「米・ロ同盟」時代の到来

大晦日である。

「盆も正月も帰ってくるな」、という前代未聞の年が暮れる。
1980年(昭和55年)の松村和子のデビュー曲にして大ヒット曲、『帰ってこいよ』が、40年のときを経て完全に、「過去」となった。

くわえて、国民を「総乞食」化させる、「ふるさと納税」が、こんどは地元を疲弊させるから、何が何だかわからなくなった。
ほんらいあるべき「善政競争」ではなくて、たんなる「返礼品競争」にさせている。

何が起きてもおかしくないのは、ルソーがいう「アトム化」が、とうとうわが国でも起きたからである。
これは、わが国も「欧米になった」うえでの、究極の「左傾化=共産化」だ。

血でつながる親子すら、「個体」として分断することに成功した。

欧米ではないのに欧米になったのは、舶来品に憧れるのとはちがう。
むしろ、明治人が参加した『パリ万博』における、出品の精巧さに、欧米人が日本に憧れた。その証拠、明治の「超絶技巧」は、京都の『清水三年坂美術館』などで楽しめる。

つまり、わが国が「欧米化」ではなく、「欧米になった」のは、わが国「本来」を完全に失ったという意味なので、これはいま欧米で起きている社会矛盾の露呈より、ずっとずっと深刻なのである。

あろうことか、こんな「社会的破壊」を強力にかつ一心不乱に推進しているのが、日本政府(都道府県の地方政府を含む)でありマスコミ(=プロパガンダ機関)だから、その正体がとうとうむき出しになった。

暴力的な政府の権力をいかに押さえつけるか?

これが、欧米における近代への「道程」として必須のテーマであった。
それを、彼らは自ら「自由・民主主義」として政府から勝ち取ったものを、ファッションのごとく真似たわが国の、メッキどころか総体がドロリと溶けだしたのだ。

こうして、わが国における「コロナの政治利用」とは、政府の政府たる暴力装置としての蓋を開けることになった。
新年も、引き続き、国民をいじめまくる日本政府が、いっそう牙をむきだして国民を傷つけることだろう。

そのために、コロナ禍を収束させることはしないし、はじめからその気もない。
これは犬を棒やムチで叩いて征圧するのと、おなじ手法なのである。
われわれは、徳川政権よりも理不尽な政府のもとに生きている。

個人レベルでの大変革があるならば、国家レベルでも起きる。

かつての宿敵が、同盟を結ぶ。
こんなことはあり得るのか?
もちろん、おおいに「あり得る」のは、なにも大昔の歴史をたどらなくとも、日米同盟がその証左である。

米ソ冷戦が「冷戦」だったのは、アメリカ軍とソ連軍の直接対決が「なかった」からである。
いま、歴史は巡って、アメリカ合衆国とロシアが、同盟を結ぶ機が熟してきている。

それは、「対中包囲網」が理由である。

世界はとっくに認識を変化させて、国家の支配組織と国民を区別するようになった。
民主主義が機能しないで、国民を支配したら、その責任は国民ではなく支配者たちになる、という理屈である。

「国民=国家」の崩壊がはじまったのだ。
政府は政府のために存在し、国民のために存在してはいない。
だから、「国民≠国家」これは、上述の通りである。

アメリカ大統領選挙は、すでに、共和党か民主党かの闘いを通り越して、「自由の闘い」になっている。
つまり、「国民=国家」を維持するか放棄するかの闘いになっている。
トランプ氏が維持、バイデン氏が放棄の側にある。

ぜんぜん報道されないけど、わが国で、トランプ支持を訴えるデモ行進が行われて(東京・大阪・名古屋)いるのは、国民国家を維持することの「価値」が、政府によって壊される不安からなのだ。
それが、ホワイトハウスへの「請願運動」にもなっている。

そんなわけで、今年のアメリカ大統領選挙は、今後の歴史にかならず出てくる事態に発展しているから、われわれは、歴史の証人としてこれを見ているのである。
人生でめったにない、大転換のプロセスを毎日みている。

ただし、残念ながら、わが国報道機関が報じないばかりか、日本政府も無視を決め込んで、国会も無反応になっている。
これも、ひとつの「歴史」になっているのだ。

いまさらに、マキャベリを出すこともないけれど、欧米人の頭の中にあるかんがえ方だから、まんざらムダではない。
ここに、非常時と平時のちがいが書かれている。
「非常時に、平時のルールは通用せず、むしろ、平時のルールに拘泥したら、それは敗北につながる」と。

かんたんにいえば、無人島に漂流して、無謀なやつに水や食料を奪われたのを、奪い返さずに裁判で訴えてやる、と叫んでも、餓死してしまったらおしまい、ということだ。

つまり、人類世界は、あたらしい「サバイバル時代」に突入したのである。

「合従連衡」が活発化して、それが、世界秩序の「地殻変動」をもたらすのである。

「自由・民主主義」の「国民=国家」か、それとも、「全体主義」の「国民≠国家」かのせめぎ合いと、それぞれからの「封じ込め」が、変動のエネルギーなのである。

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