最高裁判事国民審査に行ってきた

最高裁判所判事国民審査に行ってきた。
衆議院議員選挙の投票の「ついで」ではない。
「国民審査」のついでに、選挙投票があるのだ。

残念ながら、選挙結果は投票しなくともわかる。
与党の圧勝。
全党が、事実上の「与党」同然になったので、党名をつけた「反主流派の派閥」が野党を自称しているだけだ。

わが国に、「野党」は存在しないので、多数の国民は「主流派」に投票させられるようになっている。
これが、投票率にあらわれて、都市部では50%にぜんぜん届かない。

近代国家の特徴に「三権分立」があることは、学校で習う。
もちろん、「近代国家」の発祥は、ヨーロッパということになっているから、「三権分立」もヨーロッパ発祥である。

不幸なことに、ヨーロッパは、その「寒冷な気候」からたいした食物が育たない。
ローマが栄えたのは、地中海気候のおかげで小麦が採れたからだった。

肌の色が白くて、鼻が高いのは、紫外線が少な過ぎて皮膚にあるメラニン色素が退化したのと、白くすることで「太陽光」を受けやすくした。
これは、目の色も黒くしないで済ますから、同様の理由である。

体温よりずっと低い空気を吸うのに、ラジエターの逆をいく、吸い込んだ空気を少しでも温めるため鼻腔を大きくさせるのに、外見の鼻も高くして肺への負担を緩和したのである。

森が深くろくな食物となる作物が育たない中で、新大陸から「じゃがいも」が伝わると、これをプロイセンの皇帝が「奨励」した。
この時代、皇帝の「奨励」とは、「命令」のことである。
作付けしないと、どんな罰を受けるかしれない。

それで、元プロイセンだった、今のドイツとポーランドは、「農奴」によって森を開墾し、延々とじゃがいも畑が続く大地となったのである。
おかげで、ポーランドのスーパーでは、じゃがいもが1キロ20円程度で販売されている。

そんなポーランドを分割統治した、ロシア、プロイセン、オーストリア(「神聖ローマ帝国」ともいう)の三国は、ポーランドの農地を支配して、農奴ごと食糧を確保した。
亡国の憂き目を見たポーランド貴族は、もともと各国に血を分けていたけど、これが決定的となり貴族の証であった「スキー」がつく苗字を亡命先のヨーロッパ各国にばら撒いたのである。

てっきり純粋ロシア人だと思い込まされている、大作曲家「チャイコフスキー」も「スキー」がつくから、そんなに遠くない祖先を辿れば、ポーランド貴族に行く着くはずである。
彼の曲の「哀愁」は、その血のうめき声かもしれない。

狭い地域にいろんな民族がひしめいているヨーロッパ大陸は、他人から奪った者勝ちという「野蛮」がふつうだったのである。
これは、大陸人に征服されたブリテン島も同じだ。
それが、『ブレイブハート』となって、野蛮を賛美する文化を、作品と、その評価(アカデミー賞5部門受賞)に見ることができた。

そんなわけで、もっとも派手に他人から奪うことに成功した者が「王権」を得たので、どうやってこの横暴を「制限するか?」ということが、支配される者たち多数にとっては、文字通り「死活問題」になったのである。

そこで、「行政」を司る者と、これを制限する者としての「議会」、それに「司法」を分離させることで、「王による絶対的独裁」そのものを制限することにした。
つまるところ、被支配者の「不幸」から得られたルールだから、これが近代「民主」の「絶対」になったのである。

幸か不幸か、我が国は、「古代」にあたる「大化の改新」という共産主義(班田収授法:土地公有制)に、弟宮が反発して壬申の乱を成功させ、天智天皇の絶対は続かず、天武朝に替わるという再度の「政権交代」があった。

これがウダウダになって、「荘園制」になると、貴族の私的警備員だった武士の時代がやってくる。
その「武士」も、元は農民だったので、もっぱら他人から略奪する「野盗」とは違うという矜持があったし、その「頭領」は必ず皇族の血筋というルールもできた。

ここが、ヨーロッパの不幸と決定的に異なるのである。

しかも、皇族=天皇による直接支配は、古代と後醍醐天皇時代「しか」ない、という「特殊」があって、天皇は、はなから君臨すれども統治はせず、「権威」としての存在に徹していた。

よって、武家政権の「権力」と「分立」していたのである。
その劇的な場面は、「大政奉還」にあたって「将軍」の「天皇」に対する態度であった。

かつて、全国の諸侯を武力でもって平伏させた将軍が、自らは武力を持たない天皇に平伏したのであった。

このことは、我が国がヨーロッパの王政や民主主義とは違った「システム」で機能していたことを示す。

国民が選挙を通じて選んだ代表が、議会を作り、法を作って行政に命じ、その法を司法が護る、という三権分立「ではなく」て、権力はないがあくまでも国民の側に立つ天皇の存在が、国会や行政府の暴走を阻止し、司法に拠り所を与えていたのである。

本来なら我が国は、このシステムに「戻す」べきなのだ。

あえて言えば、昭和の時代とは、最期の天皇として、既にヨーロッパを模倣した明治政府に破壊されて壊れかかっていたこのシステムを、なんとか保持した昭和大帝がおわしたことでの「繁栄」であったといえる。

この意味で、昭和天皇はヨーロッパ的「立憲君主」ではなくて、日本ローカルな伝統的「権威」であった。
しかし、これを許さない、明治政府がつくった「立憲君主」としての振る舞いの強制が、国家の破滅を呼んだのであった。

「平成」とは、昭和以前から古代までの「天皇の権威」が、昭和天皇の寿命と共に、とうとう決壊して流出する時代だったともいえる。
それが、経済の停滞となって現れたのであって、この逆ではない。
だから、昭和天皇が衰弱したときに「タガ」が外れて「バブル」となって、崩御によって政府がバブルを崩壊させたのも、偶然ではない。

絶対的に民をおもんばかる天皇が「希薄」になって「無視」されたとき、「国民は自分本位」に走り、その国民を締め付ける「政府の専横」が起きたのである。

つまり、わが国のヨーロッパ的「三権分立」さえ、政府は無視することができる。
なぜなら、「ヨーロッパ的悲惨」の歴史背景が、わが国には「ない」からだし、密かな天皇への敬愛が「国民心理=無意識の天皇依存」であったから、政府はよほどのことは自重できたのに、これが溶けて流れたからである。

戦争は、国民が要求していたことだと再確認しないといけないのは、ここにも理由がある。
決して「軍の暴走」ではなく、尻込みする軍を「叱咤」したのは国民だった。
「マスク警察」の譜系の源流とは、国民の開戦要求で、躊躇するものを「非国民」呼ばわりした「流れ」なのである。

ならば、「令和」とは何かは容易に想像できる。

いよいよ我が国が、その「歴史を終える」時代なのである。
皇統の継承問題を指すのではない。
前例を言えば、「継体天皇」を見つけてきて即位させた歴史があるから、皇統自体はどうにでもなる。

そんなわけで、ついに国民にできる「せめてもの抵抗」が、最高裁判所判事の国民審査しかなくなったのだ。

しかし、最初からこの「審査」には、絶望的情報不足が企図されていて、国民が「審査」するには不可能な情報しか与えられていない。
「なんちゃって」審査、なのである。
「公報」をよく読んでから「審査」するひとも少数だろう。
この「公報」にある、裁判官の意気込みや趣味などの情報は必要なのか?

もっとも重要なのは、確かに、どの判事がどんな判決を下したのかではあるけれど、国民生活に身近なのは、最高裁判所「以外の裁判所」の判事の「人事:昇格・降格:人事評価:人事異動」の権限なのである。
これは、最高裁「事務総局」が仕切っている。

トップたる「最高裁判所長官」は人事権を単独で行使しているのか?
それは、どんな「基準」なのか?
「丸投げ」ならば、この事務総局の長も審査の対象にしないといけない。

認証官の判事がこれを兼務するのか、どうなのか?
これをしないで放置、あるいは国会に法改正を自ら進言しない、判事たちには、組織人として「✕」を書くしかないのである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください