「スパイ防止法」の困難

事実上の「退陣」を決めて、とたんにレームダック化した現政権は、この際「コロナ対策に集中したい」という表向きの意向を愚直に実施して、感染症予防法の「2類から5類への格下げ」という、医師会からしたら「自爆テロ」をやって終わりにしてもらいたい。
横浜市長選挙での「指導力のなさ」は、政界引退につながるほどの破壊力だから、最後の「すかしっぺ」という意味である。

それに、「ハマのドン」は、秋の衆議院議員選挙における、「前」首相の「落選」を明言して容赦ない。

人間という動物は、もっとも脆弱な状態で生まれてくると知られている。
特に、乳幼児期の無防備は、他の動物にはない「自分で歩けない」のだから仕方ない。
それで、ずっと「母親」に依存して育つ、ということが行われてきた。

乳が出るから、だけが理由ではなく、父親は食料確保に専念しないと一家が飢え死んでしまうからである。
こうした分業が、子育ての男女分けにもなって、小児期から男の子は父親について将来の生活の訓練を受けていた。
もちろん、「寿命」が短かったので、「成人」の時期も早かった。

『赤とんぼ』の歌詞にある、「ねえやは十五で嫁に行き」でも晩婚だったかもしれない。
初潮があれば、もう嫁に行けた。
人生が、50年もなかった時代の話が前提になっている。

それで、「人生100年」時代の今と直接比較するおっちょこちょいがいる。
逆に、脳科学の世界では、脳の成熟期は「25歳」だということがわかってきた。
これは、「25歳はお肌の曲がり角」とも合致する。
「大脳皮質」という「皮膚」も、25年で曲がり角を迎えるのである。

「脳死」が制度化されたのに、「脳成人」が話題にならず、18歳を成人とする逆行が行われている。
いまの時代を眺めれば、25歳で成人とするのが合理的ではないのか。
ならば、「被選挙権」は、もっとずっと遅くていい。
社会を知っているひとを選びたい。

さて、人間の成長は、生物的な脆弱さからの母親依存という「先天性」がありながら、そこから生活社会を通じた、「後天的」な教育(社会常識とはその社会が個々人を「洗脳」すること)に左右されるようになっている。
「個人」を貫く、社会的伝統と因習がある地域と、「集団」を貫く社会的伝統と因習がある地域が、文化性から文明までも違えることになるのは当然だ。

しかし、同時に、「組織依存」という「本能」が、人間にはある。
自己が属する組織に従う、という行動様式なくしては、太古からの生存競争に生き残ることができなかった。
ところが、この組織には2種類がある。

一つが、「フォーマル組織」で、様々な組織がつくる「組織図」がこれを表現する。
もう一つが、「インフォーマル組織」だ。
組織内の「派」とか、「同窓」「同期」とか、「仲良しグループ」などがこれにあたる。
実際に、組織を動かしているのは、あんがいと「インフォーマル組織」だったりする。

これは、企業内ばかりか官僚組織も、町内会・自治会だっておなじだ。

ところで、「スパイ防止法」を制定する必要性はよくいわれているのに、どうしてできないのか?
わが国が「一等国」だった時代には、「治安維持法」とか、「軍法」とかがあって、特別高等警察とか、憲兵が取り締まりをしていた。
これが、戦後、全部廃止されたから、スパイ天国になったといわれている。

では、スパイとは何か?を問えば、利益相反する組織の一方「だけ」が持つ情報を、相手方に伝える(ふつう「盗み」とか、「漏洩」という)行為のことを指す。
ところが、インフォーマル組織では、フォーマル組織の情報を交換することによって、実際の組織を動かしているのだから、この意味では「スパイ」なのだ。

民間でも、役人の世界でも「出向」はある。
役人なら、初級職にはほぼないけれど、中級職や上級職ともなると他省庁への「出向」はよくあることだし、民間企業との「交換人事」だってある。
これを、「民間との人材交流」とかいったりして、民間人も中級職や上級職に就くことがある。

民間から役所への出向の場合には、「守秘義務契約」が課せられるけど、その逆はあまりない。
それで、他省庁に出向しようが民間に出向しようが、最初に採用された省庁のフォーマル組織に忠実な態度をとるために、まずは臆面もなく「スパイ」して、出向先の情報を漏らすのである。
もちろん、受け入れ先もこれを承知しているから、小さな情報戦が行われている。

しかし、厄介なのはインフォーマル組織への漏洩なのである。
それでも、フォーマルであろうがインフォーマルであろうが、その組織の上司やらが「外国」とつながっていたら、たちまちに本物のスパイ行為になるのだ。

わが国の立法は、とっくに「内閣提出=行政府起案」が主であるので、役人が自分のクビを締めるような法案を書くはずがない。
これが、「スパイ防止法の困難」の最初にして最大の関門になっている。
けれども、「どこまで」をスパイ行為とするかの「定義」をつけて、しかも、取り締まり機関を制定しないと、実質的意味がない。

それは、民間企業内でもいえることなのである。

総裁選の候補者で、威勢のよい発言をするひとが、「保守層」から歓迎されているけれど、恐るべき「強権」を国家に与えることにもなる。
世界を見渡せば、スパイに寛容な処置を許す法体系の国なんてないのだ。

政府が社会に「悪」を作りだして、それを国民の感情のうち「憎悪」の対象に仕立て上げるという手法は、全体主義の常套手段なのである。

この議論に限らず、目的に合致した、「法」を「きちんと」制定してもらいたいものだ。

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