世界最大の客船がこない

現在,もっともおおきい客船は,「ハーモニー・オブ・ザ・シーズ」という名前をもっている.
長さ 362.12m 総トン数 226,963トン 船幅 47.42m 高さ 72m 最高速度 46km/h
定員最大 6,780名 乗務員数 2,190名 建造費 1,350億円 就航年 2016年

横浜港にある,かつての太平洋の女王「氷川丸」のスペックは,
長さ 163.3m 総トン数 11,622トン 船幅 20.12m 最高速度33.725km/h
定員 331名 就航年 1930年(昭和5年)

ほら,やっぱりくらべものにならないではないか!
早合点はちょっとまってほしい.
昭和5年に,ホノルルまで一等250ドル(1,050円)という記録がある.
当時の1円は,いまの10,000円ぐらいだから,片道でホノルルまでの運賃が1,000万円を超える計算になる.
あたりまえだが,当時外国に行けたのは,特別なひとたちだけだった.

一方で,世界最大客船の料金は,二人一室7泊8日で$3,100(海側客室・食事付き,二名)+寄港地でのツアーだから,高価ではあるが「驚くほど高価」ではない.
もっとも,日本からの乗船なら,出発地までの交通費がばかにならない.
それで,この船の経験者は日本ではすくないだろう.

世界最大の客船内にはどんな施設があるのだろうか?
プールや劇場は定番で当然だが,カジノも忘れてはいけない.
「国際海洋法条約」で,日本船籍の場合は,カジノが国内違法なので公海上でも禁止であるが,外国船籍では,籍のある国の法に従うため「合法」になる.日本では「カジノ法」は成立したが,「実施法」がまだなので,当面は「禁止」だろう.
だから,この船が「IR(統合型リゾート)」である.
この手の船は,めったにこないが.
日本のリゾート業界は,それで助かっている.

ところで,かつての造船大国から転落したわが国だが,この船の建造はフランスなのだ.
建造費を定員で割ると,お客様ひとりあたり2,000万円程度になる.
日本で地上に建てるホテルより,安いのではないか?

最大客船のグレードは低い

ホテルにもグレードがあるように,客船にもグレードがあってこれを「クラス」という.
最高は,「ラグジュアリー・クラス」,中位は,「プレミアム・クラス」,そして,「カジュアル・クラス」の三種類だ.

「世界最大の豪華客船」は,当然に「ラグジュアリー」だとおもったらそうではなく,「カジュアル」に位置する.
「大きいことはいいこと」ではなかった.
入港できる港の大きさや深さといった制約があるし,大量のお客を乗せるのだから,サービスのきめも荒いという.

かつての氷川丸と比較すべきは,「ラグジュアリー・クラス」なのだ.

「カボタージュ」というルール

「サボタージュ」ではない.「カ」である.
これは,国内輸送を国内業者に限定する制度をいう.
例えば,外国籍の船による国際クルーズで,横浜港と神戸港を出発して香港に向かう場合,横浜から乗船したひとは,神戸で下船できない,ということだ.

飛行機は,カボタージュの規制緩和がすすんでいる.
「コードシェア便」というやり方を考えだした.
だから,この規制はもっぱら「海上輸送」にかかわる.

オーストラリアとニュージーランドが,この規制を撤廃したら,内航輸送の国内業者は壊滅的打撃をうけたという.これら政府は,コスト軽減を選んだのだ.
横浜市も,規制緩和を国に要請している.
客船も,コンテナも,「国際的」な経路から外れるという問題があるからだ.
「豪華客船」がめったにこなくなった理由のひとつでもある.

業界団体である,日本内航海運組合総連合会は当然強く規制緩和に反対している.

カボタージュは,国際的に認められている規制なので,概ね「維持すべし」ということなのだろうが,国民経済という視点から議論がおこなわれているようだ.
外の目からすると,この議論に抜けているのは,人口減少,である.
日本人の「船員」が,今後確保できるのか?

もしかすると,カボタージュは維持したいができない,ということになりかねない.
従来どおりの前提条件で,議論してもはじまらない事例のひとつである.

さいきんの「官庁文学」を読む

昨年6月9日,「未来投資戦略2017」というタイトルの「官庁文学」が閣議決定されている.

もう半年以上が経過するが,めだった批判がない.
これは,気持ち悪いので,ここで書いておこうとおもう.

199ページにわたる大著である

官庁文学というジャンルでもっとも有名なのは,「白書」シリーズである.
これは,毎年,定期的にでるから,愛読者もおおいだろう.ただし,「政府」という,かならず間違ったことをする組織の宣伝文だから,読者に相当な読解力を要求される「現代文学」のひとつである.

「未来投資戦略2017」というのは,その,かならず間違ったことをする政府が,厚顔無恥にも大上段で発信している,官庁文学のなかでも「プロパガンダ文学」というジャンルになる.
「プロパガンダ」という分野では,圧倒的にナチスのヨーゼフ・ゲッペルスという天才による完璧な「教義強制」の実績がしられ,これをスターリンや毛沢東も参考に自国で応用した.

残念ながらというよりも幸運にもか?,日本人は,教義を強制される,という方法ではなく,GHQのWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)によって国民を痴呆化させる,という方法のために,たとえ強制されても理解できない,という方向にむいている.しかし,その前に,政府の貧弱な宣伝力のせいで,最新作である「未来投資戦略2017」を国民一般が読んでいない.
だが,興味もない,となると,それは自分も「白痴化しているかもしれない」と疑うとよい.

この際だからせめて,「第1 ポイント 基本的な考え方」の10ページだけでもいいから目を通しておくとよいだろう.
「Society 5.0 に向けた戦略分野」として,以下の5項目があげられている.国民生活のほとんどをカバーしているので,まさにソ連型全体主義体制を彷彿とさせる.
観光系は,4にしめされているが,つぎの5では電子決済が目標化されている.
5は,「キャッシュレス化」をいうだけで,政府の「通貨発行益」にかかわる記述が「ない」ことに注目したい.これは,国民からハイエクの「通貨発行自由化論」を隠し,「通貨発行益」を死守するという表明でもある.
1 .健康寿命の延伸
2 .移動革命の実現
3 .サプライチェーンの次世代化
4 .快適なインフラ・まちづくり
5 .FinTech
「Society 5.0」というのは,「①狩猟社会、②農耕社会、③工業社会、④情報社会に続く、人類史上5番目の新しい社会。新しい価値やサービスが次々と創出され、社会の主体たる人々に豊かさをもたらしていく」と,なんと「脚注」で説明されている.

「未来投資戦略2017」という政府の主張をつらぬく前提となる基本的価値観が,この「Society 5.0」なのであるが,「脚注」で処理しておわり,ということからして論理の飛躍がある.
つまり,本書は「SF」という分野に分類されるのではないか?通常の「SF」は,Science Fiction だが,本書は前提から Science を無視しているから,本書の「S」は,Social だろう.

つまり,本書は新分野の文学に位置づけられようが,内容はかなり「白日夢」的で,妖しい雰囲気を醸し出している.
「Society 5.0」は人類史における「第四次産業革命」だという.それで,日本政府は,産業革命をさせようというのだ.過去の産業革命は,一度も,政府主導のものなどなかったことを知らないらしい.政府や政治が主導したのは,「社会破壊」のほんとうの「革命」しかない.

ところで,この「基本的な考え方」には,5つしか項目がないが,本文でもある「具体的施策」になると,いきなり「6」が出現する.それは,「エネルギー」であって,「安全が確認された原子力の活用」とある.みごとな科学の否定.数千年オーダーの福島の後始末を「7」で挙げるべきだろう.
それにしても目次からはずすとは,政府は必ず間違えるだけでなく,姑息なことをする,と覚えておきたい.

このままガラパゴス化してしまう

「Society 5.0」を推進すると,「適切な人材投資と雇用シフト」という労働の付け替えをしなければならない.それは,「生産性の抜本的改善を伴うことから失業問題を引き起こす」が,「日本は長期的に労働力人口が減少し続けることから」,「他の先進国のような社会的摩擦を回避できる」そうだ.
これを「眉唾」といわなければ,たんなる「希望」だろう.「SF」の「F」は,Fiction のはずだが,Fantasy も掛けてあるから,和歌の伝統までも受け継ぐみごとさだ.

「第4次産業革命のイノベーションは、予測困難なスピードと経路で進んでいくことから、対応が遅れたり大胆な変革を 躊躇(ちゅうちょ)したりすると、世界の先行企業の下請け化して、中間層が崩壊してしまうおそれがある。」
「日本は先行企業の下請け化するかガラパゴス化するしかなくなってしまう。」
と,二度も「下請け化してしまう」と心配している.
著者は,「下請け」がよほど嫌なのだろうが,それでは,中小企業庁の立場がないではないか.

世界の先行企業は,「水平分業」にシフトしており,「下請け,孫請け,曾孫請け」をやめられない日本は,いまだに「垂直分業」体制だ.その,体制を維持し,「水平分業」化を邪魔しているのが政府の規制や,その意向でしか動けない「業界団体」の「自主規制」ではなかったか.さらに,脆弱でかわいそうな中小・零細企業は「守らなければならない」から,「支援」と称して補助金漬けにする.こうして,むりやり「下請け」のままに固定させるのが,中小企業庁のお役目ではないか.

昭和23年に発足して以来,わが国中小企業の経営環境が,この役所の存在によって大きく改善されたという証拠がどこにあるのか?
即刻解散させて,現在の定員195名を直接中小企業に勤務させた方が,よほど為になるかもしれない.ただし,これらの人たちを採用したいとおもう中小企業があればだ.

この手法は,農業政策や医療分野などとそっくりおなじである.つまり,おなじパターンで全産業を,「固定」してきたのが政府である.
それを否定しようとは,みごとなまでのダブルスタンダード.
まさに「文学」でしかない,世迷い言である.

「ガラケー」に象徴されるように,この国が世界標準から別世界にむかったのは,世界は「消費者利益優先」を選択したのに,役所の『産業優先』という戦中からの「政策」と,利権がともなう「規制」のたまものだったことぐらいは,だれでも知っている.それを,いまさら,だれのせいにしようとしているのだろうか?

ついでにいえば,政府がすきな「日本版◯◯」というときの「日本版」には,「ガラパゴス化」が含まれている.つまり,日本の「ガラパゴス化」をもっとも強力に推進してきた張本人が政府である.
その政府が,上記のような言い分をして,しらっとしていられる神経は,もはやまともではない.

重要なのは,「第4次産業革命のイノベーションは、予測困難なスピードと経路で進んでいく」という,正しい認識を示し,さらに,「Society 5.0を実現する主役はあくまで民間の活力であり、全ての産業で、従来型システムから舵を切り、知識集約型に産業構造を転換するための大胆な事業ポートフォリオの転換を断行する勇気と行動が求められる。」というように,「主役はあくまで民間」といっていることである.

「予測困難」だから、硬直的な行動しかとれない政府は役に立たない.
だから、政府は民間の行動の邪魔をしてはいけない.
これが,自由経済の大原則だ.

本書は,責任は民間におしつけながら,政府が徹底的に関与する,という「宣言」になっている.
「さあ,仕事をしよう!」と,役人が腕まくりしている絵図である.財政難という存立基盤をすっかり忘れて,業界支配のための「補助金」が飛び交うことだろう.

これは,国民にとって絶望的な未来がやってくることに「確信」すら得られるとんでもないことだ.この「確信」になった「絶望感」こそ,「少子化」という現象の正体ではないか?
政府こそが,明治以来の開発独裁をやめて,「大胆な事業ポートフォリオの転換を断行する勇気と行動が求められる。」のである,と特大ブーメランで返してやりたい.
その意味で,21世紀の自由経済体制のはずの「日本」における,「社会主義の失敗」として重要な「歴史資料」になるだろう.

すでに,こんな批判をだれも「書けない」社会になってしまったのかもしれない.

工業技術見本市にサービス・観光業がきていない

昨日から三日間の予定で,パシフィコ横浜にて,恒例の工業技術見本市がはじまった.
テクニカルショウヨコハマ2018(第39回)が正式名称なので,横浜市や神奈川県を中心とした企業が出展しているのだが,どっこい大田区や山梨,新潟からもしっかり参加企業がある.
今月は,これも春恒例の「ホテルレストランショー」がビッグサイトであるから,業界関係者はそちらのほうに目がいっているのだろうか?
いくつかの「ミスマッチ」を感じたので,記述しておきたい.

なんとなくミスマッチ

第一は,あいかわらず『「工業」は「ものづくり」』というミスマッチである.
これは,工業のひとたちが,他社の技術をみてさらになにかあたらしいものを作ろう,ということを否定しているのではない.
いいたいのは,「ものづくり」の限界がとっくにみえているのに,まだ「ものづくり」をしようとしていることである.

「ものづくりの限界」は二つある.
一つは,「デジタル生産」の限界である.これは,アジア新興国の得意分野になった.
二つ目は,「高齢化」による限界である.いわゆる職人技(「ローテク」ともいわれる)の断絶である.デジタル生産だけではできない,これこそが,日本の強みだった.その熟練の技が,高齢化という時間との闘いによってうしなわれようとしている.それを,仕方なく「デジタル」で補おうとするのは,新興国もしっている課題だ.中国の展示ブースが,それを象徴していた.

だから,それでも,歯を食いしばってがんばる姿が,妙に痛々しいのだ.
これは,昭和の成功体験の直線上の継続にすぎない,とおもえるからだ.
つまり,新興国とおなじ土俵でまだ闘おうとしている姿である.
要素価格均等化定理の罠から,でる気がないのか?まったく不思議である.
それを,「行政」が一生懸命支援している.

ワンパターンもここまでくると,滑稽にみえる.
おもえば,「平成」という時代は,とうとう「昭和」の精算すらできなかったのではないか?

工業は「ものづくり」をはやくやめるべきではないか?
わが国でもっとも利益率がたかい製造業企業は,だれでもしっているキーエンスだ.
しかも,かれらは,とっくに自社製造工場を放棄している.「工場」がないのに,製造業に分類されている.
かれらの本業は,製品企画と設計なのだ.
つまり,日本の製造業の将来あるべきすがたは,キーエンスのようになることである.

だから、ミスマッチの二つ目は,「もの」そのもを見ているだけで,「生活」をみているという展示がすくなかったことだ.
どんな「もの」であろうと,さいごは「消費者」によって「消費」される.それで,わざわざ「最終消費者」なるいい方まである.だから、たとえ「B to B」であっても,重要な概念なのだ.
自社は,消費者からみて,どこにいるのか?という演繹の発想がなければならないとおもうのだが,ほとんど感じなかった.

サービス・観光業が,工業を無視しているというミスマッチが強くうかがえた.
「文明の利器」は,ほとんど工業からうみだされている.
利用客に,快適さや利便性を提供するには,日本という先進工業国における工業がいまなにをしているのかをチェックするのは当然とおもうが,そんな発想すらなさそうだ.

しかし,これは工業側もおなじであるのは上述した.「生活」のなかに,サービス・観光業は存在するからだ.

本当に深刻なのはサービス業からの発信がないことだ

どんな便利なものがほしいのか?がわからないのが工業.
こんな便利なものがほしい?がわからないのがサービス業,になっていないか?
サービス業からのニーズに工業がこたえ,それを世界がほしがるというのが,本来の先進国としての役割ではないか?
であれば,製品自体をどこで作るかはどうでもいい.
アップルのような企業が,「見本」なのだ.

サービス業の生産性の低さについては,たびたびこのブログでも触れている.
しかし,そのサービス業が,業界内はもとより,異業種にすら発信していないのではないか?という疑問が,あらためてわいた展示会だった.

ホテルレストランショーで,どんな提案があるのか,確認しなければならない.

観るだけの観光

光を観ると書いて「観光」だから,明治のひとは「Sightseeing」を訳したのだろう.じっくり観る感じがする.
「Tourism」は,これとはちがって,「名所巡り」という系統だろうから動きがある感じがする.お正月の「七福神巡り」も,指定された寺院に行くことが目的になるから,あんがい周辺をじっくり観る「観光」はパスしてしまう.
「団体ツアー」の絵はがき旅行も「観る観光」の観点から批判があるけれども,しらない土地での名所旧跡を「効率的」にまわれるから「ツアー」であって,個人的には嫌いではない.気に入ったら,あとでゆっくり個人旅行で「Sightseeing」をすればいい.

日本語は便利すぎて,どちらも「観光」で片づくが,どうやら「観光」と「名所巡り」は外国語のように分けたほうがよさそうだ.
名所巡りをしていても,目的地の名所を観光するとなると,いろんなものを「観る」ことになる.
このところ,「体験型の観光」が注目されているが,基本は「観光」という概念のなかにふくまれるだろう.

「観る」という場面で限定すれば,博物館や美術館は,もっぱら「観る」ものばかりである.
そこで,どんなものかと解説書きを読むのだが,有名な展示品については,「音声ガイド」という便利なものも普及してきた.しかし,これはすべての展示品が対象ではないから,音声ガイドの端末を借りたら,たいていは音声ガイドのあるものだけを「巡る」ことになる.それで,館内「ツアー」になる.

世界的に有名な博物館や美術館なら,じっくり「観光」すると毎日通っても一週間ではたりないかもしれない.
むかし,スペインのプラド美術館に三日通ったが,わたしの脳は画像データの消化不良で頭がぼんやりして気分が悪くなってしまった.日程の都合から三日で済まそうとしたのがいけなかったのだろう.完全に情報過多だった.
そういう意味でも,館内「ツアー」は効率的である.おそらく,二時間もあれば全館を巡るのだろう.
しかし,残念ながら印象に残ることはすくないから,どうしても「行ってきた」ということで終わってしまう.
だから,「観光」と「ツアー」は,トレードオフの関係にあるようにおもう.

観る観光は高い教養を要求されるから難易度が高い

テレビ番組で,美術をあつかったものはおおくないが,ある作家とか,一枚の絵とかと,対象をかなり絞り込んだ内容で構成されているから,視聴者はかなり深く情報をえることができる.
どんなに有名な作家で,どんなに有名な作品であろうが,そうした背景をしっていて鑑賞するのと,ただ観るのとでは雲泥の差である.

国内海外問わず,博物館・美術館,神社仏閣・名所旧跡を「観光」しようとすると,「教養」という壁がたちはだかる.
たとえば,観光の対象が自然の景観であるとしても,ただ観て「きれい」とか「すばらしい」で済まして,写真に記録を残すだけならそれでおしまいである.これが,従来の「観光」であった.
しかし,その景観がどうやってできたのか?地球物理学的な観察の説明や樹木や動物の特徴といった生態学,とか,そこで暮らす人がのこしてきた民話などという情報がつながると,がぜん価値が磨かれる.
これらを,どうやってスマートに情報提供するか?というのが,観光地にもとめられるのだろう.

地元のひとたちの教養が難易度を下げる

どういった解説・説明があるといいのか?
それを表現する方法で,もっともうまい方法はなにか?
そもそも,想定客はだれか?

残念な観光地には,おざなりで貧弱な説明しかない.これは世界共通である.
しかし,先進国と呼ばれる国では,あまりみかけない.
しっかり「観る」に集中させたら,つぎにはしっかり消費させるような段取りが組まれている.
そういったプログラムの構成は,役所のプロデュースではできない.

農産物輸出と駐車場

まったくちがう分野の話題にみえるのだが,昨日2月4日の新聞で注目の「共通記事」だ.

結論をさきにいえば,どちらも「政府の失敗」である.
丁寧にいえば,典型的なソ連型計画経済の失敗という意味だ.
民間の自由をうばって,政府が経済に命令するとこうなる,という旧東欧社会主義圏の住人なら,21世紀の日本でこんな政策がまだおこなわれていて,それを新聞が批判しないことに,唖然とするか,ノスタルジーすら感じるひともいるのではなかろうか.

日本政府のダブルスタンダードここにあり

「生産性向上」のために「働きかた改革」を打ち出してみたりと,なにかやっている振りをしているが,そもそもおおきなお世話である.
その一方で,あらゆる分野に命令し,ことごとく失敗しているのは政府である.
お願いだから,政府は邪魔な「経済政策」というお節介を,一日もはやくやめてほしい.
たったそれだけ,政府が退場すれば,この国の経済はよくなるだろう.

記事によると,農産物輸出が不調の理由は,「HACCP」という世界共通規格が日本で普及していない,という.
また,「グローバルGAP」という農産物の国際認証が,日本ではほとんど普及していないのが問題だとしている.
しかしこれは,農業鎖国政策の結果でしかない.それを,こんどは,企業や農家のせいにする.

東京オリンピック選手村での食事提供は大丈夫なのか?

数年前から指摘されている問題である.
上述の「輸出の不調」は,「選手村」という江戸時代の長崎の出島のような「想定の国外」でも発生する可能性と同意である.
つまり,各国選手には,グローバルな規格や認証を経たものしか口に入れたくない,というニーズがある.

「より速く,より高く,より強く」を,ドーピングなしで実現するための「食事」は,おそろしくナイーブな問題だ.
これを,「いなかのおばあちゃんがつくる野菜はおいしい」というレベルと一緒にするのは,「倒錯」といわれても仕方がない.日本は「メルヘン国家」になった.
それで,まずいと気がついた役人が責任転嫁しようというのがこの記事に透けてみえる.

おそらく,各国しかも「有力国」の「有力競技団体」との打ち合わせで,世界標準を要求されてしまっているのではないか?当然だが.
あと二年程度ではできないから,選手村での提供食材はほとんどが輸入食材になる可能性がある.

選手たちが楽しそうに,お好み焼きやラーメンなど,日本での食事をしている場面がテレビにでるだろうが,それは競技終了後の緊張が解けたアトラクションにすぎないはずだ.
テレビは,あたかも毎日,各国選手たちが「日本食」を楽しんでいるかのような印象操作をするのではないか?とひそかに期待している.

駐車場規制と人口減少

都心の駐車場が余っているから,駐車場規制をゆるめる,という内容の報道である.なぜ余っているかというと,公共交通機関が発達していることと,人口減少が原因だという.それで,稼働が二割しかない駐車場がでてきた.

駐車場という「箱物」を,ビルの地下なりにつくらせておいて,都心部は公共交通機関があるし,人口減少だからと「緩和」したところで,既存のビルオーナーはどうしろというのだろう?

「法」で規制すれば一律になる.
どのくらいのビルが新築されるか?を都内二十三区内ですら予想などできない.
だから、この規制は最初から適当なのだ.

そもそも,ビルの駐車場は誰のための施設かといえば,業務用と客用がほとんどだろう.
すると,ビルの設計において,規制が基準なのではなく,いかなる収益をもたらすかが基準になるのは当然だ.

これを,むりやり「規制」という基準にさせるから,民間は仕方なく規制にしたがう.それで,駐車場利用者がいないと「想定外」などという無責任用語を駆使して,緩和してあげる,という.
まるまる損をかぶるのは民間である.わざわざいうまでもないが,生産性が低い理由だ.
緩和でなく,最初から規制というお節介をしなくてよい.
収益の主体は民間だから,自分の事業にあわせた駐車場台数にして,損も得も民間に任せれば,すむことだ.

農業をやったことがない役人が,農業経営にお節介して農業鎖国をしてきたら,いつのまにかそら「輸出」だということに対応できない.
政府が経済活動に介入し命令すると,ろくなことがない.
伸びるべき生産性まで低下させる.そんなことを何十年もやってきて,まだ政府は自分が万能だという夢から覚めもせず,生産性をあげろ,と命令する.

霞ヶ関のファンタジーに翻弄される民間こそ迷惑千万.
これを経済団体が「支持する」という「倒錯」こそ,この三十年の閉塞感の正体である.

国体のおもてなし

外国人観光客の数がずいぶんのびたから,政府が設定した目標は達成できるかもしれない.
もっとも,その目標値が,どういう根拠だったのかは知らないけれど.

関係者は,半世紀前の成功をもう一度,と「東京オリンピック命」になっている.
分母の数がちがいすぎる状況なので,今度のオリンピックで,「ものすごく外国人が増えた」ということは,あまり感じないかもしれない.
それでも,ホテルや民泊の供給はふえている.

「オリンピック」にばかり目がいくが,ドメスティックなレベルで「国体」というイベントが毎年ある.47都道府県の持ち回りで順繰りするから,約半世紀に一回,順番がまわってくるしくみだ.「国体護持」の「国体」ではなく,「国民体育大会」というイベントの略語である.
簡単にいえば「大運動会」なのだが,内容が「オリンピック競技」に準じるようになっているから,「国内競技大会」である.「国民運動会」としたら,なにやら政治的な集会のよう,それで「体育大会」としたのだろうか?
地元は,半世紀に一回の「理由」がやってくるから,公共事業ができる,という面もあるようだ.これも,オリンピックに準じているのだろう.
今年は福井県が会場だ.それで,福井の街には,さまざまな槌音がひびいている.

あと二年になった東京オリンピックでは,例によって,世間がわからない政府は,飛行場などにロボットをおいて,世界最先端の国ニッポン,をアピールしたいらしいが,すでにおおくの観光客から,「意外なニッポン」として不便さを指摘されているのが,決済,である.

「いまどき『現金の円』しかつかえない不便な国」

日本は,世界の尖端をいきすぎて,スイカなどの交通系では,処理能力が高すぎるために,外国人がもっているスマホ端末の世界標準にはあわない.

だから,しょうがないじゃいないか.

ならば,せめてもっとクレジットカードがつかえないモノか.
キャッシュレスのはずが,ガラパゴスだったりするのは,やはり交通系しかつかえない「コインロッカー」である.
これが「最新式」なのだ.

JRという会社は,ドメスティックである.
それでいて,駅舎の建設では,あいかわらずポスト・モダンという日本建築学会の言いなりである.
「発注者」としての矜持はないのか?

福井駅の駅前には,恐竜の模型がいくつもあって,それが首を振って唸り声をあげる.
日本一,恐竜の化石をだしているのが福井県だから,福井は恐竜,になったのだろうが,どうしてこうなったのかが不思議である.
あらためて,専門家に「恐竜はほんとうに唸り声をあげていたのか?」と聞いてみたくはなった.

幕末の大秀才,橋本左内を生んだ土地として,恥ずかしくないのか?などと,他県の人間でもおもうから,きっと福井のひとでも駅に行くたびに憂鬱になるひとはいるだろう.

そのJR福井駅は,自動改札ではない.しかし,あたらしい駅舎構内の店舗では交通系の電子決済ができるようになっている.けだし,「交通系」だから,これも国際標準ではない.
改札は,「福井国体にあわせて」自動化される予定と掲示があった.周辺の駅もみな自動化しないと意味がないから,改札の自動化はたいへんな投資になる.

どうして国体開催と自動改札化が一緒になるのか,そのへんの理屈はわからないが,他県の選手をむかえいれる「おもてなし」だという.その理屈で,路面電車の線路も交換されていて,かわりに工事中のいまはバスがはしっている.ついでに,電停の駅名が,「市役所前」から「福井城址大名町」に変更されるらしいが,それも他県からの観光客への「おもてなし」だそうだ.

ああ,なるほど,自動改札化もあくまでも「国内」基準なのだ.
他県の人間がいちいちたてつくわけでもないが,「市役所前」のどこが不都合なのかがわからない.
「市役所前」電停からもっとも近い「市役所」からさらに歩くと,「福井城址」がみえてくる.かつての福井城はいま「県庁」というお城になっている.
立派なお堀に石垣がある.
けれども,白いコンクリートの無粋な県庁が鎮座しているさまは,まさに明治新政府による徳川親藩,それも幕末の名君松平春嶽への当てつけ以外のなにものでもない.
こんな県庁を撤去・移転するくらいの福井県人の根性がほしいものだが,なんとも不思議な発想をなさるものだと感心した.

雪かき

小学校でならう日本の歴史に,律令国家の税制がある.
「租」,「庸」,「調」,あわせて「租庸調」とおぼえれば点数がもらえた.
いまの税制では,基本はお金で納めることになっているが,現金がなければ物納も可能である.
なので,労役である「庸」がない.
あえていえば脱税して有罪が確定すれば「懲役」になるが,行動の自由をうばわれたうえでの「労働」なので,「庸」とはいえまい.また,「懲役」であっても,「給与」はでる.
そんなわけで,現代には「労役」としての「納税」はなくなった.

生活のうえでの公共的労働は,ある意味,現代における「庸」なのかもしれない.

「庸」としての雪かき

雪国なら当然でも,めったに雪のない太平洋側,それも首都圏では,「雪」というだけで事件である.
冬タイヤの装着があたりまえではないから,数センチの雪でも立ち往生する.
年に数回しか降らないものに,タイヤで数万円から10万円ほどの出費はしない.だから,「雪」とわかれば,素人は運転をしない日ときめる.
しかし,玄人は運転しないわけにもいかず,冬タイヤの用意もないからえらいことになる.

むかし,エジプトに住んでいたとき,年に数回しか降らない「雨」で,カイロの都市機能がマヒしたのをおもいだす.
「雨」といっても,車のフロントガラスは,ぼたん雪が付着したようになる.「砂」が混じっているからだ.歩行者は濡れると服がシミになって落ちないので走り出す.もちろん,傘などだれももっていない.「砂」といっても,龍角散のような微細な粒子である.降り出してたった数分で,自動車の運転が困難になる.砂が前方の視界を遮断するからだ.
おおくの自動車には,ワイパーもウォッシャー液も搭載がない.年に数回しか降らないから,ワイパーは必需品ではないし,ウォッシャー液は入れておいても乾燥でカラカラになるから,いざというときにからっぽなのだ.そして,歩道下数十センチの砂に埋設してある電線がショートして,数メートルの火花があちこちで飛び,そのブロックは停電する.電線の被覆がやぶれていても,ふだんの乾燥で漏電しないからわからない.これで,信号も消える.

日本のはなしにもどろう.
日が当たる道なら,すぐに溶けてしまうが,日陰のばあいは凍結するから危険である.
屋根の雪下ろしをするほどの量はないが,雪国では雪下ろしの手伝いで,新参者が仲間として認められると聞く.
むかしは,玄関先から敷地がある道路面は自家の責任としてきれいにした.これは,ふだんの掃き掃除の延長というかんがえだったが,高齢化でこれができなくなったから,路地はまだらになった.若いひとがいるエリアだけがあるきやすい.

商売の刻印にもなった

ふだんから気になる店というのはあるもので,なぜか入店していないが外から垣間見てチェックする,という場所が何軒かある.
そんな店のなかで,自店の店先がみごとなアイスバーンになっているのを発見すると,「雪かきもしないのか」ということをスタートラインに,「『ウエルカム』という意識がない」とかんがえたり,「こんな店に入らなくてよかった」とかと,連想がひろがる.
そもそも.入店も危険だが,店内から出るときが危ない.アルコールをだす店でこれはないだろう.

北側の歩道に面しているから,一週間たってもアイスバーンのままである.「雪」のうちになら排除もできるが,踏み固められて凍ってしまうと,つるはしでけずるしかなかろう.すると,この店の前をとおることが「危険」だから,気づいたひとは反対側の歩道を選んであるくようになる.すでに,それが習慣になったひともいるはずだ.

ようするに,自分の店さきにひとがこないようにしているのだ.
氷雪が溶けても,ひとびとの記憶に刻印される「危険」という警報は,きっと夏になっても消えないだろう.

毎日述べ2キロを清掃する会社

開店前に,従業員総出で近所の清掃に励む会社がある.その距離が2キロ.
「お客様の自社への通り道」だからというのが理由である.

清掃でキレイになるのは,道路だけではない.
従業員たちの精神も,それを毎日みているご近所さんたちの精神も,そして,その活動をしっているお客様の精神もキレイにする.
だから、この会社で売っている商品は,いっさい値引きなしで売れている.
しかも,わざわざ遠くから買いに来るひとがたえない.
この会社で買えば,何年も安心してつかえるから,買った側が「値引きはなくても最後は得」だとおもうのだ.それは,手放すときの「査定額」のちがいにあらわれる.

この会社が売っているのは,わが国の巨大自動車メーカーの乗用車である.
つまり,この会社は「カー・ディーラー」だ.
同型車が何万台も製造されて,国内だけでなく世界に輸出されるものを売っている.
この会社のお客様が買っているのは,自動車なのだが自動車そのものの価値とはちがうものを追加して買っている.これが「付加価値」である.
自動車はメーカーが製造しているが,この会社は「安心」を製造している.

だから,この会社は周辺に歩きにくい「雪」を残さない.

日本はEUに加盟できない

2015年にドイツのメルケル首相が来日したおり,安倍首相に日本のNATO(北大西洋条約機構)加盟を提案したというニュースがあった.もちろん,日本として現状ではこの提案をお断りしたということなのだが,「北大西洋」という地域にはこだわっていないことは確かだろう.それは,西ドイツが加盟した1955年より前の1952年に,地中海の国であるギリシャとトルコが加盟していることからもわかる.もちろん,ドイツも北大西洋に接していない.

ところで,現在のEUのはじまりは1957年に発足したEECであった.
この組織の加盟要件には,「欧州」と地域要件が明記されているから,日本は加盟できないのだが,仮に地域要件をはずしても,日本は加盟できない.
その理由は,政府債務比率要件である.これを,「経済収斂基準」とよぶ.
財政赤字GDP比3%以下、債務残高GDP比60%以下,でなければならないのだ.

日本の数字の実態は,各自お調べいただき,また,じっさいにどうやって政府財政を立て直すかの議論も横において,単純な事実として,日本はEUに加盟できないことだけはしっておこう.蛇足だが,同時代においてもEECの加盟経済要件を日本は満たしたことはないから,今日までもふくめて日本はEECからECそしてEUとなっても一度も加盟条件を満たしたことはない.

あれ?
世界の経済大国ではなかったか?

いまでも,中国の国家統計数値がただしければ,世界第三位のGDPをほこる国なのだが,中国の国家統計というものの評価しだいでは,もしかしたら日本は世界第二位をキープしているかもしれない.
しかし,残念ながら,日本もかなりの張りぼて国家であるということだ.
これは,間違いなく,「政府依存」が原因だろう.

やっと貿易黒字をだしている

かつての「貿易黒字大国」はとっくに過去のはなしである.
中曽根康弘総理が,NHKテレビの特別放送で,国民に「アメリカ製品を買いましょう」と呼びかけたのは,日米貿易摩擦からはっした苦肉の策だった.
石油や鉄鉱石のほとんどを外国から輸入しているのに,製品化して輸出すると儲かってしまう.
これぞ,明治以来の悲願だった「貿易立国」の理想郷だった.
この放送をうけての国民の反応は,「買えと言われても,アメリカ製品で欲しいものがない」というのがおおかただった.

いまや,かつかつの貿易収支になって,赤字になったり黒字になったりしているのが日本のすがたである.
70歳以上の「大人」には,日本の貿易収支がかつかつであるといっても,にわかに信じられないのではないか?

安定しているのは資本収支になった

「経済の成熟化」のもうひとつの顔である.
外国に投資した見返りのお金がやってきて,トータルで黒字になっている.
ていよくいえば,利子で食っているお金持ち,なのである.

人口減少という「縮小」が避けられないから,ほんとうは国内投資ではなくて,外国投資が望ましい時代になっている.
だから,資本収支の黒字をいかに増やすか?というのは,方向として正しい.

超高級ホテルが存在しない国

国民の数は縮むのだが,訪日外国人の数はふえている.
しかし,外国からの直接投資がほとんどない状態だから,訪日客のたいはんはビジネス客ではない.
英国人のデービッド・アトキンソンさんが指摘しているが,なぜか日本国政府は「人数」にこだわった目標をたてている.これに「単価」も目標にくわえれば,数量×単価=売上,という公式になるが,不思議と「人数」が前面に出ている.

どうやら,低単価なのを人数でかせごう,というかんがえのようだ.
首相を頂点とする日本政府の最重点課題は,「生産性向上」というのが,いかにあやしいものかがわかる.
おなじ人数なら,高単価のほうが生産性は高くなる.
こういう算数ができないのが,平等主義に凝り固まった役人の限界である.その役人がひきいる政府に民間が依存しているから,生産性向上をかんがえるのも政府の仕事になった.もはや「高級官僚」という八百万神を拝むしかない宗教国家に堕落した.
観光政策の政府委員として,アトキンソンさんの活躍に期待したい.

知らないうちに「スタンダード」になるのを,「デファクトスタンダード」というようになった.
パソコンのOSが,ウィンドウズで世界統一されたのが典型例である.
いま,世界の宿泊施設で,デファクトスタンダードとなっているのは,一泊$40,000以上の宿を「超高級」というカテゴリー分けしていることだろう.

わがくにに,「超高級ホテル」は一軒もない,という事実は知っておいてよい.
わたしの古巣の帝国ホテルでも,最高級の客室は$10,000ほどだから,世界標準の1/4でしかない.
ちなみに,世界一の超高級ホテルは,スイスにあって,一泊$100,000である.
生産性は,単純比較で10倍のちがいになるから,日本のサービス業の生産性が低いのは,こんなところから議論すべきだろう.

加入できないなら行けばいい

世界水準のお金持ちが,日本にほとんどいない,ということが,日本に超高級ホテルがない理由でもあるのだが,これは世界水準のお金持ちが日本にきても泊まるところがない,ということでもある.だから、こない.

ならば,ちょうどよさそうな国に行けばいい.
わたしのお勧めは,欧州でもいまだに未開の旧東欧圏である.
忘れてはならないのは,これらの国はみなEU加盟国であるから,政府債務に関しては,あきらかにわが国よりも先進国である.
「おもてなし」の輸出である.

経費予算は必ず使い切る

役人には「売上」という概念がないから,「予算」といえば「使えるお金」のことである.
それで,毎年,年度末になると,「使い切る」ために,いろいろな工夫をかんがえだして,みごとに「使い切ってみせる」のが,会計課長の腕のみせどころになる.
「ムダ」ではないか?と外部からどんなに指摘されようが,「使い切らねばならない」から,気にしない.
年度予算を余らせたら,次年度から,その項目での予算が減ってしまう,という原理からくる行動と精神状態である.

それではいかん,ということで,単式簿記から複式簿記にかえようといううごきがある.
単式簿記とは,子どもの「お小遣い帳」や主婦がつけるという「家計簿」とおなじで,期首に「入金額」をかいたら,あとはつかった分を引き算して,のこりがいくらかをしる方法である.

複式簿記は,人類最大の発明,と文豪ゲーテが言ったという「発明」である.
ここで,お風呂の水がどのくらい変化したかを調べようとかんがえると,方法はふたつしかない.
第一の方法は,いまある水位にしるしをつけて,しばらくたったところで,増えたか減ったかをみるもの.
第二の方法は,蛇口からはいってくる水量と,排水口からでていく水量をそれぞれ計って,その差分で増えたか減ったかをしるものである.
第三の方法をかんがえだしたら,それは間違いなくノーベル賞をもらえるだろう.
さて,第一の方法が,ふつう「貸借対照表」とよばれ,第二の方法が「損益計算書」とよばれている.
この二つの書類は,「利益」というパイプでつながっている.損益計算書ででてきた「利益」は,貸借対照表の資本に転記されると同時に,資産のどこかも増えることになる.「損」であれば,資本と資産がそれぞれ減る,というしくみだ.

役所が単式から複式に転換するというのは,損益計算書で余った予算を資本と資産にすることで,ムダをなくそうという魂胆である.
これを,「民間の知恵」というらしい.

では,その「民間」ではどうか?
そもそも,企業「予算」というものも,お役所からいただいたかんがえ方であることを確認しておこう.
帳簿をつける,という行為は,「結果の記録」であるから,これだけでは「予算」にならない.それで,前期の数字から将来を予測して,目標にしよう,というのがはじまりである.お役所は,税収という「売上」からつかう分を決めていたから,民間はこれを学んだのである.

ふつう企業には最低でも二種類の予算がある.
「売上予算」と「経費予算」である.
「売上予算」は,今期収入の見込みと努力目標を足したものからなる.だから,売上予算の達成は,「必達」といういいかたをする.かならず達成せよ,という命令である.それで,達成すると,むかしは「金一封」が支給されもした.努力目標分も達成したのだから,その「お礼」と「よろこび」を会社は表現した.

さて,「経費予算」である.
じつは,民間企業でも「経費予算」の達成率は,100%,である.つまり,確実につかわれる.
だから,ほんとうは民間も役人を嗤うことはできない.
「民間はすぐれている」とか「民間の知恵」というのは,「すべての企業」にいえることではない.むしろ,そのようにほめられるだけの企業は,めずらしいのではないか?
これを,経済官僚はしっているから,ばかにして民間に命令するのだろう.

褒めておだてたり,鼻で笑ったり,うまくつかいわけている.上げたり下げたりするから,これをむかしのひとは「びっこにちょうちん」と言った.いまは,びっこが不適切な表現だからいわなくなった.それで,「あしがわるいひとにちょうちん」と言ったら,もっとひどいイメージになるから,ちょうちんが死語になったついでにやめた.
ほめられるようなすぐれた企業や知恵があるめずらしい企業ではない,ふつうの企業が,その命令をかしこまって受けとめるのだ.

おもしろいことに,売上予算は必達というが,経費予算を必達しろという経営者はすくない.
すぐれていて,知恵がある企業は,どちらも必達である.
次期以降の成長のための必要業務をかんがえると,お金が足りないのがふつうだから,経費予算のやりくりもたいへんなのだ.そういう経費予算なら,必達は当然だ.

だから、今期使えるお金,ではなくて,今期と来期の準備の活動資金,という発想がひつようになる.
それが,来期以降の実を結ぶもの,となってはじめて成長が達成できる.
経費は削減するもの,という思い込みでは経営はできない.

甘えの末路にある光

ふつうの大人なら,子どもを甘やかして育てたらどうなるか?は想像できる.
だから、むかしのひとは,気がつけば赤の他人の子どもでも注意したものだ.これを,お節介もはなはだしいという世の中にかわって,いまでは,知らぬが仏ならぬ無関心をよそおうことで,社会の平穏がたもたれている.

個人の生活で,他人への無関心が蔓延すると,個人は社会から孤立する.
それで,こうしたバラバラな個人をまとめて「大衆」と呼ぶ.
日本という国は,みごとな「大衆社会」になった.

高級ホテルのロビーのぶ厚いじゅうたんのうえを,平然とベビーカーを押して車輪の跡をのこす光景は,およそ世界ではありえないものだし,子どもがロビーで走りまわるすがたも,それを注意したホテルマンが親からクレームを受けるすがたも,日本と中国いがいではみることができないだろう.

「甘え」とは近親者にたいする「依存」である.
だから,親に依存したままで自立できない大人にならないように訓練するのが「しつけ」であった.少子なのに,その「しつけ」を親が放棄して,とうとう学校への依存がはじまった.ところが,公立学校にはその気も準備もない.それで,私立有名校は,学校社会を利用して親を教育する.こうして,「しつけ」を受けたか受けなかったかという「育ち」から,格差がはじまることだろう.

国が仕切るということ

個人がお節介をやかなくなったから,国家や地方行政がお節介をやくようになった.
いよいよ,社会主義国家日本の面目躍如である.
生活のあらゆる場面で,行政がおせっかいをやく.
最初は,たいがい補助金とか支援ということばで表現できるものだが,それが浸透すると,だんだんと,しかし確実に命令になる.悪魔とおなじだ.
こうして,自由が失われるのは,これまでの人類史の繰り返しである.

すごいものがあらわれた

ところが,政府に真っ向対決するすごいものがあらわれた.
それが,ビットコイン,に代表される「ブロックチェーン」という技術がうみだす「仮想通貨」である.
1976年にハイエクが発表した「貨幣発行自由化論」は,おおくの経済学者から無視されてきた.
貨幣の発行を独占している政府からはなれた発行体が,貨幣を発行することなどできない,と信じられてきたし,そもそも通貨は政府が発行して,中央銀行が管理するものと決まっている,と信じられていたからだ.
この「神話」に,仮想通貨がいどんでいる.
通貨を発行するものは,絶対的に有利な立場にたつから,古来,為政者が独占してきた.
民主政府といえども,通貨発行権を独占することにおいてこそ,経済をコントロールすることができるから,政府に莫大な利益をもたらすものだ.つまり,国民にとっては,経済の政府依存,を誘発して,政府のいいなりになる.それで,政府が経済政策をあやまれば,損をするのは国民という図式になっているので,通貨発行権をにぎる政府には,リスクがない.
もし,通貨発行権が政府から他にうつれば,政府は具体的な経済政策をうつことが,ほとんどできなくなる.もちろん,中央銀行も不要になる.
だから,政府は全力をあげてこれを妨害・排除しようとするはずである.われわれ国民は,その壮絶なたたかいのドラマをこれからたっぷりみることになるのだが,政府はわれわれ国民を懐柔しようと,ビットコインへのあらゆる憎悪を流布するだろう.これも,あらかじめ心得ておくとよい.

それでも,今世紀中旬までに趨勢がきまるだろう.
相手は,技術,なので,おそらく政府は太刀打ちできない.
すると,政府機能は一気に縮小せざるをえなくなるはずだ.だから若者がこれから,公務員を志望すると,中年以降になってひどいめにあうかもしれない.

政府が独占していた事業が民間になる

従来の「民営化」ということではない.政府機能の停止がそうさせるからだ.

政府がこうした事態になるまでに,一般経済でも決済が,ビットコイン,あるいは同類になっている可能性がある.銀行業務は,現在とまったくちがう内容になっているだろう.

「フィンテック」は,銀行業に革命をおこすものではなく,利用者側にこそ革命をもたらすから,経営者は「フィンテック」の研究をひとごとと決めつけてはいけない.

そう遠くない将来,国家に依存できないときがやってくる.
しかし,それは上からの命令をまつ社会ではなく,自主独立の精神をとりもどした社会になる.
「日本を取り戻す」とは,自主独立の精神の国にすることだ.