「核廃絶」という国家神道

いつまで続けるのかしらないが、今年もまた「原爆の日」がやってきた。

広島型は、通称「リトル・ボーイ」といわれた、ウラン型のもので、積載量は、「ウラン235」を140ポンド(約63.5kg)だったけれど、そのうち、1.38%(約876.3g)が核分裂反応を起こしたと推定されていて、高性能火薬として換算されるTNTで16kt(誤差±2kt:キロトン) という威力だった。

広島から3日後の9日、長崎に落とされたのは、通称「ファットマン」で、いわゆる「マンハッタン計画」によるものがこちらにあたる。
さらに、ウラン235ではなく「プルトニウム239」を用いており、TNT換算で21ktである。

広島型に比べ「出力」は大きいが、山谷が複雑な長崎の地形が「被害を少なく」した、という説がある。

「ファットマン」は、結局120発が生産されているが、「リトル・ボーイ」はほかに製造しないで「廃絶」された。
この理由は、「安全性」にあって、もし海洋に投下されたら、海域ごと
「汚染」されるからである、と。

リトル・ボーイより安全だというけれど、ファットマンのプルトニウムの「半減期」は、24,000年もあるから、とんでもないことにちがいはない。

そんなわけで、わが国は、アメリカ民主党政権から、「猿」扱いされて、非戦闘員を虐殺されるという目にあった。
これは、いわゆる「戦争」ではなくて、「戦争犯罪」なのである。

オバマ氏がノーベル平和賞を受賞したのも、2016年5月27日に安倍総理と広島を訪問した初のアメリカ大統領だっただけでなく、「核廃絶を訴えた功績」とされている。

しかしながら、このひとは、このときの「歴史的演説」の翌週に、アメリカの保有する核を大幅増強する大統領令に署名している御仁なのだ。
まことに、アメリカ民主党の「過去の過ち」を訂正する気なぞ微塵もない、「口だけ男」なのである。

けれども、そんな人物を褒め称えるのが日本のマスコミと政界で、しらぬ者はいないだろう広島平和記念公園にある「広島平和都市記念碑(俗にいう「原爆死没者慰霊碑」)」には、日本語の難解さを表す謎の文言が刻まれている。

「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」

これを、英文にしたものをオバマ氏は読んだのだろうか?
読んでいたら、どんな「解釈」なのか?の前に、どんな英文になっていたかをしりたい。

もちろん、どうして「原爆投下記念公園」とか、「爆心地記念公園」ではなくて、「平和記念」なのか?という問題も、日本語の難解さを表しているし、「碑」の名前にも「平和都市記念」という難解さがあるから、「俗称」がまかり通っているのだろう。

すると、俗称の素直さが、「正式」になく、さらに公園の名称にもないので、なんだか、例の全体主義の常套手段たる「ニュー・スピーク」がふつうに適用されている「格好の事例」になっている。

人類不滅の金字塔小説『1984年』における、ジョージ・オーウェルによる「ニュー・スピークの用法説明」に、たとえば、「戦争とは平和である」がある。
また、政府のプロパガンダ機関を「真理省」という事例もある。

もちろん、「碑文」の後段、「過ちは繰返しませぬから」の主語についての解釈が、「ニュー・スピーク」になっているから、本当の解釈をすべき、「実行犯」たるアメリカ民主党の代表者だった、オバマ大統領の感想を聞きたい、ということをいいたいのである。

端的にいえば、「一言も謝罪をしなかった」からである。
むしろ、オバマ氏が「過ちは繰返しませぬから」と、広島で演説したからニュースになった。
まさに、「ニュー・スピーク」だ。

そのときの主語はだれなのか?
彼は「文明社会」といったのである。

お門違いも甚だしい。

さて、オバマ氏が詐欺師なのは以上からもわかっている。
彼のような人物を育てているのが、アメリカ民主党だ。
問題は、彼がこの演説のなかでいった「科学の進歩による厄災」なのである。

人類は狩猟のために生みだした「武器」を、人間にも使ったと演説のなかで「歴史」を述べた。
アメリカが原子爆弾を生みだしたのも、すでに人類の「歴史」になってしまった。

つまり、「作り方」が「拡散」して、現代文明の一部になっているのが「歴史事実」なのである。
ゆえに、いまさらみんなで核を棄てようとしても、ひとりでも隠し持つ事に成功したら、人類はその所持者(国)に跪くことになる。

だから、良いも悪いもなく、ただ事実として「核はなくならない」のだ。

しかしそんな事実をみないことにして、「核廃絶」を訴えて、これを「信じる」ならば、それはもう「宗教」なのである。

なぜならば、信じることが「良いこと」だからである。
それゆえに、信じない者は「悪い」になって糾弾されるばかりか、「悪魔」として認識されてしまうのである。

それがいま、イランだったり北だったりしている。
これらの国が、「核」を教祖か聖像として崇めるのも、「明・暗」の片方にすぎない。

わが国はいつだって、「明」の方を信じているから、「暗」を嫌ってこれを正義とする。
これぞ、「新しい国家神道」なのである。

その「神殿」が、広島と長崎の「平和公園」なのであり、「神官」が自治体の長なのだった。
外国によくある「戦争記念」とはけっしていわないのは、「言霊」を信じるからである。

これを、「政教分離」の立場から、だれも「憲法違反」だという者もいないのは、十分に「新しい国家神道」が普及しているからである。

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