ノブレス・オブリージュ

「貴族」はさまざまな特権をもっているが,一方で,それに見合ったあるいはそれ以上の「義務」をみずからに「強制」するという面をもっている.
たとえば,一朝ことあるときには,すすんでみずからの命を差し出す,ということである.

そういえば,韓ドラの人気時代劇のひとつ「チャン・ヒビン」のセリフに,「身分が低くて卑しい者ほど,命を惜しむ」という名言があった.いまのおおくの日本人に「痛い」ことばだ.あるいは,現代日本への皮肉をいったのかもしれないとうたがう.よくとらえれば,台湾人がいうように,むかしの日本人は立派だった,という意味にもきこえる.

実際に,フォークランド紛争時にチャールズ皇太子の弟アンドルー王子(現ヨーク公)が海軍ヘリコプター操縦士として従軍し,決死のエグゾセミサイルのおとり標的任務にもついている.
英政府は王子の紛争地派遣や派遣後も敵の攻撃対象になりやすい空母勤務を避けるよう軍に働きかけたが,母堂のエリザベス女王の許可によって最前線勤務を果たしている.
帰任時には,女王夫妻も兵卒の家族と一緒に港に出迎えたという.
この気概である.

わが国では,憲法14条2項に「華族その他の貴族の制度は,これを認めない」とあるから,憲法が有効になると同時に,貴族は消滅した.
制度として消滅しても,精神は残るもの,とは,「武士」にはいわれるが,「貴族」にはいわれないのもわが国の特徴である.貴族の構成要素の一つが「武士階級」だった.

現代のわが国における「貴族」は,公務員と労組幹部をさすことがある.
大組織,しかも公務員の労組は,その傾向がさらに強まるかもしれない.
日教組委員長の不始末は,記憶にあたらしいところである.

ところが,企業経営者というひとたちの一部が「貴族化」してるのに,これをあまり話題にしない.
さいきんでは,元社長や会長が「顧問」に就任することが,すこし批判の対象になったくらいだろう.しかも,ネタのおおくは「週刊誌」が頼りなのだ.

ここで,ひとへの妬みや憎悪をあおるつもりは毛頭ない.
なにもしないのに高級車で送迎されて,家ではありえないほどちやほやされれば,だれだって「顧問」でいられるのは快適だろう.しかも,高額の「報酬」すらいただける.
これを,過去への恩返し,というなら,現役の社長だったときの報酬には,将来分の積立部分があったのだろうか?

なんのための「会社決算」かといえば,「会計年度」という制度での運用になっているから,基本的には,その期間ごとに精算している.
この原則をしらないで,会社トップをやっているひとはいないから,「顧問」になったとたんに忘れたわけではあるまい.

もちろん,「経営」というものの本質をかんがえれば,ドラッカーが指摘するように,「会計年度」というものは,残念な制度であるし,「会社決算」のあやうさはいうまでもない.
これらを現実と分裂させていうのではなく,現実に「決算」や「納税」はやらなくてはならないものとして,ドラッカーの主張をうけとめる必要があるのだといいたい.

だから,なにもしないのに,ということばがつくと,現代の「貴族」になるのだ.
しかし,そこに,果たすべき義務もなくなると,これは「貴族」でもない.
ただ,「あそんで暮らしているひと」になるだけである.
「偉いひと」とは,「えらい目にあうひと」なのだ.

深刻なのは,引退したら「あそんで暮らすひと」になる,のではなくて,「現役」なのに,なにもしないで報酬を得るひとたちがいることである.
このタイプのひとたちは,「その場の気分」や「その場の空気」だけでふわふわと生きている.

だから,勉強も大嫌いなので「読書」すらしない.
そんな上司やトップを,部下はけっして尊敬しない.
入社してすぐに会社を辞めてしまう若者の一部に,尊敬できない,という理由もあるはずだが,おおくは辞める側の問題にされる不思議がある.

この国では,貴族は禁止されたが,勉強や努力を重ねてその道の一流となると,「文化功労者」に選ばれるという制度がある.「文化功労者」には,国家からの「終身年金」がつく.(金額は調べるとよい)
憲法14条3項は,「栄誉,勲章その他の栄典の授与は,いかなる特権も伴はない.栄誉の授与は,現にこれを有し,又は将来これを受ける者の一代に限り,その効力を有する」とあって,前段と矛盾する.

文化功労者から文化勲章受章者を選ぶので,はなしはさらにふくらむ.
文化功労者ではないひとが,ノーベル賞をもらうと,すぐに文化勲章をいただけるようになっている.ノーベル賞には,日本の制度への破壊力がある.
文化勲章は文化功労者と等しいから,終身年金の問題を解決しなければならなくなる.
だから,ほんとうは,ノーベル賞をもらいそうなひとをあらかじめ文化功労者にしておかないと,政府(役人)としては憲法解釈で恥をかく.
なのに,文化功労者ではないおおくの学者がノーベル賞をもらってしまう.文化功労者の選定と,ノーベル賞の選定で,どこか違った価値基準があるのだろう.

官界,労働界,財界につづいて,学会にも,なんにもしないであそんで暮らすひとの臭いがする.
それに,「憲法」の議論が「9条」ばかりということにも,異臭がしてならない.

それにしても,国家は憲法違反を念入りにおこなうものだ,ということを国民はしっておいたほうがいい.
現実として,わたしたちは,そういう国,そういう世界に住んでる.

ユニバーサル・デザイン

からだの不自由なひとが楽につかえるなら,健常者にとってはもっと楽につかえるように工夫されたデザインでつくるものをいう.
簡単そうだが奥が深い.
「楽で便利だ」ということはなにか?を追求しなければならないからだ.

たとえば,街のなかにはさまざまな「標識」が設置されている.
なかでも,「交通標識」は事故防止という観点からも重要な役割があるし,「方向表示」では,目的地や自分のいる場所をおしえてくれる.
基本的な標識のおおくが国際的にも共通だから,外国人でも,われわれが外国に行っても,意味を理解して行動できる.

おなじように,建物の中の避難口の案内や,はたまたトイレの案内などの表示も,国際的に似ているから,これもとまどうことがすくない.
つまり,「公共の場」はそれなりに「ユニバーサル・デザイン」が普及している.

じっさいにユニバーサル・デザインをかんがえるには,さまざまな制約をもうけて「体験する」という方法がとられる.
その制約とは,視覚,聴覚,触覚,味覚,嗅覚といった「五感」にたいしてである.
なかでも,視覚,聴覚,触覚のそれぞれについては,視野を狭めたり疑似白内障になるためのゴーグル,聴覚を遮断するイヤーマフ,触覚を鈍感にさせる手袋などをつかって実験をくりかえす.
さらに,車椅子の利用などもくわえての研究となるから,大がかりになる.

ちなみに,日本のものづくりにおいてのユニバーサル・デザイン研究では,東芝がリーディングカンパニーだった.
医学的所見や人間工学といった分野の学際的研究を,製品作りのデザインに落とし込むことができるのは,大資本ならではのことだからだ.

「多機能」だがつかわない機能にまでコストを負担させられる,という意味での高単価戦略は,日本製品の魅力をかえってそこなったのではないか?「単機能」だが安い,というアジア製との競争に,負けてしまった.
「単機能」のようにみえるが,そこに「すごいノウ・ハウ」がある,という合理性をもとめられているのに,である.

これは「ニッチ」ではない.
たとえば,「バルミューダ」というあたらしい電機メーカーが打ち出す商品の需要の高さが証明している.需要だけでなく,「憧れ」という地位までもあるのが特徴だろう.
大手家電メーカーの製品に,はたしていま「憧れ」がどこまであるのか?

メーカーの世界では,自社製品にどんな「価値」をもたせるのか?が決定的に重要なテーマになっている.
世界史的・人類史的な意味で「超高齢化」し,「急激な人口減少」が予想されているのは,なにも日本だけではない.

さいきん,「一人っ子政策」を中止した中国とて,なぜ廃止したのかをかんがえれば簡単で,巨大な人口が「超高齢化」するのが確実だからである.
「少子」という意味で,わが国より深刻な特殊出生率の低さをたたきだしているのは,韓国と台湾である.
奇しくも,かつての大日本帝国は,おそるべきスピードで人口が消滅の危機をむかえている.

つまり,東アジアという地域全体で,ユニバーサル・デザインが要求される時代になっているのだが,日本企業は鈍感にすぎないか?

これは,観光関連も同様である.
だれにとって,なにがどう便利なのか?という問詰めができていない.
ようするに,哲学軽視ということだ.
それは,「マーケティング」に対しての薄くて軽い理解の証明でもある.

ナルシストの個人主義

「自己陶酔」から「うぬぼれ」に転じる意味がある.
ギリシャ神話で,ナルキッソスという美少年が水面に映った自分の顔をみて恋をしたはなしに由来するから,性的な意味もある.
ちなみに,外国語では「シ」が二重で,「Narcissism:ナルシシズム」「Narcissist:ナルシシスト」という.

平成バブル崩壊後の時代になって,自信をうしなったからか,外国人から褒められるというコンセプトの番組がおおくつくられるようになったとの印象がある.
昭和時代は,外国人からどうみられているのか?というコンセプトの「日本人論」※がおおかったから,その「発展形」といえなくもないが,かなり「自己愛」がつよい.

※日本人が書いた日本人論の傑作は,「日本人とユダヤ人」(イザヤ・ベンダサン=山本七平,昭和45年)がある.また,いまの「うぬぼれ」の素は,「ジャパンアズナンバーワン」(エズラ・ヴォーゲル,昭和54年)だとおもう.

  

日本に住む外国人を特集する番組内で,登場した外国人から,「日本人はナルシストばかりではないか?」と発言があった.このあとに,「もっと歴史や伝統を見直すべきだ」という意見がつづくから,内容的に矛盾しない.
しかし,外国人に褒められるコンセプトの番組で,昭和的な「日本人論」がでてくるのは,「自家撞着」ではないかとおもう.

「自家撞着」とは,自分の言行が一致しなくて,壁につきあたってしまうことをいうから,おおむね正しかろう.
「自己愛」から「自家撞着」へと発展するメカニズムについては,専門家ではないので正しくしらない.けれども,これらはセットになりやすい親和性をかんじる.

たとえば,「謙虚」をたいせつな価値観だと公言するひとが,じつはたいそう「傲慢」な人物であったり,「権威主義」の権化だったりするのは,みごとな「自家撞着」だが,それは,自分かわいさという「自己愛」あってのことだとおもえば,「メカニズム」として納得できる.

もちろん,このような人物が可能性として組織のトップになるというのは組織内の構成要員にとっては一種の「悪夢」である.しかし,なぜ,そのような結果になるのか?をかんがえると,本人ではなく,「前世代の目線」が問題になる.
血縁企業とそうでない企業とで,就任の可能性の高さはどうなのか?なかなか調べるのが難しいだろう.

それは,あなたは謙虚ですか?
と質問すれば,はい,とこたえるだろうし,
あなたは傲慢ですか?
と質問されて,はい,とこたえるひとはまずいない.
すると,これは,「嘘つきのパラドックス」になるからだ.

つまり,かような人物が組織のトップになる「悪夢」とは,日常が,「嘘つきのパラドックス」にまみれるから,組織全体が「疑心暗鬼」に陥ってしまうのだ.
そうなると,かような人物をトップにしてはいけない,という「律」の合意が,前の世代になければならない.

ところが,その世代も,「なっちゃった」世代であると,上記のような「律」をもたないから,これは「遺伝」する.
こうして,企業・組織は頭から腐るのである.

すると,ここに重要な本質がみえてくる.
「年功序列」の日本企業が,次世代トップの選定をする方法は,「年功序列ではない」ということだ.
そして、企業内に「律」をもたないばあいは,規模の大小にかかわりなく,おおくが前の世代による「好き嫌い」によって決まるのだ.

それで,ナルシストで自家撞着をする人物ゆえに,周辺を「嘘つきのパラドックス」にはめている姿が,まるで「リーダー」のようにみえるのだろう.
それを,「謙虚」という「嘘つきのパラドックス」がまとう覆いにだまされるのだ.

どうであれ,ナルシストの個人主義という「自家撞着」によって,長い時間をかけて組織細胞は破壊されることになるから,崩壊は急激にやってくる.
それは組織構成員の集団心理がなせるわざだから,将棋倒しの事故のように,ひとたび発生すればだれにも止められない「流れ」になる.

経営には「心理学」が必要である.

「平成バブル出版フェア」開催希望

バブル時代の功罪はいろいろあるが,「功」といえば「本」である.

「活字離れ」が本格化したら,やっぱり「出版不況」になるものだ.
もはや出版業界は「構造不況業種」にあたるのだろうが,日本人の人口が減れば,それは確実に日本語の本もなくなることを意味する.
数百年後に,日本語の本は遺跡の発掘のように「解読」の対象になる可能性すらある.

お金がたくさん使われれば,それは「景気がいい」という.
もっとたくさん使われると,お金どうしがこすれあって熱をもつように「過熱」する.
いまではとうてい企画さえされないような本でも,当時はスポンサーがついたのだろう.
バブル期には,おもしろい本がたくさんある.

昔ながらの古本屋さんは,ずいぶんと減ったもののまだやっている.
店内をのぞくと,なんとなく分野別にコーナーになっている.
この売りたいのかどうなのかがわからないところが,古本屋の真骨頂であって,いかめし顔の主人がマニアックな本を読みつつ,ちらちらとした目つきで客をみるのである.
まるで落語の世界だから期待はしないのだが,「バブル期出版コーナー」があっていいとおもう.

文庫本や新書が,パラフィン紙に包まれていたころ,出版社はいまではかんがえられないほど強気だったのだろう.
それは,物資がなかった時代のなごりであり,知識への渇望があったのかもしれないが,どこにも「買ってください」と媚びを売るつらがまえではない.中身の活字もちいさくて潰れてしまっていたりするから,読みにくい.
しかし,肝心の内容は,新書だって,当代一流が書き下ろしているから,いまどきの数時間で読了するような「やわな」ものではなく,たっぷりの分量と学術の質,それに良心があった.

そんな時代の最後にあたったわたしは,生まれてはじめての文庫本として「ルパンの奇巌城」を買った.学校図書館にある,子ども名作シリーズとは,まるでちがうルパンがいた.
それからしばらくして,文庫本はパラフィン紙からきれいな表紙になって,紙も活字も断然よくなった.すると,皮肉なことに「世の中は活字離れ」となっていった.

本棚を整理するのはたいへんである.
自宅でも気が折れるから,古本屋さんはなにもしない.
だから期待しないのだが,バブル時に咲いた出版の華をみてみたいのだ.
そうとうに手間をかけたまじめな本が,経済崩壊とともに絶版となって散ってしまった.

そういえば,バブル発生前に「リストラ」という言葉は使われていた.
ちゃんと「リストラクチャリング」と表現されているまじめさで,意味も「事業再構築」だった.
これは,プラザ合意を受けての大変革時代を背景に,将来の企業経営のありかたを「根本から問う」ていたのだ.

いま思えば,これは,「世界史的に成功した経済人としての日本人最後の自問だった」ろう.
それが,日銀の余計な介入でバブルをつくりだしたから,現状の延長線でなにも問題がないばかりか,空前の景気に沸いてしまった.この時点で,「経済人としての日本人は絶滅した」とおもう.
あとは,「Money」に目がくらんだ亡者ばかりとなっていまに至る.

あまりの「過熱・沸騰」に,これはいかんと,政府が「総量規制」というほとんど「憲法違反」の政策で介入したら,泡の積み木が根底にあった「自由経済」という基礎から吹き飛ばしてしまった.
われわれは,「9条の憲法違反」には敏感だが,「経済と自由の憲法違反」にはおそろしく鈍感な国民である.こうして,どっぷりと「政府依存」という「無責任」体質に変様した.
これは,陶器の世界では珍重されるが,社会としては重大な「窯変」ともいえよう.

過熱から一気に転じた,急速冷凍状態の経済で,人員削減に血まなこをあげた企業は,「合理化」だとまずいので「新語」をさがした.
「合理化」は,70年代の「合理化反対闘争」が記憶にあるからだ.いまさら労組と蒸し返しになる面倒な交渉はしたくない.とにかくはやく人員を削減しないと,経営者が責任を負わされる.そんな責任はぜったいにいやだ.だって,ひとつも悪いことなどしていない.

それで白羽の矢が立ったのが「リストラ」だった.
こうして,わが国経済用語から,「リストラクチャリング:事業再構築」が削除され,「リストラ:人員削減,肩たたき,会社都合退職」などという用法が定着したのだ.

経済史としても,バブル期のゆたかな,そして二度とこないだろう出版の花盛りは貴重である.
しかし,だからこそ,生活文化としてとらえれば,けっして侮れない内容なのだ.
今週は「メーデー」,「憲法記念日」があるゴールデンウィークである.
それは,「平成時代最後の」がつく重みがあるはずなのだが,どなたも遊興にいそがしく,こんなことに興味はないだろう.

国会図書館ではなく,殊勝な古書店に,平成バブル出版フェア,を是非開催していただきたいというのが,せめてもの希望である.

自動精算機で買いものができない

さいきんのスーパーマーケットには,「セルフレジ」が導入されてきているが,レジ担当者が商品を読み込ませ,支払だけを「自動精算機」にするという,「セミ・セルフレジ」の店もある.
もちろん,従来型のレジもあるから,利用者はすいている方を選べばよいのだが,そうなると「セルフレジ系」になるのは当然である.

セルフレジは,列に並んだとしても四台ほどのかたまりで設置されているし,セミ・セルフレジの自動精算機は,二台セットで設置されていることがおおいから,従来型のレジとは「処理能力」がちがう.
つまり,これは,「待ち行列の理論」そのものの応用である.

「待ち行列の理論」というのは,1917年(大正6年)にアメリカでの自動電話交換機の開発から「考案され」,第二次大戦中に「完成された」といわれる「理論」だ.さいきんでは「渋滞学」ともいわれるそうだ.
ずいぶん前から,といってもここ二三十年のことだが,日本でも「公衆電話の並び方」や,「銀行ATMでの並び方」で導入されたから,気がついたひともおおいだろう.

一台ずつの機械の前に並ぶより,一箇所にまとまって並んで空いたらそこへいくという並び方のほうが早く順番がくる.
また,並んでいる途中で,窓口が一箇所でもふえると,急速に列に並ぶひとの数が減ることも,体験的にしっている.
これらは,すべて「待ち行列の理論」で解けるのだ.

そんな「理論」もふくまれた,最新の買いもの精算機ではあるが,お年寄り層には不人気である.
タッチパネル式の画面に違和感があって,同時に音声ガイドがまくしたてるから,「ちょいパニック」になるのだろう.それは,目からはいる情報と耳から入る情報から,同時に処理を強要されているように感じるからだとおもう.このあたりは,「ユニバーサルデザイン」の問題だ.

自動精算機を嫌う,あるいは戸惑いながらつかっている姿をみると,あとどのくらいしたら,自分もああなるのか?とかんがえるのだが,そのときはどんな精算方式なのか?見当がつかない.
たぶん,方向として「キャッシュレス」なのだろうが,どんな意味での「キャッシュレス」なのかがわからないのだ.

銀行員をして大量リストラの対象にする「自動化技術」は,お金というものがもつ「情報」に対しての「自動化」だから、これはかなり生活に身近なことまで影響するだろう.
すでに,家庭用として「スマートスピーカー」という便利グッズが人気になっている.要はコンピュータ(人工頭脳)と,会話ができてやりたいことを命令できるものだ.

家庭内のさまざまな「モノ」が,ホームネットワークで連結されれば,「スマートスピーカー」を介して「自動化」ができる.すでに,カーテンの開閉や,ルームランプの点灯や消灯はお手のものになっているし,生活用品の「発注」もできる.
「発注」ができるのは,支払方法がきまっているからで,「自動決済」が現実になった.しかし,ここでは,おおくのばあいクレジットカードのことをいうだろう.

「デビットカード」が普及する文化と普及しない文化がある.
欧米は普及する文化で,わが国は普及しない文化だ.
このちがいは,「銀行口座」と「資産」のかんがえかたがちがうからだとおもう.

それは「小切手」でわかる.
わが国で,小切手を個人が生活上ふつうに利用するという文化はないし,過去もなかった.
ところが,ヨーロッパはふつうだった.むしろ,自国通貨をもつより小切手の方が便利だった.
せまい地域におおくの国がひしめくから,しぜんと為替のかんがえかたが発達したのだろう.

日本は,「天下の台所」だった大阪圏では「銀」,政治の中心江戸では「金」が流通の基本だった.それで,大阪と江戸の商取引は,銀貨と金貨の交換が必要となって,相場とともに為替ができた.この相場に幕府が介入して失敗し続けたのが,江戸時代の経済政策である.ちなみに,東京の「銀座」は,大阪の「銀貨」を江戸でつくらせたことが発祥である.

だから,日本の為替の大元には,現物の貨幣交換があった.
これを明治に「円」で統一した.すごい政策である.しかし,まだ銀行が一般的でない.
それで,一般には現金が重要で,送金のための為替が必要となったから,郵便為替は画期的だったろう.それから銀行が普及すると,現金を預ける「普通預金」がふつうになった.

つまり,ヨーロッパでは,資産を管理する口座と,普段使いの小切手(当座預金)口座との二つがあるのがふつうだという日本との決定的ちがいがある.それで,クレジットカードが世にでたとき,かれらは小切手のかわりとしたから,クレジットカードをつかうと伝票にサインする.まさに,小切手文化の継承である.だから,手段としてのクレジットカードが普及しても,引落口座は当座預金のままだったのである.

ところが,クレジットカードの引落には月単位の時間差がある.これは,当座預金の管理をかんがえると面倒だ.それで,直接つかった時点で引き落とされるデビットカードは,かつてなく便利な「電子小切手」なのである.
このかんがえが,日本にはない.

さいきんなにかと話題の「仮想通貨」も,以上から感覚のちがいがわかる.
デビットカードでは,送金ができないから「電子小切手」としては機能がたらない.それで,「仮想通貨」が,次世代の「未来型小切手」であると感じるのだ.だから,仮想通貨は当座預金から発行(振り出し)されればよく,仮想通貨じたいを預金するという発想が希薄である.
一方,わが国では,「相場モノ」になってしまった.

わが国では,「普通預金」の概念をかんたんにかえることはできないだろう.
すると,当面は,クレジットカードが主流にならざるをえないのだが,加入には「審査」がいる.
年金世帯では,これもハードルがたかいだろうから,デビットカードの普及がスーパーマーケット決済の合理化に寄与することはまちがいない.

すると,通帳のページ数が足らないのではないか?
毎日の買いものの決済が,通帳に記載されるのは年金世代には便利なはずだが,すぐに通帳があふれるだろう.
おそらく,これがスーパーマーケット決済のキモになるはずである.

デビットカードが普及すると,あらゆる商売に影響する.
日本には,仮想通貨革命のまえに,デビットカード革命が必要だ.

悔しかったらがんばりなさい

英国元首相故マーガレット・サッチャー女史の発言として,いまだに賛否がいりまじっている「名言」である.
とくに,日本では,「冷酷だ」と不評である.

わたしの記憶では,首相就任後数々の政策(アンチ社会主義)を矢継ぎ早に打ち出しているなか,地方都市を訪問したさい,失業に苦しむ若者たちのデモ隊にむかって,「悔しかったら『勉強』しなさい」と言ったイメージがのこっている.「がんばりなさい」ではないのだ.
母親が息子を諭すという感覚と,首相になるまえの彼女の経歴が「教育相」だけだった,というふたつがかさなって記憶しているのだが,「記事」としての証拠がみつからないから不思議だ.

当時のイギリス経済は「英国病」とよばれ,西側先進国の「お荷物」になっていた.もちろん,「優等生」は,不思議と敗戦国の日本と西ドイツだった.
かつての「大英帝国」は,第一次大戦ごろにはすっかり老衰の域にあったから,第二次大戦ではもう瀕死の状態であるにもかかわらず,「チャーチルのはったり」が戦後あたかも影響力を発揮したように見せている.
子分のはずのアメリカから,戦費の借金返済を督促されると,もはやこれまで,というありさまだった.

ふりかえると,衰退がとまらない英国は,第一次大戦後からだんだんと「平等」という意識がたかくなって,「国家が富を配分する」という「本来の社会主義」を追求するようになる.これは,資本主義社会から社会主義社会に「発展する」とした,マルクスたちの「理論」がただしい,というふうにもみえたから,労働党だけでなく保守党も競って「社会主義政策」を打ち出した.
それが,「ゆりかごから墓場まで」といって有名になった.

そんな風潮にがまんできなくなったロンドン大のハイエクが,ヒトラーとの死闘中に書いたのが「隷従への道」(「隷属への道」もある)であった.

  

この本は,アメリカでリーダーズダイジェストの要約記事になって,爆発的に読まれた.もちろん,わが国では「敵国」でのはなしだから,この本の存在を一般人はしらなかった.
「アメリカ人」に大受けしたというリーダーズダイジェストの「隷従への道」を読んでみたいものだが,手にはいらない.

ところで,もう10年も前になるが,エコノミスト誌に「JAPAIN」という特集記事がでたのを覚えておられるだろうか?
「JAPAN」のあいだに「I」をいれて,「痛いニッポン」とした造語である.
当時,民主党の岩國哲人国際局長が,この記事に抗議し,「公式に謝罪を要求」したことも話題になった.英国側は,この抗議を「Joke」と受けとめたという噂もある.

政治家が外国(出版社)に,「公式に謝罪を要求する」という文化は,なにもわが国周辺国から,わが国がいつも言われているということではなさそうだ.
この「抗議」の根拠については,ご興味のある方はお調べになるもよろしいかとおもう.

わたしの興味は,かつて「英国病」と揶揄されたお国を代表する経済誌から,「日本病」と揶揄されてしまったことである.しかも,きっかり10年前だ.
ちなみに,日本ではマイナーだが,欧米ビジネス界では知らないものはいない「パーキンソンの法則」は,1958年に「ロンドン・エコノミスト誌」に発表された.ここでいう,「ロンドン・エコノミスト誌」とは,「JAPAIN」のエコノミスト誌(英字)のことである.

状況はかわったか?
たしかに変わった.10年前より,確実に悪化している.
もはや「JAPAIN」は,一般名詞化しているのではないか?

さいきんの日本の親は子どもに,「勉強しなさい」とはいわないそうだ.むしろ,「言ってはならない」らしい.
本人の「気づき」が大切だという.
「気づいた」ら,だまっていても勉強に励むようになって,難関校に合格できるそうだ.
結構なことである.

どうやったら「気づく」のだろうか?
まさか,それも本人任せなら,一生気づかないでおわってしまうかもしれない.
たしかに,子といえども他人の人生だから,親として子の人生に100%関与できないが,それはふつう「放置」といわないか.

日本はもっと「英国病」に学ぶべきである.
サッチャー女史が逝去したとき,英国でもサッチャー政策の後遺症による「恨み節のデモ」があったと報道された.
しかし,真っ向から対抗するはずの,労働党首でときの首相トニー・ブレア氏は,「サッチャー革命の基盤の上に現在の英国がある」と発言したのは注目であった.
国家負担で「ゆりかごから墓場まで」を追求しているのは,いまは日本だけだ.

やっぱり,「がんばりなさい」ではなく,「悔しかったら勉強しなさい」と言ったとおもう.

教師は競争にさらされるか?

医療の世界では,もうすっかりわすれさられようとしているのが,「パターナリズム」である.
つまり,医師が患者を上から目線で見下げ,患者はそんな医師に全幅の信頼をよせて不思議とおもわないことである.
「せんせい,おねげーしますだ.なんとか治してやっておくんなせー」
と,懇願する場面がそれだ.

もちろん,重篤な患者をかかえた家族からすれば,なんとかしてほしいと願うことにかわりはないが,きっちり病状の説明と治療方針についての説明がなされるから,納得できなければ「セカンドオピニオン」を求めることもいまではあたりまえである.
それだから,医師と患者の関係は,それぞれの「役割」がはっきりする時代になった.とくに,患者側においての「病人役割」ということも重視されている.

つまり,患者側に「降りたってきた」医師に対して,患者も,「自分の役割を果たす」ということだ.説明に納得すれば,きちんと投薬を飲むことからはじまって,まさに二人三脚での治療に応じる,ということでもある.

これにたいして,「学校現場」ではどうだろうか?
いまだに,教師の「パターナリズム」は健在ではないかとうたがう.
勉強がわからない生徒は,わからない本人がわるい.
おなじ授業をうけていて,できるものはちゃんとしているから,自分の授業方法は正しいのだ,と.

先週の4月17日,3年ぶりに文部科学省がおこなう全国学力テストが実施された.
この「テスト」の結果は,なぜか「生徒」の「学力の実態」だけの話題がおおい.どうして,「教師」の「成果」という目線がないのか?

進学のための「受験」というプロセスが,学校側による「選択」すなわち,生徒を選ぶのは学校側である,という基本的態度があるが,これをうたがう親もすくない.
しかし,「少子」という時代になって,この基本的態度のままでよいのだろうか?と,どこまで学校関係者はみているのだろうか?

じつは,親や本人から選ばれているのだ.
つまり、行動の順番は,その学校への入学を「志望」したから「受験」するのであって,そもそも「志望動機」が希薄になれば,だれも「受験」などしない.
すると,従来の,「いい学校」ということの定義「だけ」で,これからも大丈夫なのか?ということになる.

では,「受験」がない,いわゆる義務教育における公立学校はどうなるのか?
一部の自治体で,住居地域をこえて希望する学校への入学をみとめているところはあるものの,おおくのばあい,「選択の余地がない」のがふつうだろう.
つまり,これは「無競争」状態なのだといえる.

「学校」という単位で無競争であれば,さらにちいさい「校内」という単位での競争もあろうはずがない.
ここでいう「競争」の主語は,「教師側」のことであるから念のため.つまり,生徒本人や親から「教師が」選ばれるための「競争」がないということだ.だから,「テスト」は生徒を評価するもの「だけ」としかみなくてよい.教える側の能力は問われない.

これは,「予備校」や「学習塾」といった「民間」では,とっくに「ありえない」ことである.
すなわち,これら「民間」では,いかにして「成績」にたいして「成果」をだすか?がストレートに問われるから,「密度の濃い授業」でさえ,もはや「売り」にはならない.なぜなら,過当競争のなかで,「密度の濃い授業」は,あたりまえになってしまったからだ.
いまでは,「カリスマ講師」のライバル塾からの引き抜きにともなう高額取引が常識だが,公立学校における教師の引き抜きなどきいたことがない.

それで,できる子にとっては,「塾」が勉強の場所になり,「学校」は勉強の合間のレジャーランドになった.これを,競争がないことであぐらをかいた「関係者」というおとなたちが,かってに「ゆとり」重視としてしまった.
その結果が,「教育格差」である.

だから,ほんらいは,いかにして「学校」を競争させ,校内でも教師間でその「腕」を競わせるか?がテーマになるべきなのに,どういう論理か「教育の無償化」という,おどろくべきトンチンカンな議論をして,教育格差が生んだ「できない子ども」だったおとなをだまそうとしている.
しかし,これは教師の側にも都合がいいから,「教育関係者」で反対するものはいない.

これにたいして,この国の「財界」は,さらにおっとりしていて,「大学教育を充実させろ」と文科大臣に言ったというから,その鈍感ぶりにあきれる.
どういう人財がほしいのか?という,「企業は人なり」の構成要素にたいして,まったくの無頓着ではないか?
おそらく,このじいさんたちは,自社の採用を担当者に丸投げしているにちがいない.

企業も,採用にあたって「選ばれている」ということをわすれてしまったのだ.
すでに,労働条件の「事前提示」(採用にあたっての事前情報)が,1月からの改正職業安定法施行で実態として義務化されている.これで,応募者は事前に会社に問い合わせができるし,会社は答えなければならないから,ここで会社のほうが労働者からの選択の対象になるのだ.

おそらく,こんごは,この提示内容の充実がはかられるにちがいない.
金融商品を購入するとき,不動産は賃貸契約でも,たっぷりと「重要事項説明」をきかされる.それが,携帯電話の契約にまで拡大したのだ.
トンチンカンな「働きかた改革」という議論をしているが,「雇用契約」において,放置されることはないだろう.

もうはじまって,だれにも止められない人口減少時代,労働者から選ばれなければ企業は存続できず,生徒から選ばれなければ学校も存続できない.
地域に子どもがいないから廃校にする,ではなく,あの学校に行きたい,あの先生に教わりたい,にするのが,おとなのやるべきことだろう.

現代の静かな「労働争議」

東京駅の自販機に「売切」ランプが続出している.その理由は,「労働争議」だ,という記事がある.
ツイッターでも,たくさんのリツイートがある(数日前で述べ800万人がみているという)から,そちらからご存じのかたもおおかろう.

いまどきの「労働争議」は,静かである.
むかしのは,「派手」だった.
しかし,上述のようにむかしにはなかったバーチャルな手段で,むかしとはちがう影響力を発揮している.
これを,会社側はどうみているのだろうか?と興味がわくが,あんがい「むかしながら」な反応らしい.

朝倉克己「近江絹糸『人権争議』はなぜ起きたか」(サンライズ出版,2012)という,当事者(新組合の組合長:当時)が書いた本をながめて,その会社側の対応ぶりを,冒頭の事例とくらべると,「進化」というイメージとはほどとおく,むしろ「退化」すらかんじてしまう.

ちなみに,近江絹糸の労働争議は,当時の「財界」も「恥じ」て,財界としても会社経営陣への圧力をかけたという事情まであるのだ.
三島由紀夫が,小説「絹と明察」に仕上げた,じつにおおきな「社会的事件」だった.

東京駅での労働争議は,ネット社会でのおおきな反応とはべつに,実社会での反応はおおきいといえるのだろうか?
記事は,実社会のひとたち向けだろうから,これから,というところなのだろう.
だが,伝える記事の内容は,おだやかではない会社側のかずかずの妨害行為である.

気になったのは,残業代の代わりなのか?面談を実施して根拠不明の金額が提示され,同意書をとるというが,「社長からの厚意」という説明もつくという点だ.
そもそも,会社から支給されるべきもので残業代などをふくむ「給与」は,「社長の厚意」で支払われるものではない.

この会社は,大手飲料メーカーの子会社とのことだから,きっと,「社長」は親会社からの出向者かなにかなのだろう.まず,「オーナー」ではなかろうから,サラリーマン社長であると想像できる.
すると,このひとは,親会社にもどると,またサラリーマンになるはずだ.しかし,そのまえに,これまでのサラリーマン人生で,給与は社長からもらっていると信じていたということになる.また,この会社の社長をとりまく幹部も,きっとそれをうたがわないひとたちなのだろう.

まったくのナンセンス集団が,経営幹部として存在していたものだ.
かれらは,近代資本主義社会に存在してはならない「中世封建社会」から,時空をこえて,まちがって今にやってきたひとたちである.
それは,「所有」と「占有」の区別ができない,ということで証明できる.

近代資本主義社会の根本をなす絶体のルールが,「所有権」は不可侵である,ということだ.
かんたんにいえば,自分のものと他人のものとの「区別ができる」ことである.
ここで,「占有」とは,他人のものをあたかも自分のもののように使っている状態をいう.しかし,いかに「占有」していても,それが「他人のもの」であることが変更される,つまり,自分のものになってしまう,ということはない.

ところが,中世封建社会では,この区別が曖昧なのだ.
武士に「本領安堵」のお墨付きをあたえるのが,武士政権たる「幕府」の存在意義である.
鎌倉幕府は,「貞永(御成敗)式目」において,所有権があるはずの土地を他人に二十年間以上占有されたら,所有権が移転する,ときめた.このルールは,いまだわが国の民法にて健在なのだ.
だから、わが国は,はたして近代資本主義社会なのかという疑問をはさむ余地がある.

しかし,たとえば「鑑定団」で,ただでもらったものに高額評価が出て,それを持主が売却し現金を得たところで,だれからも文句をいわれない.(税務は別だ)
これが,近世といわれる江戸時代でも,「殿から拝領した壺」を子孫が勝手に売却していたのがバレたら,もしかしたらおとがめになって,最悪,家が断絶させられるかもしれない.

もし,レンタカーを借りて,それがずっと借りっぱなしになっても,「借りている」のであって,「自分のもの」になったわけではない.
むかし,レンタルビデオを借りたものの,返却するのをすっかりわすれ,数十万円の請求を泣く泣く支払ったという事例がけっこうあった.

さて,本件にもどると,会社はだれのものか?という根幹に触れるのが,給与を「社長の厚意」とする発想にある.これでは,殿と家臣の関係になる.
近代資本主義社会での会社は,株主のもの(所有)である.
経営者は,株主から,経営という業務を託されているにすぎない.

だから,社長には会社の全資産を配分する権限があるようにみえるが,そうではない.社長は,会社を「占有」しているにすぎないから,もしおおきな資産配分の事案があれば,それは株主総会にはからなければならない.

労働者は,労働という商品を会社に売っていて,会社は,自社と雇用契約がある労働者から,労働という商品を買っている.このとき,「未払い」があるとしたら,それは会社の負債になる.
もちろん,労働という商品は,時間と質からできているから,あらかじめその料金はきまっている.

だから,労働者が「先に納品」してしまっも,成果とともに月末に給与が支払われるのはあっていい.つまり,前払いでなくてもよいのだ.
この論でいけば,「残業代」も,「先に納品」した,労働という商品になる.
だから,会社には支払義務が生じるのである.

もし,会社が残業代を支払いたくない,とするなら,「残業を発生させない」という指示をしなければならず,もちろん,それが合理的な指示であることが条件になる.つまり,働きかたと働かせ方の合理的な方法の提示である.
この事例の会社は,労働者の要求をみとめた労基署と,「見解がちがう」そうだから,まずは,業務上残業を合理的になくす方法を提示しなければならない.

戦後の(日本が途上国だった)高度成長期に「労働争議」となった経営者とおなじ発想で,今日もかくなる恥知らずな会社=経営者が存在することが,珍しいではすまされない「闇」である.
それにしても,「働きかた改革」が社会の話題になっているのに,「財界」の反応がみえてこない.
せめて,近江絹糸のときのようなリーダーシップを,財界もとるべきではないか.

一方で,こないだJR発足以来の「労使協調」がこわれた,JR東日本労組は,本件にどのような対応をしているのだろうか?
残念ながら,「記事」からはみえてこない.
鉄道の駅,というだけでなく,起きている現場が「東京駅」という「顔」なのだから,巨大労組が支援しないのか?という疑問である.

財界も,労働界も,この問題をどうするのか?
他人事でとおる話ではないはずだ.
また,労基署と「見解がちがう」で世の中とおるものなのか?もし,それが「とおる」なら,わが国は本格的に,「あたらしい中世」という時代区分で,世界経済から異質の存在になるだろう.

「食育」は成功しているか?

喫煙禁止を家庭内に持ちこもうとする「健康増進法」と,それによる都道府県条例が話題になっている.
わたしは,10年前まで喫煙者であったから禁煙には賛成だが,国家権力や公権力が家庭内や個人の自由にまで侵入することについては,強い違和感をもっている.

役人のやることは縦割りで,しかもオリジナルをコピーする.
これで国会を通過しているのだから,おなじパターンなら反対できない,という論法だろう.
議員はそうした理屈によわいから,官庁ごとににたような法律がたくさんできる.
「食育基本法」というものもそのパターンだろう.

この国は,国民が国家に依存しているが,愚民化がうまく行きすぎて国家による統制が,あんがい困難になってしまうこともあるから皮肉なものだが,「愚民」というキーワードでかんがえれば,やはりほめられたことではない.
国がさまざまな「組織」や「資格」をつくって,「食育」を「国民運動」にする,
この「国民運動」という手法は,戦前・戦中のやりかただという認識をもつひつようがある.

「戦争反対」を強く主張するひとたちでも,「国民運動」には熱心なことがある.
どちらの行動も,どこまでかんがえて行動しているのか不明だが,「よいこと」におもえてしまうのが恐いことなのだ.
それは,古今東西,国家は「国民の善意」を利用するからだ.そして,国家権力を強化する.

小学校の給食で,いったいどういった「食育」がおこなわれているのか?と問えば,管理栄養士が組み立てた「献立」をもって,食べさせている,だけではないか?
その献立が月単位で一覧になっている「献立表」すら,親がどこまで読み込めているのか?
クラス担任の教諭とて,子どもたちと一緒に「食べる」というだけで,どのくらいの「説明」をしているのか?

つまりは,教室では「うまい」「まずい」だけが本音であって,まさか外国人が絶賛する「配膳」と「後片付け」をもって「食育」といっているなら,それこそ茶番である.
しかし,「親」世代も,給食世代だから,じつは「食育」世代なのだ.
「献立表」の記載が読み込めない,つまり,じぶんの子どもがどんなに考えられたメニューを食べているのかに興味がいかない親だから,給食の自己負担分すら支払わないのではないか?と想像するのだ.

中学や高校の「化学」で,生活のための「化学」を学ぶようになっていない.
「消化」というのは,完全に化学反応だから、そのもとになる「食物」や「食材」が,どんな組成で,それを「食べる」とはどういう意味なのか?
「女子高生」も卒業後10年もすれば「母」になる可能性がある.
「男子高生」も「父」になるが,「イクメン」などといっているわりに,子どもになにを食べさせるのか?ということの知識が,学校で教育されないのだ.

それなのに,「食育」といってはばからないのは,いったいどういう精神構造なのか?
「だから予算をつけなければならない」
これが,役人の発想になるのだが,自分事ではなくて他人ごとになっていることが問題なのだ.

「なにを食べるのか?」は自由である.
しかし,おとなとちがって,自分で選択することができない子どもに,「なにを食べさせるのか?」は,おとなの責任である.

休日の朝,ファストフード店にいけばよい.
離乳食レベルの赤ちゃんから小中高生が家族の朝食として,あるいは若いお父さんと来店している光景をみることができる.
こうした顧客層に対する,店員たちの献身的なサービスは,一見きもちのよいものなのだが,顧客が自分からすすんで購入した「食べ物の正体」をかんがえると,不気味なものがある.

人生の早いうちから,味を覚えさせろ!
さすれば,一生涯にわたっての顧客になる.
一回300円の購入でも,(週に何回)×(70年間)では,300万円をゆうに超える支出となる.

奇跡的に無能な経営者

デービッド・アトキンソンさんの単刀直入ないいかたは,もしかしたら日本人だったら「毒舌」でもすまされないかもしれない.
しかし,事実は事実としてみとめることも「大人」のうちである.
または,それが的を射るにあまりにも適切だから,ショックでぐうの音もでないが,しばらくすると怒りがこみあげてくる,というのも「無能」ゆえなのかもしれない.

経営者が無能でも業績がよい,なんてことはあるのか?
こたえは,ある,だ.

単純モデルでかんがえるのは,経済学の基本だ.
たとえば,リカードの比較優位説は,りんごとミカンの貿易モデルで証明できる.
だから,単純モデルで経営をかんがえたとき,経営者が無能なら,業績は悪化するのは当然だ.
しかし,単純モデルのまちがいも経済学はみつけだした.
これを,「合成の誤謬」という.

本来は,たとえば,インフレが多額のローンを持つ個人にはありがたい意味をあたえるが,社会全体では困りもの,というように説明されるものだ.
一企業として,経営者が無能でも,その社会や国がおかれた条件によって,経済成長することはありえる.

もちろん,ここに「優秀な官僚」もひつようない.むしろ,「官僚は無能」なのがふつうだから,このモデルに官僚のでばんは最初からないのだが,経済成長が官僚のおかげであるように仕向けた城山三郎のような作家が,「国家依存」というおそるべき勘違いを社会に埋め込んだ.この罪は相当に重い.

明治以来の日本経済は,資本蓄積がほとんどない状態からの出発をよぎなくされたから,世界を相手にした日本側の努力は,低賃金と長時間労働しかなかった.
つまり,低賃金で長時間労働をさせることが「経営」であったから,「経営者」は自社においていかに低賃金で長時間労働をさせることができるかをかんがえ,実行すればよかった.そして,いまとちがって,この時代は資本蓄積がないから,経営者は資本家たりえた.つまり,オーナー経営者の時代で,サラリーマン経営者の現代とはちがうことも注意したい.

「女工哀史」という有名な本がある.
おおくのひとが勘違いしている本でもある.それは,生糸の生産における女工たちが,いかに搾り取られたという酷い話だと思い込んでいるからだ.
たしかに,おおきなテーマはその通りなのだが,個別のはなしになると映画やテレビドラマのような「プロレタリア文学」の世界ではない.

世界遺産の「富岡製糸場」にも説明があるが,工場内には最新の医務室があり,そこには国籍をとわず,当時としては一流の医師や看護体制があった.
女工が病気になっては,生産量が減るからである.だから,健康管理にはたいへんな気をつかった.つくられた映像の強制労働的な表現は,作りばなしである.

また,近隣の村々から,女工を募集しなければならないから,強制労働のうわさがたてば,とたんに応募がなくなる.すくなくても,初期の製糸場では,後世の常識ではないことが常識だった.
成績優秀な女工には特別手当が支払われたから,ひとりの優秀な女工が成績をあげると,実家にはいまでいう「御殿」が建った.それほどの報酬が支給された.
これは,品質とスピードという競争の結果である.

しかし,これらの努力よりも,おおきな効果をかんたんに生むことが遙か遠い欧州で起きた.
それが,第一次大戦だった.
「大戦景気」という「努力」とは別の次元でおきたことで,奇跡的にうまくいく.
つくればその場から売れていく.夢のような事態であった.すなわち,バブルである.

このときの「景気」による資本蓄積が,重化学工業化を促進させ,「列強」としての格付けに貢献することになる.
大戦中の四年間で,わが国貿易額は4倍になった.年率にすれば,40%以上の成長率である.昭和の高度成長期でさえ10%超までだったのだから,その迫力はいまでは想像も困難だ.
都市労働者が吉原の郭から工場へかよった,という逸話は真実だった.

これを支えたのが,女工であった.
景気に目がくらんだ愚かな資本家=経営者は,とうとう女工を奴隷のように扱って,国内に結核蔓延の下地をつくった.農村の疲弊で,娘の口減らし先を選べなくなってもいた.

大正から昭和の初めは,大戦の終了と,関東大震災,それに,天保以来の大飢饉という「自助」ではどうにもならない三段波状攻撃を受けて,わが国は別の国になる.

「持たざる国」が,「持てる国」たちと同格の競争に負けまいと,「持てる国」を真似た国策を追求した.
このあたりの事情は,戦後GHQでわが国労働法の基礎をつくりにやってきた,ヘレン・ミアーズが書いた『アメリカの鏡 日本』にくわしい.また,本書の冒頭にあるように,マッカーサーが日本語版を「発禁」にしたことでも有名になった本である.なぜに,発禁とされたのか?は読み進むとわかるだろう.

ちなみに,マッカーサーの副官でもあったウェデマイヤー将軍の,『第二次大戦に勝者なし』は,「勝者の目線」での分析でありながら,じつにむなしくせつないことが,淡々と綴られている.この本の出版が,原著の出版からいかほど「遅く」日本語となったのか?をかんがえることも,戦後日本の言語空間についてのひとつの思考実験になるだろう.

 

敗戦で丸裸になっても,朝鮮戦争と,東西冷戦という世界構造,それに安い石油がくわわった,三段波状の奇跡的ラッキーで,わが国経済は拡大の一途を辿る.これに,西ドイツ経済もおなじくするところが,「戦後世界経済」の肝ではないか?全体主義的敗戦国が,西側の「優等生」になる.
日独ともに,空襲で焼け野原になった工業地帯の復興は,最新設備の導入というラッキーをもたらし,空襲で焼けなかった戦勝国の設備より必然的に有利になってしまったのだ.

もちろん国がすすめた「傾斜生産方式」が,民間設備投資の自由を奪うじゃまをしたが,戦後の混乱が行政機能もマヒさせたから,傾斜生産方式が「打ち出される前」に,奇跡の準備はできていた.
このラッキーをいう専門家がすくないのは,商工省から通産省になった役所からの「配分」が減らされる恐怖からではないかと疑う.
戦後復興の栄光ある経済政策,傾斜生産方式をやりとげた通産省・経済官僚の勝利,とは,たんなる「神話」=「ファンタジー」である.

まさに,「奇跡」は,戦前という時代にも,戦後という時代にもやってきた.
その戦後の奇跡をつくった,東西冷戦も,安い石油もいまはない.のこるは,朝鮮戦争の残滓である.
西ドイツは「東」の負担を背負ってなお欧州をけん引しているから,なにごともなかったわが国の凋落こそが,真の「実力」となってあらわれている.

平成不況の真因は,バブル崩壊でもなんでもなく,「奇跡の時代のおわり」に対応できなかったことであろう.
しかし,いまだにおおくのひとが,あれは「奇跡」だったとおもっていない.
「勤勉」はなにも日本人の特許ではないが,世界で一番働いたのは日本人「だけ」だとうぬぼれた.この勘違いこそが現代の「奇跡」であり,「無能」の証拠である.

労働生産性が先進国でビリなのは,今に始まったことではなく,高度成長期すら,である.
たしかに当時の日本人もよく働いた.しかし,その働き方は,いまと同様「能」がなかったということだ.ムダによく働いた.
すなわち,これは「働かせ方」の無能がさせたのだ.

それを隠そうと厚化粧で誤魔化したのが,官僚の「優秀」さと勤労者の「勤勉」というからくり方便で,数えるほどしかいない「名経営者」が華を添えた.
そうやって,勤労者は,よいしょされてコロッとだまされて久しい.

実力をとわれる時代になったがゆえに,低賃金で長時間労働という,この国のなりわいである本当の顔がおもてにでてきた.
それを,「優秀な政府・官僚」が法律でなんとかしようとするのは愚かであるとだれもいわない.
そこで,英国人のアトキンソンさんが登場した.

これは「奇跡」なのだろうか?