「依存」は教育される

教育史という分野がある.
さいきん,「日本国民をつくった教育」(沖田行司,ミネルヴァ書房,2017)という本をみつけた.
げにおそろしきは「教育」である.
子どもを人につくりあげるのだがら,時がたてば時代を築くことになる.

二部構成の本書は,第一部が江戸期を中心としていて,第二部の明治から現代への壮大なる伏線を描いている.
とかく,封建時代で厳しい身分制であったのだからと意識せずにいるが,たんに識字率が当時の世界最高だっことよりも,重大な思想的背景がある.

幕末から明治,明治と第一次大戦後の大正,そして,昭和の戦争と戦後といった時代区分ごとに,教育も変容していく.バブルの絶頂と崩壊からはじまる,平成時代も「ゆとり教育」という歴史がある.

しかして,明治の教育令による学校の誕生と,GHQの指令による今日の学校の姿には,とてつもない継続性と断絶が入り交じっている.しかし,そこにうっすらと江戸の思想がよこたわっているのだ.

本書は当然に子どもを対象にした教育の歴史なのだが,その当時の「社会」との関連がくわしい.それもあたりまえではあるが,社会の要請としての教育だからである.

この本にたどりついたのは,昨今の「まじめなはずの日本人」が連続しておかしているさまざまな不祥事の原因追及をしようとしたのが理由だ.
たとえば,自動車会社による検査不正.
社長が交代してもなお続けていた,ということの「重大さ」の原因である.

わたしは,思想,だという仮説をもっている.
ひとはかんがえる葦であるから,思想から行動がうまれる.
生まれてから経験がない子どもは,思想ではなく行動が先になるが,その結果の善し悪しを体験したり,周辺からの教育によって,徐々に思想が形成されるようになっている.

だから,社会人といわれるおとなは,思想からの行動ができるひとを指す.
年齢はじゅうぶん達しているが,行動がさきになるひとを,ふつう一人前のおとなとはみなさい.それで,たまに年齢に達していないのに思想から立派な行動するひとが出現すると,「天才」というのである.

江戸期には,そんな天才が出てくるからふしぎだった.
幕末でいえば,たとえば,年齢とは逆に亡くなった順で,橋本左内や横井小楠だ.
横井小楠は熊本藩士だったが追われて越前福井の松平春嶽にその才を買われた.
橋本左内は,その福井藩の天才的大秀才だから,この二人は松平春嶽という共通の上司がいた.それで,幕政改革のスタッフにまでなる.

共通点といえば,たいへん興味深い点で,当時の授業風景がある.
伊藤仁斎の古義堂,中江藤樹の藤樹書院,緒方洪庵の適塾,吉田松陰の松下村塾も,個々の机はあるが,黒板に向かっての一斉授業をしてはいない.
むしろ,学生が自主的に学ぶ「ゼミ」形式であって,教師はテーマをあたえてそれを学生自ら議論させる方法をとった.つまり,考えさせて学ぶ,というやりかただ.

他人から教わったことだけでは,けっして本人の血肉にはならない,という教育方針が一貫しており,それがそれぞれの年代がことなる「塾」で,共通のあたりまえだった.
これは,いま,企業の内部研修でもさかんな,ロジカル・シンキングそのものである.

しかし,彼らがもとめた学問の意味がいまとちがう.
それは,人としての正しい生き方の追求だったのだ.
職業に直接役に立つ,専門知識とは別の分野こそが「学問」だった.

明治の教育は,これを富国強兵実現のためという「国家目的」に改造した.
これが,形を変え品を変えて,いまにいたっている.
その本質が「立身出世」のための教育なのだ.

いかに生きるか?から,いかに上手に生きるかになったとき,だれもが国家が用意した教育制度=学制の支配下にはいる.
そして,その制度を支えたのが,学校だった.
だから,どの学校をでたか?によって,人間が評価されることになった.
なにを誰から学んだか?は,意味を失ってしまった.

こうして,人間がつくった「体制」という「制度」に依存することが教育になったのだ.

明治の爆発的経済拡大も,江戸時代の教育があってこそ,という皮肉のうえになりたっている.
企業内研修のありかたも,今後は,江戸を参考にするようになるだろう.

買ってくれたひとがみえない無念

製造業のおおくのひとたちは,自社製品の購入者を直接みることができない.
自社と購入者とのあいだに,流通業である商社や問屋が介在して,最後は小売店にいくからだ.
これは、すこしまえの自動車会社もおなじで,製造する「メーカー」と販売する「ディーラー」が別個の会社だったことからもわかる.

それで,おおくの製造業は「展示会」を開催して,消費者に直接アピールしたり,「モニター」をつのって,試作品のつかい勝手や評価を依頼して,最終的に「商品」とするかを決める.
これらの行動や活動には,多額の資金を要するのは,だれにでも想像がつく.
いいかえれば,製造業は,顧客へのアプローチにたいへんな「カネ」をかけているのだ.

ネット社会がこれを変えつつあるのは,工場直売を自社HPでやっていることがあるからだが,残念ながらそれでどんな顧客情報を得ているのか?となると,まだ弱いような気がする.
小売店で購入するのと,手順があまりかわらない.
すなわち,カネをかけて「顧客情報を得る」という手段にまで昇華させていないと感じるからである.

職人にスポットをあてた人気TV番組がある.
自分がつくった道具が本人がしらないうちに,海をわたり,その国を代表するような名人の職人が愛用している影像を作り手の職人にみせる,という趣向である.
そして,愛用している外国の職人から,感謝のメッセージ影像が贈られる.

これが一連のパターンになって,シリーズ化して放送されているが,いつ観ても何回観ても不思議なのは,作り手の職人が「実際に自分の道具がその道のプロの職人に使われているところを初めてみた」というお約束のコメントだ.

驚くほど使いやすいと絶賛される道具が,実際に使うプロの要望をリサーチせずにできるものなのか?という疑問だ.
すると,ここに流通からのフィードバックを予感するのである.
「こんな感想がきたよ」

あるいは,伝統的な製品であれば,数百年前の初代の周辺あたりの世代のひとたちが,自分で道具をつくって目的の製品をつくっていたかもしれない.それが,だんだん名人芸になって,他の職人からの依頼をうけているうちに,気がつけば道具づくりが専門の家業になっていたのかもしれない.

それで完成された形と製法が,そのまま何も変えずに作ること,に変容すれば,いつしかプロの職人が使っているところをみたことがなくても,十分なものができるのだろう.
その道具が単純な機能であればあるほど,その完成度はたかくなる可能性がある.
だから,外国の職人も,このまま変わらない製品を作りつづけてほしい,になるのだろう.

ひるがえって,人的なサービス業である宿泊業や飲食業は,かならずお客様と接するようになっているし,そうでなければ「業」として完結しない.
これは,製造業の常識,からすれば「垂涎の的」の状況だ.

ところが,「垂涎の的」になるべき「顧客情報」を,ほとんど利用していないという残念をとおりこした「無念」がある.
「無念」だから,念が無い.「念」とは思いである.
つまり,目のまえにいるお客様の情報を活用しようという,思いがない,ということだ.

これは再生のお手伝いをしていて,かならず遭遇する.
つまり,お客様を喜ばせたい,ではなく,自分たちを「利益」で喜ばせたい,という意味である.
衣の下の鎧ならまだましだが,鎧しかみえない.
それで,肝心のお客様が逃げてゆくから,経営が行き詰まるのは,物理法則とおなじである.

上述の人気TV番組を,観たことがないのか?それとも観ても製造業の他人事で,自社ならどうだ?という想像力もないのか?
あるいは,利用客をみたことがない,のに「凄い」と絶賛されるのを,ただ感心して観ているのか?
すくなくても,自社の実態をみようとしないことはおなじである.

目のまえにいるひとに関心がなくて,接客系の事業をやっているなら,とっくに業績もよくないはずだから,わるいことは言わない.
はやく廃業するか,べつの,目のまえにいるひとに関心があるひとに事業譲渡すべきである.

事業譲渡したらお金になった.
事業に無念なひとには,せめてそれで納得いただきたいものだと念を押したい.

名前で呼ばれるとうれしい

接客を業としていればすぐに気がつくが,名前でお客様を呼ぶとよろこばれる.
個人情報保護が過剰になって,卒業後のクラス会もできないという個の分断を促進するのはいただけないが,パーソナル・サービスとして十分に機能しているのも事実である.

だから,事業者はお客様の名前という情報を得るのに苦労している.
誰だかわからない人を,名前でお呼びすることはできないから当然だ.
それで,各種アンケートをしてみたり,顧客カードを発行したりと,手段の開発と採用にいそがしい.

客側は,財布がふくらむ顧客カードをこれ以上増やしたくない.
それでいて,各種利用ポイントはほしいから,携帯端末に集中させているひともいる.
支払方法を世界水準のキャッシュレス化にしたい政府は,たんに「世界水準の普及率」にこだわっているだけだから,ぜんぜん普及しないことにイラついている.

昭和の時代に経営危機になった東芝は,当時世界最高水準の「真空管技術」をもっていた.しかし,その当時に,トランジスタの量産がはじまって,真空管技術にこだわった会社が倒産の危機を迎えたのだ.
気がつけば,わが国は世界最高水準の紙幣印刷技術をもっている.
しかも,製紙工程で紙に漉き込ませる極小チップをいれれば,電子的な方法で真札であることが証明できる.それなのに,電子決済とは,トホホである.

わが国とならぶ現金流通がぜったいの国は,世界を見渡していまやロシアだけだ.
わが国の印刷技術で,ルーブルを印刷してあげるというのも経済協力になる.
国立印刷局の仕事もふえていいだろう.
「メイドインジャパン」の紙幣を輸出するというビジネスだ.

銀行口座の制度と与信制度が便利さをつくる欧米での電子決済の普及と,不動産担保での与信しかできないわが国では,普及率の比較自体がナンセンスだ.
どうしても,外国人観光客からバカにされたくないから,電子決済をやりたいなら,与信システムを変えなければならないだろう.

ついでにいえば,外国人労働者の本国への仕送り送金をどうするつもりなのか?
まさか,銀行からの送金を義務化したら,バカ高い手数料で暴動になるかもしれない.
彼らの送金需要から,ビットコインの普及が促進するかもしれないが,高級官僚にはわからないだろう.

これらのはなしは,お名前を呼ばれてうれしい,というはなしとはちがってみえるが,利用者目線の重要性という点で一致する.
日本政府と国民代表であるはずの政治家の目線が狂っている,ということだ.
つねに上から目線,これで民主主義だというのだからこまったものだ.

ところが,民間企業でもこまったことが蔓延している.
上司と部下の関係が壊れだしているのだ.
この場合の上司とは,経営者であることもある.
ならば部下とは,管理者になる.

部下をもつ,経営者や管理者は,自分の部下の氏名と年齢を正確に書けるだろうか?

むかし,生徒数千人をこえるマンモス小学校で,そこの校長先生が全生徒の名前を覚えていたというエピソードがあった.
いま,とやかくいわれる学校で,校長は全生徒の名前をまちがえずにいえるのだろうか?
もちろん,全生徒の名前をいえるこの学校では,休み時間に校長も校庭に出て,会う生徒にかならず名前をフルで呼んで声かけをしていて,呼ばれた生徒はうれしそうに挨拶をかえしていた.

小学生にしてこれである.名前で呼ばれることは特別なのだ.
部下のいるあなたは,そのひとたちの氏名と年齢を正確に書けなければならない.
もし,書けないなら,あなたの部下は,自分の名前を知らない人が上司であるということになる.
これで,組織としてビジネスが成立するのか?

人間という高度に社会性をもった動物は,その本質に自己の存在を確認したがる性質がある.
他人から自分を認識させるものが唯一,名前,なのである.
「ねえ,きみ」と声をかけられて,それが番号だったらどうだろう?
いきなり「囚人」になってしまう.裏返せば,囚人を番号で呼ぶ理由がわかる.

だから,部下の氏名と年齢は正確に書けなければならないのだ.
これが,組織行動を円滑にする最小限のルールである.

上述の校長先生は,生徒の氏名だけでなく,保護者も覚えていた.
苗字だけでなくフルネームで「◯◯◯◯君のお母さん」と呼ばれて,嫌なおもいをするひとはいない.
だから,マンモス校だからといって学校運営のトラブルは皆無だったのだ.時代背景がちがう,というよりも,こうした先生がいなくなったことが時代なのだろう.

第一次世界大戦終結100年の夜

昨日,11月11日は,中国ではひとりっ子の日だが,世界の話題はタイトルのとおりである.
それで,70カ国以上の首脳がパリにあつまって,記念式典がおこなわれた.
敗戦国のドイツからはメルケル首相も参加した.
戦勝国の日本は,麻生副総理・財務相が参加した.

日本人にとって,第一次大戦は船でしか行けない欧州での戦争だから,いまよりはるかとおい戦地でのできごとだったからか,いまはどこか他人事の感がある.
しかし,この戦争で,莫大な利益をえたのが我が国だったから,当時は他人事なぞという日本人はいなかったと前に書いた.

ドイツが租借したから製造がはじまった「青島ビール」で有名な青島を,日本軍が攻略してドイツ軍を降伏させたから,我が国は「戦勝国」になって,戦後処理のベルサイユ講話会議に「大国」として参加している.
その「青島ビール」は,大日本ビールという会社が引き取って,第二次大戦終結まで製造をつづけていた.

「大日本ビール」は,現在の大ビールメーカーが分割解体される前の母体だ.
なんと,アサヒ,キリン,サッポロ,エビスは,ぜんぶ大日本ビールのブランドである.
そのアサヒが1999年に青島ビールの株式を購入して,歴史的な統合化なるかとおもわれたが,昨年に中国の一大企業グループに売却した.

ところで,ドイツ人は青島ビールで二銘柄を製造していた.
われわれがよくしるふつうの「ビール」で,下面発酵のピルスナー系のものと,黒ビールである.
いまの「青島ビール」も,ピルスナーを指すのが一般的だろう.

しかし,エジプトのツタンカーメンの遺品にもあったビール瓶のビールは,上面発酵のエールである.
そういう意味で,青島ビールの黒ビールはその後どうなったのか気になるところでもある.

さてパリでは,フランス大統領がEU軍の創設を提唱したりするなか,米国大統領がそのまえにNATOをちゃんとしろ,と指摘したらしい.
これをロシアの大統領はどういうふうに聞いていたのか,わが国では報道されない不思議がある.

歴史の専門家は,日露戦争を「第ゼロ次世界大戦」と位置づけるのがふつうになってきている.
それは,「消耗戦」のいきつく先である「総力戦」のはじまり,と観るからである.
戦争は戦闘集団をひきいる武将たちがおこなうもの,という常識から,国民国家が総力をあげて取り組むモノに変化した最初の戦争が日露戦争だとかんがえるからだ.

ロシアの新鋭兵器である機関銃に,バタバタと死んでいく日本兵.
にもかかわらず,つぎからつぎに繰り出される日本兵の突撃に,恐怖を感じたのはロシアだけではなかった.それで,欧州各国の戦闘方法が,なんと兵隊かくあるべしと,日本式になる.
これが,第一次大戦の損害を悲劇的に大きくしたのだ.

ところが,バタバタと殺された日本軍は,新鋭兵器による物量戦にあこがれた.
じつは,青島攻略日本軍は,わが国ではじめて,新鋭兵器の物量戦を実施したのだ.
巨大な大砲を海上輸送し,陸揚げして線路で移動させ固定設置する.歩兵よりも土木工事の専門集団である工兵が足りない.
この間,戦闘はできないので,「青島攻略はまだか?」と新聞は軍を責め立てていた.

しかし,いったん火を噴いたこれら新鋭兵器の照準の正確さによる破壊の威力はすさまじく,青島駐留ドイツ軍を文字どおり吹き飛ばして完璧に撃破した.
それで,勝った日本軍が,破壊つくしてだれもいなくなった敵陣地をみて逆に恐怖を感じたのだ.
「敵でなくてよかった」.
この戦闘に,銃を手にした歩兵の出番はなかったから,日本軍の損害はほとんどなかった.

しかし,さらなる日本側が感じた「恐怖」は,物量戦のおそろしく高いコストだった.
青島という局地戦にして,この高コスト.
これを欧米先進国の仮想敵国に全面的にやられたらたまらないから,秘匿しようとした.
わが国民が,青島駐留ドイツ軍はめちゃ弱かった,と信じたのは,ほんとうは軍の宣伝だったのだ.

ヒトラーと手を組むとき,国民も政治家もドイツを侮ったのは,この宣伝が生きていた.
なんともいえないブーメランである.
その弱いはずのドイツ軍が連戦連勝でスターリンを敵だといったから,コロッと信じた.
第一次大戦で,めちゃくちゃに破壊されたことで生まれた欧州の厭戦気分が,第二次大戦のもとになったのは歴史がしめす教訓のひとつである.

そんな日の夜,たまたま日曜日のゴールデン.
東京の民放が,地上波テレビ初という「自衛隊特番」を放送していた.
NHKじゃなくてよかったのか?
とうてい,いまのNHKに,この手の番組は放送できないだろうとかんがえるのがよいのか?

島嶼奪還作戦のための特殊部隊の存在に,
「なんでこんなことが必要なの?」
「いま,どこがそんな状態にさらされているの?」
なかなかの「コメント」が,ゲスト・タレントの口からでた.

奪還する前にそもそも獲られるなよ,というコメントがないのが専守防衛の主旨に合致する.
これも,自衛隊広報が頼んだセリフだったのか?
それとも「忖度」したのか?
いや,たんなる「おバカ」なのか?

100年のおもみを感じる日であった.

ぞろぞろの不祥事の共通点

おわらないどころか,どんどん出てくる,といった感があるのはどうしたことか?
台湾の鉄道事故のように死者までが発生すると,設計ミスがただちに事故とは関係ない,といっても「信用」に傷がつくことはいなめない.

ちょっとまえ,社会インフラを輸出しよう!が政府のキャンペーンにもなって,各国に鉄道車両が輸出されたが,国ごとにことなる安全基準にあわせてつくるノウハウが,ながく日本国内「だけ」でやってきたノウハウとマッチせず,納期のおくれから生じる違約金負担で,とうとう老舗の川崎重工が赤字に転落し,鉄道車両製造事業の継続すら社内議論されているという.

なんのことはない,「ガラパゴス化現象」のはなしであった.
わが国のあらゆる分野で,この「ガラパゴス化現象」が起きている.
アマゾンの書籍検索で「ガラパゴス化」を入力すれば,多岐にわたる,ではすまされない状況がわかるだろう.

民間だけでなく,「公」の分野においても,しっかり「ガラパゴス化現象」は起きている.
霞ヶ関でも,県庁所在地でも,村役場でも.さらに,「学校」にもまん延しているだろうから,他人事ではぜんぜんない.
わたしたちの生活をおおっているからだ.

たとえば,上記の本は,世界的ベストセラーになった,学校教育のあたらしい方向性,についての教科書である.
世界はすでに,むかしの工場労働者の大量供給に対応するための画一化された教育方式をみなおして,「学習」に重心をシフトさせている.

それは,本人の「学習」でもあり,組織の「学習」でもある.
だから,以前このブログでも書いた,発見的教授法も,その流れのなかにある.
そして,ここで重要なのが,ゴール設定と設定したゴールからの演繹思考という論理である.

残念だが,われわれ日本人に,ここでいう「論理的思考」が,かなり欠如しているとかんがえている.すなわち,「目的合理性の欠如」だ.

「ちいさなことからコツコツ,コツコツ」は,いまでも美徳とされている.
しかし,この方法は,けっして目的合理性があるやりかたではない.
正しくは,「目的達成のために,ちいさなことからコツコツ,コツコツ」でなければならない.
「目的達成のために」を省略してはならないのだ.

すると,ガラパゴス化現象がみられる分野での問題点は,以下のとおりになる.
・「目的」を明確化せずに自己目的化して,ただ従来どおりのやり方を漫然と踏襲している.
・設定している「目的」が,そもそも的外れである.

これは,「マネジメント」の問題である.
ここで,マネジメントを「経営」と訳してはいけない.
マネジメントとは,「組織の目標を設定し、その目標を達成するために組織の経営資源を効率的に活用したり、リスク管理などを実施する事」だ。

「経営資源」とは,「ヒト」,「モノ」,「カネ」,「情報」,それに「時間」をさす.
もっとも重要なのは,「ヒト」である.主語になるのはかならず「ヒト」だからだ.
「ヒトがモノを」,「ヒトがカネを」,「ヒトが情報を」,「ヒトが時間を」コントロールする.
いま問題の,「ハラスメント」も,ヒトの存在が組織には必須な「ヒトがヒトを」で発生するものだ.だから,ヒューマン・リレーションズをどうすればいいかが,誰にでも問われるのだ.

また,「リスク管理」を,「リスクは回避するもの」と理解してはいけない.
「リスク管理」とは,「リスクはコントロールするもの」という意味で「管理」なのだとかんがえなければならない.
「リスク」は,「利益の源泉」でもあるから,「回避」ばかりする日本企業の儲けがなくなった.

さて,ここまでは頭で理解できる.
しかしおおくの分野で,この「問題」が解決できないのに理由があることまで踏み込まないから,いつまでも,どこまでも同じ過ちを繰り返すのだ.
すなわち,「学習しない組織」がまん延状態になってしまっているのがいまの日本だ.

つまり,このような「学習しない」状態から抜け出すには,なんらかの行動を起こすひつようがある.
そのためには,組織構成員を「学習するひと」に変えなければならない.
しかしそれは,「本を読め」という命令では達成できないものなのだ.

「頭」だけではなく,「体」もつかう.
これをふつう「訓練」という.

わたしたちは,きちんとプログラム化されたメソッドとしての「マネジメントの訓練」を,ほとんど受けた経験がないままに,組織を運営させられている.
それは,大企業のトップも,高級官僚も,政治家も,まったくおなじである.

人生のなかで,社会への準備段階としての「学校(小中高大)」における段階的訓練.
入社後の社内訓練や職業訓練.
これらを見渡して,一度もないか希薄である.

ただし,一部企業では熱心にマネジメントの訓練を実施していて,こうした企業では不祥事が発生しにくいのは当然である.
かつて,日本の製造大企業は,こぞってこれを実施していたが,バブル期をピークに減少した.
一世代,30年の時をかけて,企業内部のマネジメント力が衰亡したのだろう.

どうやらこのことが,さいきんの不祥事の原因ではないかとうたがうのである.

岩盤規制のよい解説だけど

「歴史は発展する」というのは,社会主義や共産主義がいいふらした幻想にすぎないが,なんとなく聞き流したひとほど,洗脳されているから注意が必要だ.
「退化する」こともあるからだ.

それで,いいふらしたひとたちは,「退化」もヒトの尾てい骨のように「進化」だといいはるのだ.
これは、とんでもない人権侵害を正当化する.
政治犯を収容する場所で,どんな「教育」がおこなわれているのか?をかんがえればよいだろう.

日本という国の「特殊性」については,内外から指摘されつづけてきたから,「日本論」は山ほどの著作がのこされていて,そのほとんどが,やっぱり「特殊性」を摘出している.
それが日本「人」の特殊性に転換されるのは,国家の構成員なのだから道理である.

「革命」を経験した欧米諸国では,英国の「名誉革命」とフランスの「フランス革命」が,およそ正反対の立ち位置で対峙している.
そういう意味では,おおむね世界はこの二つの革命を源流とした二本の大河のどちらかにある.

英国の流れは,その後の「ピューリタン革命」になって,アメリカ合衆国の源流にあることはまちがいない.
一方,フランス革命は,ロシア革命や中国共産党に流れ,かつてもいまも社会主義の源流になっている.

さて,それではわが日本国はというと,他国より若干複雑ではないかとかんがえるから,「特殊性」のはなしに与する.
それは,二重構造で,表面を流れるものは英国からであるが,もうひとつ地下水脈があって,これはフランス革命というより強くロシア革命を源流としたものだ.

日本を「鵺(ぬえ)的」だというひとがいるのは,この二本の流れをさしたのではなかろうか?
「鵺」とは,頭は猿,胴は狸,尾は蛇,手足は虎,声はトラツグミという伝説上の怪物で,そこから「正体不明」をさすことになった.

だから,二つの革命の流れが日本のすがたであると特定すれば,それこそが「正体」であるから,「鵺」ではなく,「結合双生児」のような状態とかんがえる.
本物の結合双生児は,ベトちゃんドクちゃんでしられたが,産まれてきた彼らに罪はない.
しかし,国家のばあい,これは国民にたいして「罪」であるから,彼らのこととは別にしてかんがえるひつようがある.

日本という国は,表面上は自由主義・資本主義体制だが,地下での実態は社会主義・統制経済体制である.
戦時中の近衛文麿内閣が目指したのも,社会主義・統制経済体制であったが,大政翼賛会をつくってあびた批判から腰砕けになった.それでも,統制経済体制は実行された.

日本本土より,強力に計画経済・統制経済体制であったのは満州国だった.
スターリンが成功させた(というがほんとうはウソだった)「五ヵ年計画」を,ロシア人が逆立ちしてもできない完璧な事務能力で真似たのが,岸信介次官率いる満州国官僚群だ.
バリバリの自由主義者,阪急創業者の小林一三商工大臣と統制経済を主張して対立したのも岸だった.

戦後の混乱は,自由主義がはびこって,各地に「闇市」ができた.
「闇」なのだから,政府の統制にない,という意味だが,それならなぜ「自由市」と呼ばないのか?
政府の統制が正統で,これに従わないのは犯罪的,という価値感があったからである.

時間の経過という「歴史が進捗」して,役所も丸焼けになってしまった混乱から,役人の体制がととのいだすと,経済警察がこの「闇市」を取り締まった.
そして,闇市の側も,「歴史が進捗」して,駅前の雑居ビルに入居した.これらの建物は,いまだに残っているが,店舗の狭い区画とそのコピーという構造的特徴をみれば判断できる.

こうした時間の経過をみれば,「自由市」の弾圧からスタートしたのが戦後日本経済の特徴なのだ.
それが,どんどんと,あらゆる方面に「統制」が浸透するが,その主体は国民ではなく,役人と政治家たちだった.

自由と民主主義など,じつは一顧だにされていない.
それをまとめた本がでた.

筆者の上念司氏は,経済評論家として活躍中の有名人だが,はなしのところどころに冗談ではすまされないような冗談をはさんでくる.

この本も,最後のすかしっぺなのか,「おわりに」がいただけない.
「新自由主義の定義」にたいそうな混乱があるからだ.
日本の岩盤規制が,新自由主義の権化だ,という主張は,完全におかしい.

また,岸信介の孫である安倍総理が官房長官とふたりだけで,まるで岩盤規制と対峙しているという主張も,いいすぎだ.
上念氏には誇大妄想があるのではないかと疑いたくなる記述があるから,鵜呑みは禁物の本ではある.

彼のアベノミクス支持も,いいだしっぺの浜田宏一教授に師事したからだと著者略歴にあって納得したが,わたしは「戦後レジーム『回帰』」のアベノミクスを支持しているわではない.
そういう意味で,たいへんな矛盾にみちた本である.

多忙をきわめる上念氏は,新自由主義の本家,ミーゼスの著作や,その弟子にして同僚だったハイエクを読む暇がないのだろう.ましてや,ミルトン・フリードマンをや.
わが国の「流れ」の構造上,新自由主義がサッチャーの英国からの流れではなく,ロシア革命の流れからの批判という歪みを修整できていないことなのだろう.

本書本文における上念氏の主張は,新自由主義そのものであるからだ.
しかし,彼はその新自由主義を無視するアベノミクスを支持するという.

よいこは「おわりに」だけは読んじゃいけないよ.

残念な韓国大法院の判決

昨日は韓国で歴史的な大法院(最高裁判所)判決があった.
これは、「司法」の判断だから,「政府=行政」の判断ではないという希望的観測がある.
しかし,彼の国では,前大法院長が,裁判の引き延ばしをはかった(日本有利になる)嫌疑で検察の捜査をうけるとか,外交部(外務省)でも日韓協定支持のコメントをだしたことを調査すると現長官が明言しているから,政府の見解も判決を支持するものだ.

むしろ,現政権が大法院に圧力をかけた,という順番を示唆するのが,前大法院長への捜査だ.
つまり,検察とは法務行政の一部だからである.
すると,これは日韓基本条約の根幹をなす「相互主義」にもとづく賠償請求権の放棄への判断だったはずだから,条約の破棄を通告したという意味になる.

相互主義とは,お互い様,という意味だ.
当時,日本だった朝鮮半島で,日本人だったひとたちが,本土の日本人と同等に徴用されたのは,相互主義ではない.
日本国民だったからだ.もちろん,本土の日本人も徴用されている.
なお,「徴用」といってもちゃんと給料はでるので念のため.

「併合」という歴史が間違っているから,日本国民だったことが間違いだ,という論理は,事実を無視している.
どんな理由であれ,当時の朝鮮半島は,日本国であって,そこの住人は日本人として扱われたのは事実である.
慰安婦もしかり.数では本土の日本人慰安婦のほうがはるかにおおいはずだが,国家による強制でないことはすでに明らかだ.

そこで,国家間の条約締結の時点で「相互主義」がうまれるので,日本側は朝鮮半島に投じた莫大な資産の放棄が約束され,そのかわりに韓国側は,これ以上の一切の請求権を放棄したのだ.
それには,個人請求権放棄の保障のため日本からの巨額資金提供もしたから,当時,この条約が片務的(日本の一方的不利で相互主義に反する)として日本国内の強い反対にさらされたのである.

ちなみに,朝鮮は日本だったから,サンフランシスコ講和条約の当事国になっていない.なにを根拠に,「戦勝国」だと主張しているのかわからないが,それで「日韓基本条約」が結ばれた.
「基本条約」で「平和条約」でないのは,戦争状態になかったからだ.日本だったのだから当然である.

そして,これらの残留資産とあらたな資金で,奇跡的な経済復興をなしたのも歴史の事実だ.
ただし,個人請求権放棄のために日本側が提供した巨額資金を,受け取った韓国政府(朴政権)が個人に渡さず使ってしまったのも事実だ.

もちろんいったん相手にわたしたカネだから,ちゃんと当初の主旨どおり国民への保障としと使ってくれないとこまるのだが,そこが国家間・政府間のカネなので,相手政府の判断にまかせるしかないというのも常識だ.
つまり,個人保障のためと理由を明記して相互に納得したからわたしたカネを,あろうことか流用したことを忘れたふりをして,さらにカネをよこせというのが,この判決の主旨になる.

また,ここで「巨額」というのは,当時の金額でという意味と,当時の日本の外貨準備高に比較してという意味がある.なけなしのわずかな外貨から,歯を食いしばって拠出したのである.いまの金額で議論してはならない理由だ.

なお,この手法(残留資産の放棄と請求権の放棄)は,台湾でもおこなわれた.
反日の権化のはずの蒋介石が,親日の筆頭のようにいわれるゆえんだが,そもそも大陸を追われて行き先が台湾しかなくなった蒋介石が,どさくさに紛れて日本の残留資産を濡れ手で粟のごとく得たのだから,請求権などかんがえるひまもなかったのではないか?

むしろ,マッカーサーの優柔不断で,本来はいまも日本領であるはずの台湾の統治権が,宙に浮いたまま放置されていることが問題だ,という李登輝元台湾総統の主張こそがこころに痛い.

李登輝(岩里政男)氏も日本人として京大から学徒出陣し,終戦時は名古屋高射砲部隊の少尉だった.
台湾は朝鮮とちがって「二等」国民扱いだったから,日本名は許可制,兵になることが許されず,血判状を総督府に送りつけて台湾兵が誕生しているが,それでもはじめは兵ではなく「軍属」だったから軍人扱いをされていない.李登輝も,台北帝大には現地人制限から入学できず京大に入学しているのだ.

一等国民の朝鮮出身者は,日本名は届出制,士官学校への入校も許された.それで,朴大統領(高木正雄)は,日本国籍のまま満州国陸軍士官学校へ入校して終戦時は満州国軍中尉になっている.

その意味でいえば,台湾のように戦争の結果ではなく,併合という形式で平和的にきまった日本の領土が,北部を中共に奪われたものの,という文脈でみれば,韓国の独立とはなんだったのだろうか?

朝鮮半島統治,台湾統治のための国家予算投入による収支は,あきらかに出超(投資額と税収)だから,じつは日本本土の国民所得は,政府の介入で彼らに強制移転させられた.
欧米型「植民地」の常識からすれば,ありえない本国の一方的赤字なのだ.

しかも,昭和20年の4月に決議された,衆議院議員選挙法の改正で,朝鮮と台湾,樺太に選挙区ができていた.インド人が英国議会に,ベトナム人がフランス議会の議員になるようなものだとすれば,「ありえへん」ことを日本人はきめていた.

つまり,被害者はかわいそうな朝鮮人でも台湾人でもなく,日本人自身だったということが,あまりにも意識されていない.お人好しの日本人として,バカにされるゆえんである.

はなしを韓国にもどそう.
つまり,まったく相互主義ではない,韓国側にとってはものすごい好条件で日韓基本条約は締結された.
これには,当時の東アジア情勢が切り離せないから,とうぜんにアメリカの意向もあったはずで,日本の政権・政府は反対論を押し切ったのだった.

だから,二国間の条約にみえて,ぜんぜん二国間だけの問題ではないのだが,儒教的独りよがりの内部規範に落ちていく韓国を止める術は,もはや他国にはないから,まことに残念な,そして歴史がうごく瞬間を目撃した,というしかない.

わが国からすれば,日清日露の戦争でながした朝鮮独立のための「血」が,百年の時を経て無意味になっただけでなく,状況がおなじになってしまった.
このことは,実質の半島支配者がだれなのか?でかんがえれば,中国とロシアがせめぎ合うこと確実だから,ほんとうはもっとも危機的なのは半島の住民たちなのだが,気の毒なことに百年前同様に気づいていない不思議がある.

この恐ろしいまでの鈍感さこそ,ときの李氏朝鮮末期の混乱の原因だった.
いわゆる,大院君と閔妃による宮廷内の権力闘争である.
そして,その鈍感さと権威主義にあきれた西郷隆盛が,征韓論をいうのだから,まったくもって歴史が360°回転したかのようだ.

ここまで彼らにさせる反日のエネルギーはなんだろうか?
他国人には,自滅にいたること必至の,絶望的な努力にいそしむエネルギーである.
それは,もしや日本による「両班」いじめの「恨」なのではないか?
500年間もつづいた李氏朝鮮王朝をささえた身分制度である.

日本では,支配階級の武士の人口比は江戸幕府発足時で約4%,幕末で約8%だった.武家の分家と,生活に窮した武家が町人に苗字を売ったことが二大原因という.

ところが李氏朝鮮では,高等文官と高等武官の採用試験(朝鮮版科挙)に受験できる身分が両班(文武両方の「両」)に限定されていた.
それで,開国か攘夷かに大揺れしていた日本の幕末頃には,両班の人口比が約52%という事態になっていた.

これは,世界的にもめずらしい比率である.
支配階級のほうが,支配される国民の数よりおおいのだ.
法を支配する階級だから,たとえ主人が無職でも両班の家の使用人は,アメリカの奴隷以下の身分で,主人がなぶり殺しをしても一切罪には問われなかった.

明治維新を達成した日本政府の身分政策は,「四民平等」をカンバンにかかげたものだった.
だから,日本統治下の朝鮮でも,「四民平等」は推進されたはずだ.
日本の内地では見せかけのカンバンでもあったが,朝鮮では本気になった.
さほどに,両班階級とそれ以外の身分差がひどかったからである.

日本軍の協力者だったが,いまや伊藤博文を暗殺したとして英雄になっている安重根は,両班の出身で,自家における使用人への扱いに疑問を持って,身分制に反対する運動に没頭していた.
それが,日本統治の協力につながるのだ.
獄中の安が書いて裁判(ロシア側に任された)に証拠提出している,伊藤暗殺の理由は,日本の天皇崇拝を基本とした論理に満ちているから驚く.

国民の半数以上の両班を,平等の名の下に弾圧したのが日本だった.
だから,日本統治下を「よかった」というのは,両班以外の身分だったに違いない,という憶測をよぶ.
そんなわけで,2013年5月,古き良き日本時代を語った95歳の老人が38歳の男に殴り殺されたという事件は,両班自慢の若者が下級身分の老人を殺したとすれば,それは「無罪」という意識があっておかしくはない.

すると,東アジア地域(中国・ロシア・朝鮮)は,わが国もふくめ,近代国家の定義にあたる国は存在せず,中世封建時代のまま存在しているのだとおもえば,辻褄がつく.

なお,今回の判決で13人中2人の大法官が反対意見を出している.
このひとたちの「異見」には,おおくの日本人も納得するだろう.
条約締結時の事情が正確に与されているからだ.よって,賠償責任は韓国政府にこそある,である.

まことに残念なことではあるが,掃きだめに鶴が存在していることは,両国にとって唯一の希でもある.
むしろ,彼ら2人の存在が,韓国という国にとって歴史的なことだった,のかもしれない.

業務の「標準化」なくして移民?

世界最大の売上高を誇るホテルは,マリオット(スターウッド含む)になった.
リッツ・カールトンや,シェラトンを含む傘下のホテルブランドは30もある.
運営する部屋は110万室である.
室数規模でみれば日本では,5万室の「東横イン」がトップになっている.

「おもてなし」の国ニッポンに,世界規模の高級ホテルチェーンは存在しない.
また,不思議と,世界最大ホテルチェーンをランキング化すると,トップ10のうち9グループがアメリカの会社なのだ.
80年代に,そのアメリカで,「サービス革命」といわれたエポックメイキングな本が二冊出版されている.

 

どちらも邦訳が出版されたが,日本でサービス革命は起きたのだろうか?といえば,ファミレスや居酒屋チェーンなどで「起きた」が,「おもてなし」にこだわった高級旅館や高級ホテルでは「起きなかった」といっていいだろう.

このことについて,わたしは,業務の「標準化」がキーワードだと理解している.
しかし,「標準化」とは,「金太郎アメ」のような「サービス」であって,それはハンバーガー・チェーンにみられる「画一化」された「サービス」であると,思い込んでしまったことに不幸があったとかんがえる.

つまり,店舗拡大に成功したモデルは「標準化」を実施して,サービス革命を実践し,そうでない業態では,サービス革命が起きなかっただけでなく,衰退してしまったのではないか?ともいえそうだ.

いうなれば,「標準化」が「製造業」におけるラインにみえてしまった.
「われわれは『ベルトコンベア』のような仕事はしない」というわけだ.
しかし,残念だがこれには想像力の欠如があるか,上述の図書を読み込んでいないかのどちらかだろう.

その証拠が,マリオットの二代目が書いた下記の本で,「標準化」こそが成功要因だと断言しているからだ.

この本は,1999年に邦訳がでているから,すでに二十年ほどの時間が経過している.
それなのに,旅館やホテルの経営者のおおくがいまだに,「標準化」に積極的でないのは,どういうことなのだろうか?
単純に,読書が習慣になっていないか,本が嫌いなのだろうと疑ったほうが説得力がありそうだ.

わが国の工業製品で,もっとも販売単価が高額なのは,トヨタ自動車の「レクサス」ではないかとおもうが,この自動車の「特別」なつくりかたは広告宣伝でも当初は流れた.
しかし,この自動車をどうやって販売するのか?といった面になると,とたんに従来のディーラーとイメージがかさなってしまうのだが,ほんとうにおなじなのだろうか?

接客サービス業を自称するなら,この点について一般人よりも詳しくてふつうなのではないか?
つまり,レクサス以外のトヨタ車とは,別次元のことがおこなわれていることに注目したい.
なぜ,そのようなことが可能なのか?
マリオット社も,30ものブランドをコントロールしている.

これは,それぞれのブランドで,標準化がおこなわれているからできるのだ.
標準化とは,「業務の定義」がなければできない.
それは,製造現場だけでなく,企画・設計段階からアフターサービスまでを含むものだ.
そのためには,業務を細分化しなければならない.

つまり,微分的発想が必要になる.
だから,「真実の瞬間」なのだ.

ところが,これら細分化されたユニットが,統合化されてはじめて「商品」になる.
これは、積分的発想だ.
それを,人間があつまった組織で統合する必要があるから,「逆さまのピラミッド」でなければ達成できない.

上記の二冊が,ほぼ同時期に出版されたのは,偶然ではなく必然だったとかんがえる.

人口が減れば労働力も減る.
それでは困るから,移民を受け入れたい,とかんがえるのは理解できなくもない.
しかし,業務の標準化もできていない現場・職場に,ことばが不自由な移民を作業員として補充して,はたして生産性は伸びるのか?

ポケット翻訳機があれば解決できるような,甘いものではない.
移民の生活に正規の賃金はひつようだし,移民も歳をとるから社会保障もひつようだ.
いま,急務なのは,標準化と現在戦力のブラッシュアップなのである.

優秀な人材がほしい

どの経営者とはなしても,だれもがもとめているのは「優秀な人材」である.
破綻しそうな企業では,「お金」に順位をゆずるけれど,それでも,この期に及んでなお,二番目に「優秀な人材」がほしいという.

パーティーなどの雑談の場でつっこみはしないけれど,再生の現場ではつっこまざるをえない.
それで,経営者や経営幹部に,優秀な人材とはどんな人材をいうのか?を書き出してもらうことをしたことが何度かある.

このブログの読者ならお気づきだろうが,まともにきちんとした日本語で書き出せるひとはすくないのだ.
もっといえば,コミック作品の主人公にあたる「スーパー・サラリーマン」のようなひとをイメージしていることがままある.

まさに,いまの副総理・財務大臣のように,マンガの読みすぎ,である.
こんな超人的人物が現実に入社したら,あなたは上司としてかえって困りませんか?と聞くと,たいがいの幹部はやっと気づいておどろくのだ.
なぜなら,それであなたはどんな仕事ができるのですか?あるいは,したいのですか?という質問がつづいて,ばあいによっては上司のほうが存在が否定されてしまうかもしれない.

さほどに曖昧な概念で,優秀な人材がほしい,と口にできるのは,実現性のほとんどない幻想だからである.
もちろん,再生現場だから,数年前から新入社員など採用していないし,パートさんの欠員すら補充できていない.
理由は,応募がないから,であることがふつうだ.残念ながら,この「ふつう」は,人的サービス業では「ふつう」になっているから,再生企業だけが苦しんでいるものでもない.

経営者や幹部が,優秀な人材がどんな人材なのかがわからないうちに,優秀な人材を募集しても,優秀な人材が採用できるわけがない.
こうしたことを理解してもらってから,あらためて当社にとっての優秀な人材とはどんな人材なのかを議論したら,でてくるのは「スペック」ばかりだった.

さらに,「即戦力」というスペックもかならず加わるのも特徴だ.
これは,「作業」のことを指す.
おなじような「作業」を,他社で経験したことがあれば,それを「即戦力」というからだ.
しかし,この「即戦力」には,自社で訓練する必要がない,という意味もある.

ふつう募集人材の「スペック」というと,学歴や,資格,職歴・勤務経験が典型的だ.
それで,話題をかえて,どんな人物と一緒に働きたいか?に振ったことがある.
すると,でてくるのは「人柄」に関するものばかりになった.
これは、接客業だから,という理由だけではない.

直接の接客を想定しない,たとえばボイラー技士であっても,一緒に働きたいか?という基準では,決め手は「人柄」なのだ.
そんな人物であれば,客室温度や風呂の湯温についても気遣いができるだろうと,かんたんに予想ができる.

整理しよう.
第一に「即戦力」になる,「優秀な人材」.
第二に「人柄」.
これは,自社での「人材育成」の放棄のようにもみえる,ある種の「むしのよさ」がみてとれる.

人口減少にともなう労働人口の減少は,「需要と供給」という経済原則によって,確実に価格上昇が予想される.
だから,企業は内部での人材育成という教育を実施しないと,本人のパフォーマンス分と賃金のバランスがとれなくなる.

イギリス人はとっくに意外な発想をしていて,

という本を書いている.
参考になるはずである.

ところで,2020年度から,同一労働同一賃金のための法制度が実施される.
対象となる法律は,
労働者派遣法,パートタイム労働法,労働契約法,である.
なお,中小企業は「改正パートタイム労働法」について,2021年度から適用されることになっている.

これらが実施されることは,もはや決定事項である.
つまり,未来はもう定められたのだが,この制度の運用のために,欧米では常識の「ジョブ・ディスクリプション」(職務記述書)が,わが国でも必要になるのではないか?
そうでなければ,雇用形態にかかわらず,同一労働同一賃金をどうやって実現するのか?

この書類は,職務内容,必要なスキル(資格ふくむ),賃金条件(労働時間ふくむ)などが記載されたもので,募集者が作成し応募者はこれをみて応募する.
一見,なにか特別なものにはみえないが,「労働市場」の要になるものだ.
「就職」であって「就社」ではないことに注意したい.

つまり,企業はほしい優秀な人材の「定義」を書いて公表しなければならないのだ.
このための準備はすすんでいるのだろうか?

観光産業は基幹産業にならない

世の中にはこまったひとたちがいて,「幻想」をあたかも「現実」のようにかたることがある.
それが業界人であれば,「アドバルーン」だと聞き手が認識すれば問題にならないが,専門家とか有識者と称するひとのはなしだと,それは「うそ」にもなるから社会には害悪である.
どんなものかといえば,以下のとおりである.

「観光産業を(わが国の)基幹産業にしていくのが目標である.」

これは,不可能でもあるし,そうなっては困る.

結論から先にいえば,政府の訪日外国人旅行者による国内消費の目標が,2030年で15兆円でしかないからだ.
2016年の消費額が3.7兆円だったから,これは年率に換算すると10.5%という昭和の高度成長期に匹敵する伸び率になっているのにだ.

わが国のGDPは,内閣府発表の2017年度,名目548.6兆円,実質533.0兆円である.
インフレを考慮したのが実質額なので,16年の消費額で実質を比較すれば,0.69%にすぎず,30年の目標値で比較しても,2.81%である.
もちろん,GDPは「付加価値」だから,外国人の消費額という「売上」で比較するのはまちがっているのだが,より外国人の影響が強くなるこの方法でみてもこの数字にしかならない.

この産業だけで,国民は食ってはいけない.

つまり,「観光業」としてありえないほどの大成長をとげても,国民経済にとって3%にも満たないのが,外国人依存の結果なのだ.
これが,どうしてわが国の「基幹産業」になるのか?
まさに,顔を洗って目を覚ませといいたい.

さらに,この議論には,観光業をバカにしているのではないかと疑いたくもなるニュアンスがふくまれている.
「観光業」とは,総合芸術的な産業なのだ,ということを忘れているのではないか?ということだ.
単純に規模を追っている印象が「基幹産業」といういい方にあるようにおもわれるからだ.しかし,そのわりに,数字を無視しているのは意図的にか?それともファンタジー文学か?

自然をあいてにしながら,食料生産に関係する一次産業と,二次産業たる鉱工業からうまれる文明の利器の積極的投入による利便性の追求と環境保護,それに人的なさまざまなサービス,という産業分類のすべての知見を統合してはじめて成り立つのが「総合産業」であるはずの「観光業」ではないか.

それは,バレエやオペラに代表される「総合芸術」に似ている.
しかして,バレエやオペラを芸術界の基幹産業と呼ぶものなどいない.
ましてや,バレエやオペラの売上高が,他の演奏会のシェアで比較しても,巨大とはいえないだろう.

わが国観光業が外国人市場で発展するためには,わが国独自の一次産業があって,わが国の二次産業が利便性を提供しつづけ,これを人間がプロデュースしなければならないのだ.
それを,最後の観光業従事者というひとたちだけで,なし得るものだ,というのは,「夢」を通り越した「誇大妄想」ではないか?
あるいは,「自信過剰」の鼻持ちならぬはなしである.

たとえば,自然の景観という観光資源も,外国の僻地にあるような「放置された自然の美しさ」をわが国に探せば,じつは本当に放置された場所か,交通機関の整備がないまさに「僻地」しかない.
便利な交通がある場所は,人工的な建造物にあふれていて,かぎられたお決まりの撮影スポットしかないから,現地にいくより映像でみたほうが美しいかもしれない.

ふるい伝統的な日本を感じる地方都市も,東京のようになりたい,東京のようなガラスとコンクリートがほしい,と全国一律にカネをばらまいたから,駅舎すら撮影意欲をなくすポスト・モダン建築ばかりで,情緒などどこにもない.
これは,旧市街・新市街という都市計画の常識が,経済の貧困と貧困なる発想が掛け算になって,市中でもほんの一角が「観光地」で残るばかりである.

戦後のまちづくりにみられる混沌こそは,敗戦の貧しさの象徴で,それを近代というおしろいで化粧はしたものの,にじみ出る貧しさは消しようがない.
これが,欧米以外の,たとえばアジアからの観光客に受けているのかもしれない.
かつての支配者たちがつくったまちとはぜんぜんちがう混沌をみて,安心と自信を得るのではなかろうか?しかし,これは自慢できない.

東京の焼け野原に匹敵する破壊を,執念と自助で復活させたワルシャワ市に代表されるポーランド人の精神は,日本人にはつゆほどもなく,ただひたすら近代をもとめたのは,いまさらながらに貧困なる精神だったのだとおもう.

いまだにこの精神のままでいるから,この国が観光立国になどなれないし,なったところで本当の貧困がまっている.