信州味噌のみそ

コロナで自粛していたからではないけれど、久しぶりに信州は松本を訪ねてみた。
松本城を数十年ぶりに見学して、むかしよりずっと「よかった」のはどうしてか?

城内天守閣にあった、火縄銃やらの銃器の展示の充実が、なんだか新鮮だったのは、45歳から夫婦ではじめた「クレー射撃」の趣味をして、若いときにはまったくなかった「銃の知識」を自然に得たからであろう。
そもそも、若いときにこんな展示があったことも記憶にないのである。

なので今回「はじめて観た」展示で、記憶に残ると感じたのは、銃の心臓部にあたる「機関部」のつくり(構造)が、現代のものと基本的におなじだったことの驚きであった。

つまり、「精密」なのである。
これをどうやって「こしらえた」のか?
組立もさることながら、その「部品」づくりにおける技術のことだ。

もちろん、「鉄砲」は、「弾」が通る「道」としての「銃身」の精度確保も、的中率ばかりか事故にもつながる大仕事である。
「まっすぐな穴」でないといけないし、強度がないなら熱と圧力で「銃身膨張」が起きて、もしや「裂け」たりしたら、射手の命にかかわる事故にだってなるからだ。

いまは、鉄の棒をくりぬいてつくるけど、むかしは鉄板を丸めて「鉄管」にしていた。
この丸める技術がすごいのである。
「刀鍛冶」の基本があっての技である。

それで、「弾づくり」は、女子が担当したという。
熱く溶けた金属を球体にするために、板の上で転がすのである。
この大きさが狂ったら、銃を破壊しかねないから、責任のある仕事である。

もっとも、なによりも「火薬」がないと話にならない。
日本にない「硝石」を得るために、「貿易」をするしかなかった。
只今現在、クレー射撃も、ヨーロッパからの輸入が絶えて、なんと「弾不足」で射撃ができない状態になっている。

わが国は、スポーツ射撃用の散弾も「国産」が絶えたのである。
これは、織田信長も仰天する事態となっている。

さてそれで、信州は広大な地域だけれど、信州といえば「味噌」である。
どうしてか?
所説あるなかでも、かつて日本経済を支えた「女工」を集めて工場内に住まわせたことでの必需品だったからという。

「絹(シルク)」と「味噌」は、つながっているのである。

けれども、味噌の産地として決定的になったのは、関東大震災による「壊滅」で、いわゆる「首都圏」の味噌屋も消失してしまった。
それで、信州の味噌が国内4割というシェアを得ることになったのである。

女工のための大量生産技術が、日本人のための大量生産になったわけだ。

信州味噌の特徴は、「米味噌」にある。
原材料は、米からつくる米麹と大豆だ。
「麹」は「麹菌」のことで、わが国の「国菌」となっている。

そこで問題になるのが、「大豆」なのである。
この「由来」が、4月から見えなくなった=見えなくした。

世界の大豆は、すでに「遺伝子組み換え作物」になっている。
それで、アメリカとかの「外国産」を買い付ける場合に、わが国の企業は「高額」の「遺伝子組み換えでない」ものを買っていた。
これが、できなくなってきたのである。

カネを出せば買えることができなくなってきたのは、農家が手間を嫌がっているからという理由が大きい。
どうして遺伝子をわざわざ組み換えたものになるのか?といえば、農薬の「耐性」があるからだ。

農薬は、農作業の手間を劇的に「改善」する。
しかし一方で、「F1:第一世代交配」のタネしか使えないので、農家は自家で収穫したものを翌年に蒔くことができない。
F2の品質が保証されないばかりか、種子メーカーとの契約違反になるからだ。

ここで注目すべきは、農薬メーカーと遺伝子組み換え種子のメーカーが「イコール」であることだ。

一度で二度美味しい。
これが、「ビッグファーマ」と呼ばれる、大化学薬品メーカーのグローバル・ビジネス・モデルなのである。

人間も動物なので、食物を外から得てこれを「消化」しないといけない。
それで、消化とはなにか?を問い詰めたら、食物を「分子化」させて体内に取り込むことを指す。
生体とは、すべからく「化学反応」を利用して生きているものをいう。

そこで、人工的に組み替えられた遺伝子が、どのように「消化」されて体内に取り込まれ、それで取り込んだ生体がどうなるのか?が問題になる。
ここが、「安全性」の「キモ」なのだけど、遺伝子組み換え物質ができて間もないから、「時間経過」による影響がわからない。

「わからない」状態にあることだけは、いまのところ確実なのである。

よって、政府が言う「安全」とはなにか?は、意識しないといけなくなっている。
政府に多額の納税と、寄付をしているのが「ビッグファーマ」だからだ。

そんなわけで、信州味噌の地元老舗直売店には、原料の出所があきらかな「味噌」があって、スーパーの信州味噌とは「価格」でも一線を画している。

それでもって、原料の出所をあきらかにさせない、というのが政府の方針になっているのが「みそ」なのである。
「楽市・楽座」をやらせた、織田信長が、弾をつくれない以上に仰天するのがこのことだ。

「国葬」反対論とその反対論

わが国戦後史で、首相経験者が「国葬」になった事例は、吉田茂氏「だけ」であることに注目すると、安倍晋三氏の「国葬」とはなにか?は、「政治」としてかんがえておく必要はある。

「国葬」には、法的根拠となる「国葬令」があった。

GHQは昭和22年に「国葬令を失効」させているために、1967年に執り行わた吉田茂元首相の国葬が「例外的」に行われたのである。
もはや「例外」も使えないから、それ以降は首相経験者の国葬は一度もない。

つまり、「国葬令」をその後のわが国でどの首相も制定していないために、「国葬」自体ができない「法」の条件があるのだ。
だから、岸田首相が「国葬をやる」と言っても、なんらかの「立法措置」がないと「法治国家」としてはできないのである。

なので、今回の安倍氏の悲劇とは別に、「国葬」についての議論は不可欠なのだということは、国民も意識しておかないといけないのである。

「感情」で国家が執り行う「国葬」は語れないからである。
しかしながら、「大衆社会は感情的になる」というオルテガの指摘通りに、エリートなき大衆社会となった「わが国」の姿が現れたのだった。

念のためつけ加えれば、ここでいう「エリート」とは、「受験(偏差値)エリート」のことではなく、「ノブレス・オブリージュ」のある、高貴にして誇り高き人物をいう。
欧州では「騎士道」、日本では「武士道」をさす。

 

吉田氏の後は、「国民葬」と「自民党・内閣合同葬」がある。
格上の「国民葬」とは、政府と自民党・それに国民有志によるもので、費用はそれぞれが「分担」する。
「自民党・内閣合同葬」も同様に費用を「分担」する。

それでも、「国民葬」は一度だけ、1975年の佐藤栄作氏(生前にノーベル平和賞受賞)の例がある。
その後は、「自民党・内閣合同葬」である。

最近のは、2020年の中曽根康弘氏(生前に大勲位菊花大綬章:わが国最高位の勲章)で、その内閣(政府)負担分が巷間の話題になったことは記憶に新しい。

ついでにいえば、外国人で大勲位菊花大綬章の受章者に、ウクライナのロシア派大統領で「マイダン革命」(2014年)によってロシアに亡命した、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ氏(2011年)がいる。

今でこそ「プーチン派の悪玉」扱いだけど、日本政府の手のひら返しの態度は、なんなのか?
日本国民から授与したはずの「大勲位が泣く」とはこのことだ。

さてそれで、安倍氏の悲劇は、「殉職扱い」だということもいえる。
参議院通常選挙の「応援演説」で、凶弾に倒れたからである。
しかしてこれは、当然に「現職首相」ということではなくて、元総理総裁とはいえ、自民党の一議員としての政治活動だった。

なので、わたしは従来通りの、「自民党・内閣合同葬」がふさわしいとかんがえている。
「国葬」をやりたいひとたちとは、安倍氏の「立場の混同」があるとおもうからである。

この点、既存野党の「反対論」に説得力がないのは、安倍氏の首相としての「業績」についての「感情的」批判に終始しているからだ。
なお、「首相現職」で死去した、宏池会の大平正芳氏も、自らの「内閣」と「自民党・合同葬」だった。

すると、じつはアメリカの「ポチ」ではあったけど、たいした業績が見当たらない吉田茂氏の国葬だって、なんなのか?になるし、アベノミクスだって、日本経済を復活させたわけでもなく、むしろその社会主義性で、既存野党を丸呑みしたという「政治戦略」であって、「経済政策」とはまるでいえない。

それを、「国葬派」といってよい「保守層」が、「国会で民主的に指名された首相だ」という、これまた意味不明の「反論」をしているのである。
なぜならば、それなら、「自民党・内閣合同葬」が当然のところになって、どうして「国民葬」も飛ばす「国葬」なのか?の反論になっていないのだ。

しかも、前述のように「国葬」のためには、「法整備が不可欠」だという肝心要の要素がすっかり抜け落ちている。
すると、「国葬派」は、自民党が単独で、さっさと法整備すれば済む、という論を張るにちがいない。

これは、たいへん危険な発想だ。

こうしたことを「前例」としたならば、議論なくして多数派がなんでも決められることになる。

感情的に「混同」して、戦後初の「元首相暗殺」に対しての過敏な反応が、政府の思惑に一致するとしたら、「嫌な予感」しかない。
それで、「殉職」なのだという「勘違い」から、二階級特進の「国葬」に、国民は素直に応じて良いものか?ということをいいたいのである。

さらに、もう一つある「国葬」の理由が、「多数の外国からの問い合わせ」があるからだ、とプロパガンダしていることだ。
つまり、「弔問外交」をやりたい、ということなのだろうけど、「自民党・内閣合同葬」でどうしてダメなのか?の理由にならない。

そんなわけで、亡くなった安倍氏に「大勲位菊花章頸飾」が贈られて、雰囲気作りが進行している。

「検討氏」の岸田首相としては、素早い反応である。

「安倍氏の意志を継ぐ」といいながら、ぜんぜん主義主張の異なる「派閥」を維持しながら、安定の政権運営を得た「自信」なのだろう。

ここで海外に目を転じると、隣の大国では、安倍氏の悲劇を「祝う」ひとたちが、「祝杯」をあげていると「ニュース」になっている。
もちろん、プロパガンダなので、あちらの「党と政府」が認定・推奨していることに注目すべきだ。

そこにあるのは、「親中派」が、日本政府の中枢を占めるに至ったことの「歓びの表現」なのである。
老子のいう、「闘わずにして勝つ」ことの近年最大の成功事例になったことの「お祝い」なのだと、感情的にならずに受けとめる必要がある。

また、「憲法改正」論議すら、「親中派」の手中にあるなかでのことだから、あの国のポチである公明党が、いつ「賛成」するかわからないし、どんな「修正要求」をするかもわからない。
多分にあちらの国の「党」が、日本の憲法改正に積極的な節がある。

このこともあわせて、日本人は冷静に「国葬」をかんがえないといけないのである。
それはまた、安倍氏を慕うひとたちにもいえて、「死人に口無し」を平然とやる「冷徹さ」を、現在の自民党に感じないことの「愚」なのである。

それにしても、「国葬令」すらない戦後の日本という国を嘆くばかりなのである。

世界は「政変」ラッシュ

さまざまな事情があるから、とくだんのつながりはない「偶然」のようにも見えるけれども、どうなのよ?という話題である。

日本では「七夕」の7月7日、英国のボリス・ジョンソン首相が辞任を表明して、大ニュースになった。
ただし、辞めるのは、秋の次期政権が決まるまで、という長丁場になった。
この間は、レームダックだという宣言だ。

その翌日、わが国では安倍元首相への銃撃があった。
参議院通常選挙期間中の惨劇は、国政レベルでの衝撃となったことは事実だ。

ところが、農民一揆が「盛り上がってきている」オランダも、ルッテ政権が今後どうなるものか?という不安定で、その「一揆」が国境を越えてドイツにも波及している。
だから、ドイツの信号機内閣だって、安泰とはぜんぜんいえない。

そんななか、14日には、イタリアのドラギ首相が辞任表明して、これをマッタレッラ大統領が「待った」をかけた。
イタリアの政界は、相変わらずの不安定なので、現政権も連立を組んでいる。

それで、連立政権内のコンテ元首相が、ドラギ政権に内部から圧力を掛けたことが辞任表明のきっかけになったという。
しかし、ドラギ氏とマッタレッラ大統領が、コンテ氏の圧力を逆に排除しようというのだから、複雑なのである。

日本に置き換えたら、安倍内閣にいた麻生元首相が仕掛けたようなものだけど、「自民党内の派閥争い」として認識されるわが国の常識とはちがって、あちらでは、「別の党」が連立している。
なので、公明党の元首相が仕掛けたという形だとおもえばよい。

その公明党にあたる、「五つ星運動」という党内抗争で、追いつめられたのがコンテ氏だったということだ。
なお、この「五つ星運動」という政党名は、「水・エネルギー・開発・環境・交通」からとられたもので、いわゆる「環境サヨク・ポピュリズム政党」である。

ついでにいえば、首相のドラギ氏は、欧州中央銀行(ECB)の前総裁だった人物である。
かんたんにいえば、「ユーロの番人」だったひとで、ウクライナに端を発するエネルギー・インフレへの経済対策が政権運営の最大事になっている。

日銀総裁が首相になったようなものなのだけど、一方で、ドラギ氏は「未接種者」に対して「社会の一部ではない」という強権的態度をとっていた。
このあたりに、元ECB総裁らしい、全体主義の匂いが醸し出される困ったちゃんだった。

国民目線からしたら、両者が共に「自滅」して欲しいところだろう。
こうしてみると、イタリアの政情を作っている、投票する側の国民性が、いまの日本人に似ているのである。

日本が先に選挙を終えたけど、大統領が命じた来週の国会でのドラギ演説で、イタリア議会も解散総選挙になるかもしれないのである。

そんなイタリア半島は「長靴」のハイヒールの対岸にある、アルバニアも、春から続くインフレへの抗議活動が万人単位になっていて、東隣国マケドニアの先にあるブルガリアでは、昨年の1年だけで解散総選挙を3回もやったけど、今年も秋口に解散総選挙になりそうな気配なのだ。

15日には、バルト三国のエストニアの女性首相が辞任した。
現在の連立を解消して、別の党と連立するためだという。
ここも、インフレ率で「ユーロ圏内最高」の年率22%になっている。
ちなみに、エストニアの「電子政府」は、日本の比ではない普及になっている。

アジアに目を向ければ、スリランカの状態は既に書いた。
4月のパキスタンでの政変は、軍が背後にいることが判明したから、もしやこれから物騒な展開になるやもしれぬ。

そんなわけで、世界のトレンドが「政変」になっている。

その「通奏低音」に、エネルギー資源確保と価格高騰の問題がある。
現代世界の「生活経済」が、エネルギー資源抜きに成立しないからだ。

こんな世界の状況のなかで、13日、東京地裁は「株主代表訴訟」での、原告側勝訴として、東京電力福島第一原子力発電所事故に関する、当時の経営者たち個人に13兆円の賠償金を会社に支払うよう命じた。

各国の政変と、一国の中の一企業とでは、比較のしようがないように見えるけれども、「相似形」なのである。

要は、政治家の責任が世界で問われ出している。
わが国では、経営者が経営責任を認定された、というレベルになった。
原発をつくったことの政治責任は、本来ならば政治家が負うべきものだ。

さて、エネルギー資源の不足と高騰の問題は、わが国ではこれからやってくるようになっている。
その「遅効」の仕組みは、政府による業界管理にある。
しかし、間もなくこれが限界点をむかえて、国民生活を襲うのだ。

すると、そもそもは、アメリカ民主党バイデン政権(国際資本擁護)による、愚策に原因がある。
これに「与した」各国で、政変が起きているのである。

本家本元は、11月の中間選挙で、「政変」が起きるから、共和党大勝利のアメリカで、どんな「修正」がされるのか?

これがまた、世界各国に「政変」を起こすにちがいない。

やばい「UNRWA」

United Nations Relief and Works Agency for Palestine Refugees in the Near East のことである。
「UN」=「国連」の機関で、日本語にすると「近東パレスチナ難民の為の国際連合救済事業機関」となる。

日本人のみんなが「嫌い」な、トランプ氏が大統領職にあったとき、「大統領令」でもって、アメリカ政府はこの機関への資金拠出を「停止」したけど、バイデン政権になって、すぐさま「復活」させた経緯がある。

もちろん、おおくの日本人が「トランプ嫌い」にさせられたのは、マスコミによるプロパガンダが功を成したからである。
なので、マスコミ報道を「怪しい」としている小数の日本人は、すぐに「欺瞞」に気がつくのだけれど。

つまり、トロツキー派に乗っ取られたアメリカ民主党の「邪悪:共産党化」を基本に置けば、共和党保守派(=キリスト教・プロテスタントの長老派=トランプ派)の「正義:アメリカ建国の理念」となる。

この価値観の根本的ちがいを理解できない日本人がおおいので、たとえば、「日本維新の会」が、「保守」だといってはばからない。
ちょっと前にさかのぼれば、たとえば、小池百合子氏が「保守」だという「宣伝」を信じてしまうのである。

こうした「倒錯」と「混同」は、「新党」における評価にもつながって、たとえば、「参政党」と「れいわ新選組」を、あろうことか「同列」に比較したりするひとが多数いることでもわかる。

端的にいえば、参政党は日本の伝統主義を重んじる「保守」であるけど、れいわ新選組は背景に中核派がいる共産党よりも過激な「極左」だ。
つまるところ、「極右」と「極左」の区別がつかないひとたちが、「選挙権」をもっている、ということなのだ。

これを、「教育問題」だと参政党が主張するのは、説得力をこえた「納得」なのである。
そこで彼らは、スエーデンの教育プログラムにある、「政治教育」を事例として説明している。

おおくのスエーデン人は、「高福祉=高負担」を選んだけれど、そこには国民の「政治参加」という前提がある、と。
なので、小学生から「政治」を学ぶが、それは特定政党に都合がよくなるような教育ではない。

特定政党や団体に都合がいい教育にならない・させないための「関心」が、国民にあるから可能なのである。
このことは、「政治的民度の高さ」といって、「国民主権」を旨とする、近代民主主義国家には絶対不可欠な「素養」である。

こうやってみると、わが国の教育は、およそ国民に民主主義を「教えない」という「真逆」をやっている。
その責任は、文部科学省ではなくて、与党にあるけど、その与党に投票している国民が、そのレベル、という「負のスパイラル」にある。

さてそれで、トランプ氏がやった「平和」への業績で、おおくの日本人が興味もない「歴史的画期」が、「中東和平の実現」だった。
それが、アラブ諸国とイスラエルとの「平和条約締結」となってあらわれたのである。

わが国の「石油」がどこから出ているのかさえも忘却して、脳天気に生きている。
今日も石油が供給されているのは、トランプ氏のおかげなのに。

そんな過去にない業績をあげたトランプ氏が、なぜに「UNRWA」への資金拠出をやめたのか?
これには、「近東パレスチナ難民の為の国際連合救済事業機関」の文字中にある、「パレスチナ難民」の定義が決め手となっている。

そのわかりやすい「例」が、イスラエル軍による「パレスチナ空爆」であった。

しかも、この構造が、ウクライナとロシアの紛争経緯に酷似している。
マスコミのプロパガンダで、あたかも「先に手を出した」イスラエル(ロシア)が「悪」だと決めつけているけれど、「その前」があったことをいわない。

つまり、前後の文脈を無視した「切り取り」をやって、読者や視聴者たる日本国民を「誘導」しているから、マスコミ企業の社会的責任が問われても文句はいえない。

じさっさいに、パレスチナで「ハマス」が、自分の支配する一般人の居住地域から大量の小型ロケット弾をイスラエルに向けて発射していた。
それで、発射地点を探知したイスラエル軍が「敵基地攻撃」をしたのだった。

ところが、その「敵基地」が、あろうことか「学校」や「病院」だったり、マンションの「ベランダ」だったりして、一般人の犠牲者をだしてしまった。
けれども、それこそが「人間の盾」を構築した、「ハマスの狙い」だったのである。

かんたんにいえば、「ハマス」とは、特定思想のテロリスト集団である。

まったくもって、「ハマス」を「ウクライナ」に読み替えたら、おなじパターンだと容易に気づく。

さほどに、「敵」は、ワンパターンなのである。

それでもって、UNRWAである。
もはや国連も、グローバル全体主義に乗っ取られたから、UNRWAも「例外ではない」とかんがえるの妥当だ。

そして、UNRWAは、「ハマス」を援助していたのである。

それで、トランプ氏が中止させて、バイデン政権が復活させたことも、ウクライナ・ロシアのパターンにあてはまる。

アメリカ民主党ばかりか、国連が「人類の敵」になっている。

みえない内戦をする参政党

ソ連の崩壊以来、世界各国の「分断政策」が進行して、あたかも共産主義・全体主義が最終的勝利を収めようとしているのが現代の情勢なのである。

あれれ?
「ソ連」は、冷戦に敗北して世界は「アメリカ一強」になったんじゃなかったっけ?

目に見えた光景はそうだし、マスコミもそうやって報じてきた。
だが、共産主義が滅亡したのではなく、「地図上のロシアの政体」としては、身体を棄ててあたかも魂が抜けたように「幽体離脱」したのである。

あたかも、「オカルト」のようではあるけど、そもそも共産主義・全体主義が「オカルト」だから、じぶんたちを棚に上げて、反対者を「カルト扱い」するのはこのためだ。

それで「自由になった」共産主義・全体主義の霊魂は、勝利したはずの「西側・自由主義陣営」を、内部から腐食させることができた。
この手法が、国民の貧困化であって、エンジンとなったのが「グローバル企業」からの政治家・政府への「資金提供」であった。

そして、その「大義名分」が、「(グローバル企業活動の)規制緩和」と「(グローバル企業を活動しやすくする)構造改革」だったのである。
逆にいえば、過去の「西側・自由主義陣営」には、自国企業を守るための規制やその経済体制の構造が備えられていた、ということだ。

これを「破壊した」のが、「新自由主義」だとマスコミは宣伝している。
そうやって、新自由主義を「憎む」ように国民を誘導したのは、小説『1984年』での、「2分間憎悪」のことである。

このブログでは、何度も紹介しているけれど、現代人にとって「必読の教養書」であることはまちがいない。
人生のなるべく早い段階で読破しておくべき「図書」である。

なお、知り合った東京大学で政治学専攻の学生は、この本の存在をしらなかったから、東大の教育方針が透けて見えたのであった。

しかして、「新自由主義」をもっとも「強く」主張した、ハイエクの『隷属への道』を読めば、巷間いわれている「新自由主義」の定義が、ハイエクとは「真逆」であることがハッキリとわかる。
なので、「新自由主義」という言葉を使うときには、注意がいるのである。

この本も、『1984年』と同時期に併読すべき、必読の、現代人の教養書であるから、なるべく人生の早い段階で読破することを奨めたい。

さて、少なくとも以上の2冊を「思考の土台」に据えれば、現代世界の政治情勢をきっちり図表にプロットできる。
これを「経済倶楽部」も解説している。

「X軸」の右矢印方向には、「自由主義」、反対の左矢印方向は、「不自由=全体主義」を置き、「Y軸」の上方矢印方向には、「グローバリズム」、反対の下方矢印方向は、「ナショナリズム」とする「図」を描けばいい。
すると、各「象限」は以下のようになる。

第Ⅰ象限(自由主義・グローバリズム)
第Ⅱ象限(全体主義・グローバリズム)
第Ⅲ象限(全体主義・ナショナリズム):
第Ⅳ象限(自由主義・ナショナリズム)

これに、各国での対象をプロットする。
第Ⅰ象限:自民党清和会(安倍派)、アメリカ共和党主流派
第Ⅱ象限:清和会以外の自民党と既存野党全部、アメリカ民主党、江沢民派
第Ⅲ象限:習近平政権(習近平派)
第Ⅳ象限:参政党

微妙なのは、アメリカ共和党保守派(トランプ派)と、フランス国民連合(ルペンの政党)、それにプーチンの立ち位置で、これらは第Ⅳ象限にあるけれど、「自由」がやや弱いから「原点に近い」場所になる。

これが、プーチンとトランプ、プーチンとルペンの「近さ」の理由だ。
この意味で、トランプと亡くなった安倍晋三氏には、とくに「Y軸」で象限を超えた「距離」がある。

すると、マスコミが定義する「極右」というのは、「X軸」上での「右はじ」を指すのではなくて、「Y軸」で下方の「ナショナリズム」にあることをいっているのだとわかる。

世界の主流マスコミは、全部が第Ⅱ象限にあるからだけど、これが、「斜め上から目線」の正体なのだ。
「左・右」という「横方向の概念」が、「上・下」の概念に勝手に言い方を変えていて、これを上述の『1984年』では、「ニュースピーク」と説明している。

そのマスコミが取り扱いに困窮しているのが、第Ⅲ象限にある習近平だ。
「共産主義」の本質は、人類平等化(均一化=奴隷化)にあるから、かならず「国際的」になる。
だからみんなで肩を組んで「インターナショナル」を歌っていた。

以来、「国際」が「正しい価値」となったのである。

過去に、共産主義を標榜しながら「ナショナリスト」だったのが、スターリンと毛沢東だった。
それで、プーチンはスターリンを尊敬すると発言した。

いま、毛沢東を信奉する習近平がでたことで、ジョージ・ソロスが激しく反発するのも、ソロス自身が「本物」の共産主義・全体主義者だからである。
日本人が習近平を警戒すべきは、ソロスの論法ではなくて、ナショナリストゆえの「台湾危機=日本の独立危機」のことである。

さてそれで、第Ⅳ象限の深い場所(X・Y軸両方で端になる)に世界で唯一位置するのが「参政党」なのである。

特に敵対する「第Ⅱ象限」は、超大金持ちの大富豪が支配する乞食化・奴隷化してしまった下層民が、おカネを貰えることで支持している構図がある。
一方の、浅くとも「第Ⅳ象限」に位置する政党の支持者は、どの国でも主に「中間層」なのである。

この「中間層」の絶滅を意図しているのが、世界シェアをとりつつある第Ⅱ象限の作戦になる。
その権化が、WHO=国連なのだ。

そんなわけで、参政党は、まちがいなく「弾圧」の対象になる。

いま第Ⅱ象限にある日本政府は、参政党の消滅を画策するはずなのだ。
そして、第Ⅰ象限の宿敵安倍氏亡き後に、「安倍氏の意志を継ぐ」というヤクザの欺瞞を口にしてはばからないのが、第Ⅱ象限の本質的暴力性だ。

しかして、参政党への弾圧とは、国民中間層への攻撃にひとしいので、いよいよ日本人の分断(貧困化)が「政府の政策によって実施される」時代になったといえるのである。

こんな自民党や既存野党の全部を支持する国民は、倒錯した自虐としかおもえない。

激しい攻防となるか、あっさりやられるか?

将来の日本人のための、「自由」と「独立」をかけた歴史上初めての戦い=「見えない内戦」がはじまったのである。

「返し技」だけが光るウクライナ

アメリカ・バイデン・民主党政権のお粗末は、そんなバカなことがあるかと思うほどの「お粗末」なので、高齢のバイデン氏にはちょっとだけ気の毒だけど、「歴史的おバカ大統領」として、永遠にその名が記憶されるだろう。

いまや、アメリカ国内でも「Bye-byeバイデン」が合い言葉になってきていて、11月の中間選挙は民主党の歴史的敗北が予想されている。
それは、ガソリン価格の高騰からはじまった、「バイデンフレーション」に、みごとな「無策」でいることで決定的になっている。

唯一の命綱だった、連邦下院の「1月6日委員会」でも、トランプ氏を犯罪者認定できないばかりか、「偽証」ばかりの茶番劇に、とうとう国民の関心すら失った。
それで、どんなきたない手をつかうのか?が、関心事なのである。

さてそれで、ロシアを戦争に引きずり込むことで、トランプ氏がアフガン戦争をやめさせたせいで武器が売れなくなったひとたちに、ヨーロッパ諸国も巻きこんで、大量発注させる作戦が成功したかにみえた。

まさに、「目的」がこれ「だけ」という、お粗末だから、それからどうなる?が成り行き任せという「お粗末」になったのである。
民主党のアメリカ=グローバル全体主義にいくらの鼻薬を効かされたかしれないけれど、ヨーロッパ側もその利権に目がくらんだ。

囲碁や将棋の達人を相手に、欲にくらんだ素人がちょっかいをかけたようなもので、プーチン氏は、はるか以前のトランプ氏「敗北」をもって、「覚悟」を決めたと思われる。

「戦前」のゼレンスキー氏とプーチン氏は、たびたび会談をやっている。
ここでどんな話し合いをしていたのかは知らないけれど、「俳優」のゼレンスキー氏の「本音」がどこにあるのかすら、あんがいと「秘密」になっている。

西側報道機関も、とっくに「報道」を放棄して、グローバル全体主義を応援するのが、「メインストリーム」になっている。
これが、「弱小ロシア軍」という、プロパガンダだ。

従来の軍事作戦的に定石といっていた、侵攻初期の首都包囲からの首都陥落をさせないで、あっさり包囲を解いてしまったのはなぜか?を報じず、「弱いから」、「ロシア軍の被害が甚大だから」ということにした。

この間、ロシア軍はウクライナ全土に点在する、「生物化学兵器研究所・工場」を、すべて制圧していたのである。
なお、これらの施設は、アメリカ国防総省が管理していたと、上院外交委員会公聴会で、ヌーランド国務次官が証言したのだった。

つまり、首都包囲とは、ウクライナ軍を引き寄せて、時間稼ぎをする作戦である。
ならば、これを初期段階でやったことの意味は、「侵攻」にあたっての、最重要優先順位にあったことを意味する。

「領土的野心はない」という当初からのプーチン氏発言は、その通りで、「侵攻」ともいわず「特別軍事作戦」といったことと辻褄はあっている。

それからのロシア軍は、もっぱら「アゾフ大隊」の拠点を攻めた。

なんども書くが、もとは「私兵」だったものを、ゼレンスキー政権で「国軍編入」をしたのだった。
この私兵のオーナーが、当地における「新興財閥:オルガルヒ」のひとりで、ゼレンスキー政権の後ろ盾の人物なのだ。

そして、この人物が「ネオナチ」としてしられることになるけれど、第二次大戦末期において、ナチス党本部がベルリンから西ウクライナに「疎開」して、敗戦した歴史から、「ネオ」ではない、正真正銘の「ナチ」なのだ。

東部ウクライナのロシア語圏での、彼らの「虐殺行為」は、かつてのホロコーストとおなじなために、プーチン氏の堪忍袋の緒が切れた、とはいうけれど、ゼレンスキー氏も東部ウクライナの出身なのである。

そんなわけで、プーチン氏は、「開戦後」も、一度もゼレンスキー氏を名指しして、こてんぱに非難したことがない不思議がある。
この二人は、つるんでアメリカとヨーロッパのグローバル全体主義者たちを手玉に取って「演技」している可能性がある。

もちろん、ゼレンスキー氏は、自らの後ろ盾すら、手玉に取っているとしたら、命がけの演技者だ。

そんなこんなで、「カネ」だけが目的のお粗末な民主党バイデン政権は、ロシアの資源掠奪戦にも歯が立たず、おどろくほどのダメージを逆に喰らってしまった。

柔道の達人たる、プーチン氏に、返し技を受けて、気絶したごとくである。

先に気がついたのは、ヨーロッパ側で、まっ先にドイツがこけた。
なんのための、「再生可能エネルギー転換」だったのか。
まったくもって、ドイツ人を幸せにしないばかりか、この冬には凍死者が続出する可能性に震えるばかりになってしまった。

「背に腹はかえられない」から、連立与党の「緑の党」だって、原発再稼働やら石炭火力やらに賛成しないといけなくなったのである。

つまるところ、ヨーロッパ発信の「SDGs」は、ヨーロッパから崩壊をはじめたのである。
さては日本も、京都議定書からの離脱のチャンスがやってきている。

しかし、どういうわけか岸田政権は、なにも反応しない。
日本が「脳死」状態になっている。

スリランカ政変の深刻さ

深刻なのはスリランカではなくて、わが国だ、という話である。

大統領辞任どころか「逃亡」にまでなったスリランカ政変の事態は、そのきっかけが、中国による「債務の罠」だったことは周知の事実だ。
重要港を、99年間も盗られてしまったことの「浅はかさ」は、政治家たちの「個人的欲望」がそうさせた。

これを、「売国奴」というのだ。

しかし、スリランカ人が「自浄能力」を発揮できずにいたのは、かつての大英帝国支配での「被支配者」としての「奴隷根性」が残存していたからでもあろうし、英国仕込みの「統治機構」が、盤石にみえたからでもあったろう。

この点で、「英国」を「アメリカ」に置換すれば、すっかりわが国にもあてはまる。

そんななか、ラジャパクサ兄弟による大統領職の独占は、まずは「兄」の時代に親中路線が確定し、弟が大統領になってから兄の首相就任で、確固たるものになった。

なんだか、プーチン氏とメドベージェフ氏の大統領と首相の関係に似ているけれど、真似っこしたのはスリランカの方である。
しかして、これをやらせたのは誰かと下衆のかんぐりをしたくなる。

当然だけど、日本経済がよかった時代は、日本人観光客がたくさんいて、スリランカ人の日本語学習熱も高まっていた。
この小さな島(人口は2000万人程度)の経済は、農業と鉱業(ダイヤモンド以外の宝石)それに、観光業だったからである。

しかし、それよりも「親日」なのには理由があって、白人国家群(いわゆる「列強」)からのアジア解放の「希望の星」が、大日本帝国だったからである。

混沌のインドを、その狡猾さ(=腹黒さ)で支配し、成功した大英帝国の東インド会社と、オランダの東インド会社はあまりにも有名だけど、「民度」でまさるスリランカ(セイロン)の統治には、英国人をして「間接統治」の実験台にしたのである。

なんだか、敗戦後の「日本モデル」の先行事例がスリランカにある。

これには、「大陸に近い島国」という「特性」も無視できない。
英国とヨーロッパ大陸の関係、台湾や日本と中国大陸との関係に似ていて、大陸に近い島国は、独立の維持に汲汲とするのが「常」なのである。

そうでもしないと、大陸国家に「飲み込まれる」危険があるからだ。

そして、往々にして、島国の民度は敵対する大陸国家よりも「高い」という特徴もある。
狭い島国ゆえの「智恵」が働くからである。

そんなわけで、スリランカ人は、日本への期待を敗戦によっても貫いて、「日本無罪論」を法的論拠に基づいて主張したものを、インド代表のパール判事が採用して、東京裁判での日本無罪論になったのである。

日本の保守層は、直接的な「感謝」をパール判事に向けるけど、スリランカ人はこれをおおいに不満に思っている事情は、インドとスリランカの関係が、大陸と島国との緊張関係にあるからである。

この日本無罪論は、スリランカの第二代大統領になったジャヤワルダナ氏の蔵相時代、サンフランシスコ講和会議においての演説にもあった。
「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によって止む(英語: Hatred ceases not by hatred, But by love.)」として、日本に対する戦時賠償請求を放棄する演説を行ったのだった。

そして彼の「遺言」によって、角膜を、「右目はスリランカ人に、左目は日本人に」が実行されて、群馬県の女性に移植されたのだった。
このエピソードは、スリランカ人でしらぬものがいないのは、小中学校で繰り返し学ぶからである。

しかしながら、日本の小中学生には「隠蔽」されているので、いまや日本人のおおくがこれをしらないで生きている。

さてそれで、弟ラジャパクサ大統領は、性急な農業政策を実施して、100%以上あったスリランカの食糧自給率を、実質的に激減させてしまった。

わたしは、この話には「裏」があったと疑っている。

じつは、習近平政権が、急激な「農業改革」を実施して、あんがいと「成功」しているという。
これが、「有機農法の普及」なのだ。

1億人の党幹部向けかどうかはしらないが、安全な食材の確保、という改革をやっているのである。
これを真似たかやらされたかはしらないが、スリランカも「有機農法」への強制的な転換が実施されて、肥料や農薬の輸入を禁止した。

それでもって、有機農法技術をしらない農民たちが、作物栽培に失敗して、とうとう主食の「米」も不足するに至ったのである。

これが、「食糧暴動」となって、大統領府を占拠するまでになってしまった。

ここでわが国の農業がでてくるのである。

欧米で使用禁止されている農薬やらが、わが国では「規制緩和」されて、とうとう、わが国の農産物は「ヨーロッパで輸入禁止措置」がとられるまでになってしまった。

日本の農産物を輸出して、香港やらで大人気だったのは、いまはむかし、のことである。
前述のように、国産の安全な農産物があるために、中国でも日本産はもう売れない。

ではいま、日本人はなにを食べているのか?
あるいは、なにを食べさせられているのか?
「食源病」という問題が、国民の健康を蝕んでいる可能性がある。

もしや、食糧不足に陥ったスリランカよりも、ずっと深刻な問題は、日本に「まとも」な食料がないことではないのか?
はたして、豊富に見える食品は、ほんとうに「食品」なのか?と追及したら、「飽食」の実態は、真夏の「怪談」よりも背筋が寒くなる話なのである。

さらなる恐怖は、とっぷりと浸かっている化学肥料と農薬を必需品とする農業なのに、世界シェアがあるロシア産原材料が「輸出禁止」になったため、来年分の肥料がない状態になっている。

原料がなければ工場も稼働せず、カネがあっても買えないことで、スリランカの失敗状態に追い込まれているのがわが国なのだ。
にもかかわらず、「圧勝」したという「与党の無策」は続き、来年にはわが国で食糧暴動が起きているかもしれなくなっている。

なお、本書によれば、アメリカ人は、食糧を「最低コストの武器」だと、伝統的に位置づけていることも、戦後の日本人はしらないで生きているのである。

参政党は勝ったのか負けたのか

「国民政党」を名乗る政党はあっても、定義的に「近代国民政党」といえるのは、わが国では唯一「参政党」しかない。

結党は2020年4月だから、わが国の「政治史」に登場して、まだわずかな日数しかないけれど、確実にわが国の「政治史」に刻まれることはまちがいない。
それは、当然に「初の国民政党」の歴史になるからである。

結党以前からウオッチをしてきた。
「政党DIY」と銘打ったユーチューブ番組が登録されたのが、2019年4月18日である。

日曜大工の「DIY」が用いられているのは、「投票したい政党がないなら、自分たちでゼロからつくる」という意味である。

設立メンバーは、この度の参議院選挙で当選した、神谷宗幣氏、看板にはニュース系ユーチューバーで当時のトップ・ランナーだったKAZUYA氏、そしてブレインとして、新進気鋭の政治学者、渡瀬裕哉氏の3人だった。

のちに、元衆議院議員で大蔵官僚だった松田学氏と、共産党を追われてユーチューバーとして深い報道で名を挙げていた篠原常一郎氏らが、「ボードメンバー」に加わって5人体制となり、結党に至ったのだった。

つまり、この「党」は、トップ全員が、ユーチューバーだという特徴があった。

しかし、結党した年のアメリカ大統領選挙が、この党をまさかの空中分解の危機に追い込んだ。
「不正選挙の有無」が、「陰謀論」と結びついて、反発した渡瀬氏とKAZUYA氏が離脱したのだった。

それと、選挙をしないで「勉強会」ばかりをやっている「政党」として、党費と勉強会費を徴収されてばかりいる党員たちが離脱したという。
神谷氏の「構想」には、将来の「政治家を育てる」ということが譲れない一線だったからであろう。

その「政治家」のイメージが、通常の日本人が政治家に抱くイメージとまるでちがう。
従来型の、「政治屋」を完全否定しているからこその「育成」に拘ったことが、おいそれと理解されなかったとおもわれる。

しかし、「政党」なのに、「選挙にでない」というのでは、たしかに本末転倒だ。
そこで、ターゲットを「2022年の参議院」通常選挙に絞り込む。

これには「当選確率」という読みと戦略があった。

議席ゼロ、実績ゼロの政党を、この国では「政治団体」とか「諸派」と呼んで、「政党=国政政党:公職選挙法での政党要件を満たす」がないと、いっちょまえには扱ってくれない「しきたり」があることを熟知しているからである。

そんな「諸派」が、いきなり選挙に打って出て、議席を獲得することは、事実上不可能なのが、わが国の「政治体制」になっている。
しかし、唯一、衆議院議員総選挙にはなくて、参議院通常選挙にはある「制度」が、「全国比例区」なのである。

このばあい、1議席100万票という法則がある。

それと、より当選ハードルが高くなる(激戦区)地方区での獲得票も、全国比例に「加算集計される」から、それなりの選挙区で立候補者を立てれば、100万票に近づけることができるという「算段」なのである。
つまり、「捨て駒」だ。

もっとも高いハードルは、選挙資金をどうやって集めるのか?にある。
街宣車、選挙ポスター、選挙事務所の家賃など、ぜんぶにカネがかかるのだ。
それではじめたのが、募金集めの街頭演説だった。

そして、はじめは20人だった聴衆が、その「骨太」で「真っ正面」からの主張に呼応して、とうとう選挙戦最終日の最終演説には、1万人を超える聴衆が集まった。

なお、党員数も当初の8000人が、終盤には10倍の8万人を超えていたけれど、その増え方は1日あたり千人から2千人に加速していた。
目標は、当面10万人で、理想は1000万人だという。
「国民政党」としては、当然の目標党員数で「異常」ではない。

終盤になって、マスコミが予想した「1~2名当選」の話に期待はふくらみ、5人全員に国会へいってもらうことへとエスカレートした。

結果的に、やや喪失感がある、神谷氏1人の当選となったのである。

そこで、大戦略を立てていた神谷氏による「反省」の演説が、11日、いつもの新橋駅SL広場にやってきた300人を前にしてあった。
「全国比例しかない」という作戦を、途中で練り直すべきだったかもしれない、と。

しかし、3億円も集まれば「御の字」で、地方に30人を立てられるとしていた「当初計画」が狂いだしたのは、45地方区全部に候補者が立てられる5億円が集まったことであった。
それで、じっさいに「全45区」に立候補者を出したのだった。

それが結果的に、どうなったかをかんがえれたら「きり」がない。

ただし、初の国政選挙で議席を獲得したのは、確かに「快挙」なのである。
しかも、「得票率2%以上の政党要件を満たす」3%以上となった。
この意味では、まちがいなく「勝利」である。

そして、「予定どおり」地方区は「全滅」した。

しかしだからといって、「無駄死に」ではない。
地方の有権者ほど、初の国民政党への一票が「思い通りにならなかった」ことの「痛み」をしったのである。
またそれが、これからはじまる「政権党の悪政」による「痛み」に変わる。

そうやって、痛みの連鎖が、みえないネットワークをつくるはずだ。

次のターゲットは、来年の統一地方選挙だと早くも明言し、数百人の候補者を出すと予告している。
今度は、「選挙慣れ」した地方の党員が、自ら手を挙げて候補になるだろう。

国会ではたった一人の戦いを見せつつ、組織は拡大して止まらないにちがいない。
この「足腰」の強靱さが、他の少数党との決定的なちがいなのであって、それこそが唯一の「近代国民政党」たる理由なのである。

出稼ぎ国家になる

自国の経済で国民が生活できる。
こんなことを、日本人が意識せずに来られたのは、じつは「幸運」と「正しい勤勉・努力」があったからである。

なにも「古来」というまでもなく、戦後の高度成長経済だって、「幸運」と「正しい勤勉・努力」のたまものなのである。

日本人の「勤勉・努力」はいうけれど、その「素地」になった「幸運」を語ることはあまりない。
自分のことを自分で決めることができた国家を、先の戦争前までは、「一等国」とか「列強」といっていたことを思い出せばわかる。

当時は、「独立国」と「野蛮国」、それに「植民地」の3種類しか地球に存在しなかった。
そのうちの「独立国」とは、「白人国家」のことである。
つまり、「人種差別」がふつうで、ぜんぜん道徳的にも問題にならなかった時代背景があった。

南アフリカの「アパルトヘイト:人種隔離策」とか、オーストラリアの「白豪主義」とか、ついこないだまでの人種差別が「制度」としてはなくなったけれども、それは、「制度」や「国家体制」のことであって、これら制度の「撤廃」とは、むしろ、ひとびとの心のなかに「潜伏」したのだった。

この「ぼんやり感」が、ときにむき出しになることがある。

明治時代の日本人による「奮闘努力」で、幕府が締結した「不平等条約」がなくなったと習う。
それまでは、「関税自主権」と「領事裁判権」がなかった、と。

しかしながら、ちょっと冷静に「他国のこと」だとしたならば、「関税自主権」と「領事裁判権」がないならば、それは、「植民地」だと定義付けるのがふつうではないのか?

すると、わが国が位置づけられた「野蛮国」とは、白人国たち全部の「入会地」だったといえる。
すなわち、明治の栄光の歴史とは、勝手に刈り取られることへの、民族を挙げた「抵抗」だったのである。

ならば、なぜに白人国たちは「おいしい」はずの、入会地を返還してでも、日本を「独立国」として認めたのか?は、「もっとおいしい」ことに気づいたからではないのか?あるいは、「邪悪の仲間」に引きずり込んだ、と疑うのである。

それが、第一次世界大戦における、わが国とドイツとの戦いで、わが国はドイツがもっていた青島とかの領土を奪うことに成功したのだった。
しかも、青島攻略戦が、わが国の戦史上初となる、憧れの「物量戦」だった。

その「物量=武器」は、どこの製品だったのか?ということになって、一方的に「絹:シルク」を欲するばかりの欧米白人たちは、支払のかわりに武器を購入させて「ちゃらにする」ことを思いついたのではないのか?とおもうのである。

中国(清国)からの「茶」の代金を、「阿片」で払った前科がある。

いま、学校でどういうふうに教えているのかしらないが、わたしのときは、「濡れ手に粟」のような「楽勝」で、青島を攻略して「戦勝国になった」と教わった。

それでもって、ベルサイユ(パリ)講和会議に臨んだわが国代表は、「会議は踊る」どころか「沈黙」していたとも習ったのである。

しかし、ぜんぜん沈黙なんてしていなかった。
有色人種としてはじめて「列強」となったわが国代表は、あろうことか、「人種差別撤廃」を条約文にいれるように要求したのだった。

敗戦国ドイツから多額の賠償金を得ることばかりが結論として語られるけれども、白人社会の戦争原因の底にある最大の「弱点」を突いたのだった。
わが国の命運は、結果的にこの提案が「致命的」となって、第二次大戦に追い込まれる「恨み」を買ったのである。

これが、わが国からしたら「鬼畜米英」となる根拠なのである。

当然ながら、「敗戦」によって、わが国は勝手に「主張」してはいけないことになったので、トルーマンはわが国を「属領」と呼んだのだった。
どういうわけか日本を「51番目の州」だという日本人がいるけれど、そんな大層なことをアメリカ民主党はかんがえるはずもない。

そんなわけで、バブルの生成と崩壊は、「豚は肥らせてから食べる」のそのままに、「してやられ」て、さらに30年間の衰退が止まらない。
この間の、さまざまな「改革」で、歯止めなき衰退が促進されてきた。

やったのは、政権与党であって、その政権与党を選んでいるのが日本人の多数ということになっている。
しかし、投票率が低いために、有権者全体の17%程度の得票で、自民党は過半数を確保している。

いまの小学生や乳幼児が成人したら、いったいどこに就職して稼ぐのか?

驚くほどの衰退で、基幹産業が「特にない国」になろうとしているから、外国に出稼ぎにいくことが国に推奨されることになるだろう。
それが、小学校からの英語教育の「ねらい」だとすれば、まことに不本意な国になろうと「努力」していることになる。

もはや『待ちぼうけ』のような「幸運」に期待できないから、「正しい勤勉・努力」をしないといけないのに、なんだか「正しくない勤勉・努力」を要求されている。

これに気づかない国民は、かなり「やばい」としかいいようがない。

昨日は投票日。
果たして日本国民はなにを選択して、なにを選択しないのか?
かつてなく「命運」がかかっている、向こう100年を決める「運命の大選択」なのだけれども。

「国民選択の正しさ」の意味

向こう3年間で当面ないと思われる「国政選挙」で、参議院選挙があった。

投票率は52%だったことが、あまりにも話題にならないのが不思議で、これぞ「偏向報道」というべきだろう。
どこぞの党のだれが当選したかとか、落選したかは、投票率の問題よりもはるかに「小さい」のである。

なぜならば、「国民参加率」といえるのが、「投票率」だからだ。

「業界」には、変な数字の見方があって、たとえば、テレビ放送の視聴率も、30%とか40%といえば「オバケ番組」といわれたものだが、70%とか60%は観ていないことをいわない。

なので、投票率が52%というなら、48%の有権者が「棄権した」ということだ。
すると、圧倒的な勝利をした自民党の得票率は、マスコミ報道の率に0.48を掛けないといけない。
じっさいは、コップの中の小数派による「多数」なのである。

このことこそ、「民意」をねじ曲げる、わが国存続の「大問題」だ。

だから、自民党は選挙戦でも、「投票への呼びかけ」がおざなりになるのは当然で、本気で投票率を上げる努力を「政治的にしない」意味もここにある。
「低投票率」こそが、政権維持の「要」なのだ。

そこででてくるのが、「義務投票制」による「棄権の罰則化」という手法である。

オーストラリアやベネルクス3国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)などで採用されていて、罰則が厳格な国とそうでない国がある。
オーストラリアやベネルクス3国は、「厳格」に適用されている。

罰金だけでなく、被選挙権の資格停止などさまざまだ。
厳格に罰金の支払命令がやって来て、これを拒否できない制度だから「厳格」なのである。
もちろんこれができるのは、「選挙人名簿」があって、投票に来たかどうかを確認する手だてがあるからだ。
つまり、わが国の投票制度は、とっくに「下地がある」といえる。

しかし、上述の理由も含めて、自民党はこのような制度化に無反応だし、概ね野党も無視している。
その「本音」がしれる、というものだ。
ならば筆者の意見をいえば、やっぱり「罰則」はいかがかとおもう。
それでもって、ヤケになって投票されても困るのだ。

なにせ、有権者の48%もいるからだ。
この半分が、突然、弱小野党に投票したら、そこがいきなり政権与党になってしまう可能性があるほどのボリュームだからである。

もう一方で、「国政選挙」における投票率が、義務化されていなくとも高い国もある。
だいたい8割、減って7割という水準を維持している。
なお、わが国の投票率の「世界ランキング」は、昨年の衆議院選挙の53.68%で比較したら、139位(対象は194ヵ国・地域)という結果になっている。

義務化されていない国の代表格は、スエーデンで、この国の「高福祉を真似ろ」という学者はいても、そういう学者は「高投票率を真似ろ」とはいわないものだ。
つまり、「こうした学者こそが政治家」になって、政治発言を、「学者の肩書き」を使ってテレビでしている。
もちろん、「いわせている」のは、テレビのひとである。

スエーデンでは、公立学校でも小中生のうちに、「政治への関与の必要性と重要性」を「教えて」いる。
理由は、「国民教育」だからである。
なので、校内で模擬選挙をやったり、じっさいの候補者が学校に来て生徒たちに「演説」してアピールすることがふつうになっている。

これは、わが国の「常識の真逆」といえる。

わが国の公立中学校で、各候補者が演説会をする、なんて想像もできないし、PTAの絶叫的反対運動が起きるだろう。
「政治から分離された空間」こそが、教育現場だという思いがあるからだ、と。
しかし、教職員組合の「活動」だって、校内で行われていて、これに文句をいう親はいないし、そんな教師にわが子を預けることに反対も拒否もできないのである。

こんなことの「延長」に、わが国の政治空間ができている。

つまり、子供だけでなく親さえも、学校に口を挟むことが許されず、黙ることが「訓練」されるのである。
ゆえに、子供が18歳で選挙権を得ても、親に相談することもないのは、親がわからない、という状態に長年おかれていたことすらも、ほんとうは「社会訓練」の成果なので、親子で棄権してはばからない環境がつくられている。
しかも、本人たちは、それが「させられた」という意識もなく、自分で棄権していると信じているほどに「重症」なのである。

そんなわけで、たとえば、「新党」における「ちがい」すら理解できないのは、もっと重要な学習訓練のうち、「読解力」を修得させられないことの、これまた教育成果なのである。
読み書きはできても、意味がわからない。
なにしろ、用意されたテストの結果さえ良ければいいのである。

そうやって、読解力がないひとたちが、政治家になったり、経営者になったり、マスコミ報道を担っている。

さんな、国民が選択した結果に、全員が従わないといけない制度は、長くはない。
むかしなら革命論になるのだろうけど、はてさてどうなるのか?

すくなくとも、安定の「衰退」が確実になったのである。