バイデンジャンプから1年

ようやく共和党が選挙で勝った。

しかも、民主党の牙城、バージニア州知事選挙での快挙である。
なお、バージニア州というのは、建国13州のひとつで、首都ワシントンD.C.の「ベッドタウン」として知られる。

バイデン政権の不人気から、絶対的勝利を画した民主党は、「元知事」という強力な候補者を立てた。
このひとは、クリントン夫妻のそれぞれの大統領選挙で、資金調達を担当して頭角を現した。

対する共和党は、元カーライルのCEOで、経済界では有名人だが、政界ではまったく無名の新人だ。
けれども、トランプ氏が「お墨付き」を出して、いわゆる、「共和党・保守派」の候補として党内を制し、出馬に至った人物である。

何度も書くが、アメリカにおける選挙には、民主・共和の両党とも、「党内予備選挙」という手続きを経ないと、「正式候補者」にはなれない。
党員が自腹で党費を出して、党員たる権利を行使したがるのは、党内の候補者選出に参加できることと、自身が候補者になれるかもしれないのとのどちらか一方、または両方の理由があるからである。

昨年、自民党富山県連で、歴史上初の予備選をやって、富山市長選挙の候補者を選出したのは、この意味で「快挙」であったが、この度の衆議院議員選挙では、元の木阿弥になった残念がある。

新総裁にも、新幹事長にも、「予備選挙をやる政党になる」という覚悟も気概もない。
自民党が「国民政党」になれない理由が、これなのだ。

さてそれで、今回のバージニア州知事選は、来年の中間選挙、そしてその先の2024大統領選挙をにらんだ、「前哨戦」という位置づけで注目されていた。

だからこそ、政権党の民主党は、万全を期したのである。
その効があって、選挙緒戦における支持率では、まったくもって共和党候補をものともしない、「圧倒的有利」さを誇っていた。
しかし、投票日5日前ほどになって、情勢が変わり出すのである。

その理由が、公立学校において実施されている「進歩的」教育に関して、親の関与を認めるか認めないかの大議論が湧き起こって、「認めない」とする民主党の主張に、親たちが大反発したからだった。
保守主義の共和党は、当然に親の関与を認める、という立場である。

これが、「討論会」で拡散されて、投票日直前には、攻守が逆転したのであった。
それでも、民主党が得意とする「郵便投票」のキャンペーンは、怠らなかったから、開票が進んでも容易に「敗北を認めない」状況があった。

しかし、これがまた有権者の不信を買って、とうとう「敗北宣言」を出すことになって、決着した。

おそらく、これは、民主党の上層部には相当のショックを与えたはずである。
なので、一層、どんな手を次期選挙に使うものかと、警戒心を高めているのは共和党の方である。

また、この選挙とは別に、オハイオ州では、辞任した連邦下院(衆議院)議員の「補欠選挙」があった。
辞任の詳細な理由は不明だが、共和党でも「反トランプ」の議員で、来年の中間選挙に「勝てない」ことが議員辞職の最大の理由だという。

なぜなら、トランプ氏が推薦する党内候補が、すでに「予備選」に立候補していて、現職が予備選で敗退するという「恥」を避けたのだと解説されている。
本来ならば、中間選挙でのことが、1年も前倒しになったのである。

もちろん、前回の大統領選挙での「不正」がつぎつぎと明らかになってきていて、日本人には「今さら」と写るけど、アメリカ人の怒りはおさまらない。

最近では、ウィスコンシン州で、認知症の老人たちが集団で郵便投票していたことが発覚した。
本人たちにはもう確認できない、というほどの症状があるひとたちだった。

残念だが、自分の名前も、マークシートを塗りつぶすことも、もうできないひとたちなのだ。

気がついたのは家族で、問い詰めたところ、選挙管理委員会が選挙違反をしていたと騒ぎになっている。
こうしたことが、各地で発覚していて、民主党支持者ですら「不正に怒っている」のだ。

こうしたことに小まめに、トランプ氏もコメントを発表している。

それがまた、トランプ支持を拡大している。
反トランプのひとたちが、予備選に立候補すら辞退しないといけないのは、よほどのぶ厚い支持が、わかりやすい状態になっているからにちがいない。

わが国のように、党の幹部が決めるとか、無所属で立候補したのに、当選したら「追加公認」するというのは、予備選がないことのご都合主義が、有権者を無視できるからである。

つまり、自民党もどこもかしこも、ぜんぜん「民主主義」ではないのだ。

こうしたことが、見えてきた1年であった。

クラウド・コンピュータの衝撃

3ヶ月前の8月に、マイクロソフトが『ウインドウズ365』なるサービスを企業向けに開始した。
以前から個人向けにもサービス提供している『マイクロソフト365』(その前は「オフィス365」と呼称していた)は、ワードやエクセルなどの定番ソフトについて、クラウド・ストレージも付けた「サブスクリプション契約」とは異なるものだ。

企業向けなので、もう利用させられているひとも多いにちがいない。

わたしは、『ウインドウズ365』の名前から、その意味がよくわからなかったけど、ようやく少し理解できたので、その記念に書いておこうと思う。

簡単に言えば、クラウド上にウインドウズがある、ということなのだが、サービスメニューをみればわかるように、CPU性能とストレージ容量がセットになって契約するものになっている。

つまり、パソコンがクラウド上にある、ということだ。
それを通信でつないで、自分の目のまえにあるパソコンで使う。

なんだかややこしいのだが、自分の目のまえにあるパソコンは、テレビの受像機のようなものにすぎない、という位置づけになる。
つまり、ロー・スペックなパソコンでも、契約次第でハイ・スペックなパソコンとして機能してしまう、という代物なのだ。

しかも、動かす、という意味は、「ブラウザ」で、ということなので、グーグルやヤフーなどが動くなら、目のまえにあるパソコンが、どんなOSなのかを問わない。

これまでなら、たとえば、Macには「macOS」という「OS(オペレーション・システム)」が入っていて、これがパソコンを制御する。
キーボードを叩くと、画面に文字が表記されるのも、ワープロなどのアプリケーション・ソフト(アプリ)が動くのも、縁の下の力持ちであるOSあってこそのことだった。

アップル社のパソコン、通称「Mac」は、その画像処理能力の高さが買われて、いわゆる、「クリエーター向き」といわれ、一般企業の事務用としてのシェアは振るわなかったし、いまでもそうだ。
ただし、ユーザーフレンドリー(使いやすい)なOSには定評があったのは確か、である。

だから、高校を出て大学生になると、入学時に、もはや必須アイテムとなったパソコン選びで、どのメーカーのどの機種を選ぶかが、最初の関門になる。
それが、Macかウインドウズ・マシンかの「2大選択」である。

おおむね、学校側もウインドウズ・マシンを推奨しているのは、学生が就職したら、まず企業で貸与されるパソコンが、ウインドウズ・マシンだと想定しているからである。
学生時代(特に文系)に、楽ちんなMacを愛用していて、社会人になってウインドウズを強制されたら、それだけでも同期から遅れをとること必定なのである。

つまり、下手をすると、人事評価にも影響してしまう。

そんなわけで、世の中はウインドウズ・マシンで溢れている。
ところが、ウインドウズ・マシンを選択した後、やってくるのはその種類の多さで、メーカー選びにしても大変だ。

リモートワークなる状況で、しかも外国に移転した工場の稼働が下がって「チップ不足」になった。
パソコンが売れに売れまくった後、今度は買いたくても物がない、ということになって、とうとう自動車の生産までも減産を強いられることになった。

Macの世界では、インテル社に依存していた(初期のMacはモトローラ製だった)のが、自社開発という「内製化」で、昨年は爆速の「M1チップ搭載」マシンが新発売されて話題になった。

ついこないだまで、ウインドウズ・マシンも基本はインテル製のCPUばかりだった(今は、アドバンスト・マイクロ・デバイセズ (AMD)製もある)から、「OS]は違えども、Macとウインドウズ・マシンは、「兄弟」のような関係で、MacOSには、なんとウィンドウズ「互換」のためのソフトが「内蔵」されていた。

なので、Mac上でウィンドウズを起動して、「両刀遣い」ができたのである。

しかし、「内製化」された最新マシンではこれができない。
CPUの設計に、OSが依存しているのだ。
そこで、サードパーティーから、Macでウィンドウズを起動させる、アプリケーション・ソフト(MacOSの上で動く)が有料で発売されて話題になっている。

この発売とほぼ同時期に、こんな努力をあざ笑うかのように『ウインドウズ365』が、法人向けに販売されたのだった。
つまり、『ウインドウズ365』を契約すれば、内製化されたMacであろうが、過去のマシンであろうが、ウインドウズが動くのだ。

このことは、古いウインドウズ・マシンでも同じだし、リナックスにもいえる。

もう新規の「高速・高スペックマシン」を購入しないでいい、という意味でもある。もっといえば、そんなマシンを買うのがムダになったのだ。
「個人用」として、月額なり年額なりの使用料が安価に提供されたら、利用者はもう最新のパソコンを必要としない。

ただし、必須となるのは、クラウドと通信で結ばれていないといけない。

ということは、すべてのチップ・メーカーと、これを組み立てるパソコン・メーカーが、こぞって、マイクロソフトに「個人向けはやめてくれ」と叫んでいるはずである。

それでか、法人向けの料金も「微妙に高額」な設定になっている。
往年の「サラリーマン川柳」に、
コンピュータ ソフトがなければ ただの箱
という傑作があった。

まさに、ソフトがすべてを制するのである。

自民党が勝ってよかった?

「株価」がどう動くのか?は、誰にも「わからない」から、皆が平等な市場という「土俵」に資金を投資できる。
わからないことが、前提なのである。

それなので、全員がそれぞれに「予想」や「予測」をするしかない。

その予想方法や予測方法が、「理論」になったり、「販売」されたりするのは、「当たる確率」によっている。
だから大儲けしているひとが書く「私の投資法」が、ベストセラーになって、出版分野でも大儲けしている。

もちろん、読者がその投資法で失敗しても、「自己責任」だから、著者を訴えるひとはいない。
著者は著者で、ちゃんと「自己責任ですよ」と、しっかり著書に書き込んで自己防衛しているものだ。

まことに、お金はお金を呼び込む仕組みになっている。

今回の総選挙を総括する評論はたくさんある。
わたしが注目したいのは、「自民党が勝ってよかった」と安堵の声をあげている「財界トップ」の見識の「低さ」、だ。
一方で、そうはいっても「株価」は急上昇した。

この現象を、批判的に論じたい。

結論から先にいえば、財界人が「乞食(物もらい)」になったのに、それを「恥じない」という恥ずかしさを言いたいのだ。

わたしが若かった頃の財界は、「官」に対抗して、ちゃんとものを言っていた。
それが、「民業圧迫」という一言だった。

ついぞ聞かなくなったのは、民業が官からの補助金「争奪戦」で、それを「得たもの」が勝者だという卑しさが、株主にも認知されたからである。
まことに、民主主義が「腐る」とこうなるという、後世への反面教師になるようなことに心血を注いでいる。

簡単に言えば、乞食がイタリア製の高級生地のスーツを着て、社用車の後部座席にふんぞり返っているのだ。

その昔には、休日の日比谷公園には、わが国を代表する企業の社長が乞食の姿をして、行きゆく人を観察していたものだ。
ふつうの人たちの幸福な顔を見て、自社の社員と比較していた。

いまでこそ、「従業員満足度」なる指標ができたが、往時は社長が自分で確認していた。
乞食の姿をしたのは、ただの変装ではなくて、ふだんの自分が大企業の社長であることを「仮の姿」と自覚していたからである。

こんなトップが仕切る社業は発展した。
どんな時代でも、「業界トップ」には簡単にはなれない。
そんなリーダーをいただいた業界人は、一緒になって盛り上げて、業界自体の発展に寄与したのである。

そして、そんな空気の中に、「官」への対抗もあったのだ。

それは、「官」の「習性」ともいえる、勘違いのエリート意識から発する、ヘンテコな「オーラ」ともいえる「腐臭」であった。
もっといえば、根拠なき自信、であろう。
それは、「歴史」をも無視する傲慢ぶりをみせながら、自身の内輪では「有職故実」の前例主義を貫く、「ダブル・スタンダード」でもある。

典型は、官がみせる「民」への蔑みだ。
にもかかわらず、ダブル・スタンダードだから、平気に「民間の知恵を拝借」と言ってのける。
そこには、民間に知恵などありもしない、という自負がある。

しかしながら、まだ明治人の「官」はわかりやすかった。
西の「八幡製鉄所」にしても、東の「富岡製糸場」にしても、官営では大赤字であったものを、「民」へ払い下げたら黒字になって事業はその後100年も続くのである。

もちろん、不透明な払い下げ時の不正の匂いはプンプンするけど、「民」に引き渡したら「官」はあっさり手をひいた。
田中角栄内閣の時代に「完成」した、わが国の官僚機構は、もはや「あっさり」手を引くなんて「もったいない」ことはしない。

「民」が倒れるまで、そのうまみの汁を吸い尽くす。

そして、あたかも「ちっ」と舌打ちしながら、巨大な規模の企業なら「嫌々」の態度をみせながら、税金という他人のカネを注入して、さも自分たちのおかげとして、さらなる汁を吸うのである。
社会問題にならないような企業なら、あっさり見捨てて、経営陣の無能を叱るのだ。

ほとんどが法学部のエリートを気取るから、「会計学」には目もくれない。
それで、財務諸表もわからないのが「本当」なのだ。
それがこないだの、わが国を代表する「総合雑誌」で、財務次官が「告白」してしまったことだった。

ユーチューブには、国債と税金の国民から見た意味を、懇切丁寧に「簿記で解説」するひとがいる。
なるほど、国債は「政府の借金」ではあるけれど、国民には「資産」だ。
だから、増税をして政府の借金を返済する、とは、国民にはダブル・パンチなのだ。

もちろん、選挙に勝った政権は、これから「大型の景気対策」をするだろうから、「株価」が上がるという理屈は「正常」である。
けれども、その「重点配分」を「政府が決める」のだから、「争奪戦」になるのである。

しかして、それが「付加価値を生む」活動資金ではなく、「無駄金を遣う」方に重点があるから、特定企業にカネが回ることを意味する。
それが、「SDGs」の正体である。

どこにも、「持続性」なんてない。
政府の補助金が絶えたとき、SDGsも達成できず、やってくるのは「増税」ということになっている。

乞食になった財界人は、増税を望んでいる、という言うも等しい。
こんな愚か者たちを仰ぐ社員たちこそ、いい面の皮である。
自分の取り分はさておいて、従業員の給料を減らす努力をしながら、増税も望むとは。

日本が元気だった頃、こんな卑しい財界人はどこにもいなかった。
「減税」と、「官」の横暴に文句をいうのが、乞食の姿をした財界人だったのである。
そして、株主たちは、そうしたトップを尊敬して投資したのだ。

いまはもう昔になれない。

AI化する日本人

夢のコンピュータ、それが「人口頭脳」だ。
しかし、あの傑作『2001年宇宙の旅』(1968年)で「活躍」した、「HAL9000」のようなコンピュータはいまだに実現していない。

これにはれっきとした技術的な理由がある。

それは、現代のAI技術でコンピュータに文章や音声言語の「意味」を理解させる方法がない、からである。
つまり、いま我々が「AI」と呼んでいる機械は、人間の言語を理解しているわけではなく、数多ある「パターン」(データ・ベース)から、単に「照合」して、あらかじめ用意してある「回答集」から、最適な解を示しているに過ぎない。

だから、言語の「文法」が、単純かつ厳格な「英語」をもって、もっとも先進的な研究がされてきたし、その英語に「似ている」と評価される、中国語(北京語)において「最先端」と言われるようになってきた。
もちろん、中国における政治特性から、自国民の生活を本人たちに遠慮なく「実験」できる、というアドバンテージがあることは否めない。

「自由圏」では、絶対にできないことが、「社会実験」だと断る必要もなく、淡々と実施されて、先行開発の有利さを享受している。
その「有利」は、為政者垂涎の的になるもので、被支配者にとっては「恐怖」の到来を意味するけれど。

これを、自由圏の民間企業が政府より先に手に入れた。

コンピュータに文字を表示させるのに、英語などは「1ビット」で済むが、複雑な「漢字」などのためには「2ビット」を要する。
我が国語の日本語もこれにあたるために、初期の頃のコンピュータでは、日本語表示すら厄介だった。

しかし、そこは技術の進歩で克服した。
けれども、文法が複雑で曖昧な「ゆらぎ:1/f」を特徴とする日本語は、その言語特性のために、もっともAIが不得意とする言語となっている。

家庭にある「AI」として、「スマートスピーカー」がいち早く製品化されたけど、「呪文」のような合図を持ってスイッチが入るのではなくて、全部の会話を聞き取っている。
その中から、特定の「呪文」を見つけると、あたかもスイッチが入って、人間を相手にしているような気の利いた会話をしている気になる。

言葉の意味を理解しないから、単に人間が発する音声の周波数をデータベースに照合しているだけなのだけど、そのさらに向こう側にいる、こうした製品を販売した側の人間は、とてつもない「生活会話」のパターンを「収集」しているのである。

それでデータ収集される側の人間は、勝手に「便利」だと「解釈」してよろこんでいる。
そうでなければ、「不気味の谷間」に、人間の方が落ち込むだろう。

そうさせないように、人間の「脳」は、「柔軟」に対応することを選択し、「不気味」さを自分から感じないように自律的に調整している。
「自律的」だから、当の本人は意識をしないでいられるのだ。

このことは、製品の開発者はわかっているし、意図していることだ。
つまり、人間の脳をいかに騙すかではなくて、積極的に「騙される」ように設計している、ともいえる。

さて、技術的に「HAL9000」の実現が不可能だとわかっている現在、AIと人間の関係をどのように整理すれば良いのか?について、『バカの壁』の著者で有名な、養老孟司氏は、「人間がAIに近づく」という名言を披露した。

つまり、人間が読解力を失えば、AIが活きてくる、という関係式が成りたつのだ。

 

この「発見」は、独裁者がとる古典的な政策手段である、「愚民化」を連想させる。
すると、従来の教育現場はそのままに、「教育改革」の意味が見えてくる。

子供を教育しない、ということが、為政者にとって「理想的」な教育改革になる。
授業がわからないまま、おとなになれば、「自然」と読解力のない、すなわち「自分で考えることができない」おとなになってくれるのである。

「理解度」における「格差の創出」こそ、将来の「所得格差」を確実にする。
こうして、理解度が高いグループを支配側に、そうでない多数のグループを被支配側に配置すれば、支配側に都合の良い「奴隷社会」を実現できる。

こんな「政策」に、教師の労働組合はなぜ協力するのか?
それは、奴隷化実現の暁には、暴力「革命」の勃発を期待するからであろう。

なんてスリリングな、そして、なんという無責任。

養老氏が『バカの壁』のきっかけとした出来事は、家庭教師の経験からだという。
教える側の「教え方」と、教わる側の「理解力」が、どうしても一致しないことがあった、という。

どうやったら「わかってもらえるのか?」がわからない教える側。
どうして「わからないのかがわからない」という問題だ。

いま、幼児から小児をもつ親は、学校の成績を気にする前に、国語の理解力を高めるための訓練をしっかりほどこすことを意識した方がいい。
やさしいけれど楽しい本から読書の習慣をつけさせたり、読み聞かせから、俳優による文学作品の「朗読」、オーディブルだって活用していい。

中学卒業までに、子供の脳を鍛えることだ。
そのための「運動」も、無駄ではない。

もちろん政治活動をする教師に対して、「革命」のシナリオを旧来の共産勢力が抱いていることは、支配側ではとっくに織り込み済みである。
そこで、「新しい共産勢力:人民の奴隷化を図る富豪たち」は、なにかに取り憑かれたように、人口削減を企図しているのだ。

オートメーションが、いまよりずっと、AIによって進行すれば、AIと同程度の理解度しかない生身の人間による労働力は、かつてのボリュームも技能も必要としない。

けれども何よりも、人口が少なければ、暴動によるリスクと鎮圧の可能性が高まって、永遠なる安定の奴隷支配が達成できると妄想しているにちがいない。

すると、これはどんな社会になるのか?
「整然とした」社会に相違ない。
そこに「あそび=余裕=例外」は許されない。
すべてが「きっちり」している社会である。

しかし、支配層に「だけ」は、これらの「あそび=余裕=例外」が許される。

そんな日常が、「窮屈」で「住みにくい」と考える人間はいない、と前提される。
個々人の人生目標も、発想させない。
何のために生きているのか?という自問自体が、犯罪的な「行為」と評価され、罰せられることになるだろう。

人間の心を読むと宣伝されたAIが、警察の役割をするのである。
検挙される本人が、ほんとうにそんな自問をしたかは問題にならない。
AIが反応して警報を発したら、それが「真実」なのだ。

あたかも、「PCR」なる得体のしれない「検査」で、ひとたび「陽性」とされたら、症状があろうがなかろうが、「隔離」されることが正義となった社会の如くである。

最高裁判事国民審査に行ってきた

最高裁判所判事国民審査に行ってきた。
衆議院議員選挙の投票の「ついで」ではない。
「国民審査」のついでに、選挙投票があるのだ。

残念ながら、選挙結果は投票しなくともわかる。
与党の圧勝。
全党が、事実上の「与党」同然になったので、党名をつけた「反主流派の派閥」が野党を自称しているだけだ。

わが国に、「野党」は存在しないので、多数の国民は「主流派」に投票させられるようになっている。
これが、投票率にあらわれて、都市部では50%にぜんぜん届かない。

近代国家の特徴に「三権分立」があることは、学校で習う。
もちろん、「近代国家」の発祥は、ヨーロッパということになっているから、「三権分立」もヨーロッパ発祥である。

不幸なことに、ヨーロッパは、その「寒冷な気候」からたいした食物が育たない。
ローマが栄えたのは、地中海気候のおかげで小麦が採れたからだった。

肌の色が白くて、鼻が高いのは、紫外線が少な過ぎて皮膚にあるメラニン色素が退化したのと、白くすることで「太陽光」を受けやすくした。
これは、目の色も黒くしないで済ますから、同様の理由である。

体温よりずっと低い空気を吸うのに、ラジエターの逆をいく、吸い込んだ空気を少しでも温めるため鼻腔を大きくさせるのに、外見の鼻も高くして肺への負担を緩和したのである。

森が深くろくな食物となる作物が育たない中で、新大陸から「じゃがいも」が伝わると、これをプロイセンの皇帝が「奨励」した。
この時代、皇帝の「奨励」とは、「命令」のことである。
作付けしないと、どんな罰を受けるかしれない。

それで、元プロイセンだった、今のドイツとポーランドは、「農奴」によって森を開墾し、延々とじゃがいも畑が続く大地となったのである。
おかげで、ポーランドのスーパーでは、じゃがいもが1キロ20円程度で販売されている。

そんなポーランドを分割統治した、ロシア、プロイセン、オーストリア(「神聖ローマ帝国」ともいう)の三国は、ポーランドの農地を支配して、農奴ごと食糧を確保した。
亡国の憂き目を見たポーランド貴族は、もともと各国に血を分けていたけど、これが決定的となり貴族の証であった「スキー」がつく苗字を亡命先のヨーロッパ各国にばら撒いたのである。

てっきり純粋ロシア人だと思い込まされている、大作曲家「チャイコフスキー」も「スキー」がつくから、そんなに遠くない祖先を辿れば、ポーランド貴族に行く着くはずである。
彼の曲の「哀愁」は、その血のうめき声かもしれない。

狭い地域にいろんな民族がひしめいているヨーロッパ大陸は、他人から奪った者勝ちという「野蛮」がふつうだったのである。
これは、大陸人に征服されたブリテン島も同じだ。
それが、『ブレイブハート』となって、野蛮を賛美する文化を、作品と、その評価(アカデミー賞5部門受賞)に見ることができた。

そんなわけで、もっとも派手に他人から奪うことに成功した者が「王権」を得たので、どうやってこの横暴を「制限するか?」ということが、支配される者たち多数にとっては、文字通り「死活問題」になったのである。

そこで、「行政」を司る者と、これを制限する者としての「議会」、それに「司法」を分離させることで、「王による絶対的独裁」そのものを制限することにした。
つまるところ、被支配者の「不幸」から得られたルールだから、これが近代「民主」の「絶対」になったのである。

幸か不幸か、我が国は、「古代」にあたる「大化の改新」という共産主義(班田収授法:土地公有制)に、弟宮が反発して壬申の乱を成功させ、天智天皇の絶対は続かず、天武朝に替わるという再度の「政権交代」があった。

これがウダウダになって、「荘園制」になると、貴族の私的警備員だった武士の時代がやってくる。
その「武士」も、元は農民だったので、もっぱら他人から略奪する「野盗」とは違うという矜持があったし、その「頭領」は必ず皇族の血筋というルールもできた。

ここが、ヨーロッパの不幸と決定的に異なるのである。

しかも、皇族=天皇による直接支配は、古代と後醍醐天皇時代「しか」ない、という「特殊」があって、天皇は、はなから君臨すれども統治はせず、「権威」としての存在に徹していた。

よって、武家政権の「権力」と「分立」していたのである。
その劇的な場面は、「大政奉還」にあたって「将軍」の「天皇」に対する態度であった。

かつて、全国の諸侯を武力でもって平伏させた将軍が、自らは武力を持たない天皇に平伏したのであった。

このことは、我が国がヨーロッパの王政や民主主義とは違った「システム」で機能していたことを示す。

国民が選挙を通じて選んだ代表が、議会を作り、法を作って行政に命じ、その法を司法が護る、という三権分立「ではなく」て、権力はないがあくまでも国民の側に立つ天皇の存在が、国会や行政府の暴走を阻止し、司法に拠り所を与えていたのである。

本来なら我が国は、このシステムに「戻す」べきなのだ。

あえて言えば、昭和の時代とは、最期の天皇として、既にヨーロッパを模倣した明治政府に破壊されて壊れかかっていたこのシステムを、なんとか保持した昭和大帝がおわしたことでの「繁栄」であったといえる。

この意味で、昭和天皇はヨーロッパ的「立憲君主」ではなくて、日本ローカルな伝統的「権威」であった。
しかし、これを許さない、明治政府がつくった「立憲君主」としての振る舞いの強制が、国家の破滅を呼んだのであった。

「平成」とは、昭和以前から古代までの「天皇の権威」が、昭和天皇の寿命と共に、とうとう決壊して流出する時代だったともいえる。
それが、経済の停滞となって現れたのであって、この逆ではない。
だから、昭和天皇が衰弱したときに「タガ」が外れて「バブル」となって、崩御によって政府がバブルを崩壊させたのも、偶然ではない。

絶対的に民をおもんばかる天皇が「希薄」になって「無視」されたとき、「国民は自分本位」に走り、その国民を締め付ける「政府の専横」が起きたのである。

つまり、わが国のヨーロッパ的「三権分立」さえ、政府は無視することができる。
なぜなら、「ヨーロッパ的悲惨」の歴史背景が、わが国には「ない」からだし、密かな天皇への敬愛が「国民心理=無意識の天皇依存」であったから、政府はよほどのことは自重できたのに、これが溶けて流れたからである。

戦争は、国民が要求していたことだと再確認しないといけないのは、ここにも理由がある。
決して「軍の暴走」ではなく、尻込みする軍を「叱咤」したのは国民だった。
「マスク警察」の譜系の源流とは、国民の開戦要求で、躊躇するものを「非国民」呼ばわりした「流れ」なのである。

ならば、「令和」とは何かは容易に想像できる。

いよいよ我が国が、その「歴史を終える」時代なのである。
皇統の継承問題を指すのではない。
前例を言えば、「継体天皇」を見つけてきて即位させた歴史があるから、皇統自体はどうにでもなる。

そんなわけで、ついに国民にできる「せめてもの抵抗」が、最高裁判所判事の国民審査しかなくなったのだ。

しかし、最初からこの「審査」には、絶望的情報不足が企図されていて、国民が「審査」するには不可能な情報しか与えられていない。
「なんちゃって」審査、なのである。
「公報」をよく読んでから「審査」するひとも少数だろう。
この「公報」にある、裁判官の意気込みや趣味などの情報は必要なのか?

もっとも重要なのは、確かに、どの判事がどんな判決を下したのかではあるけれど、国民生活に身近なのは、最高裁判所「以外の裁判所」の判事の「人事:昇格・降格:人事評価:人事異動」の権限なのである。
これは、最高裁「事務総局」が仕切っている。

トップたる「最高裁判所長官」は人事権を単独で行使しているのか?
それは、どんな「基準」なのか?
「丸投げ」ならば、この事務総局の長も審査の対象にしないといけない。

認証官の判事がこれを兼務するのか、どうなのか?
これをしないで放置、あるいは国会に法改正を自ら進言しない、判事たちには、組織人として「✕」を書くしかないのである。

ダボス会議の恐ろしい「本性」

1971年にスイスのダボスで設立された、民間団体「世界経済フォーラム」のことを、開催地にちなんで「ダボス会議」という。
この「会議」は、毎年1月に開催される(わが国の「通常国会」のよう)けど、参加者は民間の経済人だけでなく、世界各国の「元首級」政治家も演説することで有名だ。

そして、同じく民間団体の「IOC:国際オリンピック委員会]よりもっと強力に、その影響力を行使している。

あっさりと、「経済人」というけれど、わが国の経団連加盟の経済人(大企業の経営者だが実質はサラリーマン)という「レベル」をはるかに超えた、「大富豪」の方がイメージとして正しい。

いってみれば、「お金の匂い」に誘われて、世界各国の政治家たちも集まってくるのである。
ちょっと、「小バエ取り器」に似ている。

ちなみに、「国家元首」とは、共和国なら「大統領」だ。
イギリスのように、「立憲君主制」なら、「国王」が元首である。
ややこしいのがわが国で、大日本帝国憲法下の時代なら文句なく「天皇」だったけど、強制的に改憲させられた日本国憲法下では、「はっきりしない」ということになったのである。

それで、国民統合の象徴たる「天皇」という説と、「内閣総理大臣」という説とが並立している。
外国から観れば、国家元首が二人いるという「変な国」なのだ。

なお、国家元首の外国訪問には、「パスポートを必要としない」という「国際慣習」がある。
総理の「公式訪問」なら、総理にはパスポートがなくてもよい。
わが国の「皇室」は、「戸籍がない」のでパスポートの発給事務が厄介なことになる。

そんな、事務的な理由で、天皇皇后両陛下の外国訪問にはパスポートなく入出国している、という事情がある。
もちろん、「訪問先の国」では、「立憲君主」としての待遇をするから、専ら日本国内だけの「事情」ではある。

さて、この「会議」は前年の大会で翌年の「議題」を決めている。
それで、2020年に決まった2021年度の議題は、「グレートリセット」だった。
都合が悪いと「陰謀論」といって、相手にしないのが「左翼人」の態度だけれど、「グレートリセット」こそ、「陰謀」の披露に相違ない。

最近の「進歩主義的」な社会の動向は、まさに「グレートリセット」に根拠がある。
「国連」による、「SDGs」しかり、「脱炭素」しかり。
それが、「新しい生活様式」となって、わたしたちの生活を「破壊」するのである。

世界的「団体」なので、かならず人間は内部に組織をつくる。
よって、かならず「トップ」がいる。
当然に、世界経済フォーラムのトップを務めるひとは、「富豪」である。
ご尊名を書けば、クラウス・シュワブというスイス人だ。

このひとは、「パンデミックをチャンスとして、世界の仕組みを根本的に変える」と言い出した。
「共産圏を除いて」、自由主義・資本主義の経済体制がつくりだした経済発展の挙げ句の「温暖化危機」には、従来のやり方を変える必要があるとの主張からやってくる、常識人からしたら「詭弁」を弄している。

なぜなら、「温暖化」は、「人類を滅亡させる」から、パンデミックよりよほど危険な危機なのだ、と「深く信仰」しているからである。
さすが、超過激な「カルヴァン主義」を引き継ぐスイス人だけはある。

この「やり方」の変更が、「グレートリセット」を指す。

そして、「You’ll own nothing and you’ll be happy.」と発言した。
「何も持っていなくても、幸せになる」と、なんだかどこかで聞いたような?
まさに、共産主義そのものである!

プロテスタントのカルヴァン主義から資本主義が生まれたと、マックス・ウェーバーはいうけれど、まさか、共産主義にたどり着くとは。

家も、車も、電気製品も、服も持たない。
欲しいものは、ぜんぶレンタルで、それは、ドローンが運んできてくれる。

誰からレンタルするのか?
国家からの「支給」=「配給」のことではないのか?
この富豪は、自分の生活もこれでよし、としているわけがない。
「先ず隗より始めよ」があっての納得が得られる、というものだ。

さらに、世界経済フォーラムの「理事」、マーク・カーニー氏はもっと具体的なのだ。
このひとは、カナダ人で、ゴールドマンサックスから元カナダ中央銀行総裁、元イングランド銀行(英国中央銀行)総裁になった。
それに、国連気候変動問題特使でもあった、バリバリのエリートだ。

二酸化炭素を減らすため、航空機の大幅飛行制限、肉の消費削減だけでなく、人類の生活を強制的に不便にし、皆が貧乏になっても仕方がない、とまで言い出した。
「死滅」するよりは、「まし」だというわけだ。

驚くことに、
「ロックダウン」、「マスク着用」、「営業規制」を、「地球環境=温暖化阻止」のために「継続」すべきだと訴えている。
どうしてそうなるの?という理屈は、「不自由化」にある。

これが、彼らが言う「グレートリセット」のことだ。
なんだか、またまた「韓ドラ」の、『チャン・ヒビン』(2002年版)を思い出した。
「卑しい者ほど命を惜しむ」という、名セリフがある。

このひとたちが卑しいのは、一般人を「卑しくなる」ように仕向けるからだ。
あたかも「道徳的」だと。
アダム・スミスの名著『道徳的感情論』までを「悪用」する周到ぶりだ。

ここまでくると、「狂人」である。
なんと、世界は「狂人たち」によって支配されている。
これが正々堂々と「披露」され、そのシナリオの通りに各国は行動を開始している。

もちろん、「日本」もおなじだ。

すなわち、「経済人」たちが、「赤」に染まってしまった。
これは、「共産主義」が「グローバリズム」の本質だからである。
政治資金が欲しい、政治家たちもよってたかって、これを「新しい正義」として過去の正義を捨てたのだ。

だから、「国連」が先頭に立って旗振りをするようになった。
その国連の「COP26」が、スコットランド、グラスゴーで今日31日からはじまる。

総選挙の開票速報と同時にスタートするこの重要な会議は、将来の人類の行方を決めてしまうものになるだろう。
すなわち、政治による科学支配のなれの果て、だ。

念のためにいえば、現代は「地球史」からしたら、「小氷河期」にあたる。
地球上のどこかに、「氷河」があれば、「氷河期」と定義するのが「科学」なのである。

「氷河期とはいわない時代(地上に氷河がどこにもない)」の方が断然長い地球の歴史では、人類が存在しようがしまいが、もっと「温暖」だったのだ。
「極地方」とは言わずもがな、スイス・アルプスにある氷河を、スイス人たるシュワブ氏は見たことがないらしい。

もう個人では「阻止」できないのか?

これを、ロシアのプーチン氏がそこまで言うかと大批判している。
我々は、「ソ連」で経験済みだ、と。
そして、二度とごめんだ。
西側は、こうしたことの恐ろしさを知らないという恐ろしさがある。

まさか、プーチン氏が「救世主」?

選挙制度は国民の「ため」になったか

誰がどんな観点から「二大政党制」を言い出したのか?
それが、「普通の国」になるための、近道だと思い込まされたきらいがある。

『妖怪人間 ベム』の目的は、「真性の人間になること(=真人間)」であった。
そのために課せられたことは、姿形がどんなに醜くても、「正義を貫くこと」しか方法がなかったのである。

しかし、どうしたことか日本人は、「真人間」であるにもかかわらず、自らを「妖怪」に変化させようと「努力」したのだ。

いわゆる「二大政党制」を採用している国は、「米・英」である。
これは、そもそも複雑なヨーロッパで、「珍しい」のである。
彼らが「二大政党」になったのは、それぞれの「歴史的背景」があってのことだ。

つまり、彼らの中では、他の複雑な国と同様「結果」に過ぎない。
これを歴史的背景も考えない我が国で「採用する」ことの「無理」は、火を見るよりも明らかなことだ。

すなわち、我が国に二大政党制を導入したかったのは、「普通の国」になるためではなく、政権与党が「永遠に政権にいられる」ことを狙ったものに過ぎなかったはずだ。
ところが、「政権交代」が現実になった。

その「政権与党」の腐敗臭に、国民が本気で嫌気をさしたのである。
しかしながら、選択肢が、社会主義の野党しかなかったのが不幸であった。

「悪夢の民主党政権」と言われるのは、「もうこりごり」という経験値がそうさせている。
しかして、この「実験」は、見事に失敗したようになっているけれど、「永久に与党が政権にいられる」ための今では「理由」ともなったのである。

それで、再度政権を得た与党は、政権を失ったことの「反省」として、社会主義を大幅に取り込んだのであった。
世に言う「アベノミクス」とは、今更に「成長と分配」を言うことが意味不明に聞こえるほどの「分配」を姑息に実施したものだった。

安倍政権発足直後の「株高」は、株式に投資している一部の国民に「富を分配」した。
日銀が、上場株の全体で30%も買い付ける、という前代未聞も、いまだに「出口」が見えないままである。

株価の暴落にもなりかねないから、日銀は日本株の保有を止める訳にはいかなくなってしまった。
それに円安も手伝って、国内に残った製造業(本当は「輸出業」:外国人利用が多い宿泊・小売業も「外貨獲得」という意味で含む)は一息ついた。

ただし、政権発足直前に「円安」になっていた。
これは「アベノミクス」とは無関係である。
ヨーロッパの「通貨危機(いわゆる「ギリシャ危機」)が、一息ついて、円売りユーロ買い(円安)の局面に勝手になったのである。

これが、「FX取引」で、またしても一部の投資家が利益の分配を得たのである。

そうやって、「格差拡大」と言う、他人を羨んだ後に嫉妬に駆られる「卑しい感情」が、マスコミによって煽られた。
まったくもって、「日本昔ばなし」とか、「イソップ物語」の逸話でいう「悪いおじいさん、や、お婆さん」が、そのまま自分に乗り移ったようである。

結局のところ、小選挙区制に「さえ」すれば、二大政党制が実現する、と言っていた「専門家たち」の言い分のようにはならず、一大政党制+その他、という構図になってしまった。

まことに、「政治学」と「政治学者」の貧弱な言動は、犯罪的なのである。
しかも誰も逮捕されないことをいいことに、自ら責任を取る者もいない。

この点だけは、「自由主義」でよかったと、ご同慶の至るところである。
しかし、このような無責任な言動を繰り返した輩こそが、「御用学者」なのであって、「学会」の見識を疑う。
せめて、学問的に「詰め腹」を切るように仕掛けるのが、学者団体としての良心であろう。

そんなわけで、「これぞ」というひとに投票するのではなくて、「消去法」をもって、より「まし」なひとを選ぶしかない。
さらに悪いことは、「比例復活」なる「裏技」が、あたかも「セーフティ・ネット」として考案された。

「まし」なひとを選ぶのは、中選挙区制でも同じだけれど、「比例復活」はいただけない。
こういう「当選」の仕方をしたひとは、やっぱり「国会では議決権がない」せめて「オブザーバー」とするべきだ。

「民意」は「落選」という現実を尊重する気概もない。

さて、選挙制度を変えて、国民は幸せになったのか?
残念ながらそうはなっていない。
こうした「実験」に、どうして「見直し」の期限をつけなかったのか?も疑問だ。

知恵がない。

国民が不幸になるのは、こうしたことが原因なのである。

軍事国防と経済国防

台湾防衛の問題で「尖閣」が蔑ろにされている。
我が国のマスコミが腐敗しきって、恣意的な報道しかしないことが「21世紀」の常識になった。
野党は「憲法」を楯にして、昭和の論法を「保守」している。

しかし、その「憲法」のために、拉致被害者を取り戻す手段を持たないのが我が国なのだ。

つまり、国民の生命と福祉に「関与できない」と思い込んでいる。
ならば「福祉国家」という発想は、何なのか?
ただ、国民を乞食にして支配したいという、上から目線の願望に過ぎない。

だから国民は、甘言に騙されてはいけないのだが、すっかり骨を抜かれてしまった。

法的な前提が、立法時から大幅に違った現実が起きた場合、これを「事情変更の原則」という伝家の宝刀で、変更する法理は昔からある。
それを、「行使しない」のも、一つの見識ではあるけれど、無防備な国民が外国政府によって拉致される、というのは、独立国家としてあるまじき汚辱なのに、ただ「耐える」とは。

玉音放送で、昭和大帝が肉声で訴えた、「耐え難きを耐え、忍びがたきを忍び」とは、こんな無様を想定してはいない。

台湾海峡で有事ともなれば、かくかくしかじかと得意げに解説するひとがいるけれど、これを無関心で聞いている多数の神経がわからない。
日本国民が文明生活を享受しているばかりか、生きていられるのは、物資を満載にした船が台湾海峡を無事通過するという「普通」があるからである。

もし一発でも「実弾が炸裂したら」、我が国経済はそれだけで大混乱になる。

こんな、地図さえ見れば小学生にでも理解できることを、「平和ボケ」したおとな達が理解できない。
むしろ、想像することさえ拒否するのである。
そんなことを考えたら戦争になる、という「言霊信仰」は一方的な「洗脳」によって過激になっている。

それが証拠に、総選挙の「争点」にならないのである。
あるべき「争点」とは、防止のための方法論であって、論争すらしない、ということを言い争うことではない。
これには、当然に「軍事的国防」という概念が必要だ。

外交の延長線上に戦争がある。
逆に、戦争は外交の解決方法の一つなのである。

一方で、コロナの蔓延という情報に、世界のひとたちが「引きこもった」から、この約2年でずいぶんと物資の需要が縮小した。
世界規模の物流は、先にも触れたように「船:海運」である。

その海運は、「コンテナ」の発明によって大革新を遂げた。
この「箱」を発明したのは、20歳代だったアメリカ人の大型トラックドライバーだった。
自分の経験から、荷の積み下ろしを楽にする方法として考案したのだった。

しかし、彼のアイデアを実現させたのは、もっと年配のおとなだった。
港に「実験」のためのクレーンを据えて、実際に荷上げ作業をやったのだ。
それで、彼の考えた「規格」が、世界標準(デファクトスタンダード)になったのである。

世界的な需要減少で、コンテナ輸送運賃は通常時の半額にまでなったけど、それでも需要がなかった。
ところが、だんだんと「コロナの正体」が「風邪」だとわかって、「一気に」世界の物流が再開し出した。

それで、今度は「コンテナ不足(コンテナとコンテナ船の手配)」になって、輸送価格が10倍になった。
コロナ前の通常時からしたら、5倍である。

さらに悪いことに、コロナを焚きつけたひとたちは、「地球環境」という別口にも手を打っていて、「脱炭素」なるエセ科学宣伝して、燃料コストを高騰させるような「経済破壊活動」をやったのだ。

そこには、「巨大利権」が渦巻いている。
なので、地球温暖化論に迷いを示しだした、国際会議「cop26」に、今更、日立がスポンサーとなっていると、「役に立つ白痴」ぶりを自己宣伝しているのだ。

もちろん、裏でやらせているのは日本国政府の「経済官僚」たちであろう。
彼らは、国連やらの「国際舞台」で、こうした民間企業の資金提供を自分たちの手柄として自慢するのである。

そんなわけだから、油田やガス田の新規開発に規制をかけたい国連に、サウジの皇子さまが噛み付いた。
けれども残念なことに、この皇太子さまも欧米での高等教育を受けているから、きちんと「洗脳済み」である。

国連が論拠とする、「温暖化」に反論しないという、決定的ミスをした。石油は枯渇しないし、それが地球環境を破壊するなど考えられない、といえばよかった。

なにしろ、全ては神の思し召しのはずなのに、だ。

これを言えないサウジ王家(「スンニ派」の宗主)の堕落に、きっとイラン(「シーア派」)は嗤っているはずだ。
それでもって、仕組まれた安価なエネルギーを使ってはならず、わざわざ高単価なエネルギーを使う羽目になってきた。

ガソリンを始めたとした、燃料の高騰と、プラスチックの高騰は、間違いなく「インフレ」を増長させる。
70年代から80年代にかけて深刻化した、「スタグフレーション(不況下のインフレ:悪性インフレ)」の恐怖が予想の射程に入ってきた。

このときは、正しい「新自由主義」でこれを克服した。
しかし、今度は、社会主義で克服しようというのが「世界潮流」なのである。
これは先進国で唯一突っ張って自滅した、「ミッテラン政権」を思い出させる。

我が国は、優等生として過ごせた「あの時」の教訓を活かせるのか?
そのはずがない、のが、今、なのである。
「国防」ということを考えない国民の「悲劇」は、これからやってくる。

争点がない総選挙という堕落

もうすぐ投票日の「今回の総選挙」では、これといった「争点がない」という堕落が起きている。

支持率がわずかしかない「野党第一党」は、どうした神経か「政権交代選挙」だと寝ぼけたことを主張している。
このトンチンカンぶりは、みていて気の毒になるほどで、世界企業「トヨタ」の労組30万人からも見限られた。

こうでも言わないと、存在価値がないという思い込みが「病気」なのだ。

もちろん、この政党のスポンサーであり支持団体といえば、「旧日本社会党」からの「腐れ縁」で、「連合」という労組の集合体である。
しかしながら、バリバリの左派を内包していた「総評」と、わが国では「右派」と位置づけられる「同盟」が合体してできた「無理やり」があった。

自分の身の丈にあった「ライバル」の存在とは、実は「自分の鏡」ともなるので、本人同士にとっては大変重要な役割を担っている。
「一流」ともなれば、ライバル同士は互いに「尊敬」しあうのも、そのあらわれなのである。

だから、不幸にも事故や病気でライバルを失って、その代わりがみつからないと、気がついたときには、自分の行くべき方向性まで失っていることがある。
かくほどに重要なのが「ライバル」なのである。

そんなわけで、労組のライバルとは、「財界」である。
そこで、財界はどうなっていたのかといえば、あんがいと重要だったのが、2002年に「経団連」が「日経連」を吸収合併したことだった。

これまで、わが国の「財界」は、労組との「団体交渉」において、日経連を「ヘッドクォーター:司令塔」に置いていた。
すなわち、日経連が財界の「頭脳」だったのである。

対する、「経団連」は、近衛内閣の「(革新)新体制」というスローガンのもとに作られた、「大日本産業報国会」が前身で、「戦争遂行」を目的としていた。
この対岸の「政界」では、「大政翼賛会」というカウンターパートができた。

戦後になって、「産業報国会」は「解散」したことになっているけど、その思想的つながりは消えないし、戦後経済の立て直しのために「報国」する必要が、「官」「民」であったから、「経団連」ができた。
つまり、経団連とは、加盟各社の「本業」を通じた「連合」なのだ。

ところが、一方で、アメリカ民主党という左翼政党が国を支配していたので、その「出先」である、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が占領当初にとった、左翼政策による数々の「命令」で、「日本解体」を目指した。

この中に、「急激な労働運動の容認」があったので、まさに「雨後の筍」のように「労働組合」が設立された。
しかも、戦前からの「名経営者」をつぎつぎと「公職追放」したから、安穏としていた部下たちが「企業経営者」に、やっぱり「雨後の筍」のごとく「昇格した」のだった。

それで、困ったのが、組合対策の「手」が、「へぼ」すぎて思いつかない。
この頃の組合は、戦前までの「ホワイトカラー」と「ブルーカラー」の身分的区別があったので、組合も、「別」だったし、中間管理職も「へぼ」が経営者になって君臨したのを認めないので、組合に加入した。

こうした「へぼ」が、「頭脳」を求めてつくったのが「日経連」なのだった。
つまり、ここでいう「へぼ」とは、「公職追放」時期の経団連のことをいう。

「表看板」の「会長」は立派でも、中身は「へぼ」ばかりなのだ。
いまは、「表看板」も「へぼ」丸出しで臆面もない。

本腰を入れて組合対策をするには、筋のある思想が必要だ。
そこで、日経連のモットーは、「健全なる労使関係」としたのだった。
結局のところ、日経連の「研究」は、学術的でもあって、急ごしらえの労組では対抗できない。

それで、互いに「研究」を積むことになったのである。
しかして、GHQは、天皇の上におわす唯一絶対神として、「左翼思想による日本解体」というDNAを労働運動に移植したので、多分に労組は「政治的」になったのである。

この意味で、労組は日経連のよきライバルとしての敵ではなかった。
されども、「へぼ」の譜系にある「経団連」が、「へぼ」のDNAをもってして日経連を取り込んだら、「生命」がかつては「外部」にあったミトコンドリアを取り込んだような画期的効果はなく、むしろ堕落した。

このことが、労組にも影響して、堕落が堕落を生むのである。

そして、その堕落が「与党」にも及んで、「自由」も「民主」もなく、「成長と分配」なる用語をもって、社会主義に堕落した。

つまるところ、総選挙の「争点がない」のではなくて、「同じことを言っている」という状態に陥ったのだ。
どちらも「赤い」けど、「薄めの赤」が好きなのか、「濃いめの赤」がいいのか?という選択を国民は迫られているだけなのだ。

しかも、カウンターパートのアメリカも、あろうことか民主党のしかも「左派」が牛耳っている。

ところが、「3.5兆ドル」の社会主義政策に、民主党でも中間派が反発して、よもや「反対」となれば、連邦上院における少数派は民主党になってしまうかもしれない事態となった。

アメリカ人には、まだ社会主義へ抵抗する根性があるけれど、日本人にはもうない。
これが、ほんとうに「労働者:働く人たち」の生活向上になるのか?は、「ならない」という解答を歴史が示している。

「わたしたちには丁度いい」

久しぶりに「居酒屋」に行ってきた。

何度か同じ中年女性のスタッフに注文をしていたら、あるメニューを注文したとき、おもわず出た言葉である。
「わたしたちには丁度いい」
「もたれませんから」

世に「共感の戦略」なる理屈があるけど、「これぞ」という一言である。

この店を案内してくれた同席の知人は、「こういう一言がうれしいね」と微笑んで、40年前の出来事をふり返って話してくれた。
ここは新入社員のころに、会社の先輩が案内してくれた店だけど、ついこの間、「焼き場」に張り付いている店主が初めて声をかけてくれたという。

「お客さん、もう40年のおつき合いですね」
「実は、わたしが駆け出しの頃からお客さんを見かけてましたよ」と。
すっかりロマンスグレーになっている店主は、それからいつものように「焼き場」に戻ったという。

それぞれの「人生」が、交わった瞬間だ。

この一言で、この店を利用していてよかった、としみじみ思えたら、残りの人生でも来なくっちゃ、と心に誓って今日もいる、と話してくれた。
そんな折の、女性スタッフの一言は、なんだか「凄い店」だと思わせた。

イヤー、昔は若い娘ばかりがスタッフだったから、大分様相がちがうけど、これはこれでいいね。
しかして、わたしが、もしや最初からの注文があっての「一言」では?と言ったら、まさか?という。

それで、間合いをみて聞いてみたら、「お客さんたちはわたし好みの品選びをされている」とこたえてくれた。
「やっぱりね」

そんなわけで、店員さんもわれわれと同席している気分で、注文を聞いていたのだ。
心のなかで「ナイスチョイス!」と思っていたにちがいない。

こう言う店が「名店」なのである。

若い頃、ホテルの新入社員研修で、レストランのウェイターをやった。
会社には「内緒」だけど、休憩時間に好きなものを調理場に注文できた。
それで、気になるメニューの逸品を注文したら、「おいおい単価の高いのを言うね」と笑われた。

海老フライのサンドウィッチだった。

一口食べて、世の中にこんな美味いものがあるのかと驚いた。
あの驚きは、一生忘れない。
海老の美味さはもちろんだが、ソースの味が絶品だった。
それがほどよく焼けたトーストの香ばしさとからみあう。

なかなかの「高額商品」なので、めったに注文は入らないけど、もちろんゼロではない。
それで、お客さんがこのメニューを注文すると、自分も嬉しくなった。
その雰囲気で、「初めての注文」だと感じたら、召し上がるときの「反応」をウォッチしたものだった。

一口食べたときの「驚きの表情」が、自分の反応と一緒だから、心のなかでガッツポーズをしていた。
「リピーター」だと、注文に迷う同席のひとに、「これ絶対に美味しいから」というのである。

一瞬、値段に躊躇をみせるのも観察するのである。
しかし、決心したかのように、でも半信半疑で、「じゃあ」と言って注文する。
こうしたお客は、わたしの「餌食」のようなものだ。

最初の一口の反応を確認したい。

こうした欲求が、自分の中で高揚するのである。
そして、ほぼ確実に、「なにこれ、おいしい~」になって、期待を裏切らない。
そして、かならずお客さまは「破顔する」のだった。

期待を超えて美味いものを食べる喜び。
「幸福」のなかの一つの「幸せ」のとき、ひとは笑顔にならざるを得ない。

いつぞやの「結婚記念日」に、横浜元町のフレンチ・レストランで祝ったときは、「ワインのチョイスが完璧だ」と、食後に黒服がやってきて告げてくれると同時に、「よくご存じで」と店内に通る声で言われたことがある。

このひとも、「観察」していたのだ。

それを、これ見よがしに他の客に伝えた意図は、それなりの客が来ているのだ、ということのアッピールだったかもしれない。
わたしが選んだ理由は、ハーフボトルからの選択で、「記載があるものだけ」だったのである。

昔から「美味いものがない」と言われている、神奈川県の小田原は、超貧乏藩になっていたけど、歴代「老中」を輩出した「名門」、大久保家の所領だった。有名な彦左衛門は、親戚だ。
その藩財政を立て直して有名になったのが、二宮尊徳である。

「美味いものがない」のは本当だったけれど、西湘バイパス小田原インター出口に、店主が「変態廻転寿司屋」と自称する「ビストロ」がある。
ここは、予約ができないので週末ともなれば3時間待ちのような状況になる。

店内は廻転寿司のレールがあって、ちゃんと寿司が廻転している。
しかし、この店は「ビストロ」なのだ。
黒板にある「メニュー」がそれを告げている。
だから、「常連」は、フレンチとワインやベルギービールを舐めながら、「箸休め」に目のまえの寿司皿を取るのだ。

あるとき、お支払いで皿数を数えに来た店長が、二人で3枚しかない皿を確認して、「正解のお召し上がり方、ありがとうございます!」と、やっぱり店内に響く声を発した。

寿司が劣るのではなく、フレンチの逸品が優るのである。
そのときの店長の顔は、「したり顔」そのものだ。
そうやって、他の客に「寿司屋じゃない」ことを宣伝している。

東京のベルギービール・バーに負けない品揃えは、小田原に泊まらないと堪能できない。

これはこれで、わたしたちには丁度いい、のである。