いがいと長い「ゆとり教育」期間

新年度をむかえて,新入社員というひとたちが社会にでてきた.

「ゆとり世代」というと,平成14年(2002年)度から平成25年(2013年)度までつづいた「亡国教育時代」とおもっているひともおおかろう.
しかし,あにはからんや,昭和57年(1982年)に,若林俊輔・隈部直光共著「亡国への学校英語」という本が上梓されている.

著者のひとり,故若林先生は「闘う英語教師」として名を馳せた,中学校の英語教師でもあった東京外大教授である.
初版で改訂版がでることなく「絶版」となりながら,いまだ人気おとろえず「中古」で取引されている,三省堂「VISTA英和辞典」の編者である.

 

「英語嫌いのひとを英語好きにさせる」という目的の辞書だから,いまはおおくある「読む学習辞典」の最初である.
「まえがき」と「使いやすい英和辞典を目指して-この辞書で工夫したこと-」を読むだけで,一種の感動すらおぼえる.改訂版が出ないのはなぜかと,不思議におもう.

冒頭の本をながめると,文部省の教育行政がいかにずさんなものであるかが「英語科」をつうじて告発されている.
教職課程には,「教育行政学」がひつようではないかと提案があるのは,現状の教職員が行政のしくみを「知らない」ままに先生になるという指摘である.

大学の教員養成課程で,教えない,というのは,一種の愚民化であり,教育行政の立場からはたいへんなアドバンテージだ.
教えない,ことも行政側が関与しているのではないかとうたがう.
大阪の私立小学校の土地問題より,よほど重要な行政の関与ではないか?

ようは,昭和55年(1980年)度あたりから,「ゆとり教育」ははじまっているのだ.
そして,中曽根内閣による「臨教審」が,昭和57年(1982年)に「ゆとり教育」を「方針」として決定している.

ここで,わすれてはならないのは,「ゆとり教育」の嚆矢は,昭和42年(1972年)の,日教組によることだ.
すなわち,一般に「タカ派」とか「右翼的」と評価されることがおおい,中曽根康弘氏の正体はなにか?といえば,実績からするとかなり「左派」なのである.当時の帝国陸海軍軍人のおおくが「アカ」かったことの証左かもしれない.

昭和55年(1980年)に小学校にはいった子どもは,昭和48年(1973年)生まれになるから,ことし45歳になる.高校は昭和57年(1982年)度からだから,昭和41年(1966年)生まれなので,ことし52歳になる.

じつは,社会の中心的世代が,第一次「ゆとり教育」世代になっているのだ.
その世代が,「本格的」になった「ゆとり教育世代」をつめたい目でみているという構図である.
「脱ゆとり」は,小学校で平成23年(2011年)度,高校で平成25年(2013年)度からはじまる(中学校はその中間)から,小学生1年生だったひとはことし13歳の中学生,高校生1年生だったひとはことし21歳になるので,すでに社会にはいりはじめている.

中学校の数学で「統計」を復活したのは,「脱ゆとり」の平成24年(2012年)度からで,これが「30年ぶり」だから,昭和57年(1982年)の中教審による「ゆとり方針」と合致する.
すなわち,いまこの国の中心的世代になっている,第一次「ゆとり世代」は,「統計リテラシー」が基本的にないひとたちになっている.もっとも,本人たちのせいではないが,これが,むこう30年間つづくことは確実である.学校で「教えなかった」のだから,そうなる.

しかし,大人が「学校で教わらなかった」と開き直っても,「脱ゆとり」世代は教わってしまう.
30年間というひと世代分が,すっかり愚民教育を受けてしまった.
これを推進したのは,政治(与野党とも)であり行政であるから,なんのことはない,この国が民主主義国家なら,われわれ国民の選択であった.

さて,冒頭の書籍にはなしをもどすと,日本における英語教育の「成果」についても当然に解説されている.もちろん,日本人のおおくが英語を話せない.この現象を,若林先生は,「外国語教育」と位置づけていないことが主因だとしている.

英語の授業が,読解に偏ってしまい,それが「暗号解読」状態になるのは,日本語=英語にしてしまうからだとの指摘だ.なんでも「和訳」しないと気がすまない.
「暗号解読」なら,いっそのこと本物の「暗号」を科目にしたほうが,生徒の将来にやくだつだろうとも書いている.

さらに,問題提起はつづく.
そもそも,教育はだれのためか?こたえはもちろん生徒のため.
生徒の将来と人生が,明るくひらけるように準備するのが教育である.
「顧客志向」の欠如.
これが,教育行政の本質である.

その欠陥を,教師に責任転嫁し,「教師の資質の問題」にするのは,経営がかんばしくない宿事業主が従業員のせいにする体質のコピーのようだ.
さらに,生徒という顧客層の劣化をなげくなら,まさに国営事業が失敗したパターンとおなじだ.
先生は,英語という外国語を教える教師には,英語を話せる,という条件が必要だという.そのために,顧客志向の再構築なくして,教育にはならないというのは,ビジネスの世界では当然すぎる.

そうかんがえると,国家が親に子どもの教育を義務とし,子どもは教育をうける権利があるまではよしとして,国家が直接教育内容に関与するのはいかがなものか?
憲法89条の私学助成禁止を骨抜きにしたのは,私学にも国家が関与するから,という解釈である.

これで,わが国には,独自教育をほどこす「私学」は事実上存在できなくなり,独自教育を看板にするだけで実際は国家管理という無競争状態になっている.もはや,いかなる「私学」も,国からの助成金がないと経営できないからだ.

小学校で英語教育をはじめるという.
ますます,英語嫌いを拡大生産するのではないか?と英語嫌いのわたしすら心配だ.

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