「敬老」をかんがえる

重陽の節句とのかさなりもあって,敬老の日が9月であるのは,農閑期でもあるからだという.
わが国は,農業国であった.
五節句のなかでも重陽はなぜか地味である.
1月7日,3月3日,5月5日,7月7日、そして9月9日.

暦について以前書いたが,なぜか「観光」にもあまり利用されていないのが重陽である.
この時期,菊人形ぐらいで,優雅に菊酒をたしなむことをしたことがない不思議がある.
ただし,旧暦の9月9日は,ことし10月17日になる.

戦後,敬老を記念日とする運動は兵庫県に起きた.このときの「敬老」の対象は「55歳以上」だった.
当時の寿命にちかく,企業の定年も55歳で,いまでも自衛官は55歳で定年する.
もっとも,戦争で若年から壮年がおおく亡くなったから「寿命」といっても自然死だけではない.

欧米で軍が就職先として人気なのには,定年が早いから,という理由も重要だという.
つまり,はやく現役からはなれて,余生が自由になるという魅力がつよいのだから,やはり「勤労観」も「人生観」もちがう.
自衛官でこんな理由をおもいつくひとがどのくらいいるのか?

どのくらいいるのか?という点でいえば,55歳から「敬老」にされたことをいまの50代で意識しているひとはどのくらいいるのか?と問えば,まずいないはずだ.
現役最後の仕上げ時期,でもあるだろうが,年金支給開始年齢がズルズル延びて,これに連動して「雇用延長」もズルズル延びているから,年収が激減しても会社にいつまでもいられるようになってしまった.

この年金支給開始年齢の延長は,まるで計画停電のような政府の脅しで,必要もない停電を故意に実行して国民に不便を強いるかのごとく,年金会計が破綻すると脅して払うべきものを払わないもっともらしい理由にしている.

もらう側も,家系における数代前からの支給をわすれて,自分の分をよこせという「権利」を主張するが,掛け金という政府の詐欺で,自分のご先祖が先にもらった分の返済をしただけであることが忘却の彼方となっている.

しかし,忘れたふりをすれば,自分の分がもらえると信じるから,選挙では「社会保障の充実」を要求してはばからない.
つまり,自分の家系収支以上のものをよこせと要求している,おそろしく強欲な老人の姿が出現してしまった.

これらの老人のおおくが,昭和10年生まれからなるナチスドイツに真似た国民学校世代を先頭に,その後は戦後教育世代となるから,いかに「教育」が国家の重要事であるかがわかるというものだ.
つまり,年金制度よりもはるかに早い段階で,教育の破綻があった.
それは,いま学校に通う子どもたちではなく,いま生きている祖父母の世代からの教育の破綻を意味する.

「教え諭す」という方法の利点は,均一化した人材の育成にある.
これは,大量生産大量消費という時代の要請でもあったから,「工員」育成プログラムとしては優れている.
このなかから抜きん出たものが,エリートとして指導層に仲間入りするシステムだった.

ところが,どうやって抜きん出たものを選ぶのか?となったとき,考えついたのが「データ化」であって,それが「偏差値」の利用だった.
ここまでは,学校教育という場でのことだが,企業では別途人材教育が実施されていて,かつ,人材を発掘する仕組みもあった.

それで発掘されるひとと,企業内文化だけに染まるひとに分化させて,発掘されたひとが指導層に仲間入りできた.
残念なことに,企業体力の低下から,かつてのような企業内教育ができなくなって,それが結果的にさらなる企業体力の低下をまねいてしまった.

こうして,意図せざるも未必の故意のごとく,あとから気づけば企業に有利な「社畜」が大量生産された.
「社畜」は,応用力に根本的に欠けるから他社では役に立たない.
それで,転職しようにも需要がないことに気づき,自らの汎用的な可能性を放棄するのである.

こうして,いま,日本の老人は,かつての「社畜」が齢を重ねている.
雇用延長で,おなじ仕事をしているのに,年収を半減させることが企業にできるのは,「社畜」の存在あってである.

だから,若者は汎用的な技能をみにつける努力をしなければならないと,気づくだろう.

こうして,「敬老」というのは反面教師としての意味を重くするだろう.

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