用での不具合なら,たいてい修理が可能なのだ.
たとえ代替わりしていても,職人がいるかぎり,製法が継承されていれば,修理できないことはない.

これが,現代の主流,「使い捨て文化」のアンチテーゼになっている.
そうやって製品をながめると,価格はリーズナブルではないか?
むしろ,「安い」と感じる.

センスのいい伝統的工芸品を使いこなすことができるのか?
あんがい問われているのは,使い手のほうかもしれない.
それほどに,「売れている」伝統的工芸品は,わたしたちの生活に近づいてきている.
人的サービス業界が,もっと注目していい分野だろう.