むかしの方が便利だったこともある

日々世の中は進歩している,とかんがえるひとは多いのだろうが,どっこいそうでもないことがある.

都心部で自家用車を持っていないひとはおおい.地方ならひとが住める金額でも,月契約の駐車場代に足らないからだ.それにカーシェアリングもすすんできだ.そもそも,都心部はどこに行くにでも交通の便がいい.最近では,低床の路面電車が見直されて,地方都市の顔としての新設も議論されている.

トロリーバスの絶滅

わたしが棲む横浜には,路面電車もトロリーバスもあった.東京には,荒川線が残っているから路面電車はあるが,トロリーバスはなくなった.黒四ダム観光の足だったトロリーバスも廃止されるというから,この国からトロリーバスは絶滅する.

ハイブリット車や水素自動車,さらにEVと,「環境にやさしい」とされる乗り物がもてはやされる時代に,どうしてトロリーバスは絶滅するのだろうか?一昨年訪問した,ブルガリアやルーマニアといった,かつての社会主義圏の国では,いまだ運行はしていたが,それでも廃止路線が多いようで,ずいぶんトロリー架線が撤去されずに放置されていた.一部では,切れた架線が道路に垂れ下がっていたが,電気はきていないのだろう.その横で,街路樹の枝も垂れ下がっていたから,整備予算が枯渇したと考えられる.

将来ディーゼル車の販売ができなくなるというヨーロッパで,トロリーバスはどういった位置づけなのか興味深い.本当は,「環境にやさしい」ということが優先ではなく,単純に「産業優先」なのではないかと疑いたくなる.もっとも,電気をつくるのに主に石油やガスを燃やしているから,電気が「完全にクリーン」であると考えるわけにはいかない.まして.原子力は「クリーン」どころではなかった.しかし,ハイブリッドや水素を用いる方法よりは,「環境にやさしい」のではないか.EVも,しょせんは発電所の電気を必要とする.

何年も前のことだが,ギリシャのアテネには何度か行ったことがある.いまでもこの街にはトロリーバスが走っている.路面電車もそうだが,「電車」に分類されるトロリーバスは,はじめて訪れる観光客にもやさしい乗り物だ.路線や停留所を間違えても,終点までいけば必ず戻ってくるはずだし,循環路線もある.地上を走るから,車窓からの景色も楽しめる.

横浜のトロリーバスは,開業が1959年,廃止が1972年だったから,わずか13年足らずの営業運転だった.東京オリンピックによる三ツ沢競技場への足という設置理由が,懐かしくもあり新しくもあり.廃止理由は,市電の廃止による変電設備の撤去と,バス車体交換の購入値段が,ふつうのバスの三倍程度もするということだった.ふしぎなもので,トロリーバスばかりに乗っていたわたしには,ふつうのバスが珍しかった.

市内の交通量増大で,渋滞のもとになったとの判断も廃止理由だ.市電が渋滞のもと,ならまだわかるが,「バス」でもあるトロリーバスが,渋滞のもとだという指摘は子どもにも解せない説明だった.それに,市電の利用者にとっては,渋滞していても,電車が接近すると自動車の方が線路をよけて走ったので,バスよりはやく移動できたから,自動車の増大をにくんだ.だから,これらはそれらしい廃止説明ではあるが,開業前に気づかなかったのか?と今さらにして思うことだ.「オリンピック」という特異なイベントによる大盤振る舞いだとすれば,それから60年たってもおなじことをしているから,残念ながら当時を嗤うことはできない.

むかし市内交通は一体だった

「横浜市営」という経営形態が望ましいかの議論はおいて,路面電車,トロリーバス,ふつうのバス路線は,「乗り換え券」をもらうとその日何度でも乗り換えて,目的地に最初の料金だけで行けた.民間のバス会社でも,自社路線であれば「乗り換え」ができたと思う.これができたのは,車掌さんがいたからだ.おおきながま口カバンに,路線図の切符があって,それに特殊なハサミで穴をあけてくれるのが楽しかった.ワンマン運転になって車掌が廃止されると,「乗り換え」ができなくなった.交通量の増大で路面電車やトロリーバスが廃止されることよりも,「乗り換え」廃止が不評だった.乗り継ぎ乗り継ぎで目的地に行っていたひとには,路線毎のその都度料金支払制度への変更は,ものすごい負担増だったからだ.ぼったくりのような料金変更に絶望したひとを,マイカー所有へ追い込んだ.それで,また自動車の数が増えた.これは.都市交通政策としていかがなものだったのか?まるで,自動車会社のためにしたような政策である.料金支払が電子化されたいまの時代に,これができないのはなぜか?

いまでも市内交通を一体に運用している国

「時間料金」というやり方がある.ポーランドでは,市内交通は時間制の料金だ.20分,60分,半日,一日,と四種類の切符が売られている.券売機は停留所や駅(窓口でも買える)にあり,支払方法は現金,デビットカード,クレジットカードで,接触方式,非接触方式,どちらも利用可能のすぐれものだ.購入した切符は,車内に打刻機があって,これに差し込むと「チン」という音がして日付と時刻が刻印される.20分券なら,この時点から20分間有効となる.検札係に切符なしや時間オーバーがばれると,容赦なく4,000円ほどの罰則金をはらわなければならない.印刷が読めなくなるから,二重打刻も禁止である.制服着用の長距離列車とちがって,市内交通の検札係は私服にバッジをつけて身分をあらわすから,遠目ではだれだかわからない.だから,それなりの緊張感があって「不正」は少ないそうだ.発車寸前に打刻する人がいたのは人情というものだ.ちなみに,降車時の手続きはないから,無事時間切れとなった切符は,そのまま捨てればよい.購入しても,打刻さえしなければ切符はずっと有効なので,ふつうはまとめ買いして財布にいれるようだ.ハイテク機械を乗り物に一台ずつ設置するより,アナログな打刻機の方を設置するのは合理的だ.

遅延したらどうするのだ?という日本人なら気になる議論もあまりないようだ.鉄道が遅延するのは,長距離幹線がおおい.都市近郊路線の電車は,案外しっかりしており,せいぜい数分程度の誤差がふつうだから,目くじらを立てるほどではない.バスなら渋滞によっての遅れは運転手がわかっているから,時間オーバーの対象ではない.よい意味でアバウトなのだ.これがコストをさげている.別の意味で,人間を信じるシステムになっている.

便利だから利用するという原理

日本の都市部にかぎらず,伝統ある国のもともとの都市計画はモータリゼーションを想定しなかったから,どこも渋滞や駐車場の不足に悩んでいる.それで,公共施設には公共交通機関をつかうように案内される.日本では異様な人数の案内係が配置されるが,なんのためにここにいるのかわからないことがある.このひとたちの人件費も,知らないところで負担させられている.近年では,工事現場の案内も過剰である.

ひとは便利だから利用するのだ.近距離の都市交通システムは,わかりやすくてリーズナブルな料金であることが重要で,さらにいえば,だれのためのものかということが最も重要だ.

目的合理性について考えると,外国のやり方が参考になることも,むかしのやり方が参考になることもある.

「一泊二食」というプロジェクト

BABYMETALがとまらない.昨年,あの坂本九の「スキヤキ・ソング」から53年ぶりにアメリカ・ビルボード誌の総合アルバムチャートで39位(40位以内)に入った.また,同年のロンドンの名門「ウェンブリー・アリーナ」で開催した公演は,日本人アーティスト初のワンマン公演だった.

世界的ギタリストのマーティ・フリードマン氏は,「(アイドルグループではなく)バンドやスタッフを含めたひとつの『プロジェクト』として見ているんです」と発言している.

プロとしてのプロジェクト・チーム

日本よりも,外国での活躍が目立つアーティストが何組か生まれてきたのは,たいへんよいことだ.この分野では,一日の長がある外国で認められるには,ステージでの実力だけでなく,それを支えるスタッフをふくめた総合力も問われる.BABYMETALというチームは,神がかったテクニックを持つバックバンド(メンバーが入れ替わる)と,天使の声をもつという女性ボーカル,それに,彼女を両脇から合いの手とダンスで支える「天使役」の二人の女の子でできている.しかし,振り付け,作詞・作曲,プロモーションまで,チームとして一つの「ストーリー世界」を一貫してつくりあげる活動をしているのだ.これをプロデュースしている人物が「KOBAMETAL」(小林氏)と呼ばれている.おどろくことに,プロデューサーの小林氏は,芸能プロの経営者ではなく社員なのだ.

いわば,「各職場」がそれぞれの職場の本分を受け持ち,まっとうしているのだ.まさに,宿泊業のあるべき姿との相似形である.

舞台でお客様の目に触れるメンバーは,一流のスキルである.天使役の女の子たちのダンスを侮ってはいけない.彼女らは,これをライブで何曲も続けてやるのだ.おそるべき体力と気力である.観客からは見えない存在のスタッフも,このステージを支えるためにどんな仕事をしているのか?と想像させるにたるプロたちだろう.

圧倒的なプロに出会うとひとは言いなりになる

わたしの棲む横浜には,東京にはない老舗が何軒かのこっている.開港して約160年,横浜が外国文化の受け入れと国内発信をしていた時代は,飛行機よりも船旅がふつうだったおそらく1960年代までだったろう.それでも,元町界隈には老舗があるのは嬉しいことだ.

その元町の老舗の一軒に,ジャケットを買いに出かけたことがある.店に入ると「いらっしゃいませ」という声とともに,主人が近寄ると,いきなり「ジャケットでございますね」という.そして,わたしの体型を一瞥すると,数あるジャケットのなかから一着を選んだ.その間,わたしは上着を脱いでいたので,あたかも着替えるようにそのジャケットに腕をとおした.ぴったりである.「よくお似合いですよ」と主人.わたしは,「これください」と言って,わずか数十秒で買いものを終えた.以来,ちゃんとしたものはこの店と決めている.この店の取り扱う品々のセンス,さりげない提案が,わたしの希望と一致するからだ.だから,わたしは安心して,主人の言いなりになっている.

宿はお客様を言いなりにさせているか?

ラテン語の「HOSPTIUM(ホスピチウム)」が英語の「HOSPITALITY(ホスピタリティ)」や「HOSPITAL(ホスピタル)」あるいは「HOTEL(ホテル)」になったという.だから、病院とホテルは言語上では兄弟である.いまや,病院では「電子カルテ」があたりまえになったが,いぜんから医療現場では手書きでも「カルテ」は必須の情報源である.それは当然だろう.自分の病歴や症状が記入されているから,カルテの情報がなければ事故になりかねない.ところが,案外,宿泊業,なかでも日本旅館で,カルテに匹敵する顧客情報を利用している施設は少ない.だから,これを電子化した利器を活用している旅館も少ないのだ.かつての「団体」主体だった時代の名残である.

情報不足はリテラシー(活用能力)の欠如から生まれる.「団体」からとっくに「個人」に変化した市場にたいして,いまだに「待ちぼうけ」のごとく,たまにやってくる団体を心待ちにしている間,個人客ファンを作らなければならないという業務上の使命を忘れ,個人顧客情報の収集もしないから,活用などできる環境にない.つまり,「カルテを作らない医者」のようになってしまったから,だれも怖くて近寄らなくなる.

こんな宿でも「アレルギー情報だけ」は,収集していると胸を張ることがある.当然である.アレルギーを申告したお客様の命に関わる情報だ.これが,個人顧客情報のすべてと言われると,言われたほうが呆然とする.

存在意義から問わねばならぬ

お客様から圧倒的な信頼を得るには,なにをしなければならないのか?BABYMETALというチームから,プロジェクトとして学ぶ必要がある.

覚悟なき観光振興

観光地の整備のことを、「観光振興」という。
道や看板、はたまた「会館」や「センター」を建設し、地元の物品販売をすることになっている。最近では、ネットを通じた地元情報の提供のためのサイトへの投資もある。これらの投資が,「民」ではなく「官」が主体であるのも特徴だ.
残念ながら、これらの投資が集客に大成功したという話は、寡聞にして聞かない。

「掠奪産業」を助長するのか?

18世紀にイギリスで資本主義が生まれる前の時代,人類は資本主義を知らなかった.つまり,原始時代から古代四大文明を通じて,ローマ帝国もモンゴル帝国も,オスマン帝国も,資本主義ではなかった.では,なんだったのか?「前資本」とか「前期資本」という.

世界初の先物市場として有名な大阪堂島米会所が,幕府から公認されたのは1730年だ.でも,江戸時代の日本は資本主義経済ではなかった.日本が資本主義を導入するのは,明治になってからである.その明治期におけるめざましい経済発展は,日清戦争(明治27年~28年)でもわかるように,維新後30年足らずで外国との近代戦争ができるまでになったことでもわかる.

さて,「前資本」の時代の経済における常識とは,儲けるための仕組みが,単純であった.「安く仕入れて高く売る」である.なんだ,いまとかわらないではないか?と感じたかも知れない.ところが,価値観が異なるのだ.「安く仕入れる」というのは,たとえば「詐欺」や「掠奪」がふくまれる.「高く売る」には,「冒険」や「押し売り」がふくまれて,これらの行為がとくに問題にならないどころか,むしろ,一般的であったのだ.対象客の絞り込みと、製品設計やサービス設計などという概念がないのだ。

多くの観光地における観光業は掠奪産業ではないか?

地元に存在する「観光資源」を見にきたひと,すなわち「観光客」から,「法外な料金を提示して金銭を得る」なら,それは「掠奪産業」ではないのか?そんな状態で,税金を投じる「観光振興」は,掠奪産業を助長する自殺行為である.

昔の修学旅行生が狙われた

世間を知らない小中学生の修学旅行.お土産になにを買おうかと,いろいろ物色した経験は,おおくのひとにあるだろう.一昔二昔前なら,親からだけでなく,祖父母や親戚からも「選別」をもらったから,「お返し」をしなければならなかった.学校がお小遣いに上限を設けても,もらったものはもらったものである.だから,帰りの荷物はそれなりの大きさと重さになった.

子どもたちが買ったお土産を,「なんだこれ?いくらした?」と大人からからかわれた経験をもつひとも少なくないだろう.大観光地のお土産物屋さんで,よかれと買った物が,大人からみれば値段に見合わないガラクタに大層な値段がついていた.この経験から,中学生になると,品物をより吟味しようという気になる.昔の修学旅行は,たいがい毎年おなじ目的地だったから,中学生には「先輩」という情報源が有効だった.もちろん,「先輩」とて失敗の買い物をしたものだが,帰宅して失敗とわかれば,それを「後輩」に伝えたのだ.

こうして,徐々に観光地の土産物屋は,子どもから見放されていき,それが物資が豊富な時代とともに,大きく衰退した.このころの土産物屋は,二つのことを見誤ったのである.一つは,豊かな暮らしにおける観光土産とはなにか?ということ.もう一つは,子どもから「奪う」ことに鈍感だったことだ.おそらく,当時は,毎年やってくる大量の生徒たちが尽きることはないと思えただろう.しばらくすると,行き先が外国にも拡大した.このとき,「危機感」をもったひとも,「掠奪」された経験をもつ,これらの子どもたちが大人になって親になることに気づかなかった.まさに,「前資本」時代の「掠奪産業」だ.

「観光振興」とは「観光客」の「満足」がなけれなならない

いまだに日本の観光地のおおくは,ふつうの商売ならあたりまえの「営業コンセプト」が決まっていないのである。営業コンセプトを決めるためには、中心となる想定顧客層の設定と、そのひとたちが求めるだろう価値と提供する価値のすりあわせ作業をしなければならない。「多様化」した消費者に対応するには欠かせない常識である。

「多様化」がはじまって半世紀

日本で、「多様化」といわれ始めたのは、1970年代だ。すなわち、高度成長を背景に、「大阪万博」で象徴されるような時期だ。全共闘やヒッピーなどが若者文化として出てきたし、マクドナルドの開業は71年だった。
つまり、半世紀前から消費者はとっくに多様化しているのに、観光産業では、あいかわらずお客様は「(一様な)マス」のままなのだ。このことの方が驚きである。

外国人観光客は「救世主」か?

地元の日本人観光客が気づいた「不満足」を,欧米の「観光大国」からやってくる高単価外国人観光客が見すごすと,本気でおもっているのだろうか?また,その「観光大国」は,なんの努力もせずに勝手に「観光大国」になったと,本気でおもっているのだろうか?

日本の「リピーター」ではあるが,地元に「リピーター」はいるか?と問えば,かつての小中学生修学旅行と似ていることに気づくだろう.外国人観光客のなかでも「高単価層」のリピーターは,どんどん地方都市に「新しさ」を求めて分け入っている.この「新しさ」とは,彼らにとっての「新鮮さ」であって,そこに「古い」日本があれば尚更よいという感覚だ.

70年代の「列島改造論」の価値観は間違いである

地方色のまったくない「駅舎」や「駅前風景」などに代表される,東京になりたい症候群という「病気」が,都市圏に住む観光客の目には「痴呆」の「地方」という,お笑いぐさにみえるのだ.ダサくて不便にしろ,と言っているのではない.その地方独自の文化や歴史を,一切忘れて,ガラスと鉄骨でつくる,ポスト・モダンの建造物が「おらが街の自慢」という感覚を嗤うのだ.

ぜひとも一度,「廃県置藩」を哲学してもらいたい.

「生産性向上」とはいうけれど

人口が減るから生産性向上なのか?

日本の人口の減り方は尋常ではない.人類史上はじめての経験,ともいわれてひさしい.一方で,歴史的な出来事の最中に生きているひとには,それが日常なので,変化に気づきにくい,といわれる.だからか,わが家のご近所さんとの雑談で,「人口減少」を言うと驚くひとがまだたくさんいる.その驚きかたに,こちらが驚いてしまうほどだ.はじまったばかり,だから仕方がないのかも知れないが,生活実感として,それほどでもないということなのか.

ところが,企業経営者は,まず「人手不足」という困り事から,「労働人口の減少」を実感している.かつての「花形」職種でさえも,欠員ができるほどだ.そこで,新聞をみれば,やっぱり記事も「労働人口の減少」を書きたてているし,政府も「対策」を急ぐらしい.しかし,対策といっても,政府が子どもを産むわけではないから,おのずと議論は二つの問題になる.一つは,政府は子どもを産まないかわりに外国人を連れてくる「移民受け入れ」であり,一つは,人間の数が少なくても多くの生産ができるようにする「生産性の向上」である.

「移民受け入れ」は,文化の問題以前に,「移民も年をとる」ということと,「移民も子を産む」ことが問題で,なかなかはなしがまとまらない.一方,生産性の向上は,政府が直接やってできることではないから,やれやれと民間の尻をたたくことぐらいしかない.そもそも,「生産性」をあれこれと,「生産性」の意識などまるでない政府から言われる筋合いではないのだが,財界は喜んでいるようだ.まったく不思議な光景である.経産省や厚労省官僚の残業時間を聞いてみたいものだ.もっとも,インプット(投入資源)に対するアウトプット(効果)という観点からすれば,これらの役所の存在自体が問題になるだろう.ただし,彼らの価値観では,「複数年次に,できれば永続的に,多額の予算を投入して,世の中の役に立たない事業」を提案できてこそ出世条件になるということも国民は理解しなければならないが.

「人手不足」という尻に火がついたから,「生産性の向上」が必要なのではなく,もともとはいつでも「生産性の向上」は必要なのだ.それは,企業には「極限の利益追求」という使命があるからだ.

「極限の利益追求」をしない日本企業

日本企業の行動原理は,「極限の利益追求」ではない.もちろん,決算発表にあたって,だれも「当社は極限の利益追求をしておりません」とは言わないし言えない.しかも,社内の予算策定で,役員のだれも「極限の利益追求はしなくてよい」とは言わないし,むしろ,「もっとよい数字にしろ」と指示するはずである.

では,どうして「極限の利益追求」をしないと言えるのか?

日本企業の経営者は社員である

経営者が「経営していない」ことは,二社の子会社が,不正を知りながら出荷していた問題で,三菱マテリアル本社の社長の発言,「承知していない」という事例や,これまでの神戸製鋼,日産,スバルの事例からもあきらかである.要は,「現場丸投げ」なのだ.

「現場こそ当社の命」という経営者で,現場に詳しいひとがどのくらいいるのかわからないが,「現場丸投げ」の裏返しかもしれないと疑っていいだろう.このことについて,アメリカの経済学者でノーベル賞も受賞したガルブレイスが,1968年の『新しい産業国家』で証明している.

大企業は,「テクノストラクチュア」といわれる社内の専門家たちに「簒奪され,支配される」とある.これは,組織をあげてヨコの繋がりをもつ「テクノストラクチュア」が,「自分たちの安全」を優先させて行動するという原理だと説明している.だから,彼らは「極限の利益追求」をしない.自分たちの安全とは,安楽でもある.会社には成長は必要だが,会社が存続できる程度の利益があればよい,という発想になるのだ.

ボトムアップ型の日本企業は,大なり小なり「テクノストラクチュア」に支配されている.

安楽な会社では「生産性の向上」はできない

「テクノストラクチュア」の考え方を変えさせなければ,「生産性の向上」はできない.90年代の日本が「絶頂」を迎えたときも,生産性ではG7国のブービー(ビリは英国)だった.その前後は,一貫して「ビリ」なのだ.つまり,わが国は,生産性という視点で見れば,万年ビリの二流国であり続けていた.これは,忙しそうに働く振りをする天才たちによる「一流の幻想」でもある.その天才たちこそ,「テクノストラクチュア」だ.

本物の経営者と本物の労働者が必要

本物の経営者とは,企業の将来像を示せるばかりでなく,「テクノストラクチュア」から実権を奪い返す気力と知力をもった人物である.また,本物の労働者とは,自分の労働の価値を知っている人物である.労働者は人身売買の対象ではない.労働力を売っている人物のことである.この感覚があって,はじめて「プロフェッショナル」への入口に立つことができるのだ.

銀行から排出される人材の再教育が肝心である

日本のメガバンクが,大規模な人員削減をおこなうと発表された.この人材をいかに有効利用できるのか?そのための再教育をどうするのか?経済界は政府に依存するのではなく,「プロフェッショナルへの改造」をみずからおこなうべきである.

「食べ放題」の貧困

ホテルや飲食店での「食べ放題」を,日本では,「バイキング」と呼んでいたが,近ごろでは,メニューから自由に選んで注文する方式も人気だ.

小田原北条家の滅亡にかかわる「食」のエピソードとして,北条氏政の「汁かけ話」がある.父の氏康との食事で,氏政がご飯に一度汁をかけたところ,少なかったのでもう一度かけなおした.これを見た,父氏康が「これで北条も終わりかと嘆いた」という.毎日食事をしていながら,成人になって汁の量もはかれぬ者に,領国や家臣,領民の生活経済を推し量ることはできないから,戦国武将家として維持できない,という意味である.氏政の名誉のために付け加えれば,後世の作り話であるそうだが,説得力のあるはなしである.

食品業界では,消費期限や賞味期限の表記に工夫をして,なんとか廃棄量を減少させたいと活動しているが,「食堂」業界では,食べ放題を推進している.もちろん,「持ち帰り禁止」とか,「食べきれる量」という注意もあるようだが,おおくは利用客の「モラル」に依存している.

「育ち」とか「お里」ということをあまり言わなくなってきた.「食事の躾」は,とくに大人になってから目立つようになって,場合によっては一生を左右することにもなりかねない重要事なのだが,「そのとき」では間に合わない.まさに,「育ちの悪さ」や「お里が知れる」瞬間である.これまでの「訓練」が,ついうっかりでてしまうからだ.

だから,重要事にはたいがい「お食事」がつきものである.わが国の最重要お食事会とは,宮中晩餐会であろう.だれでもがこのような席に招待されるものではないから,自分には関係ない,というむきもあろうが,下々とて,人生における重要事に「お食事」はつきものだ.「節句」もそのうちのひとつだろう.「お誕生日会」がこれに加わり,学校給食も日常事での「お食事会」である.けだし,「躾けの要素」がどこまであるのかはよくわからない.いまだに戦後の欠食児童や栄養不足が気になるのか,学校給食ででてくる話題は,「栄養」と「産地」それと,「未払い問題」ばかりである.

お嬢様学校の伝統として,「テーブルマナー」があり,その実地場所として高級ホテルが選ばれていた.講師はホテルの「ボーイ長」で,マナーだけでなくエチケットも教えていた.「花より団子」のお嬢様たちは,料理のおいしさに酔いしれるのだが,数年後の「お見合い」の場面で,効果を発揮できた.男性側は,たいてい背中に冷や汗をかいていたと思われるが,優雅に食事を召し上がるお嬢様にぞっこんさせるためのアドバンテージをあたえていたのかも知れない.いや,良家のお坊ちゃまであれば,付け焼き刃のマナーなど,簡単に見破ったにちがいない.

そんな男性も,社会に出れば接待という「お食事会」がつきまとうようになり,また,社内行事でも幹部との「お食事会」があった.外資系では,週末に上司の家へ呼ばれての「お食事会」は,いまだにふつうのことだ.ここで,かなりの確率で「育ち」と「お里」が評価される.

品のない女子高生グループが,とあるレストランで「食べ放題コース」を楽しんでいる光景を目撃したことがある.お下劣なマナーで,大量の食べ残しの山を築いていた.一口食べて「まずい」といって皿に投げつけた者もいた.ああ,この中から間違っても嫁にしたら,またたく間に貧困家庭になってしまうと思った.

パーキンソンの法則がマイナーなニッポン

パーキンソン病のことではない.欧米では「常識」になっているほど有名なのだが,なぜか日本では今ひとつ受けが悪い.

パーキンソンの法則とは

1958年にロンドン・エコノミスト誌上で,英国の政治学者シリル・ノースコート・パーキンソンが発表した論文にある.

「役人の数は仕事の量とは無関係に増え続ける」

この「役人」とは,もちろん国家・地方公務員のことであるが,民間企業にも適用できる.社内の事務屋の数は仕事の量と無関係に増え続ける,と読み替えれば簡単だし,社内の事務屋は(ムダな)仕事をつくりだす,と言ってもよい.役人がムダな仕事を忙しそうにやっているのは古今東西共通である.

パーキンソン氏は英国人だから,強烈なユーモアを飛ばしている.有閑マダムが朝食中に姪に手紙を書こうと思いつく.食事後,住所録が見当たらないので探し回るうちに昼食になる.昼食後,やっと手紙本文を書き始めるが,なんで手紙を書こうと思いついたのかを忘れてしまい,悪戦苦闘して書き上げたのは夕食前だった.ベッドに休むとき「ああ,なんて忙しい日だったことでしょう」とつぶやくのだ.有能なひとなら,ものの15分で終えることも,一日仕事になると書いている.この話で納得できない人向けに,第二次大戦後,海外領土がほとんどないのに「植民地省」の役人の数が最大版図だったときの二倍いることや,海軍省の話題で証明しているのだ.詳しくは本を手にして欲しい.

以上が,欧米で「常識」になっているから,入社したばかりの若者でも,自社があるいは自部署がパーキンソンの法則におかされていないかチェックしている.わたしは,外資系の社員になってから,同僚に教えてもらった.そして,ミーティングの場でもしばしば,上司との議論になるほどであった.上司が認めれば,その仕事は消滅するのだ.

自動車完成検査における「不正」とは?

徹頭徹尾パーキンソンの法則の通りに行動するのが役人である.その中の国土交通省(旧運輸省)が定めたのが今般話題の「偽検査員」問題だ.日産,スバルとも30年来しでかしていたと告白しているし,ほとんど罪の意識がなかった様子だ.「悪法も法なり」だから,もちろん褒められたことではないが,この問題で「事故」となった事例もなさそうだ.

喧嘩両成敗が武士の掟

両社はたいへんな損出を覚悟して,リコールに踏み切った.ならば,国土交通省も,制度の見直しあるいは廃止をしなければならないだろう.これを相変わらず上から目線でいるのはどうしたものか?選挙で大勝したばかりの与党の大臣こそ,ここで有権者側の発言をすべきなのに,役人にまるめこまれた低能さをさらけだして,巨大企業の社長が頭を下げる姿をみて自己の優越性にご満悦でいる.この両社の5百億円にのぼる損は,最終的に消費者が負担することになる,という経済原則もしらない.経済原則をしらないのは役人の常だから,これをもって役人にまるめこまれたと証明できるのだ.そもそも,30年間もこの状態を放置した監督官庁はなにをしていたのか?(なにもしなかった)ということを言いだす,専門の評論家もいない.

お役人様はどんなに悪いことをしても,あるいは見てみない振りをしてきても,だれからも罰せられない.容赦なく責め立てられるのは民間企業なのである.これでは,徳川身分社会そのものではないか.

そう,この国は身分社会なのである

幕末の志士たちの必読の書で,思想的影響力が計り知れなかったのは,水戸学のエース,会沢正志斉の『新論』である.このなかで,倒幕後の新政府も引き続き武士階級が支配すること,を前提としているのだ.もっといえば,武士階級以外の階級がこの国の支配階級に入ってはならないし,そんなことは考えられない,ということだ.だから,「下級武士」も活躍できた.全国諸侯がいっせいに藩政改革に取り組むときのベストセラーなのだ.これで,家格が高い上士たちも下級武士たちの活動をながめていられたのだ.

明治維新で不思議なことが起こるのは,水戸学の否定なのだ.いまも東大教授たちは,明治期になると水戸学は捨てられたといっている.なにしろ「四民平等」なのだと.本当だろうか?

明治の官僚制は,はじめ薩長両藩からの登用,そしてそれがだんだんと各藩に広がる.しかし,廃藩置県で圧倒的に役人の数が足りなくなる.しかも,単純事務ではなく高級官吏が足りないのだ.そこで,政府は大学を設置する.のちに,軍も陸軍大学校や海軍兵学校を設立し,文官は大学卒,武官は陸と海それぞれの卒業生を「幹部要員」とした.つまり,ここに身分の読みかえをしたのだ.これらの卒業生を「武士階級」とみなし,支配階級とした.これが,連綿といまに続いているのだ.これを隠したい人たちがいるらしい.

本物の支配階級を追放した戦後の混乱

華族制度だけでなく,皇族の臣籍降下によって,本物がいなくなった.これは静かな革命だったのではないか.皇族の臣籍降下は,法理ではなく大蔵省役人による予算削除だった.「削減」ではない.生活できなくなった「宮様たち」は,家土地を売却して退出した.これをまとめて購入した跡地が「宮様(プリンス)ホテル」になった.

だから,有閑マダムがいない国になった.一通の手紙に丸一日かけられるおばさまは,もういないだろう.いるのは,本物の役人と,役人根性をもった社内官僚たちである.

否・観光立国

観光で食えるか?といえば「否」である.もちろん,観光で食うひとはいる.しかし,国民経済が「観光収入」だけに頼ったら,おおくのひとがあぶれてしまうだろう.断言できる.観光が日本の基幹産業になることは,あり得ない.

生産性が低すぎる

最大かつ唯一の理由である.わが国の労働人口構成は,およそ以下のようになっている.

第一次産業:5%

第二次産業:25%

第三次産業:70%(うち,金融およびIT関連は10%)

この国の基幹産業である鉱工業は,世界トップクラスの生産性だが,労働人口比では1/4しかいないのだ.逆にいえば,わが国は1/4の労働者で支えられている.

生産性がとくに低いのは,「人的サービス業」である.飲食業,宿泊業が典型的である.しかし,これら産業の生産性の低さは世界共通なのだ.その中にあって,わが国のこれら産業はとくに低い.

昨年2016年の出生者数は100万人を切った

これは,19年後の新成人の数でもある.彼ら彼女らは,いったいどういう職業につくのだろうか?2015年の国勢調査では,わが国の労働力人口は6,075万人である.彼ら彼女らの時代は,今後の出生数を約100万人弱でキープしたとして,60年間をもって労働力としても,2015年の数には足らない.つまり,職業を今以上に選べるのだ.

賃金の上昇に適応できる産業しか残らない

つまり,生産性の高い業種に就職希望者が殺到することになる.それは企業への就職という形態だけでなく,貴重となる職人のうち,高く売れる分野も有望になる.つまり,熟練を要さない分野や知識集約的でない分野は,人材不足によって淘汰される可能性がでてくる.

親子で気づいているか?

まず,このような激変に学校が気づいていない.とくに公立学校は鈍感だろう.なにしろ,文部科学省という超鈍感な役所の命令を待つしかないから,世間とは別世界が続くはずだ.生徒の自殺問題やいじめ問題にまったく他人事の対応しかできない,地元の教育委員会という役所もおよそ無関心にちがいない.では,親が気づいているか?ここに将来の「格差の芽」がある.全入どころか,国立でも倒産する大学が続出すると予想されるから,ただの「大卒」では,せっかくのチャンスをのがすだろう.つまり,知識集約的な専門レベルなのか,一方で勉強が嫌い,あるいは不得意なら従来以上に職人になる魅力が増加する.すなわち二極化するようで実は「専門化」するから選択肢の幅が広くなる.そして,非熟練・非専門の職業は先の世代でなくなる可能性がある.こうしたことに,はやく気づけば,有利になるのは当然だ.すさまじいスピードで,日本社会は変化せざるをえないから,親子の戦略的会話が子どもの将来を決めるインセンティブになる.

事業継承ビジネスよりも事業売却ビジネスになる

相当数が淘汰されてからの「安定」は期待できない.2020年の東京オリンピックが終わってわずか5年後の2025年には,東京都の人口も減少に転じる予想だ.地方からの若者の転入で,人口を維持してきた巨大都市も,供給元の地方に若者がいなくなる.さらに5年後の2030年には,とうとう東京郊外でゴーストタウンが生まれる.いまから,たった13年後だ.最近,メガバンクが大縮小計画を発表した.理由を確認すれば,本音がわかる.日銀のマイナス金利で,銀行本業の収益性が落ちた.これに少子化で,将来の行員確保が困難だから,という.つまり,銀行では,知識集約的な専門レベルの人材でないと,不要,と宣言したのだ.なぜなら,これから,中小零細企業の廃業が激増するはずだ.これをまたぞろ政府はムリクリに事業継承をさせようとし,税まで優遇しようというお節介な介入をしたがっている.懲りない連中である.それよりも,「使える」技術や会社を売却した方がよい.ここに銀行はビジネスの目をつけたはずだ.このような転換は,全部の業種で発生する.

生産性の低い観光業のみなさんには,悲惨な結末になる前に,計画的な事業売却か廃業をおすすめする.若い従業員は,自分の職業能力高度化に投資しないと,中年以降に見捨てられる可能性がある.

社会人の再教育が沸騰する

だから,すでに社会人になってしまったひとの専門化が,社会の最重要課題になるはずだ.大学は,社会人の受け入れについて,最大の経営努力をしなければならないことに必然的に気がつくはずだ.高卒者だけを新入生としたら,成り立たないのが目に見えている.一方,企業も,どのような人材を求めているかを明確にしないと,求職者の募集ができなくなるだろう.

こうして,社会全体の生産性が高まり,高コスト負担に耐えられるようになってから,日本の観光業も息ができるようになる.高単価な収益のためには,高度な人材が必要であるからだ.つまり,低単価で大量に売ろうというビジネスモデルの終焉なのだ.

 

いまだ「おもてなし」

日本という市場で,間違いなく起きていて,これから数十年間つづく「人口減少」に,「おもてなし」だけで対応しようとする努力は,残念ながらムダな抵抗である.くわえて,政府が推進する「働き方改革」も何をか言わんや,余計なお世話である.

生産性が低いのは単価が低いからである

日本の生産性は,先進七カ国中のビリである.しかし,もっと深刻なのは,人的サービス業の生産性の低さである.これを「おもてなし」で解決しようとするのは,さらなる生産性の低下をまねく.働かせる側も働く側も,ここのところが飲み込めていない.「おもてなし」を強化することとは,すなわち労働強化である.あれもこれもと設定したサービスメニューをこなさなければならない.働かせる側は,このサービスメニューをどんどん増やそうとする.働く側は人数の増員も,訓練もなく,ただひたすらにこなさなければならない.ところが,サービスメニューは増えたが,単価が増えない.だから,提供損である.それでもやめさせないし,やめる気もない.これが競争だと信じているからだ.

生産性の算定式を知っているのか?

おおくの経営者にあらためて質問すると,おおくのひとの口が重くなる.「えっ,計算できるんですか?」と逆質問されたこともある.計算定義を知らずに議論しているのだ.生産性の計算のおおもとに,付加価値がある.「生産性」とは,「付加価値生産性」のことだ.「労働生産性」とも「労働者1人あたりの生産性」とか,いろいろないい方がある.これは,付加価値を労働者の人数で割ったものだからだ.だから,もっとも基本の数字は,「付加価値」である.その付加価値の計算方法は二通りある.「減算法」と「加算法」(日銀方式)だ.理屈のうえでは,どちらも同じ答えになる.

減算法:販売額-原材料-外注費-動力費-運賃-保険料,など

加算法:税引後純利益+支払利息+手形割引料+賃借料+人件費+租税公課

付加価値には人件費が含まれる

加算法ならストレートだが,減算法をよく見ても,人件費が付加価値に含まれるのがわかるだろう.こうして算出された「付加価値」を人数で割れば「生産性」が得られる.生産性は,金額で表示されるのだ.一方で,「付加価値」のなかでの人件費の割合を,「労働分配率」という.労働者への還元率ともいえるだろう.最近,これら「生産性」と「労働分配率」が混同して議論されていないか?とおもうことがある.

問題なのは「単価」である

日本の生産性の低さは,売上そのもに問題があるとおもっている.「売上」とは,単価×数量,のことである.すなわち,単価,が低いままなのだ.デフレだから,ということではない.すでに人手不足が問題になっているが,今後の少子化で,人手不足が改善される見通しはないし,むしろ悪化するはずである.すると,若者の労働単価が上昇するはずだし,採用維持すら困難な地方では地域の労働人口が減少しているから,必然的に人の単価上昇は免れない.いまは,低く抑えられても,この圧力に耐えられなくなるだろう.これは,政府が定める最低賃金の問題ではない.つまり,人件費における単価上昇に,販売での単価上昇をマッチさせなければならないのだ.

高単価商品には高度人材という原則

人的サービス業,なかでも飲食業や宿泊業といった「低生産性」の業種にも,以上の圧力はかかるから,対処方法を早急に検討しなければならないが,一部を除いてその動きは遅いようだ.都内の大手ホテルでは,パート・アルバイト,契約社員の正社員化がはじまった.つまり,従来のパート・アルバイトも正社員になるし,今後は正社員しか採用しない,ということだ.ロボットなどのIT,あるいはAI技術での店舗開発も今後はふつうになるだろう.すると,地方だからという理由だけで,これらの流れから逃れることはできないし,むしろ,近隣に労働者がいない地方こそ,積極的に取り組まなければならなくなる.

資本がない現実

疲弊した地方の宿泊業の大問題は,資本がない,ことだ.上記の対応策には資本が必要だが,それがない.つまり,資本主義の原則にもどって,資本調達をしなければならないということになる.すなわち,「ちゃんとした経営計画」が求められるているのだ.幸い,金融機関も安泰ではない現在,地元金融機関からの人材も含め,戦略的な採用をすることでの経営強化が,生き残りの必要条件になるだろう.そして,いかなる人的サービスと非人的サービスを組み合わせるかが,生き残りの十分条件として機能するのではないか?少なくても,従来のやり方での延長で,今後の人口減少社会を生き残ることはできないといえる.もはや「おもてなし」どころではないのである.

どちらが強欲か?

最近報道された,浅草仲見世商店街の家賃問題.歴史的な背景もあって,ちょっとした物議をかもしている.意外だったのは,10㎡あたり15,000円という現状の家賃である.これを近隣相場の25万円にしたいというのが家主である浅草寺の主張である.当然,商店街組合は「家賃高騰による廃業」と「浅草らしさがなくなる」といった理由で反対を表明している.この騒動の発端は,東京都が所有していた長屋建物を浅草寺に2,000万円ほどで売却したことだという.それにしても,都が破格で賃料提供していたのは,寺の土地を無償で借りていたからだ.この土地自体も,明治政府の寺社領没収にさかのぼるらしく,都が建物を建てた後に,土地は国から寺に返却されている,という事情もある.さらに,寺が建物を購入したのは,非課税だった土地の固定資産税の見直しがあったというから,これも都と台東区という役所の事情だ.

知りたいことがわからない

いったいいつからいまの家賃,15,000円になったのかがわからないし,なぜ都は家賃改定をしなかったのかもわからない.ただ,10㎡あたり15,000円というのは,周辺の「青空駐車場」としても格安であろう.また,そもそも寺が返還されて所有した土地の固定資産税が,なぜ非課税だったのかの事情もわからない.ちょっとした「行政の闇」がここにもある.

適正家賃

近隣の相場から算出した,という寺の主張はもっともである.しかし,その前に,収益性から算出したらどうなるか?が気になる.反対する商店街側は,収益性についての分析を公表すべきである.高額家賃になったら「廃業」というのは脅しになる.しかし,おそらく,商店街側の言い分にうそはないだろう.収益性が高いだろうとおもわれるお店は,失礼だがみあたらないからだ.それを「伝統」とか「浅草らしさ」といって保存の対象とするか否かは,別の議論になる.本来,適正家賃とは,収益性との合致がなければならないし,既得権益化を許すこともあってはならないからだ.

行政介入の可能性

都は,建物譲渡にあたって条件をつけている.参道の景観を維持せよ,というものだ.「景観」のなかに「店舗経営」が含まれるとはおもえないが,なんでも口実にして介入したがるのが行政である.小規模でかわいそうな商店主たちをいじめる悪辣な寺院,という構図にしたがる筋もあるだろうが,既得権益を守りたい商店側と,それを壊して新しい可能性を入れたいとする寺院側,と言い換えれば,どちらが強欲なのかが見えてくるだろう.もし,都や区などの行政が介入して,商店側を守るのであれば,寺院側はその穴埋め分を「補助金」として請求するだろう.すると,一種博物館化した商店街を,税金で支えることになってしまう.浅草寺エリアの年間観光客は述べ3,230万人という数字だ.一日で88,000人になる.その中心地における適正家賃として,どうすべきかを市民目線で考えないと,知らないうちに負担させられることになる.

やめられない文法教育

決済がダサイ日本

欧米や中国で,すでにあたりまえの仕組みが,店舗での支払における「電子決済」である.デビッドカードでもクレジットカードでもよいだけでなく,通貨が選べるようになっている.たとえば,日本発行のクレジットカードなら,現地通貨と日本円が選択できる.この端末が,屋台から田舎の八百屋まで普及している.現金では小さすぎる単位の金額(小銭がない)でも,電子決済ならなにも問題ないし,量り売りの商品でも,電子秤と連動しているから単価がちがう商品を複数購入しても計算に間違いもない.お店は,決済後におまけをくれたりする.そして,なによりも現金を両替所で交換しなくてすむし,帰国時には余った現地通貨をまた両替するか,それが面倒なら使い切るしかないので無駄になることもない.

これがあたりまえの国からやってくる観光客のシェアは高いと思うが,受け入れる日本側は意外や無頓着である.日本人一般が,現金決済をふつうだと認識しているからだろう.一方で,以上の便利な国に旅行した邦人は,日本は遅れていると認識しながら日常のなかに埋没していくのだろう.

外国語対応が優先される

外国人観光客が著しく増加して,接客サービス業では言語の問題がつきまとっている.そこで考案されるのはIT技術を駆使した,多言語対応サービスだ.スマートフォンに話しかければ,自動的に指定言語に翻訳してくれるアプリはたくさんあるし,音声で翻訳してくれるものもある.店舗側が用意する最新技術の言語対応が悪いと言いたいのではない.便利さの優先順位としての決済システムが,社会インフラになっていないことを強調したいのだ.

なぜなら,自分が外国を旅行して,言語において不便を感じても,観光旅行であれば犯罪被害を受けたのでなければそんなに深刻な問題ではないからだ.つまり,外国人観光客も,言語問題が優先順位で高いと認識しているかという疑問がある.

国語教育が問題だという説がある

わたしも他人のことをとやかくいうほどの語学力があるわけでない.今年,日本語を外国人に教える「日本語教師」としてベテランの先生にお目にかかった.その先生の,日本人が世界的に外国語習得を苦手にしている原因をおしえてもらった.それは,なんと小中学校で習う「国語」が,外国語習得の邪魔をしていて,英語教師がそれに気づいていない,とおっしゃった.「国語」で習う文法は,高校で習う「古語」の文法の基礎になるから,日本語教師は「国語文法」と呼び,「日本語文法」と区別しているというのだ.では,「日本語文法」とはなにかというと,外国語と比較できるように整理された文法だという.

とくに欧米の言語は文法が厳密である.だから,文法を習得してしまえば,あとは単語数を増やせばいいという.欧米の言語とかけはなれた日本語を母国語とするわたしたち日本人は,まず「日本語文法」を学ぶことで,英語をはじめとした欧米言語との文法上の構造のちがいを理解すべきで,それがわかれば比較的やさしく外国語理解ができるというお話しだった.いきなり英文法の教科書をみてもトンチンカンなのは,「国語文法」とのちがいがおおきすぎて,なにがなんだかわからず,暗記するしかないという「根気」だけが要求されてしまう.

日本語を習得する外国人は,日本語文法の教科書で自国語との構造のちがいを最初に教わるという.それは,すでに学校で習う自国語文法が,他の言語と比較できるように整理されているからで,数カ国語を平然とあやつるヨーロッパ人は,親類筋にある言語だからという理由もあるが,文法自体の教え方に秘密があると力説されていた.

書店に行くと,日本人のための日本語文法の教科書が少ないことに気がついた.これも,わかっちゃいるけどやめられない,ことなのか.