教師は競争にさらされるか?

医療の世界では,もうすっかりわすれさられようとしているのが,「パターナリズム」である.
つまり,医師が患者を上から目線で見下げ,患者はそんな医師に全幅の信頼をよせて不思議とおもわないことである.
「せんせい,おねげーしますだ.なんとか治してやっておくんなせー」
と,懇願する場面がそれだ.

もちろん,重篤な患者をかかえた家族からすれば,なんとかしてほしいと願うことにかわりはないが,きっちり病状の説明と治療方針についての説明がなされるから,納得できなければ「セカンドオピニオン」を求めることもいまではあたりまえである.
それだから,医師と患者の関係は,それぞれの「役割」がはっきりする時代になった.とくに,患者側においての「病人役割」ということも重視されている.

つまり,患者側に「降りたってきた」医師に対して,患者も,「自分の役割を果たす」ということだ.説明に納得すれば,きちんと投薬を飲むことからはじまって,まさに二人三脚での治療に応じる,ということでもある.

これにたいして,「学校現場」ではどうだろうか?
いまだに,教師の「パターナリズム」は健在ではないかとうたがう.
勉強がわからない生徒は,わからない本人がわるい.
おなじ授業をうけていて,できるものはちゃんとしているから,自分の授業方法は正しいのだ,と.

先週の4月17日,3年ぶりに文部科学省がおこなう全国学力テストが実施された.
この「テスト」の結果は,なぜか「生徒」の「学力の実態」だけの話題がおおい.どうして,「教師」の「成果」という目線がないのか?

進学のための「受験」というプロセスが,学校側による「選択」すなわち,生徒を選ぶのは学校側である,という基本的態度があるが,これをうたがう親もすくない.
しかし,「少子」という時代になって,この基本的態度のままでよいのだろうか?と,どこまで学校関係者はみているのだろうか?

じつは,親や本人から選ばれているのだ.
つまり、行動の順番は,その学校への入学を「志望」したから「受験」するのであって,そもそも「志望動機」が希薄になれば,だれも「受験」などしない.
すると,従来の,「いい学校」ということの定義「だけ」で,これからも大丈夫なのか?ということになる.

では,「受験」がない,いわゆる義務教育における公立学校はどうなるのか?
一部の自治体で,住居地域をこえて希望する学校への入学をみとめているところはあるものの,おおくのばあい,「選択の余地がない」のがふつうだろう.
つまり,これは「無競争」状態なのだといえる.

「学校」という単位で無競争であれば,さらにちいさい「校内」という単位での競争もあろうはずがない.
ここでいう「競争」の主語は,「教師側」のことであるから念のため.つまり,生徒本人や親から「教師が」選ばれるための「競争」がないということだ.だから,「テスト」は生徒を評価するもの「だけ」としかみなくてよい.教える側の能力は問われない.

これは,「予備校」や「学習塾」といった「民間」では,とっくに「ありえない」ことである.
すなわち,これら「民間」では,いかにして「成績」にたいして「成果」をだすか?がストレートに問われるから,「密度の濃い授業」でさえ,もはや「売り」にはならない.なぜなら,過当競争のなかで,「密度の濃い授業」は,あたりまえになってしまったからだ.
いまでは,「カリスマ講師」のライバル塾からの引き抜きにともなう高額取引が常識だが,公立学校における教師の引き抜きなどきいたことがない.

それで,できる子にとっては,「塾」が勉強の場所になり,「学校」は勉強の合間のレジャーランドになった.これを,競争がないことであぐらをかいた「関係者」というおとなたちが,かってに「ゆとり」重視としてしまった.
その結果が,「教育格差」である.

だから,ほんらいは,いかにして「学校」を競争させ,校内でも教師間でその「腕」を競わせるか?がテーマになるべきなのに,どういう論理か「教育の無償化」という,おどろくべきトンチンカンな議論をして,教育格差が生んだ「できない子ども」だったおとなをだまそうとしている.
しかし,これは教師の側にも都合がいいから,「教育関係者」で反対するものはいない.

これにたいして,この国の「財界」は,さらにおっとりしていて,「大学教育を充実させろ」と文科大臣に言ったというから,その鈍感ぶりにあきれる.
どういう人財がほしいのか?という,「企業は人なり」の構成要素にたいして,まったくの無頓着ではないか?
おそらく,このじいさんたちは,自社の採用を担当者に丸投げしているにちがいない.

企業も,採用にあたって「選ばれている」ということをわすれてしまったのだ.
すでに,労働条件の「事前提示」(採用にあたっての事前情報)が,1月からの改正職業安定法施行で実態として義務化されている.これで,応募者は事前に会社に問い合わせができるし,会社は答えなければならないから,ここで会社のほうが労働者からの選択の対象になるのだ.

おそらく,こんごは,この提示内容の充実がはかられるにちがいない.
金融商品を購入するとき,不動産は賃貸契約でも,たっぷりと「重要事項説明」をきかされる.それが,携帯電話の契約にまで拡大したのだ.
トンチンカンな「働きかた改革」という議論をしているが,「雇用契約」において,放置されることはないだろう.

もうはじまって,だれにも止められない人口減少時代,労働者から選ばれなければ企業は存続できず,生徒から選ばれなければ学校も存続できない.
地域に子どもがいないから廃校にする,ではなく,あの学校に行きたい,あの先生に教わりたい,にするのが,おとなのやるべきことだろう.

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