経営を「効率化」したいけど

およそ経営者ならだれでもがなんとかしようとかんがえるのが,「経営の効率化」なのだが,なかなかおもうようにいかない,ということがおおいだろう.
ことばで,「効率化」とはいうけれど,なにをもって効率化の「評価」をするのか?をすっかりわすれてしまっていることがある.

こたえをさきにいえば,「総資本回転率」の変化をみればよい.
これは,「売上高÷総資本(=総資産)」で計算できる.
ようは,手持ちの資本すべて(=資産すべて)を一年間でつかって,いくらの売上金(=収益)を得たのか?を「倍数」で知ることができる,という意味である.

ホテルや旅館などの宿泊業は,とくに「高級」を標榜するするほどに,この数値は小さくて,場合によっては「小数点以下」のこともあるという傾向がある.
つまり,計算結果が,たとえば,「0.98」とかになることである.この意味は,一年間の売上高よりも総資本のほうが大きい,ということだから,自社がもっているものを使い切らなかった,ということでもあるし,自社がもっているものをもてあました,ということでもあって,じつに「効率が悪い」ということだ.

しかし,現実には,昨年が,「0.98」であっても,ことし,「0.99」になったなら,それはそれで「よい評価ができる」というものだ.
だから,「小数点以下」だからといっても,あきらめることはない.

ところで,このブログでも何回か書いたが,「損益計算書の誤謬(勘違い)」にはまってしまっている経営者はあんがいおおいから,「総資本回転率」をあげるために,まっさきに「売上高」をふやそうとして,従来の売上増のやりかたを「強化」しようとこころみることがある.
おそらく,その結果が,「低い倍率」であらわれているはずだから,この方法は,もっと数字を悪化させる可能性があることに気づくべきだ.

まず,第一に,分母に注目すれば,それは「総資本」なのであるから,貸借対照表には,調達方法が書いてある.そこで,自社の資本の調達方法について検討しなければならない.
第二に,さまざまな方法で調達された資本が,どんな形態で社内に存在しているか?をしめすのが「総資産」だから、こちらにおかしなものはないか?を検討しなければならない.

第三に,「財務諸表」には記載のない重要な資産である,「社員」について検討しなければならない.
社員(就業形態は問わない)を,どのように調達しているのか?
その社員を,どのような部署に配置し,どのような業務をおこなっているのか?
この,「どのような業務」のなかに,販売活動もあるはずだし,ムダな業務があるかもしれない.
「ムダな業務」とはどんな業務をいうのか?も決めなければならない.

つまり,経営者が自社の「効率化」をかんがえるとは,その基礎に,上述の内容がなければならない.
これをせずして,物理的強制的に退勤させ,残業を削減させたところで,本来やらなければならない業務もできなくなるから,かえって仕事が停滞することがあるのは,もうじゅうぶん経験済みだろう.

さて,人的資産の活動には,販売活動もあるのだから,こんどは,分子の「売上高」の検討になる.
世の中が,損益計算書の順番でない,ということに注意すれば,
「販売活動」(経費の使用)⇒「売上高」(使用した経費=資本の回収)
という,当然の順番であることに気づく.

だから,いかなる「販売活動」が,もっとも自社に最適なのか?という命題を解かねばならない.
「販売活動」には,「商品」も含めれるから,壮大なはなしである.
つまり,「新商品開発」までもが対象になるからだ.

「総資本回転率」は,たいへん重要な指標であるが,式が単純であるかわりに,式のなかの「項」がおおきなかたまりであるために,一種つかみどころがないようにみえてしまう.
これを「分解清掃」するのが,経営者たる「職人」のなせるわざなのだ.

健康の定義をする医学

経営コンサルタントという職業は,法人企業にたいする「健康診断」をしたり,その結果をうけて「治療方針」をきめて,じっさいに「治療」をおこなうものだ.
だから、おおきい目でみれば,とても医師のやりかたに似ている.
それで,国家資格の経営コンサルタントを,「中小企業診断士」と呼んでいる.

いったん医師の世界をみてみると,経営コンサルタントのスタンスのちがいもみえてくるだろうから,しばらく医学系のはなしをする.

まず,なにをもっても,近代医療は,「西洋医学」を基礎にしていることはちがいがない.
最先端の研究をきけば,素人でも難病が克服されるのではないかと期待する.
そこで,さいしょに,「西洋医学」とはなにか?をかんがえると,それは、「病気を定義する医学」といえそうだ.

もちろん,西洋医学にも「臨床医学」という分野があって,誤解をおそれずにいえば,病気の原因特定よりも,「経験的に治るならその方法をつかって治す」ことを優先させる.しかし,主流は,なんといっても病気の原因追及であって,それから治療方法が決まる,というかんがえかただ.
この両者の立場が激突した典型的事例は,「かっけ(脚気)」治療にみられた.
詳しくは,吉村昭「白い航跡」(講談社文庫)をお読みいただきたい.

 

一般に「病気の定義」には,「数値」が用いられる.
例えば,血圧の上下の数値や,酒飲みがまず気にする肝機能の「γGTP」,血糖値や脂質の割合など,「基準」となる「数値」がきめられているのが特徴である.
そして,この「基準の数値」の下なら,「異常なし」であって,上なら「病気」と診断される.

ここで注目したいのは,「異常なし」という「診断」である.
つまり,かなり基準点に近くても,優良な水準での数値でも,おなじ「異常なし」となるから,危険水域のひとには「気をつけましょうね」で,放置されるという難点があるのだ.「異常なし」なら,治療は開始されないということだ.

それで,時間が経過すると,危険水域だったたいがいのひとは,みごとに治療を要する「病気」になるのだ.
これでいいのか?という問題が指摘されてずいぶんたつ.しかし,西洋医学の本流は,「定義」にこだわるのは当然だし,医療保険の国家負担をおそれる側は,われ関せずをつらぬいている.

これの対極にあるのが,東洋医学を代表とする「伝統医学」である.
われわれが「漢方」とよぶ,中国につたわる「中医」では,むしろ「健康」を定義するから,健康でない状態がみられたら,すぐに治療が開始される.
これは,「病気にさせない」というかんがえかたなので,いいかえれば「予防医学」ということになる.

この両者をみると,得意分野と不得意分野がみえてくる.
西洋医学は,圧倒的に外科的で,「急性疾患」の対応にめっぽう強い.脳や心臓などの発作をともなうような病気や,外傷の対応における「薬」も効く.
一方,東洋医学は,内科的で,「慢性疾患」に対応しているとかんがえられる.

かんたんにいえば,西洋医学では高血圧にたいして降圧剤という薬は効くが,高血圧という病気は治していない.薬の内服を中止すれば,また血圧は上昇するだろう.これは,がんをはじめとした糖尿病や高脂血症などの,慢性疾患を治せない,ということを意味する.
だから、むしろそのような病気にさせない,という立場の東洋医学が,「予防」という観点からはたいへん重要な役割があることがわかる.

さて,コンサルタントとしての方法論も,「西洋医学」的なものと,「東洋医学」的なものとがある.
やはり,「数値」を重視する傾向が強いコンサルタントが主流なのであろうが,かなりの「外科的処置」をとるのも重要なポイントだ.

一方で,これはわたしのスタンスでもあるのだが,東洋医学的な「予防」が,なによりも重要だとかんがえている.
会社の理想像から演繹して,それにどうやって近づけるのか?ズレているところはないか?
このときの「理想像」に,数値は不可欠だが,それよりも「社風」や「従業員満足度」のほうを重視する.

企業経営の場合,どんな会社にしたいのか?(健康な状態の定義)
なくしては,なにもできない.

ハラスメントは個人の資質か?

さまざまな「ハラスメント」が顕在化してきた.
ちょっとまえには,そんなことばを聞いたこともなかった.
「概念がない」と,「言語にならない」のは,言語が文化であることの本質だろう.
すくなくても,フランス語には「セクハラ」に相当することばがない.彼の国の「文化」になじまないからだ.それを,有名女優が発言したら,世界は「文化」を否定した.

こうなると,どちらが「ハラスメント」なのか?ということになって,始末がわるい.
もちろん,そうはいってもフランスにも「セクハラ」を認識して,いやがるひともいるだろうから,正確さをとわれれば,かんたんに全部を一緒にできない時代になった.
すると,こんどは容易に発言できなくなるから,やっかな世の中だ.

「ハラスメント」の基本判断は,「本人が」嫌だとおもうか?にある.
つまり,自分とはちがう他人の気持ちのなかにある.
だからか,「空気を読む」ことからはなしがはじまる.
すると,いつもその場の空気でさまざまなことが決まるこの国で,「ハラスメント」はさぞやすくないかといえば,これもちがう.

では,「おもてなしの精神」が自慢のこの国で,と問うても,「ハラスメント」はふえるばかりだ.
いやいや,「おもてなしの精神」は,お客様にたいして発するのであって,「内輪は別」だといわれるだろう.

すると,「内輪」という感覚が,日本の「ハラスメント」をつくっていることになる.
これは,家長主義(パターナリズム)ではないか?
いわゆる,「上から目線」である.
これは,あんがいこの社会のあらゆるところにある.

それでか,日本の学校は,パターナリズムから子どもを離す,のではなくて,慣れさせる,という方針が貫かれているようにみえる.
だから、子ども社会における「いじめ」を,おとなの教師が発見できないか,もし見つけても,それに「耐える訓練」とおもえば気にならなくなるのかもしれない.

こんなことで,わが子を殺されてはたまらない.
しかし,被害者は家族もろとも「埒外」にされてしまう不条理さがある.
これが,学校という社会から,本物の社会に浸透してきているのだろう.
企業組織のなかで発生すると,本人には逃げ場がなくなる.

なにも残業などの長時間労働だけが,問題なのではない.
「疎外感」こそが,問題である.
だから,「内部統制」だけでは対処できない.
緊急避難所も必要だが,どうすればよいのかをかんがえる場も必要だ.

それは,はたらきやすい職場をつくる,ということである.
「つくる」のだから,自然発生的なものでなく,意識的な行動がなければならない.
誰にか?
経営者にである.

その経営者が「ハラスメント」を誘発している事例もあろう.
従業員はどうするか?
いろいろなシナリオを,かんがえてみることをおすすめしたい.

生産性向上のための労働協約

人口減少や少子で人手不足がすさまじいから,生産性向上というはなしが,さかんになった.
そのために,最低賃金を大幅にあげるとよい,という議論まであるようだ.
たしかに一理ある.
そうすれば,売上単価をあげなければならなくなるから,生産性は向上するだろう.

しかし,単純にそれができない.
その理由は,経営者の無能にあるというひともいる.(わたしもそのうちのひとりだ)
ところが,もっと困ったことに,無能なひとほど他人のはなしをきかない.
それゆえ「無能」なのだ,とはなしがループする.

そこで,目線をかえたい.
そもそも,なんで貧乏なのか?というはなしだ.

「日本人は総じて貧しい,だがかれらは高貴である」と評したフランス人がいた.
このフランス人は,日露戦争がはじまることがいよいよ迫って,高貴なる日本人が地上から滅亡してしまうと嘆いたのだ.まさか,あの大ロシア帝国との戦争に,日本が勝つとはおもっていなかった.

このはなしよりも前,幕末にあの有名なシュリーマンが来日している.
「シュリーマン旅行記 清国・日本」は,かれがトロイの遺跡を発見する「前」のはなしだから,それだけでも興味深いが,横浜の港に着くところからはじまっている.

 

当時の船旅は,引っ越しをするようなものだから,とてつもない荷物がある.へんなヘアースタイルで,みすぼらしい木綿のスカートのようなものをはいた役人が,おそろしくゆっくりと丁寧な所作で,荷物検査をはじめたから,彼はどこの国でも役に立つ「袖の下」作戦をこころみるが,そんなことをしたら「ハラキリだ」といって相手にされなかった,というエピソードからはじまる.
「わたしは西洋人がしらない文明国にやってきた」と感嘆する.

だから,日露戦争までの開国期,日本人は上から下まで,「総じて」貧しかったのである.
しかし,この貧しさはずっとつづいて,ヨーロッパが第一次大戦で疲弊したとき,大戦景気で「成金」が雨後の竹の子のようにでたが,戦争がおわるとみごとに破産して,やっぱり貧乏になった.
これに,シベリア出兵が引き金で全国に米不足の不安で米騒動が起きるから,当時の世相はいまとはぜんぜんちがうとわかる.

政府は不足の米は補助金蒔いて朝鮮で開墾させた.このとき蒔いたのが「亀ノ尾」で,この米の曾孫が「コシヒカリ」だ.それで,安くてうまいと評判になって,首都圏流通の四割が朝鮮米の亀ノ尾になる.東北の米はまずくて高いが,東北出身の工場労働者が故郷のためにと購入した.
それから,関東大震災で首都が壊滅し,この復興にとんでもない費用をようしたが,アメリカで株が暴落し,世界恐慌になったらなぜか円と金の交換を再開して昭和恐慌になる.

昭和恐慌は,米の凶作とあわせて東北は深刻な飢餓になり,娘の身売りが風物にもなった.これが軍をしてクーデターへの行動となる.
ちなみに,震災のときの朝鮮人虐殺事件は,朝鮮米の怨みを東北出身者が晴らしたとのはなしもある.

日本では食えないと,ハワイ移民がはじまるのが明治18年,南米は明治32年だが,昭和4年に震災の後始末(ひとあまり)もかねてブラジル移民がはじまる.昭和7年に満州国が成立すると,やはり移民政策がはじまる.もっとも,明治元年には,ほとんど奴隷として日本人が連れて行かれている.それより前,慶応3年に,後の総理大臣,高橋是清はオークランドで奴隷の身でいた.
「狭い日本にゃ住み飽きた」とはいえ,食えないほどに貧しかったのだ.

ということで,資源のないわが国のひとびとは,国内においても低賃金であることを前提にして生きてきた.それで,なんとか外貨を得た.だから,長時間労働もふつうだった.
低賃金,長時間労働は,近代日本国の「国是」だった.
これが,資本主義発祥国の英国という島国と,決定的にことなる点である.かれらは,先行者有利のなかで,自国に資源がなくても,海外植民地からの収奪によって富を得ることができた.

余裕の資本主義国は,社会主義からの批判と攻撃で,自国労働者の権利が確立していく.それは,海外労働者の犠牲によるものではあったが,可能な福祉を享受できたのは事実だ.
英米の労組が,わが国とちがって職業別になっているのも,「資源国」のなせるわざであり,戦後本格化するわが国の労働組合結成が企業別になったのは,企業ごとに労働条件がちがいすぎたし,とにかく社内で結束しなければ,食えなかったからである.
これが,わが国の薄っぺらな豊かさの原因であり本質である.

英米とは,前提条件がちがうのである.
そこで,現代日本における生産性向上の策は,労働協約をきちんと締結させることではないかとかんがえるのだ.
「36協定」の意味さえしらないで働いているひとがたくさんいるのだ.

そんなことをしたら「事業が成り立たない」と叫ぶ経営者もたくさんいるだろう.
しかし,「事業」とは「ビジネス」のことである.
労働基準法を遵守したらビジネスが成り立たない,と正々堂々といえるものなのだろうか?
つまり,それは「ビジネス」ではない.

さらに,勘違いされてはこまるのだが,なんのための「労働協約」なのか?ということをちゃんとかんがえたい.
それは,真の労使協調を意味しなければならないとおもうからだ.
「法」は最低限である.だから、好調な企業は,法の基準のはるかうえの条件をはたらくひとびとに提示できるのだ.

人手不足が恒常化する人口減少時代,企業の競争力は顧客獲得競争よりも,優秀な従業員獲得競争に転移する.なぜなら,富を生み出すのは人間だけだからである.
従業員がいない会社は存続も存在もできない.
こんな条件ではたらけるものか,といわれるのは,なにも賃金だけではないだろう.
「労働協約」すらない企業に,だれが就職するのだろうか?

だから、政府は余計なことをやるまえに,現行法でもじゅうぶんだから,労働協約を締結させることをすればよく,労働団体は,中小零細企業の従業員に,教育,というサービスをおこなうべきである.
かんたんにいえば,政府は企業の採用活動に,労働協約の有無や内容,労働組合の有無や加入基準についての表示義務を課せばよいのだ.金商法や不動産賃貸契約でさえ細かい規定になっている.
労組は,かつての政治闘争を「教育」サービスに加えてはならない.だから,労基署の入口にかいてある,所管地域登録の社労士を講師に依頼すればよい.つまり,労組による労働教育ファンドの立ち上げだ.労働協約から労働組合設立にまでいければ,ファンドにお金が還元できる.

はたらくひとは自分が「はたらいて稼ぐ」ということの意味を,はたらかせるひとは,「他人の労働力を買う」ということの意味をきっちりかんがえることができるようになる.
これが,生産性向上のための重要な条件ではないかとおもう.

逆にいえば,このままでは,低賃金・長時間労働という明治以来の「国是」が変わらないし,それではわが国の繁栄は,百年ほどのつかの間の「奇跡」という「人類の歴史の一部」になってしまうだろう.
大企業ばかりが企業ではない.
むしろ,大企業をささえる中小零細にこそ,一見厳しくても変化が必要なのである.

隠蔽体質という文化

民間企業には、「コンプライアンスを強化せよ」と命令し,方向違いの手間を多分に強制してコスト高を押しつけながら,自分たち役人の仕事は隠す.
別にいまに始まったことではないが,これを大陸中国のメディアがかき立てるから,ここでも話しが混乱する.

日本政府を嗤う体をよそおいながら,あんがい自国の共産党政府を皮肉っているかもしれないからだ.
それは役人というものの本質で,重要情報は教えない,ということでこその存在意義でもあると,昨日役所に就職した新人でも知っている.

役人のもっとも大切な仕事は,社会の役に立たないのに,なにかやっているように見せて,たいそうな予算を複数年,できれば未来永劫獲得することに尽きる.
役に立たないで,なぜ予算がつくのか?などという野暮なかんがえを思いついてはいけない.役人も,予算を決める議員も,みんな税金という他人のカネなのだから,真剣にかんがえるものはいない.もし,真剣にかんがえている,というなら,そのひとは芯からのうそつきだ.

だいたい,世の中の役に立つことには,だれかにとっては都合が悪いことがおおいから,そんなことをしていたらうらみをかう.役人も,議員も全方位からほめられないと都合が悪いので,世の中の役に立つことには,ついにはだれも関心がなくなるのだ.
真剣に世の中に役立つことをかんがえたら,役所の予算では足りないからそのひとは破産するだろうし,だれかに命をねらわれることになる.

こうして他人のカネを,世の中の役に立たないことに使えば,だれからも文句なく,関係者の全員がハッピーでいられた.
地方都市に行くと,町外れなのか町の入口なのかにある巨大看板「核廃絶都市宣言」もそのひとつだろう.「持っていないものを捨てる」と他人にむかって表明するものに,予算がつく.それでいて,原発でつくった電気を気にせずにつかっている.
民主主義の暗黒さがここにある.
黒澤明の「生きる」が突きつけたものだ.

しかし,現実は映画ではない.
昨今吹き出した,中央官庁の隠蔽事件は,ついぞこないだ連発した大企業の不正事件と地下茎でつながっているようにみえる.
大企業の不祥事は,「日本経済の危機」と言っていたから,今度は「国家の危機」になるのだろう.

「奇跡的な無能」と経営者を嗤う,デービッド・アトキンソンさんの新著「新・生産性立国論」は,なにも民間企業経営者だけのはなしではない.
「国家の経営」がおかしくなっている.

それは、オルテガの「大衆の反逆」を地で行く国家になったことでもある.
日本という国は,大衆が支配する国になった.
それを過激に解説したのが,摘菜収「日本をダメにしたB層の研究」である.

  

この本でいう「B層」とは,小泉純一郎政権のとき分析を依頼した民間会社の定義によるもので,横軸に「構造改革への賛否」,縦軸に「IQ」をおいた十字状(四象限)の図における第Ⅳ象限をさす.つまり,「構造改革に賛成で,IQが低いひとたち」のことである.
この「構造改革に賛成」を,「マスコミ報道に流されやすい」と置き換えても,「自分でかんがえず他人の意見に従う」としてもいい.

この分析を応用して,自民党は郵政選挙に大勝し,その後民主党もまねて政権奪取に成功したという実績がある.
IQが低いB層には,「単純なフレーズ」のくり返しと,「二者択一」の提案が効く.
与野党ともに成功体験があるから,おそらく,むこう数十年は選挙のたびにこの手法がつづくだろう.
これは,政党による「顧客戦略」なのであるが,たんなる人気とりだけが目立つようになるのは,むずかしいことをかんがえることが嫌いなB層には政治志向もないからである.

つまるところ,官庁のエリートも,企業経営者も,一般人も,オルテガのいう「大衆」すなわち「B層」になってしまったということだ.それで,ゆとりと称した教育で若い国民のIQもさげる努力をしたから手が込んでいる.日本は特別だという,傲慢な思想が生んだ,民族集団自殺の準備だ.
しかし,これはいまに始まったことなのだろうか?

明治の自由民権運動も,日露戦争での日比谷焼き討ち事件も,大正時代の米騒動も,関東大震災の朝鮮人虐殺も,そして、米英との戦争を求める民衆デモも,じつは時々の「B層」のしわざではなかったか?

そもそも,明治維新とて,いまでは水戸学が役に立たなかったという常識が定着しているが,幕末水戸学の代表的学者,会沢正志斎のベストセラー「新論」では,倒幕後もこの国の支配者は武士階級でなければならない,としている.じっさい,明治政府とは藩閥というれっきとした武士政権であった.
下級武士も武士階級に属すことにかわりはないが,これを隠蔽して現代的価値感で再構築したのもを「大河ドラマ」と称し,国民から料金を半ば強制的に徴収してたれながしている.

明治体制が国家的自殺の敗戦でおわったら,戦後もGHQというお墨付き機関があった.
「占領」が終わって念願のはずの「独立」を果たすとき,離日する軍事独裁的支配者に「ありがとうマッカーサー元帥」と大見出しで書いたのは日本を代表する新聞であった.
まるで支配の継続を望むようでもある.これを,日本的事大主義というのだろう.隣の半島国家だけが事大主義ではない.

ついでに,日本には日本が世界の中心だと勘違いする「小中華思想」もあるから,隣と本家争いをして不仲になる.どっちもどっちなのであって,わるいことしか生まれない.
お隣の国が大好きな新聞社系民放局が,主に白人の外国人から褒められて日本を自慢する番組をつくるのは,まさに小中華思想であおるマッチポンプをやっているのだ.
そんな局のニュース番組では,そもそも,アメリカと日本が対等・同格だと信じているひとたちばかりが出演して,えらそうな発言をしている.
これらを「B層」のしわざといわずしてなんというのか?

まちがってもいいから,自分でかんがえることだ.
だから、なるべくテレビは観てはいけない.ラジオも聴いてはいけない.
新聞も見出しだけの流し読み程度で良いので,通勤電車のなかでじっくり読んではいけない.
でないと,しらずにマインドコントロールされてしまう.

隠蔽体質という文化の本当のおそろしさは,政府が隠蔽することではなく,だれかに対する「憎悪」を強要され,しらずにそれと一体化してしまう自分自身ができあがることである.
ジョージ・オーウェルの「1984年」にある,全体主義国家で国民が義務として参加しなければならないのは,双方向テレビにむかって罵詈雑言を吐く「二分間憎悪」の時間だ.ちゃんと憎悪をしているかを当局がチェックするための双方向なのだ.もし,憎悪の態度が甘いとされたら,自分が反逆者にされてしまう.

 

もう,技術的にはこれができる時代になっている.

千葉の◯の乳搾り,とは?

ずいぶんまえ70年代のギャグである.
ストレートコンビという漫才師がはやらせた.
このフレーズ,子どもにはどういう意味かはっきりしないが,大人は吹き出して笑っていた.

その千葉県は,全国四位の農業県(北海道・茨城県・鹿児島につぐ)だが,生乳の生産では全国三位である.
それで,牛の乳搾り,のイメージが強かったのかもしれない.

しかし,一説には,朝早くからはたらくのを苦とせず,嫁をとるなら千葉のひと,というくらいの評判で,しかも千葉県人は「巨乳」揃いという前提が知られていたというから,なるほど「乳」がかぶっている.当時の大人が笑った理由がわかろうというものだ.

農業全国トップは北海道が一桁ちがいで圧倒しているが,二位茨城と四位千葉,三位鹿児島と五位宮崎という組合せは,奇しくも隣接県同士だから,これらをまたぐ観光はおよそ「食」についていえば,全国水準を相当に高いレベルで超えているはずだから,旅行者は格段の体験ができるはずだ.
だから,農協をふくめた「県」単位という行政の枠で競争(という足の引っぱりあい)をすると,方向をまちがえるだろう.

生乳の取引価格は政府が決めている.
飲用からさまざまな加工用で価格がかわる.なかでも飲用がもっとも高い値段設定(公定価格と事実上の取引価格も)になっているから,酪農組合は飲用で売りたい.
すると,チーズやバター向けの生乳が不足するようになる.

もとの生乳が物量的に不足しているのではなくて,加工用に売ると安くなるから売らないという仕組みが原因だから,政府の政策介入が「失敗」しているという典型例になる.
これを,「政府の失敗」という.(政府の恣意的な経済介入政策は,自由な市場をゆがめるからかならず失敗する,というのがいまや世界標準の「新自由主義」だが,日本人は戦前から「大嫌い」で,政府の介入が大好きだ)
これが,わが国でバターが入手困難になるおおきな理由ではないかといわれている.

それで,国産バターが「不足」すると,外国から輸入するのだが,これがまた「国家貿易」になっている.
農水省HPで,いぜんは1ページをつかって,「わが国は国家貿易をしています」とあっただけだったから,それにくらべると「説明」がふえた.

しかし,ひろく国民に知らしめよう,というこころを感じる書き方とはいえまい.
しかも,「国家貿易」として自由でない「輸入」が全国民にとっての問題なのに,「輸入」の方に説明の重心を置くという「姑息さ」である.
「参考」としてとぼけている「輸入」国家貿易をじっくりみてみよう.

「枠外輸入につきマークアップを徴収」とは,ありていにいえば,たとえばバターを緊急輸入しようとしたとき(枠外あつかい),「入札」をおこなって,もっとも安い値段で(政府が)買って,もっとも高い値段で(民間に)売ることで,国が利益(マークアップ)を得ますよ,ということだ.

なお,このときの「政府」とは,ちょっとまえの「畜産振興事業団」のことで,いまは「独立行政法人農畜産業振興機構」という.
だから,この「機構」が,自動的に大儲けできるようになっている.
日本は,21世紀になっても「輸入」の「国家貿易」をして,消費者という国民に負担を強いることを原則としている国なのだ.

かれらが儲けた分は,国民が世界価格より高く買わされることで負担している.
生乳のはなしにもどると,むかしとくらべてさまざまな飲料が販売されるようになったから,牛乳が牛乳として飲まれなくなった.

くわえて,少子で人口も減っているから,飲用牛乳の需要も減っている.
それで,一部の生乳産地では,値段がつかないから生乳を捨てることで価格の維持をはかったりしている.
この方法は,生産者とてやるせないだろう.

食生活がちがう,とはいうものの,欧米諸国を旅行すれば,ホテルの朝食でふんだんに出るチーズやヨーグルトなどの乳製品やハムなどの畜産加工品が,どうなっているのかとおもうほど豊富だし,パンのお供はバターに決まっている.
コーヒーミルクも本物のクリームで,椰子油を「コーヒーフレッシュ」とはいわない.
食品店にいけば,「本物」のその安さにおどろくものだ.

すると.欧米人が豊かな生活をしているのは,「物価」にも原因があると気がつく.
さいきんなぜかいわれなくなった「内外価格差」というダムが,日本市場にはあった.
戦前からの政府の産業優先策で,日本人の消費者は世界価格より高い値段を負担していた.
わが国で,先進国唯一のデフレがつづいているのは,このダムの決壊がつづいているからではないか?

とにかく,日本はどうなっているのだと思いたくもなるが,あんがい千葉に光があるかもしれない.

トルコのイスタンブールは,地中海から黒海につながる場所に位置して,ヨーロッパとアジアにまたがっている.この境目がボスポラス海峡である.
フェリーしかなかった時代から,長大な橋をかけて,海底トンネルも掘ったしまだ新しいのを掘っている.
日本は援助で橋とトンネルを一本ずつ完成させている.

東京湾は湾だからどん詰まりだが,これを横断すると,ボスポラス海峡のような気分があじわえる.
神奈川県側の工業地域が,千葉県側の田園地域とつながるからだ.
アクアラインを通って,圏央道で房総半島を横断すれば,あっという間に太平洋側にでる.

そこに,いすみ市という街がある.
かつての「夷隅郡」の一部だが,この街にはいま五軒のチーズ工房がある.
筆頭格で,チーズ作りの指導員でもある駒形氏のはなしによると,市内の酪農家にもチーズ製造指導をしていて,すでに弟子は400人をこえるという.
だから,チーズ工房の数は,もっと増えること確実である.

不思議なもので,共産中国において鄧小平がはじめた改革開放政策で,目玉だったのが「経済『特区』」であるが,なぜかそれが自由主義ニッポンで政権の目玉政策になっている.
日本が社会主義国である証でもあるのだが,だれも指摘しない.

だったら,いすみ市に,「チーズ特区」ができてもいい.
これを真似れば,どこかに「バター特区」もできるかもしれない.
さすれば,アクアラインで酪農大国千葉県に,買い出しにでかけるひとがふえるにちがいない.

いすみ市には,いすみブタという畜産資源もあるし,じつはたいそうな米どころでもあるから,ヨーロッパのような食生活ができるしかもしれないし,飽きたらバッチリ漁港直送のごはんもある.
買い出し旅行で,そんな宿泊経験もしてみたい.
ああ,夢はふくらむ.

残念なのは,市が標榜するキャッチフレーズが,「人と自然の輝く 健康・文化都市 いすみ」という,「いすみ」を入れないとどの町なのかさっぱりわからない凡庸さである.
まぁ,これは全国津々浦々でいえるのだが,もっと「田舎」や「田園」を売りにだして「いすみ」オリジナル感がほしい.どうしてこうなるのだろう?

それにしても,千葉の◯の乳搾りは,ますます忙しくなるかもしれない.

大先生のネタ本発見?

いぜんこのブログで書いた,ガルブレイスの「新しい産業国家」(1968年)のネタ本?をみつけたかもしれないので記録しておく.
この本は,企業経営が従業員である「テクノストラクチュア」と呼ばれる専門家集団によって簒奪されるメカニズムについて解説しているのだが,おもな対象は日本であると思われることから,昨今の大企業不祥事の原因ではないとかんがえた.

しかして,そのネタ本?とは,大河内一男「戦後日本の労働運動」(岩波新書1955年)である.

 

戦時中は,わが国には労働組合は存在しなかった.
それが,「GHQの民主化」によって,労働組合がゆるされると爆発的に組織されることになった.ことに,財閥系をふくめた大企業での組織化は早く,じょじょに中小企業と地方にひろがるという図式になる.

日本人の「事大主義」によって,「お上(GHQ)のお墨付き」がある,ということが,「爆発的」になった原因で,初期段階では,「従業員」として経営者以外の部課長といった経営を補助する役職者も組合員に構成されていた.これは,事務職と職工が同一の組合,すなわち企業内組合を結成するという,欧米にはみられない形になった理由とおなじで,とにかく「食えない」という戦後の貧困が生んだ日本的な労働組合の形式となった.

なぜ役職者も組合に加入したかは,「食えない」からだったが,このことで,経営側との交渉は組合有利になる.そして,事務職・職工といった職分にもこだわらなかったのは,協力しないと経営側との交渉が不利になるとかんがえられたからだ.

なお,「食えない」とは,戦後の食糧不足と,戦時国債の償還不能(政府の財政破綻)による強烈なインフレ(年率600%ほど)が主たる原因であったが,これに,空襲による生産設備の壊滅的打撃がくわわるから,経営側にも支払原資がないといった,社会混乱が背景にある.
それで,昭和22年の全官公庁関係の組合は,「最低賃金制」と一時金を政府に要求して決裂にいたる.
ここでいう「最低賃金制」とは,配給による「一日2400キロカロリー保証」という意味であるから,現在の「最低賃金制」とはまさに隔世の感がある.

それで生まれた闘争方法が,「生産管理」方式という,「経営権」への侵蝕とその占領だったから,経営者は自分の「経営権」を防衛しなければならないと思うほど,企業を脅かすものになった.
資本家的要素をもった経営者たちが,ときに子供じみた嫌がらせともいえそうな手段や態度で組合と対峙したのは,「経営権」防衛ということだったといえそうだ.

これは,「テクノストラクチュア」が経営権を奪う工程とおなじである.
しかし,上記は,組合設立初期段階でのはなしだから,これを幼児体験として発展したのが「テクノストラクチュア」だろう.
日本の企業内組合は,ユニオン制を原則とするから,組合員が「育つ」と管理職になる.その管理職から経営陣にはいるので,時間がたてば浸透するしくみになっている.

ところで,日本型の労働組合形式=企業内組合は,欧米型の職業別組合とはまったくちがう.
これはなぜか?という疑問も本書は解明している.
それは,労働市場のなりたちのちがいであるという.

欧米の歴史では,「食えない」と家族ごと移動してあたらしい土地に定着するのが常だった.だから,生まれ故郷に痕跡をのこさない.
日本には,幸か不幸か「ふるさと」がある.「食えない」から異動したのは次男以下だった.長男は,しっかり土地に根づくようになっている.
つまり,なにかあれば「ふるさと」に帰ることができるというのは,広い意味で「出稼ぎ型」なのだ.

むかしは,都会の企業に出稼ぎでくるのは,なんらかの人的関係(社長の「ふるさと」)からであることがおおかったから,労働条件は個々の企業ごとにちがうという背景ができた.
出稼ぎ型労働と企業別組合の関係は,地縁血縁になっていたから,じつは都会といえども定着した労働人口が欠如していたという事情がある.

だから,日本における労働組合の形態が欧米型に変化するには,都市における労働人口の定着=「ふるさと」からの決別,がなければならなくなる.
人口減少社会は,「ふるさと」の崩壊がはじまるから,欧米型に変化する可能性はいぜんより高くなったろう.

また,すでに100万人規模になっているともいわれる中国系の事実上の「移民」は,「ふるさと」を捨ててきている可能性がある.
すると,これらの人びとから構成される労働力を生かすには,欧米型の労働組合が適しているだろう.

戦後日本の労働組合も,大転換の時期がひたひたとやってきている.
すると,戦後日本の経営も,当然ながら大転換しないと,ついていけなくなってしまう.
いま,日本の経営者で,どのくらいのひとがかんがえているのだろうか?
もはや「テクノストラクチュア」に経営を簒奪されてひさしいから,大企業ほど適応できないかもしれない.

これはこれで,日本の危機だといえるだろう.

害虫被害がやばい

宿泊業は,基本的に「旅館業法」の免許がいる.
その管轄は,保健所だから,旧厚生省が主管している.
これに,ことしの6月から「民泊」がはじまる.
根拠法は,「住宅宿泊事業法」で管轄は観光庁だから、国土交通省が主管しているのだが,省令になると厚生労働省も顔をだしている.

いろんなひとが出入りするのが宿泊施設なので,衛生,という側面はたいへん重要だ.
ホテルや旅館でチェックインのときに書かされる「レジストレーション・カード(宿帳)」記入義務も,伝染病発生時のトレーサビリティ確保がそもそもである.

役所の肩をもつ気はさらさらないが,公衆衛生,というしごとは,当面役所の存在意義がありそうだ.
もっとも,日本の役所はどこも「産業優先」というDNAをもっているから,「公衆衛生業界」を行政が優先する悪癖には注意したい.

近年では,2002年から翌年にかけて東南アジアで発生した「SARS」が記憶にあたらしい.
このときは,裕福なかなりの人びとがわが国に避難してきた.これで,高級ホテルはずいぶんと部屋が売れた.
しかし,なかには感染者がいるかもしれないから,とくにフロントと客室清掃係のひとは,予防に注意をはらったものだ.

宿泊業や飲食業にとって,なにより困るのは害虫と害獣である.
「食」に関していえば,これに「菌」がくわわる.
営業停止処分にもなりかねないから,対策をしていないなどということはないだろうが,残念な事故は毎年発生している.

ここにきて,これまでなかった「敵」があらわれている.
トコジラミ(南京虫)である.しかも,「スーパー」が頭につくのが最近の特徴で,市販の殺虫剤に抵抗性を持つようだから,たいへん厄介である.

日本での被害は,外国人観光客が持ちこんだことから発生している.
そもそも,「南京虫」は,戦後のDDT大量散布などにより,わが国では撲滅していた.
近年,ニューヨークでの大量発生が報告されてから,日本に上陸しているので,ルートはアメリカと中国系になるという.
それが,主に旅行カバンや段ボールの隙間にくっついてやってくる.

この昆虫は,吸血することでエネルギーを得る.
卵を産むには,最低一回は吸血しないといけないらしいが,産み出すと日に6個程度を生涯産み続けるから,爆発的に増殖する.

成虫になると,5分から10分かけて吸血するというから,一回でかなり大量の血を吸う.
血液にはそうとうな栄養があるらしく,一度吸血すると,そのご一年以上生存できるというから,たいへん省エネルギーな虫である.
また,こまったことに,天敵があの「ゴ◯ブリ」なので,天敵をつかって駆除するという手がつかいにくい.

何カ所か刺されるのは,満腹になるまでやめないからだ.時間がたってかゆくなると刺されたとわかる.吸血を旨とする生きものは,ヒルやコウモリも吸血のあいだ相手には気がつかないような工夫をもっている.

生涯ではじめて刺されたひとは,抗体がないからかゆくない.
二度目以降は,はげしいかゆみとなって,そのへんの虫刺され薬では効かないことがしばしばだ.
それで,とある宿泊施設で全身の複数箇所を刺され,かゆみとむくみで仕事ができなくなったひとが訴訟をおこしている.

被害者もお気の毒だが,被害をだした宿もお気の毒である.しらないうちに,どなたかが持ちこんだとしかいえない.
この虫の根絶には,困難をともなうから,時間と経費がかかる.
たいへん扁平な形なので,せまい隙間にかんたんにはいれるし,夜行性だから昼間はいないようにみえる.くわえて,上記のように繁殖力がすさまじい.
とくに外国人観光客がふえてきたという宿は注意がいる.

予防方法は確立されていないが,被害がないうちに専門家へ相談するといい.
発生したときの根絶にかかわるリスク,訴訟リスク,ネットで書き込まれるリスク,などなど,やばいことだらけになる.
少しでも予防措置をすることが重要だろう.

いがいと長い「ゆとり教育」期間

新年度をむかえて,新入社員というひとたちが社会にでてきた.

「ゆとり世代」というと,平成14年(2002年)度から平成25年(2013年)度までつづいた「亡国教育時代」とおもっているひともおおかろう.
しかし,あにはからんや,昭和57年(1982年)に,若林俊輔・隈部直光共著「亡国への学校英語」という本が上梓されている.

著者のひとり,故若林先生は「闘う英語教師」として名を馳せた,中学校の英語教師でもあった東京外大教授である.
初版で改訂版がでることなく「絶版」となりながら,いまだ人気おとろえず「中古」で取引されている,三省堂「VISTA英和辞典」の編者である.

 

「英語嫌いのひとを英語好きにさせる」という目的の辞書だから,いまはおおくある「読む学習辞典」の最初である.
「まえがき」と「使いやすい英和辞典を目指して-この辞書で工夫したこと-」を読むだけで,一種の感動すらおぼえる.改訂版が出ないのはなぜかと,不思議におもう.

冒頭の本をながめると,文部省の教育行政がいかにずさんなものであるかが「英語科」をつうじて告発されている.
教職課程には,「教育行政学」がひつようではないかと提案があるのは,現状の教職員が行政のしくみを「知らない」ままに先生になるという指摘である.

大学の教員養成課程で,教えない,というのは,一種の愚民化であり,教育行政の立場からはたいへんなアドバンテージだ.
教えない,ことも行政側が関与しているのではないかとうたがう.
大阪の私立小学校の土地問題より,よほど重要な行政の関与ではないか?

ようは,昭和55年(1980年)度あたりから,「ゆとり教育」ははじまっているのだ.
そして,中曽根内閣による「臨教審」が,昭和57年(1982年)に「ゆとり教育」を「方針」として決定している.

ここで,わすれてはならないのは,「ゆとり教育」の嚆矢は,昭和42年(1972年)の,日教組によることだ.
すなわち,一般に「タカ派」とか「右翼的」と評価されることがおおい,中曽根康弘氏の正体はなにか?といえば,実績からするとかなり「左派」なのである.当時の帝国陸海軍軍人のおおくが「アカ」かったことの証左かもしれない.

昭和55年(1980年)に小学校にはいった子どもは,昭和48年(1973年)生まれになるから,ことし45歳になる.高校は昭和57年(1982年)度からだから,昭和41年(1966年)生まれなので,ことし52歳になる.

じつは,社会の中心的世代が,第一次「ゆとり教育」世代になっているのだ.
その世代が,「本格的」になった「ゆとり教育世代」をつめたい目でみているという構図である.
「脱ゆとり」は,小学校で平成23年(2011年)度,高校で平成25年(2013年)度からはじまる(中学校はその中間)から,小学生1年生だったひとはことし13歳の中学生,高校生1年生だったひとはことし21歳になるので,すでに社会にはいりはじめている.

中学校の数学で「統計」を復活したのは,「脱ゆとり」の平成24年(2012年)度からで,これが「30年ぶり」だから,昭和57年(1982年)の中教審による「ゆとり方針」と合致する.
すなわち,いまこの国の中心的世代になっている,第一次「ゆとり世代」は,「統計リテラシー」が基本的にないひとたちになっている.もっとも,本人たちのせいではないが,これが,むこう30年間つづくことは確実である.学校で「教えなかった」のだから,そうなる.

しかし,大人が「学校で教わらなかった」と開き直っても,「脱ゆとり」世代は教わってしまう.
30年間というひと世代分が,すっかり愚民教育を受けてしまった.
これを推進したのは,政治(与野党とも)であり行政であるから,なんのことはない,この国が民主主義国家なら,われわれ国民の選択であった.

さて,冒頭の書籍にはなしをもどすと,日本における英語教育の「成果」についても当然に解説されている.もちろん,日本人のおおくが英語を話せない.この現象を,若林先生は,「外国語教育」と位置づけていないことが主因だとしている.

英語の授業が,読解に偏ってしまい,それが「暗号解読」状態になるのは,日本語=英語にしてしまうからだとの指摘だ.なんでも「和訳」しないと気がすまない.
「暗号解読」なら,いっそのこと本物の「暗号」を科目にしたほうが,生徒の将来にやくだつだろうとも書いている.

さらに,問題提起はつづく.
そもそも,教育はだれのためか?こたえはもちろん生徒のため.
生徒の将来と人生が,明るくひらけるように準備するのが教育である.
「顧客志向」の欠如.
これが,教育行政の本質である.

その欠陥を,教師に責任転嫁し,「教師の資質の問題」にするのは,経営がかんばしくない宿事業主が従業員のせいにする体質のコピーのようだ.
さらに,生徒という顧客層の劣化をなげくなら,まさに国営事業が失敗したパターンとおなじだ.
先生は,英語という外国語を教える教師には,英語を話せる,という条件が必要だという.そのために,顧客志向の再構築なくして,教育にはならないというのは,ビジネスの世界では当然すぎる.

そうかんがえると,国家が親に子どもの教育を義務とし,子どもは教育をうける権利があるまではよしとして,国家が直接教育内容に関与するのはいかがなものか?
憲法89条の私学助成禁止を骨抜きにしたのは,私学にも国家が関与するから,という解釈である.

これで,わが国には,独自教育をほどこす「私学」は事実上存在できなくなり,独自教育を看板にするだけで実際は国家管理という無競争状態になっている.もはや,いかなる「私学」も,国からの助成金がないと経営できないからだ.

小学校で英語教育をはじめるという.
ますます,英語嫌いを拡大生産するのではないか?と英語嫌いのわたしすら心配だ.

未完の妙

世の中には「未完」がたくさんある.
あの「未完成交響曲」も,もしかしたら「未完」ゆえの「名曲」なのかもしれない.
無限の可能性すら秘めているのが「未完」である.
これは,うらがえせば「完成させたい」という欲求があるからだ.

ということは,先に「完成」のイメージがある.
そのイメージが受け手によってさまざまに想像できるほどの出来映えだから,「未完」といっても価値があるのだろう.
建築では,ガウディのサグラダファミリア教会がそれだ.

1882年に着工され,完成に300年はかかるとされてきた.
しかし,音楽では「絶筆」ゆえに「未完成」となるが,建築には「設計図」がある.
だから,工事をつづければ「いつかは完成する」.
その間は,「未完成」の建造物を「見学」しているのだ.

あまりに壮大な設計ゆえに,この建物完成には数世代もの時間がかかるから,現代の我々は完成をみることはないと思われた.ここに,ある種のロマンがあった.
しかし,報道によれば,最新の3D技術の投入で,あと十年もすれば「完成」するというから,奇妙な気分になる.

人間の一生はみじかい.
それを,宗教建造物が形にしてしめしていたから,「完成が望まれない」こともある.
現代技術の,なんと無粋なことか.

その人間を,「合理的な行動しかしない」という条件で構築されたのが「現代経済学」であった.
しかし,あんがい「合理的でない行動」を望むことがある.
あるいは,自分のなかのえも知れぬものによって突き動かされることがある.
そのとき,ひとは「損得勘定」をしてはいない.それは,ビジネスの場面であってもいえる.

人様に役立つことはなにか?
これをかんがえることが,ビジネスの成功のタネである.
そして,これをやりきると,人様から尊敬をえることになる.
そうしたひとが,人生の成功者である.

宿泊目的が「絵を描く」というひとを集めれば,「絵画の宿」になる.
ササッとスケッチを描き上げる腕前があって,それをじっくりあとで「作品」にできるひとは,たいしたものだ.
ある場所が気に入れば,そこに住んで絵に没頭する.これができるひとは,ふつうのひとではない.

だから、おおくのひと,という「マーケット」をかんがえると,未完の作品を預かるという「サービス」があってもいい.
風光明媚な場所は,たいがい不便なところだから,そこに「画材店」があってもいい.
それで,土産物をあつかう宿の売店をやめて,画材店にかえた.
店員に知識がないとこまるから,県庁所在地の画材店に研修を依頼した.

近所に画家はいないかとしらべたら,やっぱり住んでいる.
絵画目的の宿泊客に「教室」講師を恐る恐る依頼したら,一つ返事だった.
広めの部屋を,アトリエに改装しようと計画したが,そこにリーマンショックという「大津波」がやってきた.

結局,意図せざる事態にあがなえず,あえなくオーナーチェンジとなりはてて,「未完」のまま,低価格が信条の新オーナーへと引き渡された.
いまでは,「未完」どころか影かたちもなく「お得感」だけの宿になったろう.
「苦い」思い出である.