美人は得をするものだけど

わが国の「フェミニスト」を代表する、上野千鶴子東大名誉教授が、「女性の外見をブス、美人というのは男性が女をランキングする傲慢だからダメ」だけれども、「男性の評価尺度は多元的で、一番強力なのは金力なのでイケメンというのはよい」と言ったことが物議を醸している。

国立大学で、一方的非難を浴びて、とうとう大学当局が「本学には関係ない」と学長名で突き放したのは、徳島大学名誉教授の大橋眞氏への「非難の同調」として支援者から非難されているけれど、マスコミは一貫して無視を決め込んでいる。

大橋教授は、同大学医学部でずっと「細菌免疫学」の講座を担当していて、定年退官して「名誉教授」を授与されたから、授与を決めた大学側が「無関係」という表明をするほど、無責任なことはない。
そうはいっても、いったん授与した「名誉教授」の称号を、ソ連みたくに「剥奪」もできないから「逃げる」しかないだろう。

細菌免疫学の専門家として、2年も経ったいまだに「病原体としてのコロナウィルスを確認した者がいない」という事実をもって、コロナ騒ぎを、「医学」あるいは「科学」とは別の、「社会現象」として最初に定義した科学的思考をする人物だ。

この意味で、上野千鶴子氏への「東大名誉教授」という称号があるのは、いまとなっては仕方がない。
すると、「現役」の教授として、よくも東京大学に在籍できたものだということになるのは、「名誉教授」の名誉が、「勤続年数」で与えられるからにちがいない。

すると、「社会科学分野」における教授職の「椅子」をひとつ独占したことにもなるので、勤続期間が長いという意味は、他の学者を同職から排除し続けることに「成功した」という意味でもある。

別にこんな深読みをしなくとも、東京大学は北京大学と「提携」していると正々堂々表明しているので、とっくに「レッドチーム」の大学なのだ。
総長以下、さぞや「晴れがましい」にちがいないから、上野氏が現役教授で何ら問題なく、その筋の思想を学生の脳に埋めこんだ成果を「顕彰」して、名誉教授の称号を差し出したのだろう。

だから、東大総長は、「本学とは関係ない」といわない。

上野氏の有名な発言に、「日本人はみんなで貧乏になろう」というものもあったのは、日本経済の衰退を「当然」とした、鋭い分析、のようでもあるけれど、ご本人は都内タワーマンションの上階にお住まいで、なお、高級外車を乗りまわしている日常が、これまた批判の対象となったものだ。

つまり、ぜんぶ「他人事」なのである。
この点が、「上野千鶴子」という「ブランド」を形成している。
すなわち、彼女は決して「フェミニスト」ではなくて、ただの「現状破壊」を目論む裕福な「活動家」なのだ。

さて、「ブス」とか「美人」という評価は、男性が女性にする「だけ」なのか?ということをわざわざかんがえると、あんがいと女性から女性を評価するのに、いちばん「きつい」ものではないのか?と思える。
このあたり、社会学の本筋は、どんな統計的な解析をしているのだろう?

しかも、女性の「それ」は、外見もさることながら、「内面」における評価も含むので、男は欺せても女は欺せないわよ、という強い意志まであるものだ。
これは、いわゆる女性を敵視する「ゲイ」の評価とはちがうことがあるけれども、「ゲイ」の目線の鋭さは、本質を衝く、という意味では確実性があるものだ。

こんなことからも、社会学者としての上野千鶴子教授の「研究成果」は、いったいどんな方法論を用いたものなのか?という基本的な疑問まで、素人が抱くのだから、やっぱり「活動家」だとしか評価できない。

一般的に、動物の世界では、「雄」が着飾る傾向があって、「雌」は地味である。
この意味で、人間には「倒錯」した感覚がある。

だから、男性が着飾るのは決して女性化しているのではなくて、「雄化」しているという「当然」がある。
すると、女性が着飾らないで、地味さを好むなら、それは男性化しているのではなくて「雌化」しているともいえる。

きわめてプリミティブなことだけど、そもそも論からすれば、「生殖」のための「構造」だといえるのが、「見た目」における「雌雄」のちがいとなっている。

すると、「民族」という区分の中で、日本人やその周辺の東アジアにおける、深刻な人口減少に、生命体としての「本能的対応」をしはじめたから、雄が着飾り、雌が地味になってきている、のだとも考えられる。

これに、多くが「美人」だと思う、「美人の定義」とは何か?を考えると、時代や地域によって異なるのは、その地の環境とか、栄養状態とかが影響するというのは納得できる話だ。

たとえば、中東アラブ世界なら、男女とも「豊満=デブ」が好まれたのは苛酷な環境と栄養状態の「豊富さ」をもって価値基準としたからだという。
それが最近では、「欧米的スリム」に取って代わりだした。
つい30年前なら、「スリム=貧弱さ=貧困層」という社会評価だったのだから、「隔世の感」がある。

太陽の力が弱い「北」の地域では、光の吸収のために肌が白くなって、寒気を緩めるラジエーターの役割をする鼻が高く(鼻腔の容積拡大)なった。
それで、穀倉地帯では、人口確保のために女性が美人に進化したという説がある。

ベラルーシ、ウクライナ、モルドバ、ポーランドあたりがその地域にあたるけど、年月による「血の交わり」で、中央アジア(シルクロード)には「絶世の美女」も現れる。
その一例が、楊貴妃で、隋帝国をたった二代で滅ぼすことにもなったのである。

ところが、美人なのに自分が美人だと認識しない(できない)ひとも国もある。
ベラルーシでは、ファッション・モデルが「国家資格」を要するのは、国家が美人を決めているからで、上野氏が卒倒しそうだけれど、このことのコメントは聞いたことがない。

そういえば、自分が美人だと気づかないひとの悲劇が小説や映画になっていた。
物語の舞台はイギリスだけど、主演のナスターシャ・キンスキー(ドイツ出身)の「美しさ」で有名な、『テス』は、監督、ロマン・ポランスキーもポーランド人であるところが、「ミソ」なのである。

名前に「スキー」が付くのは、祖先が「ポーランド貴族」の証拠なのだった。

  

しかして、容姿とは、人生体験や自己の内面からの感情も「変化」に作用するので、「心の美人」という見えないモノを見る「眼力」が、見るものに要求されて、その見るものの「心の美人」さが、感情としての結論をだすのである。

美人は得をするものだけど、「千差万別」、「蓼食う虫も好き好き」ということになって、他人からどうこう言われるものではない。

「スタン国」の反乱

「中央アジア」という、日本人には馴染みの少ない地域の国々の国名には、「スタン」がついている特徴がある。
蛇足だけれど、「中央アジア」も「東南アジア」も「極東」だって、みんなヨーロッパからの目線での言い方であることは意識していい。

なので、日本目線だと「西アジア」と言いたくなる。

ロシア帝国の化学者にして作曲家、ボロディンの交響詩、『中央アジアの草原にて』(初演1880年)は、日本人にも郷愁を誘う名曲だけど、「ご当地」は、黒海とカスピ海の間にある「コーカサス」(北はロシア、南はジョージア:旧グルジア)の辺りを指す。

「スタン国」は、カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタン、アフガニスタン、パキスタンの6カ国だけれども、キルギスも、こないだ(1993年)までは、キルギスタンといっていた。
なお、新疆ウイグル自治区を「東トルキスタン」と歴史的な表現をすることもあるのは、「トルコ族(今のトルコまで「西へ移動した民族)」発祥の地だからだ。

「スタン」の元は、ペルシャ語で「地域」を意味する「語尾」だという。

アラビア語とペルシャ語は「似て異なる」言語だけれど、どちらもアラビア文字を使って、激しい「語尾変化」をする共通がある。
ただし、ペルシャ語にはアラビア語にない「国字=発音」が4文字あるから、これを綴りに見つけたら、それはペルシャ語だと、読めなくともわかるのである。

なので、アラビア語の文字数28字に4を足して、ペルシャ語は32字である。

なお、アラビア語とペルシャ語のちがいを、外務省は「中国語と日本語程度」と説明しているから、ぜんぜんちがうと言いたいのだろうけど、あんがいと、複雑難解なアラビア語(文語)に「挫折」したひとがペルシャ語に「逃げる」ことがある。

年始早々、「スタン国」のなかの、カザフスタンでエネルギー値上げに抗議した暴動が発生し、あっと言う間に「全国に広がった」から、大騒ぎになっている。

この国は、天然ガスなどの資源国で有名で、今回キルギスに逃れたという、元大統領は、その40年もの施政下で国内ではエネルギーをほぼ「無料」で提供していたから、反動が大きいともいえるけど、世界最大の「ウラン」を産することもあって、暴動の「裏」についてあれこれ噂が広がっている。

もちろん、値上げをせざるを得なくなったのは、国際的なエネルギーの「逼迫」が原因で、輸出すればするほどに「儲かる」ことの余波となったのである。
その大元は、バイデン政権の、アメリカ国内での「シェールオイル・ガス」の開発禁止に端を発したことは、言うまでもない。

ちなみに、わが国でも石油は値上がりしていて、電気代も3割ほども上がっているのは、「痛い」からみんな知っている。
国民を痛めつけることが「趣味」を超えて、主たる「業務」になったわが国政府は、ガソリンの二重課税をやめないことは前に書いた。

しかし、こんなもんじゃないのはかつての同盟国ドイツで、「極端な」脱原発と再生可能エネルギーへのシフトで、メルケル政権の最初と終わりの16年間で、ドイツの一般家庭の電気代は、おびっくりの「4倍」になったのに、ここにきて「6割」も上昇して、ついに「6倍を超える」状況になった。

これは、年率にして「12%以上」もの上昇にあたる。

しかも、なんだか「宿敵フランス」と蜜月になったのは、フランスの原発で発電した電気をドイツが買い取ることで、自国内の原発を停止させたから、「電気のフランス依存」ができたからなのである。

それで、ロシアの天然ガスにも依存して、あたらしいパイプラインをバルト海の海底に敷設した。
これで、すっかりプーチン大統領の言うとおりが完成するのを、バイデン政権が待ったをかけて、その余波が「ウクライナ危機」になるという、すさまじい「風が吹けば桶屋が儲かる」状態になっている。

太陽活動が400年ぶりに「停滞」しているなかで、どういうわけか「地球は温暖化している」という根も葉もない「与太話」にはまりこんだのは、ドイツ人がナチスにはまりこんだ「反省がない」からであろう。
戦後に生まれた「東西ドイツ」は、「新生国家」なのである。

連合軍の「ベルリン宣言」によって、伝統ある「ドイツ」は、「滅亡した」と国際的に「認定」されたから、ここに「歴史の分断」が本当に起きて、新生ドイツはそれまでのドイツとは「関係ない国」として出発したのである。
だから、統一してもドイツは、周辺国に戦禍の謝罪も賠償も一切していない。

唯一、「人道的」として謝罪したのは、「ホロコースト」だけなのである。

実際の観測データで、地球は温暖化ではなく「寒冷化」しているきらいがある。
それでか、は知らないけれど、この冬は寒い。

しかも曇天と雪で、持続可能エネルギーの「エース」だったはずの、太陽光発電がぜんぜん機能しないから、ドイツのエネルギー危機は、生活と産業を直撃しているのに、残った原発の運転を停止させて、さらなる「電力危機」を自分でつくっているから、もはや「自虐が快感」になっているような、変態的な嗜好に陥ったのである。

これを、「信号機」と揶揄された新政権でもやっている。

なお、イギリスでも風力発電が無風でとまって、昨年の「COP21」では、開催中に電力危機になってしまうという、英国らしい「ブラックジョーク」が起きたのは記憶に新しい。

さてそれで、カザフスタンの話である。
地図でみればわかるけど、この国はロシアと4000㎞も国境を接しているけど、なにせ元は「ソ連」だった。
それは、ウクライナも同じで、やっぱりここにも重要な軍事施設がある。

ウクライナには「核ミサイル」をたんまり配置していたけれど、カザフスタンには、最先端の「宇宙基地」があって、上述のようにウランの産出で世界最大なのである。
しかも、国民は「イスラム系」なので、隣の新疆ウイグル自治区問題に、ようやく敏感になってきている。

だから、露中の2ヵ国からしたら、放置すると「まずい」ことになりかねない。
それでか、プーチン大統領は素早くもロシア軍を「治安維持」のために送り込んでいる。

なんと、ウクライナ、カザフスタン、台湾という、「大東亜」に近い範囲できな臭くなってきた。
このほかの「スタン国」の「安定」は、大丈夫なのか?

インドの動向次第では、親中のパキスタンがなにをするやら?

寝た子を起こすようなことは、くれぐれもやめてほしいものである。

人間だけがつくる「基準」

動植物とかの生き物だけでなく、広く宇宙や細かな原子にも「法則」がある。
これを総じて「科学法則」と人間は呼んでいる。

ただし、その法則の主人公たる、動植物とか宇宙とか原子が、この法則を自己認識しているとは限らない。
なので、あくまでも人間が発見した法則「だけ」を、法則と言って、それ以外の「未知」を、見つける努力をしているのも人間だけだ。

たとえば、「最新」の宇宙論では、宇宙は11次元(時間を含む)で出来ていて、われわれが生きている時空の次元を超えた「高次元」は、とても小さくまとまっているから、「見えない」という理屈になっている。

それで、「一個の宇宙」は一枚のパネルのようなもので出来ていて、そのパネルが何枚もあって、これらが衝突と離散とを繰り返しているという。
従来言われてきた「ビッグバン」とは、このパネル同士の「たった」1回の衝突のことを言う、との解釈である。

もちろん、これまで、何回の衝突があったのかはわからないけど、ずっとむかしから何回もあった、と考えるのが「最新」なのだ。

すると、パネルの衝突でできた「宇宙」は、何度も「再生」されるのかしれないので、なんだか、後に「お釈迦様」と言われる、ゴータマ・シッダールタがイメージした「宇宙」に似ている。
そして彼はこれを、「輪廻転生」の概念にしたのだった。

人類が宇宙にロケットを飛ばす時代になってから、最先端の宇宙工学や天文学を勉強すると、おおくの研究者が「仏教徒になる」という話は聞いたことがあるけれど、いよいよ宇宙論が仏教になってきた感じがする。

色即是空、空即是色

ゴータマ・シッダールタがいつ生まれたのかは、諸説あってわからないけど、紀元前7世紀がいちばん古い説で、紀元前5世紀がいちばん新しい説である。
要は、紀元を基準とするイエス・キリストよりか、最低でも500年古い。

「信じる」ことを要求される「宗教」であったものが、「科学法則」だということになると、「話」は変わってくる。

結局は、人間には言語あるため、「話」とか「物語」が「伝わる」のである。
だから「定義」とか、「基準」も、人間「しか」つくることができない。
それがあたかも「法則」の「顔」をしていれば、「法則」になったのだけど、何事にも「行き過ぎ」があって、おかしなことになるのである。

前世紀の終わりから「先進国」では、文明が進み過ぎて、人為である政治と科学法則らしきものが合体して、おかしなことが起きてきた。

このことの「実験」は、人為だけでつくった国家の「ソ連」で経験済みだったけど、西側諸国ではあんがいと知られていない。
その悲惨な末路は、シベリア送りになった科学者の人生の悲惨だけでなく、ロシアになったいまでも、遺伝「学会」の遅れに痕跡が残るほどの「被害」をつくった。

それが、何度も指摘している「ルイセンコ問題」なのである。
独裁者の「政治意図」と、「(エセ)科学」が結合してできた「化学反応」は、社会主義の畑でつくる小麦の優位性という「神話」を無理やり信じこませて、農業に大被害を出しただけでなく、万人単位の死者を出したのだった。

スターリンの政治意図とは、人為的な「人口削減」であったから、見事な「達成」をとげたのである。

こんな「実験」があったのに、半世紀以上がたった西側社会は、見事な「繰り返し」を意図している。
それが、EUによる「グリーン認定」の「基準見直し」である。

まるで悪魔に取り憑かれたような、「地球温暖化」という「エセ科学」に支配されて、「脱炭素」なる、視野狭窄症という病に罹ってしまった。
もちろん「目の病気」ではなくて、「精神病」が原因である。
ただし、この精神病の発症とは、利権がつくる生活習慣病の合併症なのだ。

連合国が決めた「SDGs」の根本にある思想が、地球温暖化対策という欺瞞の政策だから、これを「曲げない努力」とは、嘘の上塗り、しかない。
それで、もっともらしくするために、学術界の権威におカネを払って、政治目的に合致した「見解」を発表させるのである。

このときの「政治目的」とは、「利権」そのもののことをいう。

日米の「二極」に対抗して生まれたのが「EU」で、当時、彼らが着目し研究した「日本の強み」が、勘違いの「官僚制」だったのだ。
それでもって、日本以上に強大な官僚機構(「EU委員会」という)をもってヨーロッパを管理することに決めたのである。

EU委員会は、EU議会の「上位」に位置することが、ミソなのだ。
よって、EU議会の議決は「参考」とされるけど、それ以上でも以下でもない。

もちろん、いまでも旧田中派に「恩義」を表明する、中国のひとたちも、「日本型」の(利権)統治機構を学んで「パクった」のであったけど。

そんなわけで、原発を「グリーン認定」するばかりか、天然ガス発電も「グリーン認定」することにした。
石油より炭酸ガス排出が「少ないから」という理由で、申し訳なさそうに「化石燃料だけど」と言っている。

こんな「グダグダ」なヨーロッパを尻目にして、わが優秀な(文系)官僚機構は、震災以来止めていた原発を稼働させるのに躍起である。
ところが、電力会社が悲鳴を上げだしたのは、「運転要員」の技術者がいない、という深刻だ。

10年で「要員」が劣化する。
文系脳には思いも付かない事態が、現場ではできていた。
しかも、国立大学でさえも「原子力学科」を廃止してしまっているのだ。
経産官僚が、同級の出来の悪さで有名な文部官僚を「叱咤」していることだろう。

ゴータマ・シッダールタは、漢字で「瞿曇悉達多」と書くから、「叱咤」とは書かない。

「経済安全保障」の遅さ

自民党だって、国民一般には、なんにもしていないように見えても、なにかしているのだけれども、「民間への警告」という点では、やっぱりなんにもしていない。

組織とはそういうもので、「自律」できるのはいいけれども、過ぎたれば「ムダ」仕事の製造機になることだってある。
その調整役として、管理職の存在意義がある、というものだ。

ところが、その「管理」を強化し過ぎて「責任者の処分」を厳格化すると、責任をとらさせる立場のひとたちが、「管理職になりたくない症候群」という病を、組織ごと発病して、機能不全になる。
こうなると厄介で、「リセット」を要するものだ。

このときの「リセット」には、人事も含まれるのが「常」で、そのような組織にした張本人たる「トップの責任」が問われることになって、とうとうトップが交代するという「手」を打たないと、組織全部が自滅してしまうのである。

ふつうの組織なら、上記の手を打って組織の「延命」をはかるのであるけれど、世の中にはふつうでない組織もある。
この場合、どうなるのかは静観するしかない。
なので、「内部」のひとには精神的に厳しい時間が「長く」感じることだろう。

日本人になった、石平氏の8日の解説によると、昨12月27日、「中央党学校」の機関紙に、幹部が抜擢を拒否してはならない、という内容の記事がでたそうだ。
すると、けっこう深刻な組織内の「病」を発病しているのかと思われる。

世の中は、一個の生き物のようにつながっているもので、一見関係ないことも、関連していることがある。
それは、「国際間」でもおなじだ。
たとえば、コロナ禍や原油高などから、アメリカ国内輸送と国際海運が滞ったら、マックフライポテトが欠品するとかが起きるのだ。

米中関係が「本格的」に「悪化」したのは、トランプ政権のときからだった。
いまでは、オバマ時代以前の「ズブズブ」がわかってきた。

それで、「法治国家」としては、「立法」する。
ここで勘違いしてはならないのは、「立法」の主体は「議会」であることだ。
だから、トランプ時代の立法だからといって、全部が大統領の意思とはいえない。

もちろん、大統領には「拒否権」があるから、気に入らない法案に署名しない、という手もあるけれど、全部をやれないのは、「民主主義」が定着していて大統領の独裁を許さないからである。
これは、「法的」にもそうだけど、有権者の「世論」もある。

そんなわけで、アメリカは2020年6月17日、トランプ大統領が「ウイグル人権法」に署名して「成立」した。
ちなみに、2018年に、「2019年度国防権限法」ができて以来、中国ビジネスへの締付けがはじまったのだと覚えていていい。

それで、先月23日、今度はバイデン氏が「ウイグル強制労働防止法」に署名して「成立」したことで、「ニュース」になった。
息子が巨額資金をもらったバイデン氏は署名しないかも、といわれて上下両院とも「全会一致」で議決した議会が心配していたからでもある。

しかし、トランプ氏が署名した「ウイグル人権法」も、同時に「改正」されたのは不思議とニュースになっていない。
これには、ウイグル人の強制労働への「関与」が含まれることになった。
どんなことが「関与」かといえば、新疆綿、新疆トマト、太陽光パネルなどの製造・販売がそれにあたる。

そして、これに適合認定されると、アメリカ人でなくとも(=日本人でも)、アメリカ政府から「制裁」を受けることになる。
その制裁には、以下の4項目がある。

・米国内資産凍結(預貯金や不動産など)
・ビザ発給の取消と禁止(入国、滞在の禁止)
・行政と刑事罰(違反金、罰金と身柄拘束)
・SDNリスト掲載

最後の「SDNリスト掲載」とは、国家の安全保障を脅かすものと指定した国や法人、自然人(Specially Designated Nationals and blocked Persons)という意味のリストで、最も重要なのは、「ドル決済の禁止」という措置を受けることにある。

だから、この指定を企業が受けると、たとえ日米間の取り引きに関する決済でも、できなくなるのだ。
簡単にいえば、世界中の銀行から相手にされなくなる、ということに等しい。

もちろん、中国側も「対抗策」にあたる「法整備」(たとえば、2020年12月の「輸出管理法」がある)に抜かりはないし、組織の「締付け」にも熱心で、「賄賂」よりも「責任者の責任」が重視されている事情がわかる。
それが、上述の「新聞記事」になって現れたのだろう。

つまるところ、中国に進出した日本企業の「経済安全保障」が、きわめて「まずい」状態になっているのである。

おおかた、わが国もアメリカのような「法」をつくるべきという議論はあって、自民党政調会・新国際秩序創造戦略本部が「提案」したのが、2020年12月16日の「提言 『経済安全保障戦略』の策定に向けて」がようやく1年経って「動き」を見せてきた「遅さ」がある。

しかし、このままだと、アメリカから「制裁を受ける」ことが先になって、上述のようにその「罰則」の強烈さが、わが国主要企業の「息の根」を止めることにもなりかねないのだ。

つまり、日本政府は「伝統的お家芸」の「(企業)棄民」をやることになる。
見殺しでは済まない、「皆殺し」に匹敵する。

なのに産経新聞が5日に報じた「主要118社の7割企業が中国事業継続」と回答したとは、どういうことか?
政府ではなくて、それぞれの「企業」が、自滅的な判断の「遅さ」をやっているのは、「横並び」だからなのか?

とはいってもすでに、いくつかの企業が、独自判断で、対象となる地域や製品の「撤退」あるいは「使わない」という判断を表明しはじめたのは、「企業防衛上」の重要な(とはいえ当然の)決定と言える。
社内の調査チームが機能しているのだろう。

しかしながら、経営者自身が舐めてかかっているアパレル有名企業もあるし、なぜかアメリカでの「特定商品の販売中止」という変なことを決めた雑貨販売企業もある。

これが本当の、「情報リテラシー」の有無による違いを生むはずであるけれど、大丈夫なのか?
じつは、EUも、アメリカ同様の措置を法的に検討していると表明した。

上述の変な決定をして逃れようとも、アメリカ市場ばかりかヨーロッパ市場も失いかねないし、そんな「姑息」なことは通じない。
そもそも「決済」ができなくなるのを、なにか勘違いしていないか?
まさか、顧問弁護士が「法」のチェックをせずに、報道しない日本の新聞を読んでいるわけでもあるまいに。

だから、「遅ればせながらも、バスに乗り遅れるな」の自民党案なのは、日本企業を救うためのものではぜんぜんない、米欧と並んだ「国家のメンツ」だけなのだ。

アメリカで法が執行される6月末に、日本経済の大波乱という、まさかの事態になりそうだ。
これに、参議院選挙が一緒にやってくるのみならず、台湾とウクライナも「一緒」になったら、戦時政権が勝つというセオリーが、バイデン・岸田両政権を延命させるもっとも効果的手段というシナリオがあるけど、それは両国民には最悪である。

こんなことを、「敵」は狙っているかもしれないけれど、向こうは向こうで、「リセット」の時期にもなるかもしれず、いよいよ混沌の深みにはまりそうなのである。

正月気分も抜けて、2022年は、このままでは「やばい年」になってしまいそうなのである。

最後の20歳「成人の日」

映画『マトリックス』に「はまる」と、コンピュータ・プログラムによる「支配」という、物語のコンセプトについて考えたくなる。
なので、ネットではこの「分析」をしたひとたちが多数、投稿していて、持論を展開している。

本当はただ寝ているだけなのに、接続コードを脳に直結させて、脳をプログラムでコントロールする、という「洗脳」の方法が新しかった。
その意味で、伝統的な「繰り返しの強制」による洗脳とは、まったくちがうやり方だ。

しかし、目的は「洗脳」であって、一個の人間を意識的・思想的に「改造する」のであるから、方法はどうであれ、「結果」がおなじでより効率的ならそれでよい、ということになる。

非伝統的、あるいは反伝統的な物語でGHQ好みな、戦後の日本人が生んだ物語はたくさんある。
なかでも、巨匠「手塚治虫」が原作の、『マグマ大使』(1966年~1967年:フジテレビ)は徹底的で、日本神話を無視した「アース」という創造主を創作した。

この物語に出てくるのが「人間もどき」という「下等生物」だ。

ふつうのひとを「コピー」して作り出す、という発想は、医学博士にして「党員もどき」の混合によって生まれたのだろう。
そして、アースが作りだしたのが「マグマ大使」だった。

ここで重要なのは、「児童向け」という体裁をとることにある。

つまり、手塚治虫作品には、「共産主義」という「毒」がしっかりと埋めこまれているから、じつは、児童に気軽に彼の作品を見せてはならないのである。
これが、「巨匠」にして、国民栄誉賞を受賞「しない」理由でもあろう。
ただし、ご遺族には「勲三等」が授与されている。

「門前の小僧習わぬ経を読む」というように、成長著しい子供の脳は、繰り返し見聞きした「モノやコト」を、無意識で「暗記」する能力を発揮する。
これが、「言語」と結合すれば、それが、「母語」となるのである。
だから、宣伝につかう音楽には、必ず「歌詞」が付くのも、脳に定着させるための「必須要件」なのである。

このことが、「暗誦」という人類共通となる。

古い日本人の上流(=武士)階級にあった、「素読」とは、「四書五経」の暗誦をさせたということだ。「百人一首」もそうだ。
これが宗教社会では、ユダヤなら「トゥーラ」、アラブなら「コーラン」を子供に暗誦させる。

西洋社会なら、聖書の「詩篇」とか、プロテスタントのドイツにおけるユダヤ家庭なら、ゲーテの『ファウスト』とかの人類文学の金字塔作品を暗誦させる。

10歳ぐらいまでにこれを、「やる」と、その子供は、一生忘れない「記憶」の最深部に定着して、よしんば「ボケ」ても忘れないのである。
そして、「暗誦」の効果のもう一つの共通は、「意味」は後からついてくる、という実際があることだ。

これは、暗誦することができるようになって、さらに時間が経過して本人が「成長」すると、かならず次のステップとして、「意味」を理解するようになる、ということだ。
この二段階で、さらに記憶に強く定着させることになるから、これに反するものに反発するという「人間形成」となるのである。

つまり、人間の子供への暗誦の強制は、その社会の常識的知識を「埋めこむ」ということが、将来の「知的有利=指導者」としての「素養」を造るという「実利」にもつながる。
よって、そのような「伝統社会」の「破壊」を試みるひとたちには、「反強制」という言い分で、これをやめさせようとするのである。

だから、「初等教育」の重要性は、言い過ぎることがないほど「重要」なのである。
しかも「初等教育」は、なにも学校「だけ」で行うモノではないのは、この時期の子供の脳は、あらゆるモノ・コトを吸収する貪欲さに溢れているからである。

このことが、「育ち」を決定づける。
「育ちのよさ」とか「わるさ」、「お里がしれる」とかは、おとなになってからの修正が効かないので、本人にはどうにもならない。

こうしてみると、わが国の「教育の荒廃」が意味するものとは、「反強制」を言った側からしたら、「正しい方向」に向かっている、という評価さえできるものだ。

では、そのような「反強制」を主張するひとたちは、いったいどんな「教育」を受けてきたのか?と問えば、これがあんがい伝統的で、教師に「従順な子供」だったりするから、「成績優秀」なのである。
もちろん、「家庭」でも、「先生の言う事を聞きなさい」と伝統的に教育されていて「素直」に応じているはずである。

すると、じつは「伝統」が「伝統を破壊する」ということになっている。
これが、「保守主義」の最大の「欠点」なのである。
だから「何を保守するのか?」をたえず確認しないといけないのだけれども、「反強制」を言われると、同意してしまう弱さが恨みとなるのだ。

ではこの「破壊」の源流はと問えば、やっぱり「占領時代」という「暗闇」にたどり着く。
先に育っていた「学生」のおとなたちへの「反乱」が、「70年安保」に代表されるものだとしたら、その後の「児童」による「反乱」が、『金八先生』のドラマの「素」という社会現象の「基」になったと考えられて、「青春もの」へと成長するのだった。

この時代までは、「反乱の理由」がおとなにも見えていた。
そのおとなとは、「70年安保」経験者をいう。

それからは、もう「理由すらわからない」という時代に突入して、何年も経つ。
それは、壊された子供が親や教師になって、もっと子供たちを破壊しているからだろう。

これを、「行政」によって修正するのは不可能なのに、文部行政「しか」修正の方法がないと考える「浅はか」が、破壊を増幅させているのである。

さては、何を子供に暗誦させようか?
これすらも、おとなが決めることができない社会になってしまったのである。

それでも、今年は4月1日から、18歳で「成人」という、1割も年齢を繰り下げた、初の「改正民法」が施行されるから、来年の「成人式」は、新20歳だけでなく新19歳、新18歳もいれたトリプルでの、貸衣装バブルが起きるのだった。

成人、おめでとう。

今さらの「安倍政権」を評価する

妙なことだけど、安倍政権というと「第二次」からをふつうは指すようになった。
これは、小泉純一郎政権の後を継いだ「第一次」の影の薄さがあるからだろう。

民主党政権の後に登場した「第二次安倍政権」への世人の期待は、「第一次」のときとはぜんぜんちがっていた。
ちなみに、第一次安倍政権の次は、福田康夫、麻生太郎がそれぞれ1年間ほどやって、民主党への政権交代になった。

このときの「妙」は、第一次小泉内閣で上司だった福田康夫官房長官を差し置いて、官房副長官だった安倍氏が後継内閣の首班になって、その後を福田氏が「継いだ」ことにある。

それが、もっと「妙なこと」に、わたしにはベートーヴェンの『ロマンス第1番ト長調』(作品40)と、『ロマンス第2番ヘ長調』(作品50)との関係が連想されてしまうのである。
なんだか、「1番」が地味で、「2番」に人気があることも連想の原因だ。

どちらも、「バイオリンと管弦楽のためのロマンス」ということであったけど、いまではもっぱら「バイオリン・ソナタ」に編曲された方が一般的な演奏になった。
しかも、作曲の順番は、2番が先で1番が後という不思議もある。

ベートーヴェンといえば、「古典派」とその後の「ロマン派」の中間に位置していて、初期のころは古典派、それがだんだんと「ロマン」に転じていくので、橋渡しのような役回りをした。

この曲ができた時代背景は、ナポレオンが「独裁」をはじめるときと合致している。
交響曲で言うと「2番」と「3番:エロイカ」の間にあたる。
ナポレオンへの憧れで創った3番の題名「ボナパルト」を荒く削り取って、「エロイカ:英雄」と書き直した逸話は有名だ。

もちろん、「ロマンス」とは、「甘美」という意味で、小品ならではの気品にも溢れている。
この曲を背景に、口説かれた女性はいかほどの数にのぼるのだろうか?
いや、ロマンチックな乙女は、自分の頭の中で「再生」して、自己演出に酔っているにちがいない。

さてそれで、安倍氏をベートーヴェンに例えているわけではぜんぜんないけれど、小泉氏が「ぶっ壊す」と絶叫していた、自民党が、ほんとうに壊れたのが第一次安倍時代から麻生時代といえるのではないか?と言いたいのである。

このブログでは、田中角栄が「被告人」でありながら、自民党の「乗っ取り」に成功し、その成果を竹下登にかすめ取られたときに、「終わった」と言ってきた。
派閥はあってなきものとなり、ぜんぶが経世会の利権方式となったのである。

こうして、角栄の愛娘である眞紀子は、自民党からスポイルされて、民主党政権にいったのである。

元来、自民党内の二大派閥とは、大銀行が合併してできた「旧行」の人事体系とおなじで、合併後の新入社員が頭取になるまで残るようなものだった。
吉田茂の自由党と岸信介の民主党の系統が、さらに細胞分裂したのだから、それぞれのDNAは、「祖先のDNA」を同じくしている。

銀行とちがうのは、派閥の看板がいつまで経っても消滅しないことにある。
ただし、上述のように、「やり方=金銭・利権で管理する」という方法は、どの派もおなじで、その源泉を派によって異にするから、消滅しないのである。

だから昔とおなじ、なのではなくて、「ちがうことができない」ということが、国民にとっての不幸のはじまりなのである。

それでもって、「憲法改正」という「甘言」をもって、安倍氏が選挙の陣頭指揮をとれば、何回やっても「圧勝」したのは、国民が「OK」を出しているからである。
しかし、8年もかけて、このひとは「できなかった」のだ。

このことの「損失」は、計算が難しい。
ここに、「時間価値」も加えないといけないからである。
ましてや、自国内の計算では済まず、外国の成長を含めた事情も加えるならば、「計算不能の損」をわが国にもたらした張本人だといえる。

それで、次の菅内閣は1年で終えた。
岸田政権が長期政権になる予想をするものは誰もいないなか、参議院選挙「前後」での交代も十分に予想できるほど、「支持されない」という難がある。

まともな「野党」が存在すれば、政権交代が起きる第一次安倍政権の状況とよく似ているけれど、不幸にもそんな野党が存在しない。
これには、野党への最大支援をしてきた「労組」の責任を、国民が「どうしてくれる」と問うても答えることができない不幸が痛い。

そんななか、憲法改正論議が進み出しのは、あろうことか国民を強制支配するためという、本来の改憲議論とはちがうことが喫緊の「目的」になってきている。

それもこれも、安倍氏の「未必の故意」による。

あえていえば、わが国に「明文憲法」は必要ない。
世界最古の王朝が現存するわが国にあっては、不文憲法で十分なのである。
これを、「保守」がいわないのは、「えせ」だからで、自民党の保守派とは、えせの集団に成り果てた。

しかるに、これらはぜんぶ「戦後の占領」がつくったDNAなのだった。
GHQのポチ=吉田茂しかり、CIAエージェント=岸信介しかり。
これからどうやって脱却するかが、わが国の未来を決める。
その意味でのレジスタンスをはじめないと、間に合わない。

近隣の独裁者が、わが国を舌なめずりして眺めているけど、ベートーヴェンのように「表紙を書き換える」ことでは済まないのである。

自民党は労働者の味方か?

このブログで何度も指摘しているように、用語の用法をちゃんと定義しないと、何を言っているのかわからなくなることがある。

わが国における政治用語の問題は、定義されずになんとなく使われているから、議論が混乱して、深くかんがえることが「面倒になる」のである。
つまり、「わざと」混乱させて、世人の思考を停止させたい、ということのあらわれなのである。

厄介な言葉は二つある。
一つが、「右翼(派)」に対する「左翼(派)」というセット。
もう一つが、「保守」に対する「革新」というセットだ。

結論から先に書けば、「自由主義」に対する「社会主義・共産主義」というセット一つで済ますことが出来る。

これも何度も書いたけど、ここでいう「自由主義」の「自由」とは、なにをやっても個人の好き勝手だということの自由放任の自由ではなくて、他人から命令されないという意味の「自由」をいう。
だから、「お互い様」ということだ。

わが国で、ワクチン接種の「強制」ができないのは、政府から個人への「強制」が、上記の「自由」を侵害するからである。
国家や公務員を規制するための国民からの命令が、民主主義の「民主」を示す「憲法」だから、即座に「憲法違反」になるために「できない」のだ。

ところが、変な「憲法改正」論議が進んでいて、政府が「緊急事態」を決めたならば、個人は政府の命令に従わないといけない、という条項を加えようとの企みがある。

これこそ「改悪」で、「リベラル(自由主義者)」がこぞって反対しないといけないものを、わが国の用語で「リベラル」は、とっくに「革新」という意味に変換されてしまった。

ヨーロッパ各国にこの「条項」があるのは、たいがいが「内乱」を経験した国にあって、アメリカは「南北戦争:シビル・ウォー:Civil War:内戦)をやったけど、憲法に緊急事態条項は「ない」ので、「別途」、緊急事態法を制定したのだった。

上述の「セット」を見ればわかるように、「革新」は「保守」とのセットなのだから、「リベラル」と「革新」が混じるのは、定義の境界を超えてしまう「めちゃくちゃ」なのである。

ときに、今回話題のワクチンがぜんぜん効かない。
二度で効くという話が、いつの間にか三度目になっている。
ちなみに、接種先進国のイスラエルでは、四度目接種を国民に要求していて、さしもの国民も「?」になってきたという。

さらに不思議が、ワクチン接種者がPCR検査陽性になる、というニュースが流れていることだ。

ワクチンとは、弱毒化させた病原体を体内に入れることで、自己免疫作用から、本物の病気にならないようにするのだから、「感染させる」というのが、本来の効果である。
だから、PCR検査で陽性になって当たり前ではないか?

むしろ、ワクチン接種しても、陰性ならばそちらの方が問題だ。
なお、無症状者が他人に感染させる、という論拠の研究成果は、いまだに存在していないし、PCR検査陽性=感染ではない。

教育が進んでいるはずのイスラエルで、その国民が混乱するのは、「恐怖」という精神的なものに人間が負けている、ということではないのか?
すると、「ホロコースト」を経験したことの意味が、活かされていないという残念になるのである。

つまるところ、ワクチンをむやみやたらに打ちたい、というのは、政府の側の科学的根拠に乏しい「強制」だ。
しかるに、日本政府も20兆円分のワクチンを前払いで購入したので、予算消化とおなじで「無駄なく使い切る」ことをしないと、国民から叱られる、という「恐怖」の条件反射が、なんだか正当化の根拠になっている。

その「恐怖」が、せっせと国民の腕に針を刺す目的になっていないかと疑うのである。

さらに、昨年末(先月)、政府は「無料PCR検査」を、ドラッグストアで実施するように予算づけした。
ドラッグストアには、1回1万円の収入があるから、歩行者に「どうぞどうぞ」と勧めることになるだろう。

世の中に「ただほど高いものはない」と、乞食になることを嫌った先人達は言っていたけど、すっかり乞食にさせられた日本人は、「コスパがいい」とかいって喜んで陽性になって、二週間も隔離されるのだ。

こんなことを「国民のため」という政権は、自民党と公明党だけれども、他の野党で反対する者がいないのは、国民から「自由」を奪うことをしたい、「全体主義」が蔓延したからである。

他人から命令されない自由を奪う者は、自由主義者のはずはないから、必ず社会主義・共産主義の信奉者である。
ロックダウンを繰り返しても、なんの「防疫」効果はないけれど、政府のアリバイにだけはなる。

ところで、世界的に社会主義が流行ったのは、資本主義批判ということに成功したかに見えたからである。
ここでいう「資本主義」と、「産業資本主義」は区別したい。
つまり、社会主義・共産主義がいう「資本主義」とは、彼らの批判に都合がいい定義でできた、資本主義という「用語」なのだ。

逆に、本来の「産業資本主義」は、労働者を大切にしないと成りたたない。
「やる気」がない社員ばかりなら、その企業体の事業はうまくいくわけがないからだ。

だから、ちゃんとした経営者は、社員を大切にした。

ところが、社会主義・共産主義に染まったかんがえの「資本主義」憎しをイメージしたとたんに、そんな経営者でも従業員は「敵視」してしまうし、従業員から経営者に「昇格」してなる日本の労働慣行では、今度は経営者になった元従業員が、後輩の従業員を敵視するのである。

これには、「自分は安全地帯にいる」という、優越感もそうさせる。

いまの自民党は、すっかり看板の「自由」の定義を忘れてしまったので、労働者のために、と言いながら、本音では「票」と野党の分断という政治をしたいだけの集団に墜ちてしまった。

これを、「保守」を自称するものたちが、何を保守するのかも忘れて、威勢のいいことを言うひとに期待するという、残念な構図になっている。

一番重要な「自由」を失いかけているのに。

前代未聞のレッドチーム認定

人間万事塞翁が馬

なにが「いいこと」で、なにが「わるいこと」なのかは、「因果」が巡ってわからなくなることがある。
だから、すごくわるいこと、という認識をしたら、それは、「いいこと」につながるのである。

「因果」とは、原因の「因」と結果の「果」をいう。
ちゃんと順番通りで、「果因」とはいわないけれど、「因果因果因果。。。」と続くのが人生だから、結果自体が原因になって、「果因」となってしまうことだって、考え次第ではあり得ることだ。

たとえば、希望する学校への入試に合格して「よかった」と喜んでいたら、とんでもない同級生や教師に「当たる」ことで、とうとう登校拒否になったり、多数を押しのけて就職した有名企業で「エリート」を気取っていたら、「左遷」の憂き目を見たりする。

けれども、学校にいかないで「オタク」になったら、「カリスマ」になってしまったり、「左遷」されたら、本社で「政変」があって、無傷な自分が呼び戻されたりと、それこそ何が起きるかわからないのが人生なのである。

これをむかしは、「お天道様が見ている」といったものだが、いまの日本人には通じなくなった。
この原因は分かっていて、「欧米化=グローバル化」の毒が国民の「脳」に廻ったのである。

さすれば、そのうち「国粋化=ナショナル化」に揺れ戻すことだってある。

このことは、日本以外で長く生活すると「日本」が客観的に見えてくるものなので、海外在住の日本人の方がずっと「古風を好む」からなのである。
だから、海外在住の日本人の数が増えると、「日本の価値を再発見」するひとの数が自然と増える、ということになる。

ただし、放浪のようなことだけではなくて、ちゃんとした職業人としての海外生活が、もっとも「気づく」ポイントなのである。
なぜなら、相手(日本人には外国人)との関係で、教養がある相手には、必ず「日本」を説明しないといけない場面にあたる、という切実な事情があるからだ。

よくあるパーティーでの軽い会話の暗黙のルールは、政治と宗教や性を話題にするのはタブーにあたるから、必然的に「歴史」や「文化」が話題に乗って、教養人ほど日本の「特異性」をおもしろがって(興味深いから)知りたがる。

「日本文明」という、ほとんどの日本人が意識しないし、学校で教わることがない「文明」の存在を、相手が意識しているのである。
ちなみに、学校で教わらないというのは正しくなく、教えない、という意志が働いているのは、GHQの命令を律儀に文科省が守っているからだ。

ここで、「中身のない話」をしたら、どんなに外国語に堪能でも、次回会ったときに相手にされることはない。

簡単にいえば、無視される。
「時間のムダ」という判断が、シビアな行動となるのが日本人とは異なるからである。

そんなわけで、岸田内閣を構成する重鎮たちが、外国政府から無視されだしたという前代未聞が起きている。
ここでいう「重鎮たち」とは、岸田文雄首相、林芳正外務大臣、茂木敏充自民党幹事長「など」(たとえば、「人権なんか関係ねー」と言った、林幹雄幹事長代理とか)を指す。

相手にしてくれるのは、レッドチームの国「だけ」になっている。
ちなみに、このレッドチームの国内には、3種類の立場がある。
「党員」、「政府関係者(軍を含む)」、「それ以外」だ。

党が国家を指導する、という絶対原則が貫かれているから、政府関係者でも党員ならば、党員でない政府関係者よりは「上」という、序列問題は別にある。
これは、「それ以外」でも適用される。
たいがいの有名企業経営者が党員なのだ。

しかも、この党の「序列」については、人間がつくる一般的な「ピラミッド型」の組織とはちがって、犬がつくる「直線型」の組織における序列とおなじに決まっている。
つまり、「同格者」がいないのである。

なお、日本における「官僚の序列」も同様に「同格者」はいない。
ただし、決め方は、「号俸・等級順」と「先任」という機械的な組合せによっているので、すぐさま「整列」できる。

「党」は、さらにもっと犬とおなじで、とにかく「序列」をつくらないと落ち着かない、という習性が組織を維持するための条件になっている。
なので、たとえ外国人であってもこれら三名とかが、どんな順番に序せられているのか?は、「党外秘」の事項になっているにちがいないし、本人たちも知らない建前があるだろう。

でも、「隠れ」とか、「秘密」とかがつく「党員」ならば、話は別である。
ちなみに、昨年の総裁選に出馬して、自身の一家の生業がレッドチーム頼りだとバレた、河野氏は、「党員バッジ」をつけた写真も曝露されてしまったけれど、撮影時の「サービス」かもしれず、その真偽は定かではない。

ここに来て、日本の首相がアメリカ大統領に面談できないばかりか、オーストラリア首相からも拒否されて、外相は、カウンターパートの国務長官、外相からも面談を拒否されている。

なお、自ら定めた厳しいコロナ規制における「隔離」をもっても、菅首相に会いに来日したオーストラリア首相は、このとき、「日本は重要だから」と理由を述べて、帰国後は首相官邸で2週間の「自主隔離」を課した、のに。

さらに、北京オリンピックの「外交ボイコット」表明を、「遅れた」と岸田首相は攻撃されたけど、もっと「遅い」ドイツは、新年5日に外務大臣が「訪米」してしまって、わが国外相とは「別格」の扱いを受けた。

つまるところ、わが国政府と与党トップが、白昼堂々、「同盟」の重要相手国から、「レッドチーム認定」を受けてしまっている。
将棋で言えば、「雪隠詰め」状態なのである。

だからもっとレッドチームに媚びへつらうのか、それとも自由陣営に戻るのか?という「選択」が、政府・与党の「最重要優先事項」になっている。

なんだか、夏の参議院選挙が、どんどん混迷していくだろうと外野でもわかるから、どんな「因果」が飛び出すものか。
それより早く、岸田政権は持つのか?という政局の問題になりそうな。

ただし、アメリカ民主党に染まっているのに、なぜだか「保守の星」になった、「高市政権」に期待感はぜんぜんない。
むしろ、思い切り裏切られて非難ごうごうになるはずなのだ。

日本の保守派の「知能を疑いたくなる」のが目に見えている。

自民党の旧態依然とした「序列」が、人材枯渇をわざと創って、共和党と連携できる政治家の台頭を邪魔しているとしか思えない。

「敵は内」にいるものなのだ。

1年後の1月6日

日本時間だと7日にあたる。

毎年おなじ、「もう七草か」といいつつ、七草粥をいただく家がどれほどあるのかしらないけれど、今年は2月1日が旧暦の元旦にあたるので、2月7日が「本来の七草」である。

昨年の大事件は、アメリカ国会議事堂への「襲撃」という前代未聞で、仕掛けたというトランプ大統領が、その後のわずかな任期をもって、四年で二度目の「弾劾」をされて、いずれも否決という前代未聞もあった。
この「事件」では、死者もでているから、ただのデモとはいえない。

忘れてならない事実は、この日ワシントンD.C.に集結した人々の数は、百万人ほどで、その理由が「トランプ支持」と「不正選挙への抗議」であったことである。
そして、大手メディアが「ひとの波」の映像とはまったく別に、多くて「数万人」、少なくて「数千人」となにを見ているのか不明な「アナウンス」をしていたことも「事実」であった。

とにもかくにも、あれから1年が経過した。
それで、昨年の暮れ(といっても先月)に、フロリダの別荘からこの日に記者会見すると発表したのである。

当然だけど、今年の11月に実施される、中間選挙の「前哨戦スタート」という位置づけだろう。
すでに、民主党の大敗・共和党の大勝が予測されているのは、各種調査の結果からの分析である。

しかしながら、その調査や分析が機能しない世の中になっている。
ましてや、選挙投票用紙の偽造とか、郵政投票の不正、それに集計機の怪しさなど、選挙管理の大問題がどのように是正されるのかにかかっているともいえる。

これには、大富豪から選挙管理組織への「寄付」という、カネまでが絡んでいるし、それを捜査しないという司法・検察の闇にまで疑惑が広がって、収拾がつかないカオス状態がある。

トランプ氏個人と、彼の企業に対する「犯罪を暴く」と公言した、ニューヨーク市検察長官を、トランプ氏側が提訴するに至ったのも、民主党による「国策捜査」というあからさまによるものだ。

社会派のドラマを、生で観ている感覚になるのである。

さて、民主党の大敗予測には、ペロシ下院議長の「落選」も含まれている。
彼女が下院に設置した、「1月6日委員会」は、徹底的にトランプ氏が扇動したことを「罪」とすべく活動していて、「投獄」を最終目的と明言するものだ。

ところが、調査が進んで深掘りがはじまると、首謀したのが民主党側ではないかという証拠が出てきた。
「語りに落ちそう」なのだ。
これをまた、トランプ氏が指摘して民主党支持者の民主党離れを誘発している。

その証拠的調査結果を、CNNが報じたので話題になっている。
この「放送局」は、トランプ氏を落選させたのは自分たちの功績であると自画自賛したのだから、いったいどんな「調査結果」なのかと思いきや、12月末にした調査集計は驚愕に値する。

民主党支持者層の「半数」が、20年大統領選挙への「不信」があって、調査時で「来年(本22年))」の中間選挙での投票行動をきいたら、4割が共和党に投票すると答えた、と報じたのだ。
おなじ質問で、共和党支持者の回答は圧倒的に自党への支持だから、現時点での共和党有利は、「圧倒的」といえる。

この衝撃的な調査結果を、CNNが分析したところによると、以下の通り。
第一に、バイデン政権のこの1年の成果が、あまりにもお粗末だ、という不満がアメリカ中に蔓延していること。
第二に、ビッグテックのSNSがやった、「言論弾圧」が、逆効果になっているということ。

要は、人の口に戸は立てられぬ、ということわざ通りのことが起きている。

「口コミ」に代わって大発展した「SNS」が、現職大統領のアカウントを一方的に永久凍結して「口封じ」したり、「利用規約」をどんどん変更して、一般人の投稿を規制するばかりか、やっぱりそのアカウントを凍結するなどの「不正義」に、利用者達は「自分の生の口」で主張しだしたから、もう誰にも止められないのである。

つまり、SNSの「進化」は、「使い分け」という「分化」によっている。
たわいもない話題はSNSを使うけど、政治信条やらの「肝心」な話をする自分の「個人情報防衛」のためにも、「生の口」にした、ということだ。

文字だけでなく、デジタル化された通信においては、「音声」も自動解析されているからである。
ましてや、家庭用「スマートスピーカー」が激安販売どころか「投げ売り」状態なのは、全部の会話を聞かれている、という事実における「気持ちの悪さ」に消費者が気づいたからである。

タダでも売れない。

そこで、為政者は、国民の選択肢を狭めるような政策を推し進めることになって、ここでも「選択の自由」を求めるひとたちとの攻防がはじまる。
これは、「自由圏」における「必然的なメカニズム」なので、確実に起きることだ。

「必敗」状態におかれた民主党左派はどうするのか?

「中間選挙」という制度を創った、建国の父たちの先見性におののくばかりではないだろうに。

11月8日の投票日まであと、10ヶ月。

マトリックス4部作で正月

「正月映画」という、「季節もの」があった。

たいてい「娯楽映画」のシリーズが話題になって、夏休み映画とは雰囲気で一線を画していた。
ただし、年に2回公開された、『男はつらいよ』は別格である。

「洋物」の定番は、『007』だ。
ショーン・コネリーの後を継いだ俳優達は、自分なりの「007」を演じるために、相当の苦労をしたと思うけど、なかなか「成功」した俳優が出なかったのは、やっぱり難しいからだろう。

それを俳優のせいだけにできなくなったのは、「米ソ冷戦の終結」で、明らかな「敵」の存在をイメージできなくなったことにも原因があるかと思う。
そこで出てきたのが、「人類の敵」としての宇宙人とかだった。
そしてもうひとつの「敵」が、「機械」になったのである。

なかでも発想の「画期」にあたるのが、『マトリックス』(1999年)だった。
この作品と、『ダビンチコード』(小説は2003年、映画は2006年)の共通は、前に書いた。
それは、続編『マトリックス リローデッド』(2003年夏)での「発見」による。

「グノーシス」が共通だった。

皆殺しにあったというから、詳しいことはわかっていないというけれど、キリスト教初期の「グノーシス派」は、いわゆる『聖書』の嫉妬深い「神」ではなく、もっと「上」の「神」を信仰して、『聖書』の「神」を「悪魔」扱いしたから「邪教」とされて滅ぼされたという。

つまり、神界に「階層」があって、「入れ子構造」なのである。

機械が人類を「生体発電」として「培養する」のが現実世界で、「培養中」の人類には、機械が用意した「プログラム」によって、「仮想世界の夢」を見ながら生きている。
よって、そのプログラムを作った者が、「全てを支配する」という構造だ。

しかして、現実世界の人類は、「培養」から逃れて「抵抗する」。
ところがその「現実世界」も「抵抗」も、はたまた、「主人公」すら、プログラムされていると、「創造主」によって教えられることになる。
より複雑な「入れ子」なので、1回観ただけではこの「理屈」についていけない。

そしてついに『マトリックス レボリューションズ』(2003年冬)の「三部作」で、「完結」したかに見えたのであった。
ところが、『マトリックス レザレクションズ』(2021年冬)で、「復活」した。

この間、18年。

一作目からは22年が経過しているので、導入には、過去の振り返り、という「おさらい」がある。
そして、現実世界は、ヒットが欲しい「会社」からの強い要請があって、あたかも「本作」が作られた、という「経緯」すら、「入れ子」の中に取り込んでいる。

その「時間経過」での現実に、三部作の監督・脚本は、ラリー&アンディ・ウォシャウスキー「兄弟」だったけれども、この間に「姉妹」になっていた。
そして、4作目の本作は、「姉」の単独作品となった。

また、「アカデミー賞のあたらしい選考基準」(2024年以降)で書いた「基準」に準拠していることも「新しい」のである。

そもそもが、第一作目で表現された、「プログラム・イメージ」が、「縦方向の文字」が流れ落ちてくるところから、「日本趣味」が見てとれる。
「漢字とカタカナ」を模しているからだ。
日本人には、たまに落ちてくる「日」の字が目につく。

当時の監督兄弟の日本好きが随所にあるのも「観もの」なのだ。

さいきんは、劇場の設備が進化したので、上映中の足元照明がちゃんとコントロールされている。
なので、上映中に席をはずすのは、足元の危険とトレードオフの関係になるから、「エンドロール」で席を立つひとが少なくなった。

どうしてエンドロールで席を立つのかといえば、昔の映画館は大混雑していて、立ち見どころか床に新聞紙を敷いて観ていた。
それで、本編が終わったら、一斉に退場する混雑を嫌ったひとが、エンドロールになったらすごすごと退場して、混雑の緩和になったのである。

その意味で自己犠牲的なのだけど、どんなひとたちがこの作品にかかわっているのかについて、興味ない、という意思表示でもある。
これが嵩じて、エンドロールで席を立つことが、なんだか優位にある、という一種のマウンティングにもなったかに思う。

そうした点で、暗闇のなかで席を立つひとがまだいるのは、なかなかに興味深い行動なのだ。
それで作り手は、エンドロールに工夫を凝らす。

本作は、アクション映画の性格もたっぷりあるから、やたらと「スタントマン」の名前がたくさんあって、きっとこの中に自分の名前があるひとは、目をこらして観ているにちがいない。

延々と続くエンドロールの理由は、もうひとつ、コンピュータ・グラフィックスの担当者達の名前だ。
誰がどの場面を担当したのかしらないけれど、どこまでが現実の撮影で、どこがちがうのかという「入れ子」にもなっている。

そんなことをかんがえたら、どれもこれもがコンピュータ・グラフィックスのお世話になっているだろうから、この世がすでにマトリックスの世界でもある。

けだし、おそるべき人殺しアクションが続くのは、なんだか昔の『ゾンビ』(1978年)を彷彿とさせるから、子供に観させる映画ではない。

しかして、「現実世界」に戻るための赤いピルを選ばないと物語がはじまらないが、「マトリックスの架空世界」での幸せ感・安心感に留まりたいので青いピルを飲むひとの方が圧倒的だろう。

なんだか、あのワクチンのような機能がある。

だから、この映画を観ている我々は、青いピルを飲まされた側にいる、という立場に自然と=強制的にされているのも、この映画の「仕掛け」になっている。

エンドロールを全部観れば、そのことがわかるのだ。