「EPN」と「アジア安保枠構想」

ついに菅新政権初の外交相手として、アメリカのポンペオ国務長官が来日した。
「ついに」というのは、7月にアメリカの対中戦略を変更したと公言して、世界を驚かせて、双方の当事国があの手この手で味方につける競争を開始したから、「コウモリ君」では「ついに」すまされない事態がやってきた、という意味である。

しかしながら、「コウモリ君」ではなくて、確信的に親中の幹事長が与党にいるから、政府と与党が「股裂き」になることが予想される。
それで、アメリカは政府の息のかかっているシンクタンクの「研究レポート」として、安倍前政権での首相秘書官だったひとと一緒に、「名指し」するという先手を打っている。

この「一手」に対して、わが国は、名指しされた秘書官を内閣官房参与に横滑りさせ、さらには共同通信で「執拗な安倍政権批判」を繰り広げた、論説副委員長を「首相補佐官」とする、ウルトラC級の人事技を二連発で立て続けに披露した。

また、一方で、昨日書いたように、韓国に「安全保障上の問題」として、「輸出管理規制強化」の説明をしないのと同じ説明で、日本学術会議の人事を拒否しているから、「人事技」でいえば、こちらは、「従順」のウルトラC級をだしている。

はたして、「コウモリ君」をやり遂げて、このあとに続くあちら様の外務大臣を迎えるのか?
じつは、かなりの「正念場」なのである。

「戦略の変更」を公言している相手に、戦後このかたの「従来通り」で対処しようという魂胆がなんだか透けて見えるけど、こうした「変化」に対応できないのが「官僚制」の特徴なので、政治家と官僚の内輪のバトルがどうなっているのか?も、アメリカにはじっくり読まれるのだろう。

来日早々、さっそく、ポンペオ氏は、大技の一手を打ってきた。
アジア安保枠の構想を披露したのである。
ヨーロッパには、かつてのソ連圏に対抗した「NATO」が、いまでは「ロシア」をにらんで健在である。

日米印豪の4カ国外相があつまって、「クアッド」だという程度のはなしではない。
どこまで事前に知らされていたものか?
3国の外相に驚いた様子がないのは、ポーカーフェイスなのか?

しかし、今年の6月に、アメリカはもっと先手を打っている。
それが、「EPN(経済繁栄ネットワーク)構想」である。
これはわが国では、「化学業界」の話題になってはいたが、初耳の方も多かろう。

この構想の狙いはズバリ、「グローバルな供給網の脱中国」なのである。
そこで、対象となる供給網とはなにか?をかんがえると、さいしょに思いつくのは、産業の米である「半導体」である。
ここにきてアメリカが、アメリカの技術をつかった生産方式でつくられた半導体の供給規制を開始したのは、この「構想」を「実施」しているからである。

さらに、トランプ氏は、「G7」とか「G20」ではなく、「G10」あるいは「G11」という国際協調の枠組み構想まで発言している。
もちろん、この「10カ国」あるいは「11カ国」のなかに中国はカウントされていない。

けれども、意外な国がカウントされている。
それが、「韓国」なのである。
彼の国民が、この構想に大喜びしていると伝えられているのは、「先進国」の中に入ったということである。

しかし、肝心の政府・あるいは政権は、先月の国連総会での「核放棄なき戦争終結」を突然発言したように、果たしてアメリカからの離脱を図っている。
つまり、「コウモリ君」ではなくて、あちら側に行くことを宣言したようなものだ。

トランプ氏が来月、再選を決めたなら、いきなり「米韓関係」が注目される。
その意味で、今回、国務長官の韓国訪問がキャンセルされた意味は、「深い」のだけれど、これは、わが国の地図上の立ち位置からも「大問題」である。

何のために、日清日露の両戦争で日本人が血を流したのか?が、振り出しに戻ってしまう大事態である。
つまり、わが国周辺の「流動化」が著しいのである。

アメリカが韓国を誘ったのは、サムソンの半導体を確保したいからであろう。
残念だけど、わが国がこの分野で直接誘われることはない。ただし、サムソンの技術はわが国の技術である。

そんなわけで、ものすごくダイナミックな戦略構想が立てられていて、これを着実に実行しているのがアメリカなのだ。
これを侮ってはいけない。

だから、わが国でいう「ウルトラC級」が、そのダイナミックさからすると、爪の垢ほどに見える。

アメリカ人の用意周到は、かの戦争でもそうであったように、相手を「雪隠詰め」まで追いつめることにある。

すると、次のダイナミックは「台湾承認」だ。
なんと、国民党がアメリカと国交回復せよと台湾議会に提案し、これが通過した。
ポンペオ氏は、もしや、今回の帰りがけに、台湾訪問というサプライズをやるかもしれない。

ちまいところでは、与党幹事長を検察が逮捕するという事態だってありうる。
アメリカに逆らった、二階氏の師匠、田中角栄氏がどうなったかを忘れたわけではあるまい。

おビックリは続く。

もしや「輸出管理規制強化」だった?

政府とは行政府のことをいうから、もともと事務的なのが当然だけれど、それでも「今回」の政府の対応がなんだかすごく「事務的」なのである。

今もつづく韓国へのフッ化水素などの輸出管理規制強化をはじめたときと、まったくおなじ用語が使われている。
当初、あちら側は、勝手に「経済制裁」だといいだしたけれど、わが国政府の説明は、韓国政府による重要物資の輸出入管理事務ができていない、ということを理由に、日本側からの管理強化をするにすぎないとした。

軍事転用できる物資の、輸入量と使用量が合わず、韓国国内での貯蔵をしていないなら、必然的に第三国への輸出(密輸になる)が行われていることが疑われる。
この疑問についての政府間での問い合わせに、返答をしない、という態度をとられれば、せめて書類審査を強化するのは当然だろう。

なぜなら、下手をすると製造元のわが国が攻撃されることだってありうるから、自動的に安全保障上の問題になるのだ。
これを放置して、本当に被害を被ったら、わが国はずいぶん「間抜け」なことになってしまうのだ。

冒頭の「今回」とは、日本学術会議の人事についてである。
総理が「法律に基づいて厳粛に対応している」としか説明しないのは、どこかで聞いたことがある言い回しではないか。

いま、世界情勢は「米中の闘い」の最中なのである。
アメリカ合衆国の議会は、与野党とも「反共」を露わにしている。
何度も書いたように、アメリカ合衆国という国は、わが国と違って三権分立しているから、政府よりも議会が主導権を握っている。

わが国の、政府が主導して国会が従属するという姿は、ぜんぜん民主主義の本分とは違うのだ。
だから、わが国の勘違いは、あたかも「トランプ政権が」といいたくなるのだ。

そうではなくて、議会からトランプ政権が「やれ」と命令されているのである。

そのトランプ氏が感染した。
「もしも」をかんがえれば、副大統領が政権を引き継ぐけれど、投票まであと一ヶ月を考慮すると、その「もしも」のタイミング次第で共和党大統領候補がペンス氏となれば、副大統領候補を立てなければならない事態となる。

ちなみに、アメリカの副大統領は、「閑職」というイメージがあるけれどそんなことはなく、上院議長を兼務する。
もし、副大統領「にも」もしもがあれば、下院議長が大統領職を引き継ぐのである。すると、トランプ氏を弾劾した「民主党のペロシ氏」となる。

国務長官を筆頭とする、「閣僚」に大統領職のお鉢が回って、序列が決まっているのではない。
もしものときに、閣僚から総理を決めるわが国とは根本的に制度が違う。
大統領の両脇に、上下両院の「議長」が控えとしての順位を確保しているのは、「選挙」の重みと「議会の優先」が思想にあるからである。

数々の対中締め上げ法案が通過している議会にあって、当然だが「同盟国」にも「要請せよ」と政権に命令するのは必然である。
これを、「外交」として実行しているのが、国務長官なのである。
そのポンペオ氏が、本日6日、来日する。

どのような「調整」が、事前に日米の政府間でおこなわれているのかしらないけれど、「日本学術会議の人事」が、ちょうどよい「見せしめ」になったのは果たして偶然なのか?

「学問の自由」を盾にして、政府に原案通りの任命を要求しているし、任命拒否の理由を説明せよ、と迫るのは、本稿冒頭の韓国の例によく似ているのである。

しかして、この「学術会議」は、数度も「軍事研究を禁止する」と決議していて、およそ「学問の自由」を自ら放棄している組織である。
それが、「特別職の国家公務員」なのだ。
さりげなく、官房長官がこの組織の「予算内訳」を発表した意味はなにかをかんがえればよい。

現在の科学技術は、もはや「軍事と民生」を区別できない。
わが国を代表する叡智の集団が、これをしらないはずはない。
すなわち、もはや「特定政治団体」なのである。
しかも、人民解放軍の下部組織である、あちらの科学団体との「提携」を文書で結んでいて、留学生受け入れを積極化しているのだ。

もちろん、こうしてやってくる留学生の「身元確認」など、するはずがない。
軍や党に籍を置くかどうかにかかわらず、「学問の自由」を優先させる。
すなわち、日本国を挙げて軍事転用できる「知識」を輸出しているのだ。
つまり、これは、「知識の敵国への輸出管理規制強化」の意思表明なのである。

特定国の留学生にビザを出さない、という方法ではなく、教師側に制裁を課す、うまい方法だ。

一部の学者たちは、すでにSNSをつうじて、「単なる左翼の政治団体」であると批判している。
また、元職の「議長」がその肩書きをつかって、共産党の街宣車で選挙応援をやっている画像までネット上には公開されている。

つまるところ、どうにもならない集団なのである。
しかし、こんな下世話なひとたちが、文部科学省の国家プロジェクト計画を、事実上決める権限をもっている。

学術会議も文部科学省も、廃止の方向で決定されるのが望ましい。

研究予算を思うままにする横暴をやめさせれば、少なくても、民間の研究が盛んになるという効果を期待できる。
国民福祉に貢献するという「学術会議」の目的は、消滅してこそ達成できるのだ。

まさに、オルテガ・イ・ガセットが指摘した「大衆」がここにいる。
彼がいう「大衆」とは、一般人のことではなく、堕落した「専門家たち」を指すのである。

「規制」が当たり前の国

民間企業ではたらいていれば、なんだか「変な規制」に当たることがある。
まるで、「犬も歩けば棒に当たる」のような感じだが、あんがい笑っていられない。
よく調べれば、自社のビジネスに多大なる影響が発生することに気づくからである。

当然だけど、ビジネスにおける「規制」で発生する「多大なる影響」とは、たちまちコスト増になる。
だから、いままで出ていた「利益」が減ってしまうので、別の分野での方策をかんがえて対策にすることと、この規制によって発生した影響の対策と、かならず二方面作戦を強いられることになる。

しかし、世間は「規制」の議論しかしないので、企業内でのもう一方の努力については誰も気づかない。
株主だって、直接的な規制の影響だけに興味があるから、なんだかなぁ、なのである。

それで、株主を安心させようと、株主から経営を委託された経営者は、「ご心配をおかけして申し訳ありません」と頭をさげる。そのじつは「自分には関係ないし、だってしょうがないじゃん」なのである。
けれども、利益確保のためのもう一つの対策については、あんまり説明しない。

次期決算で、その効果がでなかったら、「経営責任」を問われるからである。
むしろ、次期決算でそのもう一方の対策が効果をだせば、お手柄として名経営者になれるかもしれないから、事前にいわない方がよい。

そんなわけで、こうした企業情報を報道する記者も、聞いていないことは質問しないから、報道しない。
こうして見事に、対策立案の当事者以外は誰も識らないことになるのである。

これが、社内官僚の仕事であるし、悲哀でもある。

しかし、いったんできた規制は、ほとんど緩むことがないから、規制が「ある状態」がふつうの状態になって、とうとう、規制そのものが「なかったかのように」なる。
いわば、「生存条件」になるからである。

むかしは、経済界も規制に「敏感」で、官僚出身だったのに「歴史的名経営者」になった石坂泰三氏や、苦労人の土光敏夫氏は、それぞれ経団連会長として、政府に異見をはっきり示していた。

その「異見」とは、「規制反対」だったのである。

わが国における、「自由経済」の守護神でもあった。
また、経団連とは一線を画し、その「理論武装」でならしたのが「日経連」で、こちらは労働組合との交渉における「窓口」となっていた。

日経連が経団連と合併したら、ライバルの労働組合も弱体化したようにみえるのは偶然ではあるまい。
よきライバルを失うと、それは自らの指針を失うことにもなるからである。
だから、本当はよきライバル同士は、親友関係でもあるのだ。

1980年、土光後の経団連は、稲山嘉寛に引き継ぐけれど、「我慢の哲学」で知られるこのひとは、「暖かすぎた」。
それは、「協調」なのではあるけれど、「妥協」とも見えてしまった。
躊躇なく敵に塩を送れたのは、わが国経済に自信があったからだろう。

さて、1977年に中日新聞社に入社した長谷川幸洋氏が、自身のユーチューブ・ニュース番組で、赤裸々にその経歴を語っているのをみつけた。
彼は、東京新聞論説副主幹の肩書きもつかって、東京MXテレビ『ニュース女子』の司会者をつとめていた。

この番組で、なんども自らを「元左翼」といっていたけれど、沖縄の基地問題の実態を放送したことが「事件」となって、新聞社の「論説副主幹」から降格されるという「事件」にもなった。
新聞社の論説方針とちがうことを、その肩書きをつかって「外部」で発言したことへの「懲罰」らしい。

こういう「懲罰」が、「報道の自由」を主張する新聞社内でまかり通ることに、強い違和感をおぼえるものの、個人的にこの新聞を買ったことがないので、この件は横におく。

彼の発言で、「そうか!」と気づかされたのは、「記者」とても、大学卒業後にそのまま「入社」して社会人になるので、じつは「社会をしらない」のである。
それに、社風が「社会主義容認」なら、左翼にシンパシーのある学生を選ぶだろう。

すると、長谷川幸洋氏が、人生のどこいらへんで「元」をつけるに至ったかはしらないけれど、社会主義的現状の肯定と、資本主義的現状の否定を追求するように上司・会社から要求され続けたことは、容易に想像できる。
きっといまもそうであるにちがいない。

氏は、カミングアウトしたので、現役記者当時、政府の規制に反対するという意識すらなかった、と告白している。
むしろ、正義の政府がする「規制」は、正しい、という認識だった、と。

そちら方面から見て、「正義の政府」とは、左巻きの政府という見え方であったともいっているのだ。
いまさらに、正しい認識である。
自民党は社会主義政党だし、官僚も東大というその筋の大学出身者で固められているからである。

しかしながら、あるときから、政府の規制の多くが、その裏に役人の「天下りがセット」になっていることに気がついた。
つまり、「国民のため」という規制「ではない」規制がはびこっている。

氏は、新聞社を定年退職されている。
やっと、定年後に自説をいえるようになったともいえるけど、わたしたちは、なるほど世間知らずの記者が書いた記事を買わされつづけているのだ。

規制が当たり前の国なのは、官僚と政治家だけでなく、マスコミの記者も、惰性で記事を書いているからであった。

でもやっぱり、経済界が情けない。

国威発揚の古さと胡散臭さ

「米ソ冷戦」時代は、いわゆる西側と東側の間に、ほとんど交流がなかった。
ひとの行き来だけでなく、ものの行き来も、情報の行き来もなかった。
「鉄のカーテン」によって分離されていたからである。

自由体制ゆえに、なかなかまとまらないようにみえる「西側の結束」に対して、「一枚岩」を強調していたのは「東側」で、それが西側への心理的な圧迫にもなっていたし、そうした圧迫をすることが目的でもあった。
情報がないから、西側は東側の強固な結束をおそれたのである。

一般人がこれらの国を観光旅行するには、ビザの取得だけでなく、およそ「自由行動」が許可されないので、先方政府指定の「団体ツアー」にならざるを得なかった。
すなわち、先方の一般市民との「隔離」をもって原則としていたのである。

ところが、30年前の「崩壊」によって、ぜんぜん「一枚岩」どころか、バラバラの国家群を、親方であるソ連が「ジャイアン」のように睨みをきかせて、むりやりまとめていたという「演出」あっての「一枚岩」だとわかった。

それでも、ソ連を仕切っていたひとたちは、知恵を働かせて、「国際分業」までも「計画経済」に取りこんだ。
ミサイルを製造する国、軍事でも産業用でもトラックを製造する国、自家用車を製造する国を指定して、これらの国との「水平貿易」をしていた。

ただし、決済にはルーブル紙幣ではなく、ソ連製の武器で支払ったから、事実上の「物々交換」である。

たとえば、農業国なのに、いきなりむりやり工業化への投資政策をして、これに大失敗したチャウシェスクのルーマニアは、借金返済に農産物で引き渡すことになったから、農民は自分がつくった作物をいっさい口にすることができなくなって、巨大な「一揆」に発展し、政権崩壊となった。

この意味で、新冷戦は「冷戦2.0」とかいうけれど、前のときとぜんぜんちがう。
西側のあらゆる生活に溶け込んだから、おいそれと「排除」できない。

こうした「やり方」は、うまいやり方である。
相手の懐に飛びこんで、ゆっくりと増殖し、寄生する。
取りこまれた方は、なにも気づかないままに、徐々に脳まで冒される。
脳を冒されれば、自覚症状もないから、最後は完璧な支配に成功する。

「トロイの木馬」の物語は、現代でも有効なのだと教えてくれる。
そう考えると、国民党を「乗っ取った」岩里政男(李登輝)氏は、北京の戦略を自ら実施していち早く成功した。
ただし、目的がぜんぜんちがうから、あちらは強烈に「敵視」している。

こんな方法を、どうやって習得するのか?
すなわち、究極的な「詐欺」や「偽装」だからである。
おそらく、近衛文麿内閣が手本になるし、戦後では田中角栄内閣が挙げられる。

30年前に生き残った、ソ連と仲間割れをした国は、わが国の「やり方」をしっかり学んだはずである。これを、わが国の学術のひとたちが「教授」したにちがいない。
基点にする思想が、どちらも「計画経済」なのであるから、ここに「二重らせん構造」もうまれた。

わが国の「計画経済」の成功例は、なんといっても「満州国の経営」である。
これを仕切ったのは、満州国次官の岸信介ら(昭和研究会)で、その綿密さは、ロシア人の荒っぽい仕事からではけっしてできない。

ここに、激烈な受験戦争と、それがつくりだす学術のヒエラルキー、さらには「官尊民卑」と結合した、「優秀な官僚」という「神話づくり」がどうしても必要になる。
東京大学の卒業生が、東大以外には目もくれないのは、そうした社会訓練の結果なのである。

そんなわけで、計画経済の本質は、国民生活のあらゆる部門で「計画」をはじめることにある。
すなわち、「漏れ」のある部門から、「計算不能(計画不能)」になるのだと信じているからである。

こんなときだけ、宗教家になったごとく「神は詳細に宿る」といいだすご都合がある。
そして、大真面目に、あらゆる生活に国家の計画が入りこむのである。

「計画経済」の基礎となる計算と計画が「成り立たない」ことは、とっくにミーゼスの研究がこれを証明している。
わが国の学術のひとたちは、ミーゼスのこの研究を「無かったことにする」し、さらには「満州での成功」も無かったことにする。

満州にまつわる話を「帝国主義」として、一刀両断し、議論させないのは、一定の成果をだすことができたという、「秘密」を厳守して、いまの世の中に密かに浸透させたいからであろう。

そのわかりやすい例が、「スポーツ庁」という役所である。
初代長官の鈴木大地氏から、このたびレジェンド室伏広治氏に代わった。
なんのための「役所」かをかんがえれば、スポーツを楽しむ国民を縛るためしかないことに注目したい。

室伏氏は、「頑張る」といったけど、どうか「頑張らないで」ほしいし、できれば「不要論」で頑張ってほしい。

「国威発揚」は、じつはオリンピック精神にも反している。
オリンピックは、国別対抗の形式をやめるべきだ。
「参加することに意義ある」とは、選手個人のことなのである。

「国立アカデミー」という発想

日本学術会議は、わが国の「国立アカデミー」である。
「会議」だから、「議員」がいる。
これら議員は、特別職の公務員とされ、任期は6年で3年ごとに入れ替えとなるけれど、210人の会員は再任できず、2000人の連携会員は2回まで再任できるから、回数が決まっている制約付きの参議院のようなもの、だ。

まぁ、なんであれ「公務員」なのである。

学者たちの「会議」だから、さぞや「論文審査」を経てのことだとおもったら、あんがいちがう。
いまは、内輪の学者たちが「お仲間」を推薦しているし、「成果の評価」も、内部事務局が行っている。

「いまは」なので、「前は」論文があるすべての学者が、会員選挙の「投票権」を有していた。
この変化は、「学者」といえども「欲望」にまみれた人間だということで、それが「権威主義」となったことを伺わせるから、なんだかちょっと「チャーミング」なのである。

「権威づけして偉くなりたい」

要は、学会で威張りたい、という幼児的な感性のリニアな表現を、研究者という立場を超えて実現できる、政府がつくった「飴」なのである。
この「飴」に、血相変えて群がる姿が、あまりにも人間的だから、「チャーミング」といったのだ。

けれども、こうした欲望まみれのひとたちだから、権威のためならなんでもやる、という傾向がむき出しになるのも必然だ。
それが、学術研究予算への関与である。
こうして、学者の世界にピラミッド型のヒエラルキーがうまれる。

年寄りによる、若手へのイジメ、すなわち「ハラスメント」製造装置と化すのである。

発足は1920年の「学術研究会議」をはじまりとし、戦後の1949年に「日本学術会議」となった。
学術研究会議は、第一次大戦による連合国側がつくった国際組織として「万国学術研究会議」への参加を目的に、加盟各国の国内に設立要請されたことにある。わが国は、当時、連合国側の「戦勝国」だった。

つまり、「敵」として抜けたドイツとオーストリア外しの一環が、「万国学術研究会議」という「国際機関」だから、ぜんぜん「万国」ではない。
看板を変えたのも、昭和にすれば24年のことだから、GHQによる占領中のことである。

すると、なんとなくモデルは、「ソ連科学アカデミー」ではないかと想像するのである。
その「ソ連科学アカデミー」は、ときの独裁者スターリンにおもねった、遺伝学者のルイセンコが仕切る暗黒があったと前に書いた。

彼の政治力は凄まじく、スターリン批判をしたフルシチョフ政権によっても安定した権威を保てたが、その後のブレジネフ時代に追放される。
何人の科学者が、ルイセンコによってシベリア送りになったかは不明だけれど、少なくとも「遺伝学」では、ロシアは50年遅れていると、いまでもいわれる元凶である。

彼が、権力者に好まれたのは、その「遺伝理論」にある。
社会主義の農夫と社会主義という環境は小麦を成長させるが、資本主義の農夫と社会環境では小麦は育たない、という「理論」である。
そんなばかな、と学会で発言でもしたら、突然逮捕されてシベリアに送られたのは嘘ではない。

このたび、日本政府が会議からの推薦を無視して、6人を拒否したのは、いかなる理由であるかと大騒ぎになって、あたかも「研究の自由を奪う」という話になっているけど、研究の自由を奪ってきたのがこの「会議」なので、ルイセンコのアカデミーによく似ている。

国立大学は、国立大学法人になって、良くも悪くも「稼ぎ」がひつようになった。
その「稼ぐ」ためのマネジメントが学者にできないものだから、相変わらず「象牙の塔」のままである。

ならば、いいかげん、こんな「役立たず」の会議を廃止して、完全民営化する方向を目指すのが、「今様」である。
国家があらゆる部門の研究を支配する、という発想が古すぎる。

研究の自由を第一義とするなら、むしろ、国家から距離を置くべきなので、今般の任命から漏れた「6人」こそ、誇り高く「職」と「会議体」の存在を「否定」して筋が通るというものだ。
にもかかわらず、任命されなかったことの「不名誉を不満」として、政府批判をするとは、論理として成り立たない。

つまり、自分を「公務員にせよ」と、政府に要求しているからである。

果たして、国民として、これら呆れた輩をみて、「任命しなかった」政府を褒めることも感心しない。
そもそも、研究の自由をいうなら、学者が自ら研究の自由が保障される組織をつくってからいって欲しい。

こうした組織を運営するにはカネが要る。
それを、政府におんぶに抱っこしておいて、ノーリスクでできると信じることが学者らしくなく、甘いのである。
すなわち、政府とは関係なく、「寄付」による金集めを必然とすることで、その立場を主張できるというものだ。

もちろん、そうやってかんがえれば、文部科学省なる行政府の機能も、不要なのである。

政府に全面依存しながら、自由な研究などできるはずもない。
わが国を代表する学者たちが、これを「しらないはずもない」。
ならば、やっぱり「権威がほしい」という、世俗にまみれたひとたちの集団だということが、国民の結論になるのである。

ロボットのバカの壁はぶ厚い

小学生の頃の、『ロボットくんのハイキング』(コロムビア)という歌がなんだか耳についているのは、モダン・バレエをやっていた妹が神奈川県立音楽堂での発表会で踊った曲だからだろう。
頭にアンテナを付けて、キラキラした銀色系の衣装で、ガクガクと歩いていた。

中高年にはいまもあんまり変わらない、ロボットのイメージそのものだった。
上述の歌を鑑賞したいなら、国立国会図書館で聴くことができる。

『マグマ大使』はロボットなのか何なのかよくわからいでいたけれど、『ジャイアントロボ』は、そのものだった。ただし、人間(少年)がその都度命令することになっていたから、『鉄人28号』と大差ないようにもみえる。

人間型ロボットの「完成形」を観たのは、1978年公開の第一作『スターウォーズ』の「C-3PO」が最初だったとおもう。
「親友」という設定の、「R2-D2」の方がはるかにロボットらしいけど、ローラーの脚で砂漠とかどこにでも滑らかに移動できるのが不思議でもあった。

もちろん、「人工頭脳(AI)」としては、カメラと音声それに計算ユニットとして表現された、『2001年宇宙の旅』(1968年)がある。
もっとも、この作品を初めて観たのは、何度かあった「リバイバル」で、高校生の頃だったと記憶している。

小学校低学年のころに、初公開された映画とは到底おもえない映像美に驚愕したものだ。
原作者のアーサー・C・クラークが、試写を観てあまりにも原作と違うことに怒ったという話は、原作を読んで「なるほど」と合点した。

彼は、イギリス人で、スリランカの高級茶畑で有名な地域に移住していて、都会のコロンボに出てきては宿泊した、「ゴール・フェイス・ホテル」のロビーには胸像が置かれている。
ちなみに、このホテルには1921年、皇太子だった昭和天皇も滞在している。

さて、現実のロボット開発はどうなっているのか?
日本車の工場で、溶接工程に導入されたロボットが産業用ロボットでもっとも有名になった。
これは、天井からの「腕だけ」だったから、人間型を期待したらいけない。

もう二足歩行ができるようになったし、四足のものはかなりの運動能力をもっていて、その速度だけでなく、段差をものともしない。
それで、一部は軍事用に開発が進んでいる。
こんなものに殺されたくはない。

ただし、これらのロボットには、大弱点がある。
それは、「脳がない」ことだ。
プログラムされた通りに動くけど、人間の言語によるその場の命令も理解できない。だから、人間からの音声命令を理解して戦う、「ジャイアントロボ」は、いまも実現化できていない「超最先端」なのである。

集積回路の処理能力は確実に高まっているけれど、それは、「速い」ということに集約されているので、単純化すれば以前から「反応が速くなった」にすぎない。
つまり、「SF」作家が表現した、人間型で「C-3PO」のようなロボットは、「F:ファンタジー」のままなのである。

昨年の「ビジネス書大賞」を受賞した、『AI VS. 教科書が読めない子どもたち』は、ファンタジーであることの理由を解説している。
著者の専門は、数学である。
すなわち、数学の限界を教えてくれている。

このことは、「科学の限界」をも意味する。

するとこのことは、じつは「人間の可能性」の証明でもある。
人間にはあらゆる可能性がある、というのは、ファンタジーではない。
このときの「人間」とは、その「頭脳」を指す。
いわゆる、「脳科学」が進んでいるとはいっても、全部が解明されたわけではない。

人間の「思考」こそが、唯一の理想的コンピュータの結果なのだ。

あらゆる経営資源のなかで、「ひと」だけが価値を創造するということの真実がここにある。
だから、どんな職業でも、ひとの能力を最大化させる方策を常にかんがえることの継続が、結果を支配するのだ。

「ビジネスは結果である」とはいうけれど、そのための「アプローチ(手順)」が正しくないと、よい結果にならないし、なりえない理由である。

日本経済衰退の最大の理由がここにあるとかんがえる。

だれが「ビジネスは結果」だといいだしたのか知らないが、「ビジネスは結果」だという「結果がある」ことを忘れては、実務はできない。
すなわち、適切な目標設定と、その達成のための適切なアプローチがなければ、「目標通りの」結果をだすことはできない。

わたしは、部下に「ビジネスは結果」だと言い切れるひとは、ビジネス・マンではないとかんがえている。
間違いなく、よきビジネス経験や体験を積んでいない。
もしそのような経験や体験をしていたら、かならず「ビジネスは段取りだ」というはずだからである。

囲碁や将棋の勝負師たちには、「一手」を打つたびが「ビジネスの結果」であって、その集積が「勝敗を決する」のだ。
すなわち、「考慮時間」のなかでなにを思考しているのか?ということが「すべて」なのである。

いかなる名人をコンピュータが負かしても、コンピュータは「一手ごと」での「最適」しか計算しないしできない。
どのタイトルをいえばいいのかわからない、羽生善治氏は、電脳将棋を「人間から見ると時系列がつながらずに全部が点」、「非常にまばらに見える」と、まさに「デジタル」の本質を盤面に見ている。

これぞ、「人間」なのである。

「ばかなことはおよしなさい」

赤の他人に対して声をかける。
かけられた方も、ふつうに対応する。

むかしの日本人は、こういうひとたちだった。

たとえば、クーラーがまだない電車の蒸し蒸し状態で、窓側に座っているひとに、「窓を開けてください」とふつうにいえたし、そんなこといわずにも窓を開けてくれた。
赤ちゃんを抱っこしている母親に、しらない男性が「かわいい坊ちゃんですね」と声をかけて、「いいえ娘です」、「これは失敬」とは実話である。

それで、なんだか経済状態がよくなってきたら、だんだん他人との距離ができて、しらない女の子に声をかける、「ナンパ」だけが生き残っている。
他人に道を聞くのもはばかれるものだから、スマホのマップでナビしてもらうことにもなった。

それは、むかしの映画にたっぷり残っていて、時代劇も現代劇も違いはない。
すれ違った登場人物が、ふつうに他人に声をかける。
けれども、いいことばかりではなく、あんがいお節介もある。

町内には、世話好き、というひとがかならずいた。
下町の「人情」といえば情緒があるけれど、見ようによっては面倒なひとでもある。
他人の家に上がり込んで、説教をはじめたりするからである。

ところが、上がり込まれた家でも、追い返すどころかお茶を出したりして、ちゃんと話を聞いている。
時間に余裕があった、ということであるし、一応は聴く耳もあった。
いまなら、玄関先で追い返されることもない。

チャイムのボタンで、モニターに映る姿を確認すれば、簡単に居留守ができる。
それでも入って来ようものなら、警備会社か警察に通報される。

「個」が「個」として確立すれば、これを、「アトム(原子)化」という。

「個」は他人との接触を避けるきらいがあるので、磁石の同極同士が反発するように、距離を置く。
その意味で、むかしは「個」が主張していなかったから、磁石の対極同士でくっつきたがったのだろう。

いったん「アトム化」すれば、なかなか元にはもどれない。
けれども、人間はやっぱり「孤独」が嫌なものだから、なんらかのコミュニティに参加したりする。
それは、隣家や町内をかんたんに越えた、別空間でのコミュニティであることがおおい。

町内だと、「反発力」が残るからで、距離があっても趣味や価値感がおなじ他人とのコミュニティだと居心地がいい。
こうして、居心地のよいコミュニティに、政治が侵入してきて、それも居心地のよさを提供すれば、たちまちに強大な勢力になる、と警告したのは『全体主義の起源』を書いた、ハンナ・アーレントである。

彼女の描いた「モデル」は、20世紀の全体主義(ドイツやソ連)だった。

すると、他人との距離感と時間の概念が、適度に「緩い」社会が、じつは「健全」なのだということになる。

夏目漱石の『草枕』冒頭。
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。」
明治にしてこれかと想う。

発表は明治39年(1906年)だから、日露戦争のころの作品である。
もう100年以上も前になる。
いまは、「コロナとの闘い」と、「米中の闘い」が併存している厄介な時代になった。

すでにこの頃にして、「西欧化」が「胃痛」の種なのである。
すると、とっくに西欧化どころか西欧になったいまの「住みにくさ」は、当然といえば当然である。
裏返せば、漱石にして「日本」を懐かしんでいる。

草枕の冒頭には、次の一文が続く。
「どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。」
果たして、いま、詩や画は生まれているのだろうか?なにも、主人公が芸術家の設定だから、だけがこの文を書かせたわけではないだろう。
漱石のいうとおりなら、まだ「悟っていない」ということになる。

「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。」

「人でなしの国」とはどこか?
当時は欧州列強、いまなら米中の「どちら」なのか?
どちらも、「人でなしの国」ではないのか?
この中に、わが国だって、うっかり入ってしまっていないか?

「越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降(くだ)る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊い。」

名言である。
「寛容(くつろげ)て、束の間まの命を、束の間でも住みよくせねばならぬ」のは、本来は政治の仕事でもある。
「規制」ばかりで、国民を締め上げるいまの政治は、なっちゃない。

一方で、「人の世を長閑(のどか)に」するのは、国民の側である。
「個」の自己主張ばかりでは、「のどか」にはならない。
「のどか」だから心が豊かになるのである。

東京メトロが、抗ウイルス・抗菌処置を実施しているのを、「ばかなことはおよしなさい」といえる社会がいい。
そんなことはぜんぜん「重要」でないし、費用を負担するのは利用者なのだ。
世の中で、地下鉄「だけ」が抗菌とは、笑止である。

走っているとき「だけ」が電気なのを、「ゼロエミッション」というのとおなじだ。
その電気は、どうやって発電しているのかをかんがえない。
くつろいでかんがえれば、子どもにもわかる。

秋分を過ぎたから、もう「秋の夜長」である。
今日から10月。
今年もあと三月でおわる。

のどかな気分で、『草枕』でも読みましょう。

日本は「西側」に留まれるのか?

すごい「証言」が23日付けのユーチューブ・ニュース番組で語られていた。
質問者は、長谷川幸洋氏。
発言者は、河野克俊元統合幕僚長である。

第二次安倍内閣が長かったし、その「タカ派」という意味不明のレッテルから、あたかも国防の現場情報について、自衛隊の大幹部が官邸でいとも当たり前に総理ブリーフィングをしていると思っていたら、実際にこの「きっかけ」は、「民主党政権」になって実現した、と明言した。

それは、総理秘書官を防衛省からも出す、ということである。

ということは?
以前は、各省からやってくる、事務官ですら、防衛省出身だと官邸に入れなかったということで、許されたのは大臣級の議員ばかりであった。

もちろん、総理秘書官は、「文官」である。
「公務員試験」に合格して、高級官僚の卵として防衛省に入省したという「だけ」であって、たいがいの省庁からやってくる秘書官は「本省課長級以上、審議官以下」であり、総理秘書官は一般職ではなく「特別職」になる。

それは、総理の「ため」ではあるけど、裏返せば自省のための「出先」としての官邸だからである。
しかして、「初の」防衛省出身総理秘書官は、「特別職」をあたえられず、一般職のままであった。

初としては、これが限界か。

この人事をしたのは、「菅直人内閣」においてである。
もしや、あの政権の唯一の「得点」ではないか?
その後の第二次安倍政権によって、内閣に国家安全保障局が平成26年にできて、以来、制服組も局員として制服着用のまま勤務しているという。

ずいぶん前の、村山富市総理も、この管直人総理も、自分が自衛隊の最高司令官だという認識を持っていなかったのは、巷間にいわれた話である。
もっとも、いまとなって蒸し返している、尖閣事件の証言でも、当時の政権は腰砕けであった。

「シビリアンコントロール」の意味が、間違って「定義された」ことに原因があるのはもちろんだけれど、「高等文官」でさえも官邸の敷居をまたがせない、という「慣例」の元にある発想とはなにか?

ときは平安時代、朝廷を仕切ったのは貴族階級に限られていて、武士も「さぶらうもの」として、貴族の召使いであった。
すなわち、この時代のわが国には、「軍隊」が存在しなかった。
官職としての「大将」は、ほんとうに「名目」だけだった。

ひとを傷つけて「血を見る」こと自体が、「穢れ」だったのである。
それが、動物の「革」にも拡大適用されて、革製品の結集物である「鎧や兜」を身につけることも「穢れ」になった。

なんと、この「穢れ」は、当事者の武士にも伝染して、江戸幕府は、町奉行所の「同心」とか、『子連れ狼』の主人公、拝一刀の生業「公儀介錯人」も、形式的に「一代限り」としていた。
「穢れた家系」を武士として永久にお召し抱えすることすら、雇用主たる将軍家が「穢れる」ことをおそれたからである。

それで、彼らの相続は、次世代の後継ぎが、あらためて「初めて」その職に就くという面倒くさいことをしていたのである。
だから、ふつうの武家における「跡目相続」とはちがう。
すなわち、彼らは「武士」ではなかったのである。

すると、現代において、わが国は、国家として自衛官をどんなに高級幹部であっても、「武人」として扱っておらず、そのひとたちを事務的に支配する、「内局」の事務官でさえも「穢れ」の対象にしていたのである。
なるほど、左翼民主党政権こそが、この「宗教的概念」を「開放」できた。

あたかも、フランス革命が、キリスト教会を無残な弾圧をもって制したのと似ている。
さらに、「リアル感の欠如」で、憲法9条や自衛隊を語っていたことに、政権を担って、なにか反省したのか?と問うても、変化のかけらもないのも、ロベスピエールの革命政府に似ている。

このブログで指摘しているように、二極化した世界は、日々対立が激化していて、もはや戦闘がないだけの戦争状態にある。

双方の「本気」は、冗談ではない。
前に書いたように、「コウモリ君」は許されないのは、双方ともに、許さないからだ。
米ソ冷戦時代のように、どちらからも「美味しいどこ取り」はできないのだ。

しかし、有職故実と過去の成功体験が、とっくに条件となる事情の変化という「リアル」を無視させて、日本は特別だ、と根拠なく「美味しいどこ取り」ができるとかんがえていないか?
これは、完璧な「甘えの構造」に見える。

すでに「臨戦態勢」にあたって、両国が「立法」による措置を加速化させている。
一方の国に議会がない分、すぐに法をつくれる有利はあるものの、わが国の企業にあたえる影響度では、アメリカ側の法も強烈度が高まっている。

この中に、「アメリカへの輸出禁止」や、「アメリカ企業との取引停止」を謳ったものがある。
だから、この戦争の被害を被らないためには、「軍事情報」としての、「経済法」をチェックしないといけない。

そして、わが国の企業経営者に、この情報を正しく伝えるひつようがある。

これを、防衛省・自衛隊がやるのか?
外務省か?経産省か?国家安全保障会議か?
かつて例のない、「経済制裁法体系」という外部経営環境が構築されている。

対峙する国での工場を拡大するという方針を打ち出した、世界最大の自動車会社が、もしや、アメリカ合衆国への輸出禁止措置がとられたらどうなるのか?
あるいは、インテリア(家具)小売業大手の企業は、企業内サーバーで話題の電子機器会社の製品をつかっているけど、制裁対象にならないのか?

おなじく、外国人相手なら売り上げが「輸出」にあたる国内ホテルでも、これら法体系が適用されれば、アメリカ政府職員の宿泊などは制裁対象になりうるのである。

27日のロイター通信によると、新首相は来月初旬、来日するアメリカ国務長官と会談し、その後、王外相も来日する予定になっていて、両国からの綱引きが日本で開始される。
例の「国賓」問題が蒸し返される。

大丈夫なのか?

相手国に「穢れ」という概念がないことだけが救いであるけれど、論理的に「制裁される」ということでの「股裂き」になるリスクが高まっているし、世界の注目が集まること必至だ。
すなわち、「西側」なのか?という最大の選択肢への興味である。

かつての日本、台湾は、とっくに態度を決めている。
とうとう、わが国は、台湾人から尊敬されない国に落ちぶれるかもしれない。
草葉の陰で、岩里政男(李登輝)氏も見つめている。

カリフォルニア州は連邦離脱?

50もある国が集まって、「連邦国家を形成」しているのがアメリカ合衆国という国である。
わが国の歴史だと、鎌倉武家政権以来、江戸時代の幕藩体制までが一種の「連邦」ではあった。

ただし、中央政権的な「朝廷」も併存したいたので、世界を見回しても似たような事例がない。
なんとか、ヨーロッパのローマ・カトリック教会と王権のような世俗権力との併存を「似ている」と強弁しても、やっぱり「似て非なるもの」を超えてぜんぜんちがうのである。

表面上は「グローバル化」で、「同じ人間どうし」だとおもっているけど、文化的背景に刻まれた価値観では、「ちがう人間どうし」なのである。

過去30年間で、なにがあったのか?
人生100年時代とはいわれているけど、「世代」という区切りでかんがえると、いまでもやっぱり「30年」ぐらいで一括りできる。
これは、「まだ」人生100年時代が当たり前になっていないことにも原因がある。

50年区切りが当たり前にできるようになると、生活のかんがえ方も変わるのではないかとおもう。
前半の50年と、後半の50年をどうやって過ごすか?
「豊かな人生」を追求すれば、後半の50年を「隠居」で過ごすとはいかない。

30年前は、わが国はバブルの「絶頂と崩壊」を経験していた。
それからいまに至る「衰退」を意識できるのは、バブル前の「昭和時代」をしっている世代に限定される。
いま40歳のひとで、小学校5年生ぐらいだったから、親からのお小遣いの変化でようやく「時代」を意識できただろう。

世界では、ベルリンの壁がなくなって、ソ連の崩壊があったし、中国が改革開放路線をはじめたのが30年前だ。
それに、「瀕死」といわれたアメリカ経済が徐々に復活するのもこの頃である。

すると、この30年間で成功した国と失敗した国とに分けることができる。
成功したのは、アメリカと中国の2カ国である。
アメリカは、金融とITの「ソフト・パワー」で、中国は日本から世界の工場を奪った「ハード・パワー」で大成長をとげた。

衰退したのはヨーロッパ(EU)と日本である。
ちなみに、ロシアは自ら「冷凍庫」の中に入ったまま解凍しないでいる。
ならば、EUと日本の共通点はなにか?
二つあって、一つは「官僚主義」で、もう一つは「地球環境保護」という思想に冒されたことである。

官僚主義の弊害があるのに、EUは、日米の二極に対抗するために結成されたのだから、組織設計モデルとしても二択があった。
日本型かアメリカの連邦型かだ。
あろうことか、両者の「悪いところ」を抜き出してつくってしまった。

しかも、発足当時、日本が飛ぶ鳥を落とす勢いだったから、日本型が優先されたのだ。
平日にブリュッセルに集まる、加盟各国の官僚が全権を握って「EU指令」を飛ばしまくっている。

EU大統領はおろか、EU議会さえも「無力」な建て付けになっていて、選挙を経ない役人だけで形成される、「EU委員会」とその「委員長」に権力が集中している。

それでもって、「地球環境保護」をいいだしたのは、温暖化排出ガスの「排出権」という「人為」が、デリバティブとしての金融商品になるからだった。
会議の場所を、日本の京都にしたのは、カモとしてロック・オンした相手が「御しやすい金持ちの日本」だったからである。

これで、まんまと撃ち落とされたのがわが国で、科学的理由不明なままに、ロシアから「排出権」を2兆円も払って購入させられた。
このときの『京都議定書』を文面通り実行したのは、世界でわが国「一国だけ」という学校のイジメ以上の策略にはまっても、ニヤニヤ笑っているのがわが国なのである。

これは、「きもい」。

このとき支払った2兆円が、ロシアでどうなったかわからない。
クリミヤでの軍資金になったという噂通りなら、わが国は世界平和に貢献するどころか、破壊者の側になる。

なんだかんだと地球環境保護に毎年20兆円も使っていると指摘したのは、勇気ある東京理科大の教授だ。
教授の試算では、わが国はこれまでに200兆円以上つかっている勘定になる。おそるべき無駄遣い。

日本の温暖化ガス排出量は、世界全体の3%程度だ。
合算すれば50%を超える、中国も、アメリカも「対策」の「たの字」もしていない。
全部ではないが、わが国衰退の理由の確実な理由のひとつである。

そんなわけで、EUが域内の主流になっているディーゼル車に対して「販売禁止規制」をすると発表し、わが国自動車メーカーが、新規ディーゼル・エンジンの開発を中止した。
なんだか、キリスト教の修道院で、自らの背に鞭を打つがごとく、ドイツの自動車メーカーをいじめているのだろう。

23日、今度は、大統領選挙の真っ最中に、カリフォルニア州の知事が、35年までにガソリン車の販売を禁止する、と発表した。
もちろん、カリフォルニア州知事は「民主党」のひとだけれど、「共和党」の連邦政府は、州独自の環境規制を「禁止」している。

それで、環境推進派の民主党各州は、連邦政府を相手に訴訟も起こしている。
つい先頃、民主党の判事の死去によって急遽空席ができた連邦最高裁の判事を、大統領選挙前に現政権が決定したいのも、こうした州知事との闘いもあるからである。

それにしても、「思想」の恐ろしさは、科学の無視と成功の原因を自ら放棄させる決定に自己陶酔できることだ。
果たしてとんがり具合によっては、連邦離脱までいくのか?
凄まじき「選挙」となっている。

美人投票に転換させる業師

9月24日、小泉純一郎元首相が、「突然」自民党本部を訪問し、ミス日本グランプリを衆議院の比例候補者に推した。
対応したのは幹事長らであるという。

「突然」というなら、「ノーアポ」のことである。
いかに、元首相・元党総裁でも、ノーアポで現職幹事長に面談できるものか?
それに、小泉氏は、いま、自民党員なのだろうか?

「顔パス」というのは、経歴からして不思議は無いけど、押した美人は松野頼三元労働大臣の孫娘だという。
松野頼三で思いだすのは、ダグラス・グラマン事件で辞職し、復活を果たした選挙を「禊ぎ」といったことである。

さすがは、元海軍主計少佐である。
中曽根康弘氏と同じ階級で、同期当選でもあった。
ちなみに、「佐」が付くのは管理職で、少佐は本省係長にあたり警察なら警視がこれに相当する。

実は松野氏は、小泉純也(純一郎の父)と盟友関係にあった。
それで、純一郎氏が一年生議員のときも、後見人的な立場であったという関係だ。

子息である、松野頼久氏は、日本新党からはじまって、いまは緑の党所属の衆議院議員(6期)である。
民主党鳩山由紀夫首相のもとでは、内閣官房副長官も務めている。
だから、非自民なのだ。

当該の「美人」は、この松野頼久氏の次女である。
小泉純一郎氏からすれば、暦年の恩返しを意味する。
だから、ミス日本グランプリは本質とは関係ない、単なるカモフラージュであるけれど、美人であることに間違いはないのだろう。

さいきんは、企業の就活においても、「顔採用」が増えていると噂されている。
たとえば、営業職であれば、社内よりも営業先における「評価」が重要なので、「顔採用」の意味はあんがい重いともいえる。

外資系の企業では、提出する「履歴書」に、写真添付欄がない。
わたしが、国内ホテルから外資系金融機関に転職したとき、上司から、履歴書に写真を添付してはいけない、と注意された。
また、英国に長くいた同僚からは、履歴書に写真を貼ってあるのを見たことがないともいわれた。

すると、履歴書の書式を販売する会社は、日本企業用には写真欄あり、外資系企業用には写真欄無しという二種類を販売しないといけないだろう。
もっとも、電子書式で送信するなら、どの書式を選ぶのかを提出者本人が知っていないといけない。

外資系企業における写真の忌避は、美人かそうでないかということよりも、まずは「肌の色」を、採用にあたって考慮の対象にしないためである。
すなわち、本人の名前と職務能力そのものしか見ない、ということの担保である。

ここにおいて、年齢情報の必要性も議論の余地がある。
何度も書いたように、日本の国内企業以外は「ジョブディスクリプション」をもって採用条件としているので、そこにある職務を果たせるのであれば、年齢も性別も関係ない、ということになる。

いい悪いは横にして、これが世界標準のかんがえ方なのである。

コロナ禍における「解雇」によって、毎月1万人以上が職を失っている。
もっと増加が予想できるので、年初までの「人手不足」が嘘のような様相になっている。

すると、今後の経済再編にあたって、採用における世界標準がはじまるのか?にも注意したい。

人件費はもっとも重いコストではあるけれど、その企業の需要にあった人材こそが、唯一の利益の源泉なのである。
すると、企業側は、自社における需要はなにか?を詳しく知っていないといけない。

ただ、員数を確保すればいい、ということで済む時代はコロナとともになくなる運命にある。
また、もはや一生の就職先でもなくなる可能性だって同時に高まるけれど、企業の業務にマッチした人材を失うことは「痛い」。

すると、やっぱり採用とは「投資行為」なのである。

さてそれで、小泉純一郎氏の行動は、いったい何の意味があるのか?をかんがえると、「自民党をぶっ壊す」と叫んでいたこととの関係性が見えてくる。
確かに、小泉長期政権のあとの政権は迷走して、とうとう自民党は政権党でなくなったから、これをもって「ぶっ壊した」のだともいえる。

けれども、民主党政権がオウンゴールをしまくって、選択肢がないことだけが決め手で、第二次安倍政権が発足し、党内でも選択肢がないことだけが決め手で超長期政権になってしまった。
つまりは、自民党も「人材枯渇」で衰退しているのである。

そこにもってきて、「美人に投票せよ」という。
本当は、自身の人生のしがらみだけなのに、見事なすり替えである。
だったら、息子をちゃんと指導してほしいものだ。
これもなにもしないのは、「自民党をぶっ壊す」ためだからなのだろう。

「再生」には、スクラップ・アンド・ビルドが欠かせない。

壊すだけ壊して、あとはどうなるか?
それは、国民の能力による。

結局は、大崩壊しか再生の道はないという「一択」なのである。

以上のように、小泉純一郎氏がかんがえているとは思えないけど、「結果よければすべてよし」の大団円。
まぁ、そんなもんである。