官民あげて,という発想が生産性を低くする

なんでも「国民運動」にしたがる気風

最近はいわなくなったが,ちょっとまえなら,すぐに「国民運動」になった.
なにも,国民体育大会やラジオ体操のことではない.
このところ,「官民あげて」といいかえたらしい.マスコミは,ことばの選択が上手だが,なんのことなはない,いいたいことはおなじである.

「エルサレムのアイヒマン」をあつかった,映画『ハンナ・アーレント』が日本でもヒットしたのは,もう5年もまえになる.NHKの「100分 de 名著」は,観なくても,テキストを買えばよい.昨年9月に『ハンナ・アーレント』がでていて,よくまとまっている.

 
  

このなかで,彼女の主著「全体主義の起源」の解説がよい.
ここで注目すべきは,全体主義とは「運動」である,という.この「運動」は,もちろん政府が旗を振る.国民をまきこんでまきこんで,をやっているうちに,二重三重のおそろしく複雑な組織ができて,だれが責任者だかもわからなくなる.こうして,組織のなかに埋没した人間が,本人の意志をはなれた仕事をするようになる.

そこで,かつての「同盟国」である,ドイツをみると,この国のひとたちも「政府依存」がいまだにすきなのだ.これは,国民性だろう.
「インダストリー4.0」という運動は,モノのインターネット(IoT)を推進するにあたって,世界ではじめて政府が主導しているものだ.これをうらやましがるのが,やはり「政府依存」の日本人である.アメリカ人は,目もくれない.

集団主義とは,他人依存のことである

成長すさまじいかつての日本は,集団主義,を自負していた.個人主義の欧米の低迷こそ,集団主義の有利さの証拠だと信じた.
集団主義で成功したのは,梅棹忠夫先生がいう「あらっぽい工業」でも成立していたからだ.粗雑な製品でも,物不足の時代には売れた.「大量消費大量生産」である.
梅棹先生はこの時代の観光業も,「あらっぽい」と指摘した.それは,あらっぽい工業の成果である大量消費大量生産のたんなる延長線上にあるからだ,と.
新興国から猛追される時代になって,かつての欧米諸国が苦しんだ体験を日本が再び体験しているのに気がつかない.かつての「英国病」もしかり.先行する欧米から学ばなかった,慢心のなせるわざである.その欧米から,「日本病」(痛い日本)といわれてずいぶんたつ.

工業の世界は,とっくに「きめの細かい工業」へと転換している.ところが,文明の終着地でもある観光業の不勉強ははなはだしく,「あらっぽいまま」で生きのこった.その生きのこったすがたが,各地に点在する山賊のような「掠奪産業」としての無残である.

なぜ,観光業でこんなことになったのか?
それは,たんに時代を見誤った,という表面上のことではなく,集団主義における他人依存ではないかと疑っている.

カネにならない仕事とカネになる仕事の区別

「生産性」をかたるとき,「働き方」ばかりに目がいって,「生産物」の話題がない不思議がおきている.

ビジネスは「成果」である.

このひとことから,「成果主義」がうまれ,これが「終身雇用」という労働慣行を破壊した,という.しかし,「終身雇用」は健在だし,「成果主義」とはいっても,その「成果」を評価するしくみがいまだに完成されていないのはどうしたことか?

「終身雇用」が健在というのは,60歳で定年しても,おおくのひとが65歳まで「再雇用」されるからだ.退職金を一度手にするものの,現役時代のほぼ半分の収入で,おなじ仕事をしろという.

政府は,「同一労働同一賃金」をいうが,正社員とそれ以外という雇用形態ばかりに重心があって,「再雇用」が軽視されていないか?
そもそも,「再雇用」が必要なのは,定年退職しても,年金受給年齢との空白ができて,退職金だけでは「ゆたかな老後」なんて実現できないからだ.「ゆたかな老後」が満喫できるのは,元公務員にあたえられた特権になっている.

問題は,「働き方」なのではなく,「働かせ方」なのだ.
「カネになる仕事とカネにならない仕事」の区別ができない経営者のもとでは,おおくの従業員が,カネにならない仕事をさせられている可能性がある.
だから、官民あげて,という「国民運動」のさきには,虚無しかない.
「民」が,自社のなかにある,カネにならない仕事を排除して,カネになる仕事のボリュームをふやすことにエネルギーをかけなければならないのだ.

なんのことはない,企業としてあたりまえのことをすることなのだ.

一人前になるスピード

世の中「人手不足」である.
しかし,どんな人手が不足しているのかについて,あまり話題になっていない.
じつは,人手も二極化しつつある.
熟練を要しない単純労働者と,熟練の職人もしくは知的な高度な専門家である.
「しつつ」であるから,中間がある.それは,中途半端な熟練,なのだ.

中途半端になる理由も二つある.
会社都合と自己都合である.
残念なことに,会社都合で中途半端な熟練を産み出していることがある.将来も,会社都合での中途半端な熟練は一時的にでもふえる可能性があるとかんがえている.
なぜなら,「中途半端な熟練」とは,自社内でしか通用しない,という意味があるからである.
会社にとっては,使いつづけることができるというメリットがある.自社内でしか通用しないのは,いずれ本人も気がつくときがある.「転職」を希望しても,行き先がなくてできないという現実がやってくる.だから,退職しない.そのうち「転職」をかんがえることすら忘れるだろう.
これを,暗黙のうちに企業が仕掛けているのだ.従業員の囲い込みである.
もちろん,こんな企業が長く存続できるのか?となると微妙だろう.だから、一時的,とした.

会社の犠牲になる人生

なにも過労での自殺者やうつ病発症者だけが被害者ではない.もっとたくさんの「被害者」がいるのだが,本人が被害者だと気づいていないこともあるから,あんがいやっかいな問題である.

本人が気づかないのは,ぬるま湯,という環境もある.自己研鑽しようとなかろうと,なんとなく人生をすごしてしまえる「環境」があれば,とくにがんばる必要もない.中途半端な熟練,は技術系だけでなく,いわゆる事務系や営業系でもおなじである.むしろ,これらの職種のほうが,社内でしか通じないことがおおいだろう.それは,「社内文化」に精通すればするほど顕著になる.

超高齢化という現実から,政府ものがれることはできないから,そう遠くない将来に,定年の位置づけがかわると予想できる.
年金支給年齢を,とにかく先延ばしにしたい政府からすれば,65歳や70歳,はたまた75歳定年制ということもあり得るはなしである.もはや,民間の定年制度と年金支給年齢はセットである.だから,伝統的な日本企業は,かなりの長きにわたって「中途半端な熟練」をかかえこまなくてはならなくなる運命にある.
その準備が,一般社員の定年をとっくにこえて,「安全地帯」にのがれられたと一安心している現在の経営層は,怠らずにできているのだろうか?どうも,そういうふうにはみえない.
これらの伝統的な企業には,「社史」という社内文化まであるから,下手をすると,未来にわたって「社史」において汚名を負わなければならないのだが,そんな歴史観もないかもしれない.まぁ,会社が消滅すれば,「安全地帯」にいたぶん得だということか.

自己防衛という手段

そうなると,たとえ正社員であろうがなかろうが,どうやって「ちゃんとした熟練」になるのか?すなわち,いつでも転職可能な一人前,になるのか?という問題が,すでに年齢をこえて突きつけられているということだ.

若いひとほど敏感で,たとえば,有名調理師学校では,もはや優秀な生徒ほど大手ホテルへの就職を嫌っているという.一人前になるための時間が長すぎる,というのが理由だときいた.
それに気づいた学校側は,外国の「星」があるレストランや,有名料理人との間で提携し,最優秀生を留学させ,将来のオーナー・シェフへの道をバックアップするという.こうした,「実績」が,少子のなかから自校が選ばれるためのブランドとして磨いているのだ.

若者も,調理師学校も,どちらも自己防衛のためにやっている.

ふつうの「サラリーマン」こそ,どう生きのびる?が問われる時代になった.

幻想の「損益分岐点売上」

「損益分岐点売上」というアイデアはすばらしいのだが,実務ではつかえない.
だから,損益分岐点売上から必要売上高をみちびきだす計算をして,それを金科玉条のようにいうひとを信用しない.そのひとは,まったく実務をしらないひとだ.
残念ながら,銀行員など,それなりに勉強したひとにおおい.
公認会計士でも,自著の「管理会計の教科書」におくびもなくかくひとがいるから,注意したい.

絶版になった文庫本で,とある都市銀行の元副頭取が,融資先をきめる会議で「損益分岐点分析」をもって融資すべきといった部下をどやしつけたというエピソードを読んだことがある.この副頭取は,同書で「まったく役に立たないエセ理論」だと決めつけていた,と記憶している.
同感である.だから覚えている.

さて,売上高の変化にたいして動く費用と動かない費用がある.これが「変動費」と「固定費」のちがいだ.変動費の典型は「原材料費」で,固定費の典型は「人件費」である.
客数が増えれば売上も増える.宿泊客は食事をするから,そのために原材料費がかかる.売上と連動しているから「変動費」である.

残業をすると,残業代がかかることをもって「変動する費用」だから,「変動費」とかんがえるのはまちがいである.その残業が,売上高の増加と連動していれば,たしかに「変動費」に区分してよいが,そうでなければ,単に「固定費」の増加である.たとえば,交通機関の事故や遅れで,予約のあるお客の到着が遅れたばあい,その対応のための残業なら,売上に変化はないから固定費の増加になる.

ここで,売上と連動しない「固定費」は,売上がゼロでも発生する費用であることに注目する.
たとえば,ひまな蕎麦屋で,昼どきなのに誰もお客がいなくても従業員はいる.この従業員の雇用形態はなんであっても,そこにいれば人件費は発生する.
損益分岐点売上というのは,収支がトントンになる売上高のことだから,売上がゼロだったときの固定費分をチャラにする売上のことをいう.ところが,売上がたつということは,いくらかの「変動費」もかかるから,その分も考慮しなくてはならない.

そこで,損益分岐点は,つぎの式でもとめることになっている.
固定費/(1-変動費/売上高) ⇒ 変動費/売上高 を,「売上高変動費比率」と呼べば,
固定費/(1-売上高変動費比率) となる.

それで,このくらいの利益がほしいというばあいに,どれだけの売上が必要かをもとめるには.
(固定費+ほしい利益)/(1-売上高変動費比率) でよい.

なんかすごく科学的なような気分になるのが,損益分岐点分析がすたれない原因かも知れない.
これが,エセ科学のこわいところである.
まるでスターリンからフルシチョフ時代のソ連科学アカデミーを彷彿とさせる.アカデミー議長になったルイセンコは,遺伝学の権威,とされた.

社会主義の土地で育てた小麦は,資本主義の土地で育てた小麦よりよく育つ.
これが科学だった.ルイセンコは,メンデルのながれをくむ正統派を追放しまくったから,いまでもロシアの遺伝学は世界水準から30年遅れといわれている.
日本の経営者も,はやく目覚めてほしいものだ.

損益分岐点売上高の問題点は,すべての費用を,「変動費」と「固定費」に区分することを前提としていることだ.これが,実務ではできないのだ.
たとえば,上述の例で,到着が遅れたお客をただ待っているのにかかる人件費は,売上がかわらないから「固定費」としたが,このあいだに,たまたま予約なしのあたらしいお客がやってきたら,その接客にかかわった時間分は,「変動費」にしなければならない.
これをどうやって計上するのか?
客室照明の電気代は変動費だが,ロビーや廊下の電気代は固定費である.
このように,にわかに区分できない費用がやまのように存在している.それは,経費仕訳の段階で,経理部の人間が記帳するから,教科書のように「費目」だけで区分できないのだ,というひとがいる.では,これを現場でやらせれば解決するのか?そもそも,現場にそんな時間があるのか?

おどろくことに,公認会計士の著作でも,細かいことには多少めをつむりましょう,というスタンスなのだ.そして,有名な会計士が書いた本では,「とにかく『変動費』と『固定費』を区分せよ」とくり返す.その「やり方」の説明がないのに「ひたすら区分せよ」なのだ.だからエセ科学と断定できる.
実務では誤差にめをつむるわけにはいかない.それでは計算結果の誤差がおおきくなって,結局はなんの用途にもつかえない数字だけが算出されるからだ.

「損益分岐点」にこだわる「専門家」がいたら,エセだときめつけてかまわないだろう.
ただし,アイデアはすばらしいから,計算はしなくても,おおよその感覚を持つことはあっていい.その感覚があるだけで,エセ専門家を撃退できるからだ.

日本企業の「管理会計」がいまひとつ発展しないのは,ちゃんとした教科書に「エセ」が混じっているからではないかと疑う.
おおくの管理会計の教科書で,ここだけは読まなければよい,という読み方をおすすめしたい.

チップとサービス料

サービス業,なかでも人的サービスを提供する宿泊業や飲食業などで,よくいわれる欧米とのちがいは,チップとサービス料だろう.

この議論には「業界のタブー」がふくまれている.
第一に,チップならもらった本人のものになるのが原則だろう.しかし,サービス料は,企業が「売り上げる」ので,本人のものではない.
第二に,チップは所得税の対象になっても把握が困難であるのに対し,サービス料は「売上」になるから,まず消費税の対象となる.だから,消費者は,サービス料と消費税を負担する.企業にとっては,利益の源泉でもあるから,法人税の対象になる.
第三に,チップの額はお客側が決めるが,サービス料は企業側が決める.よくいわれる「10%」という率は,とくだん根拠があるわけでもないから,強気の店は「20%」とかと任意である.
第四に,上記,第一と第二に関連して,サービス料を売り上げる企業は,本来,従業員に全額を引き渡そうとしても,これ以外でお客に「サービス」してしまっているから「原資」がない,という問題がある.

整理しよう.
企業にとっては,売上と利益の源泉の一部になっている.
従業員にとっては,賃金のなかに組みこまれているという企業の論理が適用されている.たまに得るチップは自分のものである.
お客にとっては,サービスが気に入ろうが気にそぐわなくても,自動徴収されるのは,不合理だろう.気に入れば,もっと負担してもよいとおもうだろうし,そうでなければ一円足りとも嫌なことがあるからだ.ただし,自動徴収は,面倒がない,という意味において便利であるが,消費税も負担している.
国にとっては,消費税と法人税になる.

こうしてみると,一番の実利を得ているのは国であることがわかる.二番は企業だろう.すると,三番は従業員で,もっともつらいのは選択の自由なく,支払うだけのお客ということになる.お客は,面倒ではあるがチップになれば,サービス料分の消費税は負担しなくてよい.

チップになると

まっさきに企業がこまる.一番の実利を得ている国に余裕があるのは,ほかにも税収があるからだ.いわゆる濡れ手に粟をすこしがまんすればよい.
企業は,サービス料がなくなると,とたんにいまのやり方では経営が行き詰まる可能性がある.
そこで,建前上も,サービス料分の賃金をカットしなければならないが,従業員側は複雑だろう.「安定収入」だったからだ.また,チップが得られる可能性がある接客部署と,そうではない部署間で利害が分裂することになる.
チップ制を堅持している欧米の労組が産別を基本とし,サービス料の日本側が企業内組合である理由がここにもある.

生産性の問題

こうしてみると,わが国サービス業の生産性が,先進国でビリという理由のひとつに,チップかサービス料かという問題が浮かびあがってくる.

「サービス料売上」を期待できない欧米のサービス業は,本業で利益を創出する方法をかんがえなくてはならない.裏返せば,「サービス料売上」というゲタをはいた日本のサービス業は,本業での利益創出努力を欧米企業にくらべてもしなくてよいという「甘い」環境にある.それが「おもてなし依存」というかたちで顕在化する.日本のサービス業で,世界的企業が見当たらない理由である.

チップを受け取るには,お客にわかりやすいサービスをしなければならないから,個々人が努力する.その結果が収入になれば,人材もあつまりやすいだろう.その意味で,日本以外のサービス業従事者は,個人事業主として独自にビジネスをしているのに似ている.日本のサービス業従事者は,賃金制度にくくられた企業依存型といえるだろう.

欧米のチップ制は,自由競争的であり,日本のサービス料は社会主義的である.

これが,生産性に影響していないはずはない.

日本の人的サービス業におけるイノベーションの第一歩は,もしかしたらサービス料からチップ制への転換なのではないか?

であれば,国はへんな補助金をやめて,みずからも税収減という痛みをともなう転換をうながすことで,ゲタをはかなくてもたえられるサービス企業にすることが合理的である.税収が減ってもへんな補助金もなくなれば,国民からすればチャラである.これでサービス業の筋肉がつけば,ムリクリのカジノも必要ないだろう.

いかに,短い時間で,小さいお金で,大きい成果を出すか

無限の時間と無限のお金があれば,全員が成功者.

タイトルと上述のサブタイトルは,キョウデンの創業者で会長の橋本浩氏のことばである.
出典は,『モジュール化-新しい産業アーキテクチャの本質-』産業経済研究所経済政策レビュー4,青木昌彦・安藤晴彦編,東洋経済新報社,2002年,P.293-P.294,である.

キョウデンの橋本会長といってもピンとこないひともいるかもしれないが,温泉ホテルチェーン「大江戸温泉物語」の元オーナーだといえば,わかりやすいだろう.
東京台場の入浴施設からはじまって,数年で30店舗弱の温泉宿を再生させたのが,大江戸温泉物語という会社だ.

「事業拡大」ではなく「膨張」だ,といったのは,立役者だった故根布谷社長のことばである.根布谷氏をうしなって,橋本氏は大江戸温泉物語を会社ごと売却した.

みごとなシステム構築

「安売りだけが売りの経営」という勘違いが,進出先の地元でいわれた陰口だった.ところが,ついぞダメダメで倒産したあのホテルが,みるみる繁盛店になってしまう.地元のご同業には,単なる安売り営業のはずが,まるで手品のような出来事にみえたはずだ.なにしろ,館内にお客があふれている.いまどき.「安い」だけではこうはならない.

極めつけは,バイキング方式の料理だ.これをどうやって提供したのか?は,外食チェーンの方法がヒントだ.もちろん,ただたくさんの種類の料理を,漫然と提供しているのではない.データからの緻密な予測,その予測による作業指示,そして,それを支えるギリギリの仕入れ管理.

並のホテル・旅館ではとうていできないシステムをつかっているのだ.だから、まねができない.

基本に忠実であるということ

冒頭のことばについて橋本氏は,どんな商売でもおなじだ,と断言している.「時間とお金」というふたつの制約事項を,上手につかうことが成功への道だとしめしている.

そのためになにをすべきか?は,単純なのだ.それは,これまでの数多くの経営指南書にあることばかりである.

聞いたり読んだりした知識と,やってみた知識は決定的にちがう.つまり,基本どおりやったひとがすくないのだ.そして,そのすくないひとが,成功しているのだ.

業績不振の企業は,かならずどこかで「基本」からずれている.もっといえば,じぶんたちの「基本」がずれていることに気づかない.すると,一生懸命やればやるほど,どんどん「基本」からずれていく.そして,行きつく先は組織の相互不信と決まっている.こうなれば,あとは自己崩壊の道である.これは,物理法則と似ているから,止めるには相当の正しいベクトルをもったエネルギーが必要になる.

どこで,だれが「リセット」するのか?

「破綻」しても,橋本氏のような経営者によって再生されるなら,働き手はハッピーである.オーナーチェンジの時点で「リセット」され,そのとき,あたらしい「基本」が提示されるだろう.まちがった従来の「基本」に慣れた従業員は,しばらく戸惑うが,「時間」をムダにしない方針があるから,ときに力業になる徹底的な再教育が実施される.
じつは,再生成功の肝はここにある.

資本主義に「退場」というルールがあるのは,宇宙の超新星爆発のように,「再生」というチャンスが生まれることも意味する.企業も生まれ変わるのだ.商才がないオーナーや経営者が,不純物として取り除かれる.残った,従業員という材料で,あたらしく生まれ変わるのだが,それには正しい「核(コア)」が必要だ.それが,ここでいう「基本」である.
ところが,「並の再生」では,時間を重視しないで「カネ」を重視する.だから,不純物も残って,「基本」のリセットが中途半端になる.それで,二回も三回も破綻をくり返すことがある.

では,いったい「基本」とはなにか?
それは,もっとも単純化していえば,「事業コンセプト」のことである.

これは,どんな商売でもおなじだ.
だから,経営者はつねに,自社の事業コンセプトを積極的に確認することが仕事になる.
このことを怠ると,しらないうちに軌道からはずれ,二度と帰ってこれなくなってしまう.
その例が,いま話題の大企業の不祥事のなかにある.

楽して稼ぐのがきらい?

わざわざ面倒な方法をえらぶことがある.「道」の追求という「純化」がだいすきな国民なのだ.
柔道や剣道とおなじく,無意識に「仕事道」をつくってしまう.それも,自社にしか通じない「道」だから、あんがい同業他社で通用しない.それで,役人が決めた「士業」である「資格」をほしがるようになる.

ほんとうはサボるのがだいすきだ

その役人が,どんな職業人生をおくってきたがわかるところがある.「シルバー人材センター」だ.
ひとりでできる仕事を五人でうけもつ.これが,時給が低いほんとうの理由なのだが,「シルバーだから体力的に無理ができない」と敬老っぽい言いかたをして,これまた役所がおせっかいしてきめている.
元役人が,シルバーとして有利(楽で時給がいい)な職場は,ちゃんと役所が優先的に斡旋してくれるから,ここでも民間人の仕事を奪っている.
感心するのは,とてつもなく閑な業務に,元役人たちは耐えられるだけでなく,むしろそれを楽しむ精神力があることだ.それで,このひとたちの職業人生の質をしることができる.いわゆる「育ち」がしれるのだ.
ほんとうは,働きバチなんかじゃなくて,こうやってなにもしなくて給料がもらえる職業にあこがれるのだ.グリーン車のような一段上のくらしができる.
日本の生産性を先進国最低におとしめている元凶は,ほんとうは公務員たちである.かれら自身の生産性だけでなく,このひとたちから「働き方改革」を「やれ」と,命令されて,「ははっー」とかしずく財界の精神構造とセットである.経団連は先祖返りして,かつての「産業報国会」以下になりさがった.

どうやって正しく「楽する」か?

たとえば,人手不足の原因とやゆされたトラックドライバーは,なんと「手積み」で荷の上げ下ろしをしている.これをフォークリフトでつかう「パレット」も一緒にはこべば,画期的に「楽する」ことができる.パレットは,荷主の所有物だから、運送業では触ってはいけないもの,だったというから,二度めの驚きがある.

海運では,とっくに「コンテナ」が主流になった.人間には巨大にみえるコンテナを,そのまま機械でもちあげて船にはめこめば,きっと港湾の労働は楽になるとかんがえたのは,トラック運転手だったアメリカ人の当時二十代の若者だった.現在,世界最大の海運会社,マースクラインの創業者だ.彼が発明した「コンテナ(システム)」は,二十世紀最大の発明のひとつにあげられている.

ところで,このマースクラインが所有する,世界最大の18000TUEコンテナ船(8畳間が入る標準型コンテナを18,000個積める)全長400m(戦艦大和は263m)の船が,2014年5月に横浜本牧埠頭に記念帰港したニュースがあった.横浜市港湾局のHPには,いまもその自慢が掲載されている.ところが,2016年になって,マースクラインは日本と結ぶ欧州定期航路から撤退して,幕末以来つづいた欧州と日本の定期直航航路が「消滅」したのだ.これ以降は,上海や寧波などで「積みかえて」,日本にやってくるようになっている.だから,日本からの荷も,これらの港で「積みかえて」欧州に向かうしかない.
ちなみに,国交省HPにある,2015年の世界の港湾コンテナランキングで,日本の東京港が29位,横浜港54位,神戸港57位,名古屋港58位,大阪港72位となっている.上海が筆頭のトップ10位は,シンガポール,釜山,ドバイ以外はすべて中国の港湾である.なにか,世界大学ランキングをみているような錯覚におちいる.

システムとして実行できない

日本の港湾の凋落は,日本経済の凋落でもある,という解説もあるが,まだ地理的に「極東」という,動かしがたい「不利」のほうが納得できる.しかし,日本の港湾がこの30年で著しく衰退したのは,「やり方」に原因があったのではないか?とかんがえるのが妥当だろう.なにしろ,わたしは横浜市立の小学校で,「世界一の港・横浜」と教育された世代である.

港湾局はがんばった.しかし,港湾局の管轄は「港」にかぎられる.「港」が充実しても,「荷」は「港」にとどまるわけではない.「荷」には行き先がある.だから、道路が必要だ.その道路は「道路局」の管轄だ.

機能をシステムとしてかんがえたばあい,先行事例の課題を先取りして計画すると,後発はたいへん有利になる.それで,先行事例のほうは,より「楽な」方法をかんがえるのだが,なかなか実行できない.「裁量者」の「裁量」が乏しいときにあらわれる.

民間のしごとでも,荷役作業はことかかない.たとえば,地下鉄の駅構内にある設備の入れ替えにあたって,ふるい設備を搬出しなければならないときに,これを人足の人力だけにたよるのが日本人だ.地下鉄の終電が去って営業が終了すれば,作業開始である.よくある光景だ.しかし,営業が終了すると,エレベーターも動かなくなる.「大物」でも,せいぜい数人で運べるものが,何回も階段をつかって運び出すしかない.重さ十キログラム程度の「小物」は,ひとりで担ぎ上げる.
重いから疲労困憊するのではなく,四・五階建てに相当するながい階段の往復が疲れさせるのだ.

エレベーターという文明の利器を横目に,ひたすら階段をいく.なぜか,インパール作戦のイメージがうかぶ.アメリカ軍だったら,兵卒に士官が殴られるかもしれない.
「エレベーター,どうして使えないんですか?」という人足の質問に,「これが使えたら,人を雇わないよ」という名答だ.人手不足はつくられている.そして,ムダな仕事に賃金が支払われるのだ.これこそ,ケインズの有効需要の創出だろう.これらの経費はぜんぶ,結局は国民負担になっていく.生産性をかたる元気もなくなる.

エレベーターの使用許可をどうやってとるのか?のほうが,きっと人足を雇うより困難なのだろう.だれも責任をとりたくない日本は,異常に面倒くさい国になった.
それにしても,人力では持ち上げられないような,たとえば自動改札機のようなものは,どうやって入れ替えるのだろうか?これも階段で人足が担ぐのか?地下鉄にはミステリーがある.

自社の仕事

面倒なのは,毎日の業務がある中での自社の仕事の点検だ.
「わかっちゃいるけど,やめられない」まさに「煩悩」にまで昇華してしまっている.
こんがらがった仕事の糸を切ることなく,一本ずつはずして,それから掛けはぎをなおすように糸を織り込んでいくような,「面倒くさい」ことを,「業務の流れ」からときほぐす必要があると,社長たちは識っているからだ.想像するだに「面倒くさい」.
しかし,掛けはぎ直しの丁寧な仕事をみればわかるように,どこが問題の箇所だったのかわからない状態になるのも事実である.
掛けはぎとちがって,業務の「修理」は,やってみると,当初意図しなかった意外なところもきれいになって,結果的には想像以上の成果がでるものなのだ.「面倒」以上の結果がでることは,一度でもやった企業だけがしっている.それだから,これらの企業は,なんどでも「修理」箇所をみつけてはなおしている.こうして,この活動が従業員たちの「本業」にまでなると,しらないうちに業界内の地位までもが上昇するのだ.なんといっても業績が安定した企業になるからだ.
それは,一朝一夜にしてできるものではないから,同業者もかんたんにまねできない.だから、最初の「面倒くささ」をのりこえられるかが勝負である.

先進国最低の生産性の原因は,ぐうたらとして無責任をつらぬく,なまけ根性にある.

今日は大晦日.
除夜の鐘の音で煩悩を落とし,新しい年のはじめに,おもいきって自社業務の「掛けはぎ」みつけと,その「修理」をする,ときめることをお勧めする.
きっとよい年になるにちがいない.

よい新年を.

統計

日本の教育の不思議に,世界標準の欠如がある.
かつて,日本の教育は「世界一」を標榜したことがあった.その背景には,「経済力」といううしろだてがあった.たとえば80年代に,中曽根総理が,アメリカの教育をさげすんだ発言をして,アメリカ人が憤慨したことがある.それで,アメリカの教育界は奮起したというから,なにが幸いするかわからない.
一方で,経済力にかげりがでても,いちど慢心した気分はなかなかかわらず,あいかわらず世界一(のはずだ)だと自慢するのは,かなりずれているといえるだろう.

そのなかで,ちょっとだけ改善されたのが「統計教育」である.
わが国において,統計が中学校や高校のカリキュラムからはずれていたのは30年間にのぼる.これは,OECD加盟国で「唯一」というありさまだったのだ.それが,平成23年度から小学校で,平成24年度から中学校で「必修」になった.これで,OECD加盟国の足並みがそろったことになる.
ところが,その「レベル」が問題だ.
統計教育をしていなかった当時,日本の理系大学の二年生が学んだ内容を,シンガポールでは義務教育の中学校ですませていたのだ.もちろん,いまでもシンガポールでは変更していない.

それで,日本でも中学校レベル設定にしようとしたのだが,「難しすぎる」として,高校に延長した.なんと,日本の高校三年生が,シンガポールの中学生レベルを学んでいるのだ.しかも,いわゆる日本の「一流」大学の入試には「出ない」ことになっているから,高校生でも真剣に学んでいるとはいえない.

「難しすぎる」というのは,教師にとって,ということだから注意がいる.
30年間という空白が,教師という職業人にも「わからない」という状況をつくったのだ.それで,大きな書店の「数学書」コーナーには,「わかりやすい」「やさしい」「初めての」「まんがでわかる」といった「統計解説書」が積まれている.これらは,数学教師向けの本だ.

ところで,「電卓」を小学校や中学校の授業でつかうことをイメージしたことはあるだろうか?
世界の電卓市場は,日本製が独占している,というのも幻想になった.
とくに「教育電卓」という分野において,日本製は存在しないから外国製の独壇場である.その外国はどこかといえば,アメリカなのだ.もちろん,この製品分野も,製造国としては中国やマレーシアなのだが,設計などの知的財産はアメリカがおさえているパターンだ.

その知的財産に,教育メソッドまでがふくまれる.つまり,教育電卓の「メーカー」が所有している.アメリカのメーカーは,電卓をつかった教育メソッドを売っているのだ.そのメソッドを授業で実行するなら,一番適したのは自社の電卓ですよ,という具合だ.これが,小学校から大学まで一貫したメソッドになっている.

そうなると,生徒の吸収レベルを確認するための「テスト」において,電卓持ち込みでなければならなくなる.それで,世界標準では,数学や物理,化学の試験には,電卓持ち込みが「ふつう」のことなのだ.

たとえば,米国テキサスインスツルメンツ(TI)社の教育用電卓「TI84」という機種の機種名の由来は,アメリカの高校生の84%が所有している,という意味だ.残りの16%は,学校からの貸与によるから,授業では100%の生徒がこれをつかっている.
日本でも,一部の高等専門学校で,入学時に購入を義務化しているが,普及しているとはいいがたい.「学会」などの専門家集団が,手計算を奨励していて,教育用電卓の導入に否定的なようだが,その実態は,「能力不足がバレるから」といううわさがもっぱらである.

そもそも,義務教育で統計教育をOECD加盟国すべてがおこなっているのはナゼか?といえば,「データ」分析のための必須知識だからである.パソコンが普及した世間を生きていくためのに,仕事上でも生活上でも,統計センスがないと損をする可能性が高くなる.消費者行動を,企業は統計的に分析するのは当然だからだ.いまはやりの「ビッグデータ」とは,統計処理のことである.

そこで,世界は,「統計の仕組み」を学習させることが目的になっている.日本では,「統計の計算方法」が重視されているので,「重心」がちがう.計算はどうせコンピュータがやる.だから「仕組み」をつうじた「統計のかんがえ方」が重要なのだ,という世界標準には説得力がある.くわえて,ひとり一台のパソコンを用意するには大量の予算が必要だ.だから,電卓を用いるのだ.ところが,日本の学校には,とっくにひとり一台のパソコンがある.これで「統計の仕組み」はスルーして,「プログラミング」が小学校から必修になった.統計は,いまだ手計算であるから,そのゆがみは,唖然とさせるものがある.

統計を一部のひとびとの「専門分野」にしてしまうと,格差はひろがる.支配の論理にもなるからだ.だから,予防のためにも国民に統計を教育するのは,良心的な政府である.

「顧客第一主義」をかかげる企業で,「統計」を利用した経営がどこまでおこなわれているのか?というと,人的サービス業界では,中小のかなりの企業が活用しているとはいえない.

たとえば,旅館で,「お客様アンケート」を統計処理している例をみたことがほとんどない.
もちろん,アンケートの質問作成にあたっても,「統計的知識」を導入して設計している例は少ないだろう.すると,なんのために「アンケート」をとっているのか?という理由そのものが不明となってしまうから,「こんなことを書いてきたお客がいた」程度になって,ほとんど活用されないのが実態だろう.だから,客側も面倒なのでなにも書かないから,経営にヒントをあたえることもない.

しかし,これはお客様のせいではない.活用する意志がない,サービス提供側の問題なのだ.

「データ社会」に暮らしているのに,そのデータの活用方法もしらず,興味もない,というのは,もしかしたら文明人として,かなり危険なことなのではなかろうか?

求人倍率

今月1日,今年10月の有効求人倍率が厚労省から発表された.それによると,過去最高だった1974年1月以来43年9ヶ月ぶりの高水準だという.また,正社員の有効求人倍率も,過去最高の1973年11月と並んだという.

1973年(昭和48年)11月とは,感慨深い.第四次中東戦争勃発による,石油ショックの月だし,翌,74年1月になって,だんだんと物価に反映されはじめるからだ.求人のピークがここにあるのもうなずける.

つまり,いま,日本経済は,有効求人倍率でいえば「石油ショック時点」にいる.
当時は,これからはじまる「狂乱物価」にゆれ,街の顔を一新した「スーパーマーケット」から,トイレットペーパーが消えた.企業の倒産があいつぎ,銀座のネオンも消灯され,まさにそれは永久不滅におもわれた「高度成長」を停止させたとだれもが信じた事件だった.

いまはちがう.政府の「経済統計」によれば,アベノミクス効果で景気拡大がひろがっているとはいうが,高度成長期のような実感はほとんどない.むしろ,静かな不安がひろがっている.
都内港区にしぼれば,求人倍率は8倍という数字になっている.あきらかに,職をさがすひとがすくないから,時給で100円や200円ふやしても,応募がないだろう.
つまり,抜本的な対策をたてるしか,ひとの採用ができない状況だ.「抜本的」とは,給与体系の設計からやりなおせば,販売力とのバランスがとれなくなるという意味だ.会社の屋台骨があやうくなっている.

ホテルラッシュは大丈夫か?

「オリンピック」でひとが来る,というのは間違いかも知れない.しかし,都内はホテルの建設があいついでいる.前回とちがうのは,大型案件よりも小ぶりのホテルになっていることだ.ホテル・オークラだけが目立つ大型案件で,あとはビジネスホテルが主体だ.

サービス要員として,ビジネスホテルはフルサービスの高級ホテルよりすくなくすむから,求人で心配ない,とはいえない.ホテルがホテルとして営業するには,清掃要員が絶体にひつようだ.また,シーツやタオルなどの,いわゆるリネン・サプライが,じつはかなり危機的状況にある.配送要員が足らないのである.

「民泊」は成り立つか?

法整備において鳴り物入りだった「民泊」だが,ネットでの予約販売ばかりが話題になって,事業としてのなりわいが曖昧だ.年間180日という営業日規制の実行がどうなるかもあるが,23区内であれば,区ごとに「条例」で規制ができた.事業者は,当然にこれら規制に対応しなければならないが,利用客からは,区がちがうことによるサービスのちがいを理解できるだろうか?たとえば,ゴミ出しのルールである.

これに,清掃とリネン類の交換作業がホテル・旅館同様にくわわるから,どうしても部屋がある程度集中してないと,手間にたいして採算にあわないだろう.であれば,「民泊」ではなくて「旅館」として営業した方が合理的にならないか?

ムダな人員が資産になる

世の中は人手不足なのだが,人手がある企業もある.メガ・バンクが発表した人員整理は,その一例だ.これらのひとびとを,古い手法で手放すのはもったいなくないか?

銀行のもつ情報を利用して,社会的なニーズに合致した事業目的の起業をしてもらうことで,関係者全員がハッピーになる方法を模索すべきである.そうした起業にたいする融資こそ,銀行の社会的本業であろう.なにも,自行の元行員にたいするお手盛り融資をしろといいたいのではない.すると,かならずあとにつづく地銀などでも,同様の地元ニーズへの起業があっていい.

優良な貸出先がないというなら,自行の行員をもって優良な事業をつくれといいたいのだ.

このご時世に,もし,ひとがいる,という企業があれば,これまでにない挑戦ができるだろう.

店じまい

「事業承継」が社会問題になっている.
企業は,「ゴーイングコンサーン(継続性の原則)」といわれ,基本的には,「永久」に存続しえるものだ.法的にひとと認める「法人」は,ほんとうの人間(自然人)である「個人」とはちがって,努力すれば「寿命」はつきない.ところが,日本の中小企業は,「後継者不足」という問題につきあたった.

企業30年寿命説はあやしい

企業や製品のライフサイクルを「30年」とする説が流布されて久しいが,わたしはこれを疑っている.
典型的な「例外」は,だれでも識っている「コカ・コーラ」だ.販売されたのは,1887年だから,日本では明治20年のことである.以来,この製品と,この製品をつくる会社の成長は,いちどもとまらず今日にいたっている.もちろん,いまも成長をつづけている.おもな地域はアフリカ大陸になった.
そこで,企業30年説では,面倒な説明をせず,コカ・コーラを「例外」としてあつかうのだ.

世界最古の事業会社は,日本の「金剛組」である.西暦578年,聖徳太子による大阪・四天王寺建立からはじまる.そして,創業数百年という現存企業の数で,日本は世界を圧倒している.
だから,企業30年説は,もっともらしいが穴だらけだ.

資本主義がはじまったのと時代があわない

経済史という範囲ではなく,人類史という範囲に拡大しても,資本主義がはじまったのはつい最近の18世紀のことである.よくある説明のまちがいに,「産業革命」を「資本主義のはじまり」とするものだ.そうではなく,「資本主義がはじまった」から「産業革命」が起きたのである.
発祥地の英国でも,いまにつづく古い会社はある.たとえば,ロンドン中心部の不動産を所有しているのは,ウエストミンスター公爵が所有する管理会社グロブナー社だ.昨年,公爵の急死で,その相続(一兆円をはるかに超える)が話題になった.「家」としては16世紀にさかのぼることができる.

資本主義があまりにも「新しい」ため,「ちょっと古い会社」は,その多くが資本主義発生前からつづいている.

重要なのは「信用」である

「資本主義」の前提には,「自由主義」がある.ここでいう「自由」とは,「自由放任」という意味ではない.「他人から命令されない」という意味だ.つまり,「自分で決める」という「自由」であるから注意がいる.とくに,わが国の言論空間では,「資本主義=自由放任=強欲」という図式が「一般的」になっているが,上述のような欧米の認識とかなりかけはなれている.

たとえば,旧ソ連・東欧社会主義圏では,とくに政治犯に対しての刑罰に,「自由剥奪刑」というものがあった.ここでの「自由」とは,人間がもつ生物としての欲望にかんする「自由」のことだ.すなわち,食欲・排泄欲,睡眠欲,運動・行動欲など,ふつうに生きていれば,本人の「自由」にまかせられるものが,自由でなくなるという「刑罰」である.詳しくは,ノーベル文学賞をとった,ソルジェニーツィンの『収容所群島』をみればよい.

「自由」とは,守備範囲がひろい言葉であるから,たいへんな注意でよみとく努力がいる.
これは,「freedom」と「liberty」の違いがはっきりしている言語をもつひとびとと,このふたつを合体させて「自由」としたことでの認識の差だろう.

さて,資本主義以前からつづく会社だからといって,社内風土に「自由がない」と決めつけることはできない.最近,「ブラック企業」として認定される会社のおおくが,資本主義時代の創業である.だから,資本主義に適応できているか,そうでないかは,企業の古さではなく,経営者のかんがえできまる.これを,「信用」と言いかえることもできる.

だから,事業承継の肝は,信用の承継なのだ.

創業者ひと世代で終わるのか,それともどうするのか?この判断には,自社の「ありかた」という哲学が必要だ.せっかく創業して,そこそこ利益もあげているから,閉じるのはもったいない,というのではなく,どういうすがたが理想なのか?というはなしだ.

企業規模を大きくしたい,とか,自社の特殊技術をもっと広めたい,とか,そのイメージはさまざまだろう.

一方で,取引先はどうだろう?

日本の職人が丹精込めてつくった商品が,世界の職人に愛用されているすがたを,作り手の職人にみせる,という番組がある.「道具」をあつかうこのシリーズは大人気のようだが,不思議な共通点がある.
それは,紹介される職人のおおくが,自分が手がけた商品の行き先にこれまで「興味がなく」,その道具が,その道のプロに使われている場面を「みたことがない」,というのだ.
これは,にわかに信じがたいことだ.プロ仕様の道具をつくる名人たちが,どうやってプロが望む遣い勝手をしっているのか?世界の職人が絶賛するのも,「遣い勝手のよさ」という「品質」である.それで,「これからも末永く,この道具を作りつづけてください」とお願いされる.この道何十年の職人の目頭が熱くなるクライマックス場面だ.

すると,この番組で紹介されることがない,とてつもなくたくさんの工場では,今日も商品の行き先や,使っているすがたをみたことがない,ということになる.

自社が「店じまい」すると,一体どうなるか?をほとんどのひとが認識していないのだ.
どこかの区切りで,この番組のような「旅」をして,自社の位置づけを「利用者目線」から確認することは,きわめて重要なことである.

旅行社による,ツアーの開発があっていい.これを,「パーソナル産業ツアー」と呼びたい.

旅館業でも,店じまいしたらどうなるかをかんがえることは,ふだんをどうする?に直結することだ.だから,店じまいについてかんがえることは,生き残ることに通じる.

たまごかけごはん

地方の宿にいくと,「こんな田舎だからなにもない」というのが,どうやら全国共通の感覚らしい.しかも,かなり「本気」なのだ.

列島改造論に冒されている

日本経済の高度成長は,1973年の第一次石油ショックでおわったという「定説」があるが,かつて経済企画庁の『文豪』といわれ,いま日銀の政策委員である原田泰氏はその著書で,月次統計データをつかって否定している.第四次中東戦争がきっかけで発せられたのが,アラブ産油国の「石油戦略」である.この戦争は1973年10月のできごとだ.じっさい,わが国経済だけでなく世界に大激震をあたえたが,その「効果」は翌年,1974年の1月になって統計データにも顕著になる.ところが,原田氏は,日本経済は1973年の「6月」に中折れしているとデータで示した.

そして,これは,田中角栄内閣の「地方バラマキ」による不経済が原因と分析している.原田氏は,もし中東戦争が起きなかったら,田中内閣の明確な経済政策の失敗が糾弾されていたろう,と主張している.明治の文明開化からはじまる富国強兵のための工業化は,地方の農村が人材供給源だった.戦後も同様で,「集団就職」のそれは「金の卵」ともてはやされた.

井沢八郎の『あゝ上野駅』が発売されたのは1964年,ステレオ版が1976年にでている.

田中角栄は,幹事長を辞任した後,1968年に党の都市政策調査会長として「都市政策大綱」を,佐藤派から分離独立した1972年に『日本列島改造論』を発表している.

地方からやってきた金の卵たちが産み出した「カネ」を,「なにもない」地方へ還元して,せめて地方の県庁所在地は「東京のように」しよう,という発想だ.これは「票」になる.だから,いまも,批判のおおい公共事業のかわりに「ふるさと納税」で継続している.

「ない」のではなく「ある」を探す

これは,(なにもない)「地方はかわいそうだ」という感情をよんだ.まるでアメリカ人のアイルランドへの郷愁のようだ.

その地方に「ある」もの,といえば,「自然」だというのも,全国共通のようだ.かつて国鉄時代に,「ディスカバー・ジャパン」と銘打って,さまざまな「旅」がもてはやされた.「『愛国』発『幸福』行き切符」が大ブームになったのは,1973年だ.

それが,JRになったら,ピカピカのガラス張りコンクリートの駅が増殖した.日本建築学会は,いまだに「ポスト・モダン」追求がとまらないらしい.地方の駅前で,記念写真を撮る気が失せてひさしい.京都駅の「無残」も典型例だろう.その京都で,フォー・シーズンズ・ホテルが採用した「竹垣」は,伝統的技術の結晶でもある.外国資本が,日本の伝統を守ってくれた.ここは絶好の撮影スポットだ.

整備された田んぼや畑をみて,「自然がいっぱい」というセリフを発する旅番組のナンセンスはさておき,なぜか放置された「耕作放棄地」を「自然がいっぱい」とはいわない.完全に人力によって設計・管理されている「日本庭園」が,「自然」だとおもうのが日本人なのだ.

だから,棚田や千枚田をみると,たまらなく美しいと感じる.その「労力」を想像するだに感動し,ときには涙をながす.

たまごかけごはんが象徴するモノ

どのように育てられた鶏が産んだのか?どのように育てられた米なのか?どのように育てられた醤油なのか?

たまごかけごはんには,その土地のストーリーがつまっている.だから,わたしは,地方の「なにもない」という宿を指導するときは,朝食にたまごかけごはんをすすめている.

たまごかけごはんには,当然,なまたまごが必要だ.それで,案外,「保健所からの指導で当館では生卵の提供はしておりません」と,張り紙する宿泊施設はおおい.まちの牛丼チェーンにはかならず生卵の提供があるから,じぶんたちは生卵の管理ができません,と言っているにひとしい.管理ができていない状態だから,保健所から指導されているのに,その理由すらわからない,ということだ.

すると,ほかの食材の管理もおざなりのはずだ,とみることができる.これも,たまごかけごはんをすすめる理由になっている.