「、のようなもの」の建国記念の日

「建国記念の日」とは、国家にとって一番重要な日である。
近代国家なら、次が「憲法記念日」だ。

あんまり知られていないことに、わが国の「憲法」は、国会で認証されていないという秘密がある。

1946年(昭和21年)11月3日(明治天皇の誕生日:「明治節」でもある)に、日本国憲法は「公布」された。
これによって、「帝国議会」が「国会」となり、国会に「衆議院」と「参議院」が定められた。

それで、1947年(昭和22年)5月20日に、日本国憲法に基づいて第一回国会が招集され、現在の第204国会へと続いてきた。
これは、日本国憲法が帝国議会で制定はされたけど、その新憲法が新しく定めた今の国会での承認を、「されないまま」であることを意味する。

ただの「手続き論」ではないかというひともいるやもしれないけれど、民主主義とは「手続き」を重視する主義なのであるから、嘘みたいに重要なことが放置されている国になっているのだ。
つまりは、「、のようなもの」としての「憲法」と「国会」があるということだ。

言葉を整理すれば、「憲法、のようなもの」が、「国会、のようなもの」を定めて、そこが国権の最高機関とされている、ということになる。

絶対多数を誇る与党が、憲法議論を内輪でして、国会でしないままにしているけれど、聞こえてくる議論に、「国会での憲法の承認」がないのも、わが国自体が「、のようなもの」であるからだといえる。
つまりは、「国、のようなもの」ということだ。

日本国という、「実態」があるのはあるが、「実体」がない。

だから、全部がぜんぶ、「、のようなもの」になってしまうのは、国の根幹が「、のようなもの」だから当然だ。
「軍、のようなもの」が「自衛隊」だし、「議員内閣、のようなもの」も、高級役人が仕切っている。
そうしたら、とうとう「病気、のようなもの」が流行りだして、「自粛、のようなもの」で「強制」している。

「政治家、のようなもの」が、「決断、のようなもの」をして、地方の「知事、のようもの」が、「藩主」となって、国へ「要請、のようなもの」の「命令」をしたら、「緊急事態宣言、のようなもの」が発令された。

だからといって、生活のなにが変わるかといえば、「飲食店、のようなもの」だけ、営業時間を短縮させられ、時間外にも営業していようものなら、警察官が「営業許可証を見せろ」と、「嫌がらせ、のようなもの」を堅気の経営者にしている。

そうして権力行使に飽きてきたら、今度は「知事、のようなもの」が、勝手に「解除宣言、のようなもの」をいい出した。
「国、のようなもの」は、47もある都道府県に、いちいち対応できなくなって、「中央集権、のようなもの」が崩壊しだした。

平成21年(2009年)の雑誌『Voice』9月号の「特別寄稿」は、民主党代表(当時;記事直後の総選挙で首相になる)の「私の政治哲学」が、いま、そのまま「実現」しているのである。

この記事を読めば、鳩山氏がよく(受験)勉強されたのはわかるけど、およそ理系(東大計数工学科卒)とは思えない、思考の「飛躍」による「支離滅裂」に改めて愕然とする。

その「愕然」には、この記事の原稿をもとに、ニューヨークタイムズ紙が同年8月6日の電子版に「New Path for Japan」という見出しで英語翻訳掲載
し物議を醸した、ことも含まれる。

すなわち、いまのアメリカ民主党の支離滅裂の原因、のひとつにこの論文があるかもしれないとおもうのだ。

先週4日に、有名な(左派系)週刊誌、『Time』 に掲載された、「The secret history of shadow campaign that saved the election 2020.」という記事の、民主党擁護(「選挙不正は正義」だから許されるという主張)の「支離滅裂」に通じているからである。

鳩山由紀夫氏にとって政治家としての「師」は、吉田茂と岸信介の間にあって、どっちつかずのような「鳩」といわれたひとだけれど、祖父、鳩山一郎であるというのは自然だし、「ヨーロッパ統合の祖」クーデンホフ・カレルギー(日本名;栄次郎:母が日本人)への傾倒は、納得できるものである。

カレルギーの『汎ヨーロッパ』(1922年)の翻訳者は、鳩山一郎に相違ない。
なお、版元が鹿島出版会だけでなく、翻訳者に鹿島建設中興の祖、婿養子の鹿島守之助がいるのも、ゼネコンらしい思想背景とつながるから興味深い。

その後カレルギーは、『全体主義国家対人間』(1935年)もだして、ソ連とナチに激しい批判を展開した。
彼は、資本主義が深刻な社会不平等を生み出すことを憂いたまではいいが、その解決に、「博愛=友愛(鳩山は「友愛」をとる)」という「道徳」に解決方法を求めてしまった。

おなじオーストリア人にして、真性自由主義者のハイエクと、ここではっきり分岐する。
ハイエクは、「閉じた社会(道徳が通じる)」と「開かれた社会(自由競争)」とを「別物」と分けることで、別個のルールをもとにした冷徹なる批判と解決の方向論をすすめたし、ヨーロッパ統合に懐疑的で、むしろ全体主義化に警告を発していたのであった。

なお、友愛は「fraternity:フラタニティ:ラテン語で「兄弟」」という
意味になって、キリスト教をはじめとする各種慈善団体によく用いられることでしられる。

わが国の元は反社会主義「友愛会(1912年結成のやはりキリスト教の影響があった)」が徐々に社会主義に傾倒し、後の日本労働総同盟となって、1940年に産業報国会に吸収された経緯がある。

鳩山由紀夫氏の地元、北海道にも「友愛思想」は根強く普及している。

「閉じた社会」=「ローカルで伝統的な社会」だから、このことをあらかじめ承知なら問題ないけど、グローバルに通じるのだと勘違いしてはいけない。

言葉が共通でも、細かいところで「違う」のは、地域ごとに伝統もちがうからである。
それで、無理やり一緒にしようとするから、よかれが、「全体主義」に転じるのである。

わが国も、アメリカも、「建国」についてかんがえるときがやってきたのだ。

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