マトリックス4部作で正月

「正月映画」という、「季節もの」があった。

たいてい「娯楽映画」のシリーズが話題になって、夏休み映画とは雰囲気で一線を画していた。
ただし、年に2回公開された、『男はつらいよ』は別格である。

「洋物」の定番は、『007』だ。
ショーン・コネリーの後を継いだ俳優達は、自分なりの「007」を演じるために、相当の苦労をしたと思うけど、なかなか「成功」した俳優が出なかったのは、やっぱり難しいからだろう。

それを俳優のせいだけにできなくなったのは、「米ソ冷戦の終結」で、明らかな「敵」の存在をイメージできなくなったことにも原因があるかと思う。
そこで出てきたのが、「人類の敵」としての宇宙人とかだった。
そしてもうひとつの「敵」が、「機械」になったのである。

なかでも発想の「画期」にあたるのが、『マトリックス』(1999年)だった。
この作品と、『ダビンチコード』(小説は2003年、映画は2006年)の共通は、前に書いた。
それは、続編『マトリックス リローデッド』(2003年夏)での「発見」による。

「グノーシス」が共通だった。

皆殺しにあったというから、詳しいことはわかっていないというけれど、キリスト教初期の「グノーシス派」は、いわゆる『聖書』の嫉妬深い「神」ではなく、もっと「上」の「神」を信仰して、『聖書』の「神」を「悪魔」扱いしたから「邪教」とされて滅ぼされたという。

つまり、神界に「階層」があって、「入れ子構造」なのである。

機械が人類を「生体発電」として「培養する」のが現実世界で、「培養中」の人類には、機械が用意した「プログラム」によって、「仮想世界の夢」を見ながら生きている。
よって、そのプログラムを作った者が、「全てを支配する」という構造だ。

しかして、現実世界の人類は、「培養」から逃れて「抵抗する」。
ところがその「現実世界」も「抵抗」も、はたまた、「主人公」すら、プログラムされていると、「創造主」によって教えられることになる。
より複雑な「入れ子」なので、1回観ただけではこの「理屈」についていけない。

そしてついに『マトリックス レボリューションズ』(2003年冬)の「三部作」で、「完結」したかに見えたのであった。
ところが、『マトリックス レザレクションズ』(2021年冬)で、「復活」した。

この間、18年。

一作目からは22年が経過しているので、導入には、過去の振り返り、という「おさらい」がある。
そして、現実世界は、ヒットが欲しい「会社」からの強い要請があって、あたかも「本作」が作られた、という「経緯」すら、「入れ子」の中に取り込んでいる。

その「時間経過」での現実に、三部作の監督・脚本は、ラリー&アンディ・ウォシャウスキー「兄弟」だったけれども、この間に「姉妹」になっていた。
そして、4作目の本作は、「姉」の単独作品となった。

また、「アカデミー賞のあたらしい選考基準」(2024年以降)で書いた「基準」に準拠していることも「新しい」のである。

そもそもが、第一作目で表現された、「プログラム・イメージ」が、「縦方向の文字」が流れ落ちてくるところから、「日本趣味」が見てとれる。
「漢字とカタカナ」を模しているからだ。
日本人には、たまに落ちてくる「日」の字が目につく。

当時の監督兄弟の日本好きが随所にあるのも「観もの」なのだ。

さいきんは、劇場の設備が進化したので、上映中の足元照明がちゃんとコントロールされている。
なので、上映中に席をはずすのは、足元の危険とトレードオフの関係になるから、「エンドロール」で席を立つひとが少なくなった。

どうしてエンドロールで席を立つのかといえば、昔の映画館は大混雑していて、立ち見どころか床に新聞紙を敷いて観ていた。
それで、本編が終わったら、一斉に退場する混雑を嫌ったひとが、エンドロールになったらすごすごと退場して、混雑の緩和になったのである。

その意味で自己犠牲的なのだけど、どんなひとたちがこの作品にかかわっているのかについて、興味ない、という意思表示でもある。
これが嵩じて、エンドロールで席を立つことが、なんだか優位にある、という一種のマウンティングにもなったかに思う。

そうした点で、暗闇のなかで席を立つひとがまだいるのは、なかなかに興味深い行動なのだ。
それで作り手は、エンドロールに工夫を凝らす。

本作は、アクション映画の性格もたっぷりあるから、やたらと「スタントマン」の名前がたくさんあって、きっとこの中に自分の名前があるひとは、目をこらして観ているにちがいない。

延々と続くエンドロールの理由は、もうひとつ、コンピュータ・グラフィックスの担当者達の名前だ。
誰がどの場面を担当したのかしらないけれど、どこまでが現実の撮影で、どこがちがうのかという「入れ子」にもなっている。

そんなことをかんがえたら、どれもこれもがコンピュータ・グラフィックスのお世話になっているだろうから、この世がすでにマトリックスの世界でもある。

けだし、おそるべき人殺しアクションが続くのは、なんだか昔の『ゾンビ』(1978年)を彷彿とさせるから、子供に観させる映画ではない。

しかして、「現実世界」に戻るための赤いピルを選ばないと物語がはじまらないが、「マトリックスの架空世界」での幸せ感・安心感に留まりたいので青いピルを飲むひとの方が圧倒的だろう。

なんだか、あのワクチンのような機能がある。

だから、この映画を観ている我々は、青いピルを飲まされた側にいる、という立場に自然と=強制的にされているのも、この映画の「仕掛け」になっている。

エンドロールを全部観れば、そのことがわかるのだ。

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