「ガリヴァー」の日本旅行記

誰でもしっているはずの「物語」でも、たいがいが「うろ覚え」だったり、そもそも有名すぎてはいるけれど、読んでいないのに読んだつもりになっていたり、あるいは、「絵本」や、子供向けの、「簡略本」で読んだのをもって読んだことにしているものがたくさんある。

たとえば、このブログではおなじみの、『ロビンソン・クルーソー』しかり、『ドン・キホーテ』、あるいは、『千夜一夜物語:(アラビア語は右から左に書いて)ألف ليلة و ليلة‎‎, Alf Laylah wa Laylah』も、その典型例だ。
アリフ:千、ライラ:夜、ワ:と(andの意)で、「千の夜と一夜」になる。

ちなみに、千夜一夜物語の別名、「アラビアン・ナイト」は、文字通り「アラビアの夜話」という意味だけれど、本文の設定は、ササン朝ペルシャの王様に毎夜物語する話になっている。
ペルシャの話で、アラブの話ではないのだ。
その語り部が、王妃シェヘラザードで、リムスキー=コルサコフが同名の交響組曲に仕立てている。

    

これらは、長大な物語という共通があるので、どうしても、端折って読んだことにしてしまうのである。

もちろん、長大ではない短編の物語でも、しっているつもりになることは十分に可能で、たとえば、トマス・モアのあまりにも有名な、『ユートピア』(1516年)を挙げることができる。
この物語の語り部は、「ヒスロデイ(くだらないことをしゃべる男の意)」であった。

「ユートピア」の本意は、「存在しない世界」、「どこにもない」、あるいは、「空想社会」だったのが、いつの間にかに、「理想社会」になってしまった。
この物語は、まったく悲惨な、支配者と被支配者の二分された社会を描いているから、じつは、「ディストピア」なのだ。

だから、ユートピアの逆がディストピアだとすれば、ディストピアこそが「理想社会」になるのだけれど、言葉の定義が初めから歪んでいるので、歪んだままのいい方がふつうになってしまった。
これもおそらく、『ユートピア』を読まないで、勝手に解釈したひとたちが多数だったために起きた、テキトーを起源にしているとおもわれる。

それはあたかも、ハイエクの、『隷従への道』(日経BPクラッシックス版:2016年)にある、ブルース・コールドウェル教授の序文にも、英国の著名な批評家が、「読まずにこの本を非難した記事を書いた」とあるごとくだ。

ところで、『ガリヴァー旅行記』(1726年)の主人公、ガリヴァー船長の名前である、「ガリヴァー」とは、「愚者の意」であると、岩波文庫版を翻訳した平井正穂氏が、「解説」で書いている。
だから、この「風刺作品」は、ヨーロッパ人伝統の、「道化」を用いた狂言回しとなっていて、それはもう、上述の『ユートピア』や『ドン・キホーテ』(1605年)のそれとおなじなのである。

そんなわけで、この長大な物語の「第三編」(「第四編」まである)は、「ラピュータ。バルニバービ、ラグナグ、グラブダブドリップおよび日本への渡航記」となっていて、英国へ帰る最後の第11章といってもわずか5ページが、唯一現実世界である「日本」のことを書いている。

この点、『ロビンソン・クルーソー』は、阿片貿易で大儲けしたクルーソーが、黄金の国と聞いた日本を目指す旅を試みるも、台風によって阻まれて結局断念するのとちがって、ガリヴァー船長はほんとうに日本に立ち寄るのである。

しかしその前の、第9章からはじまる、ラグナグでの話が興味深い。
ここで彼は、拘禁されるが、国籍を質問されて、「オランダ」と嘘をつく。
目指す日本が、オランダ人しか相手にしないことをしっているガリヴァーは、ラグナグにおいても、自分の国籍情報(英国人)が日本に漏れを畏れたのである。

そして、このラグナグ国には、「不死人間」(「ストラルドプラグ」という)がいた。

物語はここで、「死のある一生」と、「死の無い生涯」の哲学に展開する。
作者のスウィフトは、英国国教会の主任司祭という高い地位にいたひとである。
しかし彼の生きた時代は、クロムウェルの清教徒革命の後(国教派の衰退)の時代でもあったし、アン女王の後のジョージ一世は、ドイツ語しか話せない君主であった。

つまるところ、「生きる」ことが面倒な時代であった。
日本では、八代将軍吉宗の時代がはじまる少し前にあたる。

そうして、ガリヴァー船長は、日本の南東部、「ザモスキの港」に到着する。
狭い海峡の先北西部に首都「エド」がある、と書いているから。房総半島の「内房」か?
そして、江戸で皇帝に謁見し、「ナンガサク(長崎」)行きを所望しながら、「踏み絵」の免除も申し出る。

さり気に、オランダ語ができたのはライデンで研究したことがあると、「経歴」を述べている。
もしやヨーロッパ最古の日本研究機関、「ライデン大学日本学科」か?とおもったが、創設は1855年だから146年もの「誤差」がある。

長崎の「出島」がオランダとの貿易専門になったのは、1639年だったから、ガリヴァーの「来港」は。70年後という計算になる。
あんがいと、その様子は、アイルランドに住んでいたスウィフトでも知りえたということなのだ。

しらないのは、日本人の方であった。

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