みせびらかしの消費

ひとの欲求には,動物としての生理的なものと,社会をかたちづくることからの社会的欲求という二系統がある.
貧しい時代は,生理的な欲求がおもであることは容易に想像がつく.
それで,いまのような豊かな時代になると,社会的欲求をつよめるひとびとがでてくるものだ.

ながい封建時代のあと,なぜか資本主義がおきて(なぜだかいまだ解明されていない),それが産業革命を産み,資本主義社会が急速に発達する.その過程でしょうじた社会のゆがみを批判したのがマルクスだった.
マルクスが大英図書館で「資本論」を執筆したことを,英国人は「偉大なる書物を執筆したひとへの英国人の偉大なる無関心」といった.

その無関心な英国人のひとり,元大蔵官僚のケインズが「一般論」を書くと,これを「ケインズ革命」とよんだが,ケインズ理論を実際に国家の経済政策に採用したのは,ヒトラーだった.
政府が借金をしてでも有効需要を創出すれば,経済は回転して好景気になると.
それで,当時,だれも自家用車など所有していないのに,アウトバーンをつくった.だれもが,ドイツは「巨大政府債務で経済破綻する」とおもったが,そうはならずに「独裁」による「政治破綻」でくにが滅びた.

そのケインズの有効需要のはなしには条件があって,ケインズ本人は「不況のときの政策に限定」と強調していたが,「いつでもおこなう」のは,政府の行動原理である.こうして,マルクスの革命ではなく,ケインズの革命で国家は社会主義(富の分配は国家=官僚が行う)を達成できた.

マルクスとケインズの間に,ひとりの偉大な経済学者がいたのだが,その人の名前はいまはあまり人びとの口にはでなくなった.ゾンバルトという.
有名な著作は,「恋愛と贅沢と資本主義」である.

なぜ資本主義が生まれたかを,貴族の恋愛が贅沢な贈り物文化を活発にし,その生産が資本の蓄積を呼び込んで,消費しまくった貴族は没落し,稼いだ側が勃興したという理論による解説である.
この過程で,重要なのが「みせびらかしの消費」である.
恋人にどんな贈り物をするのか?
その中身の豪華さが,贈り主の地位であり受け取る側の価値になったのだった.

だから、だれからだれに贈るのか?というのではなく,何が,という贈り物だけに関心が集中した.

ペット,とくに犬と猫は,わが国ではすでに人間の子どもの数よりおおくなった.
「インターペット2018」が今日まで,東京ビッグサイトで開催されているので初日に行ってみた.
このイベントは,ペット同伴が可能なのである.

会場で気がついたのは,皆様が連れているペット(犬)のおおくが,たいへんきっちりと躾けされていることだった.
すなわち,「訓練された犬」を連れていることが「ステータス」になっているのだ.
だから,さまざまな「物品」や「サービス」を消費する意味が高まるのだ.

「訓練された犬」への投資という,目には見えない「背景」こそが,来場者たちの条件になっていたとおもう.
つまり,街で見かける「訓練できていない犬」の飼い主たちと一線を画す飼い主の存在である.
すでに,二極化しているのだ.

また,外国の自動車メーカーの出展も興味をひく.
ペットとドライブに出かけることをアピールしているが,それは「訓練された犬」を対象としている.
たしかに,「訓練できていない犬」とのドライブなら,それは苦難しかないだろう.

「訓練された犬」を所有する.
これこそが,この分野のみせびらかしの消費の条件なのだ.

現代の栄養失調

半世紀前なら,青ばなをたらした「欠食児童」が典型的な栄養不足の象徴だった.
いまは,カロリー過多でありながらの栄養失調が指摘されている.
ようは「かたよった食事」で,かんじんの栄養バランスがグズグズになっているという指摘である.
推奨される料理は,洋の東西を問わず「伝統食」であるから,旅館における地域の伝統料理がそれにあたる.

ところが,その伝統的料理にも問題がみつかりはじめた.
材料となる野菜や穀類に,ほんの数十年前にはなかった変化がではじめたというのだ.
それは,おもに化学肥料による栽培で,土壌がやせてしまい,ほんらいあるはずの栄養がなくなっているらしい.

つまり,見た目のかたちは以前のママだが,なかみが薄まっているとの指摘があるのだ.
これは由々しき問題で,「栄養成分表示基準」が狂ってしまうことを意味する.
栄養士という専門家の栄養計算だけでなく,一般人もあるはずの栄養がとれない,となれば,なにをどのくらい採ればいいのかわからない.

薄まっているのなら,かつての成分量を摂取するには,当然に「量」をふやさねばならないが,それでは「過食」のすすめになってしまう.
なるほど,食事制限をともなう「ダイエット」で,栄養失調になるのはうなずける,などというばあいではない.

これは,現代人全員にあてはまる.
それに気づいた医師たちが,本流の学会からはなれて,不足している栄養を強化する医療をはじめた.
これらの医師の主張は一貫していて,がんをふくめた慢性病のおおくが栄養バランスの欠如が原因だとしている.
急性の症状には,直接「対処」することが得意な西洋医学がよい.しかし,生命・動物としての人間が,慢性的に患う原因が栄養バランスの欠如とするのは,理にかなっているようにおもう.

もっとも深刻に「欠如」している栄養素は,「ミネラル」だという.
「ミネラルウォーター」の「ミネラル」とは,中学高校でならう「元素の周期表」にあるなかで,「H(水素)」,「C(炭素)」「O(酸素)」,「N(窒素)」の四つ(有機物)をのぞいた,のこりすべて(無機質)をいう.
そして,「ミネラル」摂取が重要といわれるのは,これらの物質を体内で合成することができないからだ.
けだし,「ミネラルウォーター」だけで,欠乏している「ミネラル」がとれるというほど安易なものではない.ボトルにある成分と含有量をみれば,これも「かたよっている」のがわかるだろう.

日本では13元素をさだめているが,これは「分析可能」という基準でもある.
「必須ミネラル」は,以下のとおり.
ナトリウム,マグネシウム,リン,硫黄,塩素,カリウム,カルシウム,クロム,マンガン,鉄,コバルト,銅,亜鉛,セレン,モリブデン,ヨウ素

「周期表」から四つを除いたものすべてが「ミネラル」というのは,つまり,「地球」ではないか?
そもそも,ミネラルから除かれる四つは,「有機物」だから,これらがなければ人間としてのからだが存在できない.これに,「ミネラル」がないと「栄養失調」になるのだから,地球を食べよ,ということになる.

すなわち,なんとなくの「知識」にすぎなかった,太陽系のはじまりから「生命の誕生」を経て,われわれ人間にいたるものは,地球のなかから生まれた,という単純さに回帰しているにすぎない.

農地が痩せるのは,むりやり作物をつくるからで,そのために化学肥料が投入される.これに農薬も加わるから,土壌のなかの微量な成分はとっくにうしなわれている.
そもそも,化学肥料は植物の成長にひつようなおもな成分だけしかふくんでいないからである.
だから,形がおなじでも中身がちがう,ということになる.

もちろん,昔ながらの農法でつくるものはよいだろう.
しかし,化学肥料や農薬をつかって大量につくることも否定はできない.そうでなければ,安く大量に,すなわち便利な生活ができないからだ.
その見返りに,わたしたちは,「ミネラル」という栄養を欠乏させ,病気になっている.
なんとも因果なはなしなのだ.

だから,そう遠くない将来,「ミネラル強化」というサービスや食品が,ふつうになるにちがいない.
「ミネラル療法」は,そのさきがけなのだろう.

しかし,一方で,デカルトの動物機械論のようになると,それはそれで不気味である.
ほどほど,をかんがえなければならない.

もうすぐトランス脂肪酸が話題になる

アメリカでは,ことしの6月から,水素添加のトランス脂肪酸含有食品が禁止になる.
あと二ヶ月ほどだから,もうすぐ日本でもトランス脂肪酸が話題になるはずだ.
なお,水素添加ではない反芻動物のトランス脂肪酸は自然にできてしまうので規制の対象ではない.つまり,人工的・工業的に油脂(おおくは植物性)に,圧力をかけて水素をくわえると固まることでつくるものが対象になるということだ.
代表的なものは,マーガリンや,パンの原料になるショートニングである.
これらをつかった,あんがいすごい量があるのは,ポップコーンやドーナッツである.

ちょっとだけ化学のはなしをすると,不飽和脂肪酸の分子構造は二種類ある.
「シス型」と「トランス型」である.
シス型は,二本ある水素分子の枝がおなじ方向についているから,「SIS」といい,トランス型はこれらが対象になって「横切る」ようについているから,「TRANS」という.シス型は棒の両端からアンテナがでている格好で,トランス型はカギ状になる.

それがどうした?ということだが,トランス型は動脈硬化の原因になるという証拠がでてきた.それは,HDLコレステロールを減らしてLDLコレステロールを増やすからで,心臓疾患につながるというのだ.

それで,WHOも,カロリー摂取量の1%以内という指針をだしている.
アメリカ人は,ポップコーンやドーナッツが大好きだから,この指針をおおきくこえてしまって摂取している.それで「禁止」という最強の規制をうちだした.
この規制によって,年間4000人とかの心臓病患者数がへると期待されている.

アメリカのほかに,すでにデンマークなどで規制されているし,EUも規制の方向で検討している.豪州では「自主規制」をかけていて,効果をだしている.

で,日本は?となる.
この問題のまえに,平成14年に「健康増進法」ができて,「健康日本21」というのがあるのをご存じだろうか?
それで,「国民大会」とか「推進国民会議」などというものがおこなわれている.
これは,むかしさかんだった「国民運動」というやつだ.
だから、正式名称は,「21世紀における国民健康づくり運動(健康日本21)」となっている.

ヒトラーのナチス(‎国家社会主義ドイツ労働者党 )が,選挙によって政権与党になったのには,当時のドイツ国民から支持された人気政策があったからだ.それが,「健康推進」だった.
ナチス党員のパン屋は,お客の健康のため,黒パンしか焼かなかった.白いパンは害となるからだ.こうして,お客は白いパンをたべることができなくなったが,健康のためと自分にいいきかせた.

ついでにいえば,ヒトラーは個人的にたばこが嫌いだった.
それで,ナチスはたばこ撲滅運動を熱心にやった.
第二次大戦の戦争映画で,ドイツ軍側の登場人物がたばこを愛好していたら,それはナチスにさいごまで抵抗した国軍の意地を表現しているはずだ.
くわしくは,「健康帝国ナチス」を参照されたい.

 

それでか,「健康日本21」には,「政府が国民に押しつけるものではない」と,Q&Aにて説明している.全体主義は,「個人の自由」をとなえながら奪うものだ.
語るに落ちるとはこのことか?

神奈川県を嚆矢に「禁煙条例」ができたが,罰則をともなうその原案には「家庭内」もあって,これはすぐに削除された.しかし,東京都の「禁煙条例」では,その「家庭内」を柱とするというものになったから,そうとうの「進歩」である.
ひたひたと国家や公権力が家庭に上がり込んでくる時代になった.

この条例を通した女性知事は,「保守政治家」と分類されるらしいが,すくなくても公権力が家庭にくることを拒否する「個人主義」や「自由主義者」ではないだろうから,いったいなにを「保守」するというのか?防衛大臣を経験すると,自動的に「保守」になるのだろうか?
日本における「保守」の定義は,英国の「保守」とは正反対なのだろうから,用語に乱れがある.

というわけで,大がかりな「国民運動」が10年以上もおこなわれているのだが,トランス脂肪酸のはなしとなると,急速にトーンダウンする,というより「運動」の対象になっていない.
農林省のHPには,欧米人の摂取量より日本人の摂取量がすくないから,とくに問題なしとしているし,もしもおおく取っているとおもうひとは「自分で注意して」,国としては「留意する」としている.「留意」とは,「放置」のことだ.

つまり,WHOがいうように「危険は承知」だが,「だいじょうぶ」気にするな,ということにしているのだ.
それで「なにもしない」ときめたから,「表示義務」もしない.
明治以来の伝統的な「産業優先」という,わかりやすい態度である.

それでか,業界の一部が「自主公表」という行動をとっている.おそらく,消費者からの問合せがおおいのだろう.だから,食を提供する側は,消費者の敏感さに注意をはらう必要がある.
各社のHPをあたると,公表している企業とそうでない企業がわかる.
あんがい有名どころが公表していないから,「へぇー」とおもうものだが,「情報リテラシー」のないひとは,しらべることもできないから,気にしないで食べるのだろう.

それが,お国の方針だから,しらずに国家依存していることになる.
公表していない企業がつかう広告費がおおきいから,マスコミはもしかしたら6月になっても大々的な話題にしないかもしれない.英字紙かBBCやCNNなど英語ニュースしか扱わないのか?

さて,どうなるのか?
いろんなことを観察できそうな6月になる.

みんなで貧乏になりたい

「貧乏物語」というと,あの河上肇教授のものが有名だ.
「あの」というのは,「本物の共産主義者」であって,「あの人」近衛文麿が師事した人物だからだ.

五摂家筆頭の近衛家のお坊ちゃまが,共産主義に賛同する,というところが日本的である.
これは,戦後にもみられる現象で,「あの」連合赤軍事件でつかまった吉野雅邦の父は東京丸の内にある大企業の役員だった.

お坊ちゃまに「やさしさ」と「社会正義」がくっつくと,「活動家」になるという化学反応である.
近衛は河上肇をしたって東大から京大に移籍し,学生時代にオスカー・ワイルドの「社会主義下における人間の魂」を翻訳し、それを『新思潮』に発表している.

河上肇版にくらべると地味だが,その内容がいまでも色あせないのは,大河内一男教授の「貧乏物語」である.
さいきんの「格差もの」がいう論点の薄さがわかる.

日本に「労働市場」がない.
これはおおくのひとが気づいていない重大なポイントである.
「労働市場」とは,「市場経済」のなかの「商品市場」のはなしである.
いわゆる,ふつうの物質的「商品」ではなく,「労働」という商品をさす.

労働者はじぶんの「労働力」を売っている.雇用者は,その「労働力」を買っている.
この関係を,「労働市場」という.
労働者の人格をふくめたすべてを売り買いするというのは,「労働市場」にはなじまないから,これを,「人身売買」といって区別する.
だから、ほんらいの「就活」というのは,学生がはじめて自分の労働を売ろうとする活動をいう.

ところが,「就『職』」を,企業組織に自分を引き渡すような意味としてとらえれば,それは「人身売買」になるから,嫌がこうじると「病気」になったりみずからの命を絶ったりする.
そんな企業組織が,「反省」して「残業抑制」をしようとすると,午後10時にオフィス内の照明電源を落とすことで解決できると思い込む.

そして,それが「ニュース」になって報道されるが,だれだってそんなやり方が「残業抑制」になるとはおもわない.おもわないのに,それを命じるえらい人がいる.
きっと命じるえらい人も,「根本対策」とはおもっていない.
しかし,ほかにどうしたらよいかが思いつかないのだろう.だから,命じるしかない.
どうしたらよいかが思いつかない人が,えらい人になっている.
えらい会社である.

しかたがないから,社員は深夜喫茶にいって仕事をする.
そうでないなら,はやく帰宅して自宅で仕事をしたり,早朝に出社して仕事をする.
不思議なことに,深夜まで残業するのはいけないが,始発できて始業までの時間に仕事をするのは残業ではないらしい.

社内で「業務の棚卸し」ということをやるとそれなりの効果がある.
ところが,取引先の業務まで「棚卸し」はできないから,取引先もふくめた一斉見直しをしないといけない.
そんなことはできないから,なにもしない.
取引先との取引条件もしらべない.

もしかしたら,「市場経済」の根幹の「市場」が機能不全をおこしているかもしれない.
「市場」のルールは,「取引条件」のことである.
「取引条件」に理不尽なことがあれば,それは修正されなければならない.
だれが「修正」するかといえば,取引の当事者たちである.

しかし,当事者で「修正」できない邪魔がはいることがある.
それが,政府だ.
鳴り物入りできまった「民泊」も,さまざまな「規制」の「法制」になったから,これまで「ヤミ」(法律がないから全部「ヤミ」になる)でやっていた「業者」も,「法治」を旨とするところほど「撤退」「廃業」するはずである.
年間180日しか営業できないから,この「規制」だけでも採算がとれないだろう.

お願いだから,政府はなにもしないでください.
そうおもっていたら,大阪の私立小学校の土地問題で,ほかになにも議論しない国会になった.
これ見よがしに追求する野党も,追求されるひとびとも,もうどうにも止まらない.
えらい国に住んでいる.
お金持ちほど外国移住がさかんになった.
のこされたその他おおぜいは,みんなで貧乏になるしかない.
「希望」がないから,「希望」が「政治用語」になるわけである.
納得.

天邪鬼のススメ

「片意地をはる」とかという意味ではあるが,ここでは「他人とちがうことをする」としてはなしをはじめたい.

「他人」があつまると「マス」になる.
「マスコミ」とは,「他人の集団の意見」ことである.
ところが,ほんらいたくさんあるはずの「他人の意見」を,集約してしまっているから,あたかも「それしかない」とか「みんながそうおもっている」と勘違いをうながすことになる.
これが,「偏向報道」といわれることの原理である.

マイケル・ポーター教授の「競争の戦略」では,いかに他人とちがうか?,が重要なテーマとして語られている.ぜひエッセンシャル版ではないオリジナル版をおすすめしたい.

日本人の特性として,他人とおなじでいたい,というものがある.
不思議なもので,他人とおなじだと「安心」するのだ.
だから,「就活」の学生は,まるで「制服」のようにおなじ服装で面接にのぞむ.
さらに,世にある「面接攻略本」をかならず読んでくるから,わずかな時間で自己PRをすべき「面接」で,おなじことばをはき出すから,「面接官」には拷問のような時間になる.

もちろん,「面接官」にもしっかり勘違いしたひとがいて,「選ぶのは自分だ」とおもっている.
それで,パワハラ面接とか,圧迫面接とかいう手法も生まれているようだ.
しかし,これも「緊急事態」を演出することで,どんな反応や回答を示すのかをみる,ということをしないと,コピーのようなひとたちの評価ができないとして,正当化されているふしがある.
それこそが,「緊急事態」なのだろう.

なぜ,わたしたちは,他人とおなじであると安心するのか?
厳しいいいかただが,思考力が退化したのではないかとおもっている.
これは,オルテガのいう,「大衆の反逆」そのものではないか?

わたしたちは,人類史上かつてなかった世界最先端の「大衆社会」に生きているのではないか?
おそらく,疑問の余地はないだろうから,確定してよいだろう.

だからこそ,他人とちがうことを探すことが重要なのだ.
「コピー」として扱われるということは,消耗品になる,ということを意味する.

どうして国(文科省)も,地方(自治体)も,高等教育をしたがるのか?
「多様性」ということばをつかいながら,じつは「コピー」をつくろうとしていないか?
わたしは,これからの人口減少社会をかんがえると,義務教育は二段階に分けるとよいとおもっている.

第Ⅰ段階が,必修の初等教育である.これは,いまの小学校である.
第Ⅱ段階は,選択必修として,文字どおりの「選択」ができることが重要だ.
「進学コース」なら中学校へ.
「職業コース」なら,職人のもとに預けながら,「中学必修」を受講させる.
「職業コース」は,中学あるいは高校,大学級でも「選択」可能とする.
これは,職業人をリスペクトするような方策である.
もちろん,いったん「職業コース」を選択しても,高等教育の門戸は開いているから,相互に行き来できる.

「ローテクの最先端は実はハイテクよりずっとスゴイんです。」という本があった.

その通りである.
高等教育のひとには,高等教育なりのアイデアの創出が要求される.これが,新しい価値を産むからだ.
それをじっさいにつくろうとすると,「ローテク」は欠かせない.
「設計図どおりにものがつくれたら,倒産する工場はない」
「どうやったらこの形がつくれるのか?それが問題だ」
下町のカリスマ,岡野工業の岡野雅行氏のことばである.

すべての人間に「選択肢」をあたえないで,高等教育へ一直線で進めるという発想は危険である.
とにかく,豊富な選択肢が用意されていること.
これが,天邪鬼の発想である.
1980年(昭和55年)の大ベストセラーは,ミルトン・フリードマンの「選択の自由」だった.

この本が主張している,「自由主義」は,もはや世界の常識である.
ところが,日本で「自由主義」は,忌み嫌われている「主義」なのだ.
「みんな平等」というありもしない幻想が,最優先の価値観になってしまった.
なるほど,「就活」の学生の服装が,「人民服」にみえるのは気のせいか?

漁協レストランに行ったら

春の風にのって,たまにはどこかにでかけよう.
それで,ドライブがてら「漁協レストラン」にいってみた.
「漁協」だから、ふつうの飲食店とはおもむきがちがうのは予想どおりなのだが,ちがいすぎた.

ランチの定食を二人で食べたら,6,000円を超えた.
もちろん,味は「さすが」である.
とくに魚の味は,格別であったことはいうまでもない.

しかし,どこかがちがう.
それは,価格とサービスが一致していないことだ.
つまり,とびきりの「魚」だけが強調されてはいるが,それ以外が欠如している.
「商品」としてかんがえている姿ではない.

これは,かつての「工業」に似ている.
「いいもの」であれば「売れる」という発想そのものだ.
しかし,VHSとbe-taの闘いがそうであったように,工業の世界は,とっくに「いいもの」は「売れる」という発想を捨てざるをえなかった.

しかし,だからといって「工業」が順調なわけではなく,むしろ苦悩はつづいている.
「顧客志向」を見失ってしまったからだろう.
それは,「顧客側」の変化である.
かんたんにいえば,同じ価値観の「顧客」のおおきなかたまりが,なくなってしまったのだ.

大量生産におけるコスト・メリットに固執すると,それを消化できるおおきなかたまりが不可欠だが,国内にそんなものはもう存在しない.
では,海外はどうかといえば,現地生産など直接生産をしないと,かんじんのコストがもはや見合わない.
それで,「顧客」がだれだかわからなくなってしまった.

このレストランの「発想」も,「いい魚」をだせばよい,から抜けきれない.
その「魚」の価値があがってしまった.かつてのように「獲れない」からだ.
だから,「原価」から単純に「売価」をきめると,一人前3,000円以上の「定食」になる.
そんなにするのなら,お茶,ごはん,みそ汁,漬物といったパーツをどうするのか?
それに,案内方法,店内内装といった雰囲気作りはどうするのか?

これらが,まったく考慮されているとは思えない.
「この商売はなにか?」
いまや結果的に,上から目線になってしまっているのだ.

こうした「店」が,各地に存在する.
反面教師として,参考になる.
「漁協」ならではの店である.
しかし,「農協」も似たようなことをしているから,「漁協」だけのことではない.

個人経営だったら,おそらく存立しないビジネスモデルである.
存立しないものが存立している.
ここに,この国の「文化」がある.
残念な「文化」のひとつのである.

雪のお彼岸に経済をかんがえる

記憶というものはあいまいだから,本来はデータをみるべきなのだが,春のお彼岸に雪をみたのははじめてのような気がする.
今日,横浜に雪が降った.
珍しいこと,から連想したら,「内部留保課税」のことをおもいだした.

むかし,会社員だった頃,労働組合から新規出店の資金を「内部留保」からつかわないのか?と指摘されて,これに反論する経営側のメモをかいたことがある.
世間の,「内部留保課税」についての論調は,賛成と反対があって,与党は,「二重課税」としてこれに強く反対したと記憶している.

ここで,「二重課税」とはなにを指すかといえば,企業は「所得」にたいして「法人税」をはらう.はらったあとの,「税引後利益」から,役員賞与や株主への配当が支払われるしくみになっている.それでも「余った」ら,これを「内部留保」として,「資本」にくみこまれる.
だから,法人税を一回はらっているのに,また課税されたら「二重課税」になる.

ほとんどウソかいいかげんで適当なことしか言えない「素人」を,コメンテーターとして出演させ,それらの発言を大量にたれ流す,ワイドショーという「ショー(見世物)」では,「庶民感覚」というあいまいな「感覚」を「正義の御旗」にみたてるものだ.
そのなかで,「内部留保」は「企業がため込んだ余分なお金」と決めつけていたのが印象的だった.

だから,「二重課税」であろうが,「内部留保」に課税するときめれば,企業はいやがって社員の給与をふやすか,配当をふやすことで「内部留保」をすくなくするから,視聴者の主婦に淡い期待をもたせて,さらに会社にたいする不信感をあおるのだ.
この,「不信感をあおる」というのは,全体主義の恐怖をえがいたジョージ・オーウェルの代表作「1984年」にある,「二分間憎悪」とおなじである.

 

ところで,与党の「二重課税」だから反対と,上述のワイドショーの賛成とでは,論点がまるでちがう.
しかし,与党の議論も,「損益計算書」をつかった,売上-経費=利益,という枠でのはなしであるから,「内部留保」は「利益」というあつかいに近い.

みずから麻生セメントという会社の社長だった,元総理にして現財務大臣のひとは,ときたま変調をおこして,「企業は内部留保を減らす必要がある」などということを口にする.
みずから内閣をひきいた総理経験者が,べつのひとの内閣で大臣をやる,というのは「降格」みたいだが,意気あってやる,というならそれは国民のためになる.

「内閣総理大臣」の法的位置づけが,ほとんどなかった明治憲法下,生涯に50回以上もの転職経験がある経済人の高橋是清が,総理経験者にしてのちに大蔵大臣になったのだが,すばらしい成果をだしたから,いまのひとにもそれなりのプレッシャーがあるとおもうのだが,元オリンピック選手の心臓は,そんなものではないのだろう.

ちなみに,晩年口述筆記したという,「高橋是清自伝」は,あの「フランクリン自伝」をはるかに凌ぐおもしろさである.とくに,政府役職につくまえの「上巻」は,へたな小説以上の数奇な人生がえがかれているから,わかいひとにすすめたい.

  

マンガばかり「読む」から,かんじんなときに漢字が読めなくて,結局のところ総理でいられなくなった.このときも,マスコミは「二分間憎悪」をたれ流したのだが,祖父の吉田茂がかいた回想録もろくに「読ん」ではいないだろうから,だれかはやく「まんが よしだしげるかいそうろく」をかいてあげてほしい.

さて,「内部留保」のはなしである.
ちゃんとした経営者なら言わずもがなであるのだが,損益計算書は「税引後利益」をもって,「貸借対照表」と連結している.それで,「貸借対照表」の「資本」にくみこまれるのだ.
この,「資本」という文字をみたり聴いただけで,「資本論」にあたまが行ってしまうひとたちがたくさんいる.それで,血が騒いだりするのだろう.

だから,すっかり「貸借対照表」の「資本」にくみこまれる,ではなしが完結してしまうのだ.
「複式簿記」の「複式」が,興奮状態ででてこない.
「資本」に組みこまれたのなら,「資産」のほうはどうなっているのだ?をわすれるかわすれるふりをする.

「内部留保」が,「現金資産」(だけ)になっている,と思い込んでいるなら,それはかなり単純なひとだ.
ほんとうにここでドラッカーをだすまでもないのだが,「すでに起こった未来」で,「利益など存在しない」といいきっている.

「内部留保」の勘違いは,損益計算書への依存からはじまる.

マニュアルを参照

「マニュアル」は役に立たない,という常識がまかりとおっている.
ほんとうに,そうだろうか?
では,「マニュアル」とはなにか?をいえるのか?
残念ながら,おおくのひとが勘違いしている.それも,おおきな勘違いである.

さぁこれから「業務マニュアル」をつくりましょう.
となったとき,かなりの企業組織で,「現状の仕事のやり方を書き出す」作業をはじめてしまう.
ところが,現状のやり方では,それなりのクレームやミスが発生しているだろうから,それを「業務マニュアル」にしてしまうと,現状のクレームやミスがそのまま再現されることになる.
これでは,なんのためにマニュアルをつくるのかわからない.

だから,「マニュアル」は,現状の仕事のやり方を書いたものではない.
「現状でかんがえられるもっともうまいやり方」を書いたものが「マニュアル」である.
すると,マニュアルの前提には,理想の姿があるのだ.
その理想の姿にするための方策が,マニュアルの本質になる.

どんな業務でも,開始と同時に時間のながれにのっていく.
そこでは,数々の業務ルールの発動があり,経過のチェックポイントを通過するたびに,業務内容の確認がおこなわれ,理想とのギャップが発生していれば,これを修正するというサブ業務ルーチンにむかうようにする.これで,業務の結果品質が守られる.

以上の「ながれ」は,どの産業にもあてはまるから,ものをつくらないサービス業でも逃げられない.「サービス」も,時間のながれにのっていくから,むしろチェックポイントをつくることから難易度がある.
それで,これまではその難易度がひくい工業でさかんに研究された.サービス業では,難易度の高さゆえに,ないものとしてあつかわれたのではないか?

「脱工業化」という,工業からのサービス業への進出は,ものづくりがものづくりだけで生きていけなくなったことからはじまる.
つまり,工業をやめたのではなくて,すそ野にこそ価値があることに気がついたのだ.
それを,「スマイル・カーブ」という図で表現している.

人間が笑っているような図になるから「スマイル・カーブ」という.
70年代にはやったマーク「スマイル」の,凹形をした口にあたるカーブだ.これが凸型になると,怒ったような図柄になる.
左右の端が高く,真ん中にむかって低くなるのは,左端が「企画」や「設計」で,右端が「アフターサービス」をしめす.低い中心部は,「製造」にあたる.

製造業で,もっとも価値が低いのは「製造」になってしまった.
宿泊業なら,「客室清掃」にあたろうか.おおくの宿は,この業務を他社に委託してしまった.「してしまった」というのは,本質をかんがえずに,とにかく業務単価をさげたという意味だ.
その証拠に,委託契約に「業務仕様書」すらないことがあるのでわかる.

どんな製品をつくるか?の「企画」や,技術や洗煉されたデザインを詰め込んだ「設計」,そして,つぎの商品企画のための情報収集をふくめた「アフターサービス」こそが,価値の源泉になったのだ.これを実践しているのが,アップルであり,日本ではキーエンスである.

「清掃業務仕様書」が,受託先清掃会社の原本のままという事例をなんどもみたことがある.
これでは,「企画」も「設計」もない.丸投げである.
「客室」という宿泊業にとっての主力商品の製造が,他社に丸投げで平気の平左でいられる神経がわからない.

工業側が,これらの価値の高いしごとはなにか?とかんがえたら,じつは「サービス業」に似ているどころか,サービス業とかわらないことを理解した.
それで,工業のひとたちが,サービス業への進出ということになって,「マニュアル」の問題に気づいたというわけである.

しかし,かんじんのサービス業側がこのことにまだ気づいていない不安がある.
おそろしいことに,そのことが人類史に汚点をのこす甚大な悲劇をつくりだしてしまった.

福島第一原発事故である.
スリーマイル島事故の真摯な分析からつくられたマニュアルが,福島にもあった.
発電所の所長以下の現場,東電本社,原子力保安院,経産省本省,内閣官房,国会,そして学会などもろもろ,これら関係者全員が,その「マニュアルを参照しなかった」のである.

このにわかに信じがたい現実を知った,福島から東京に避難している知人が,全国の有権者,最低でも福島県民の成人全員に,政府あるいは東電は復興費からわずかばかりのお金をさいて,つぎの図書を配付すべしと小さな声で主張している.
齊藤誠「震災復興の政治経済学」日本評論社(2015)

「マニュアルを参照」できないと,たいへんなことになるばかりか,この本で指摘されたことを,反省すらしないのなら,それは人類にたいする確信的敵対行為である.

25年間も復興増税されているのだから,当然に全国民に配付すべしとおもうのだが,待っていても政府はなにもしないから,支援金を寄付するつもりで上述の本は読むべきだろう.

ポイントカードはお好きですか?

個人的な好きと嫌いでいえば,嫌いである.
個人商店で好みに合致する商品がある店なのに,ポイントカードがあるとがっかりする.
全国的なチェーン店だと,ポイントカードではなくてプリペイドカードのばあいもあるから,財布の厚みはそれだけでも増す.

これに,クレジットカードも,企業チェーンや系列での利用のために発行されている.
だから,いつのまにか,財布は紙幣ではなくてプラスチックのカードによって占拠されてしまうことになった.
スマホのアプリとしてこれらが進化しているというが,決済のおおくを現金にたよる国だから,財布を忘れると身動きがとれない.

それで,たまに財布のなかのカード類を抜いて薄くする.
ところがどういうわけか,ふだんいかない店のポイントカードを抜くと,その店に立ち寄ることがある.
そして,レジでの支払にポイントカードがないと気づくと,妙に「損をした」気分になる.

だから,最初からポイントカードをもらわないように努力する.
「ポイントカードはお持ちですか?」
「いいえ」
「おつくりしましょうか?」
「いいえ」
「失礼しました」と口で言っても,なにか不思議そうな態度を店員さんはとるものだ.
そんなにおかしいことなのだろうか?という気分になることも嫌いな理由のひとつだ.

そもそも,なんでポイントカードを発行するのか?
スーパーマーケットのばあいは,顧客が購入した商品のデータを得るためのものだった.
だれが,いつ,どんな商品を,何個購入して,どのくらいの金額をつかっているのか?
これで,店舗全体というおおきな枠でABC分析をするのとはちがった細かさで,顧客の購買行動をしることができた.

たとえば,店舗全体で分析すれば,月間で数個しか販売実績のない商品は,取扱商品から排除されるのがふつうだ.
ところが,この商品を購入しているのが,その店舗での購入金額トップクラスのひとだとわかれば,排除してしまったらそのお客様まで来店しなくなるかも知れない.

こんな重要なデータを,ポイントカードという媒体をつうじて店は得るのだから,そのデータの購入料として買いもの代金の数パーセントをお支払いする,というのが本来の趣旨だった.
それは,消費者サイドからみれば,ポイントカードを見せると数パーセントの割引がもらえる,ということになっていた「だけ」である.

この「だけ」が,ひとりあるきしだして,なんだかわからないがスタンプを貯めるとなにかもらえるようになる.
店側は,どんな情報を得たのかさえもないから,「ただ」の割引でしかない.
こうして,所得が店から客に移転する「だけ」になった.

ただし,客側はいつつかうともしれないポイントカードを,つねに携行するという手間をかけなければならない.
だから,客は客なりにその面倒さというコストを払っているから,ポイントによるメリットは当然のものとなった.要は,ありがたくない,のだ.

貧しいはなしである.
上記の「貧しい」とは,貧乏ということではない.
発想の貧しさのことである.
なんのためのポイントカードなのか?ということをかんがえることをやめた,発想の貧しさのことである.

やっぱりポイントカードを好きになれない.
嫌いなのだ.

部下は自分の鏡である

「子は親の鏡」という.それで.いよいよとなると,「親の顔をみてみたい」になって,恥をさらすのは,やっぱり親だ.
GHQの一員としてよばれて来日し,いまの労働法の基礎をつくった,ヘレン・ミアーズが書いた「アメリカの鏡・日本」は,ニッポンという子の親がアメリカだという立場でかいたが,マッカーサーは,この本を「日本人に読ませてはならない」として,日本語での出版を発禁にした.

日米は,黒船から断絶していたのではなく,マッカーサーによって断絶してしまったということがわかるから,いまの日米をかんがえるときの基本としても読める.
日本は,「親」から見捨てられた「不肖の子」であった.

企業において,部下を育てる,というテーマは,ふつう上司の仕事として認識されている.
だから,経営者は使用人である幹部従業員を,幹部従業員は中堅従業員を,中堅従業員は新入社員を,というぐあいにピラミッド構造を地でいく順位で面倒をみることになっている.
すると,いちばん問題なのが,経営者はだれに面倒をみてもらうのかがはっきりしない.

まず,この順番が正しいとすれば,経営者の面倒をみるのは新入社員がのぞましい,ということになる.
本来,経営者は会社全体の面倒をみなければならないが,そうはいかない,というなら以上のようになるだろう.

接客業において,おおくの企業はものすごいことが「常識」になっている.
それは,お金をくれる「お客様」の接客をするのが,新入社員とその先輩たちという,社歴がみじかいひとたちばかりが「兵隊」として存在するのだ.
かんたんにいえば,素人をお客様にあてがって,それでよしとしているのだ.

こうした業界の常識に異議をとなえたのが,いまではすっかり「古典」あつかいになっている,「逆さまのピラミッド」である.

この本は,当時のアメリカで,「サービス革命を引き起こした」といわれるものだった.
いまのアメリカでも,この本の影響力はつよいのではないか?
しかし,日本ではあまり高い評価はされなかったかもしれない.
「なんとなくピンとこない」というのが,一般的な感想だったと記憶している.

おそらく,日本の読者はいまでも「ピンとこない」かもしれないが,その前に,サービス業従事者の読書嫌いも半端ない状態だということは認識しておきたい.

この本が,日本で「ピンとこない」といわれる理由はかんたんだ.
日本人のはたらきかたは,「集団主義」といわれて久しいが,その「集団」が,組織だっていないという特徴がある.
つまり,「なんとなく組織」なのである.

「フラットな組織」といえばそうなのだが,もっとも重要なことは,仕事のやり方のなかにふくまれる数々のルールが不明確なのである.
だから,仕事にムラができる.
しかし,これを,経営者も放置するから,組織の意思疎通が苦手という組織になる.

もっとも,読書嫌いなサービス業従事者には,経営者もふくまれる.
製造業では大変な効果をだした,TWI(Training Within Industry)という現場責任者向けの研修をほとんどのひとが知らないだろう.
これは,現場責任者が後輩を教育するための「研修」である.

欧米は,人種も言語もバラバラだったから,意思疎通に苦労した.
そこで,仕事のルールを明確にするという努力がなされた.
日本は,これらの問題がほとんどないから,「有利」だとされてきた.
ところが,個人の価値観が「発散」する時代になって,この「有利」さがぐらついている.

むしろ,見た目でかんがえ方がちがうと思われるひとたちが集まった組織のほうが,個人への許容量がおおい.
見た目がおなじだと,自分とおなじだとかんたんに錯覚する.

だから、どんな働きかたをしたいと思うのかを,新入社員にきくと,接客上の訓練のありかたにもアイデアがあるかもしれない.
将来を背負うことがきまっている新入社員から面倒をみてもらうのは,経営者にとってもチャンスなのだ.