「経済人」と「政治人」はいない?

「経済人」としての伝統的な存在は、『ロビンソン・クルーソー』だから、経済学徒の必須として、原著か原著の翻訳をしっかり読めといわれてきた。
それで、下に示した岩波文庫を開いてみたらわかるけど、ぶ厚くて文字がびっしり埋まっているので、「少年少女文学」だと舐めてかかったら撃沈する。

 

無人島に漂着したロビンソン・クルーソーが、「貸借対照表」をもってして自らの生活行動の「損得勘定」をする場面が、「経済人」だというのである。
しかし、彼が無人島から脱出してからの阿片貿易や日本を目指すなどの行動が、当時の英国人がかんがえた「経済人」ではなかったのか?

つまり、ここでいう「経済人」とは、つねに「合理的な行動をするひと」のことだ、と定義するのを前提としている概念をさすけど、そんな人間は現実に存在するのか?と問えば、「いない」ことは明らかだ。

ひとは、単に経済価値だけを追求して生きてはいない。
むしろ、そんなひとが身近にいたら、友人としてもお断り、になるだろう。

このことは、「経済学批判」の最初にある問題提起なのである。

なぜならば、現代の経済学は、その対象に「経済人」を前提としている学問だからである。
なので、「そのブレ具合」が、経済学での議論になっている。

あたかも、近代経済学は、数学を駆使したポール・サミュエルソン(1970年第2回ノーベル経済学賞受賞)を代表として、「数理モデル」を追及してきたので、「理系」的な学問になったから、大学の受験において「数学」をどうするのか?が問題になった。

わが国の大学では、経済学部は「文系(人文科学)」として扱われることで、数学を不得意とする学生には、専門性が高まるほど歯が立たないことになるのだ。
これは、マルクスの『資本論』を読むことが「経済学だった」時期があるからだけれども、「人間学」の要素がないと、経済活動の把握にはならない。

この意味で、経済学は「人文学」であって、「科学(サイエンス)」でもあって、マルクスはどちらでもない。

7月29日付け、JBPress電子版の、『「統治崩壊」でも勝つ不思議、なぜ日本人は自民党に票を入れ続けるのか?』(白井聡)には、日経ビジネス2021年12月27日号『マーケティング視点の政治学-なぜ自民党は勝ち続けるのか』での調査結果を引用しつつ、次のように記されている。

「この結果は、私を含む政治学者たちの常識を粉々に打ち砕くものです。(中略)「有権者は合理的な判断により投票するものである」という(中略)政治学者が想定する常識的な前提は、現実と大きく乖離していることが明らかになりました。」

「早い話が、日本の多くの有権者は各政党がどんな政策を掲げているのかロクに見ていない、ということをこの調査は明らかにしました。」

「ただなんとなく自民党に入れている」

この記事の「驚き」は、二つあって、一つが政治学者たる著者が告白した、「常識が粉砕された」という点と、「いまさら感」のことだ。

元来、「政治学」なる学問は存在するのか?という批判があった。
なぜならば、ほとんど「データ」を掲げて議論しないからで、この点で経済学とちがって「科学(サイエンス)」とはいえないし、ならば「人文学」としても曖昧模糊としている、という批判だったのだ。

早い話が「評論」か「与太話」だと。

引用元の記事を観てはいないけれど、「マーケティング視点」を、「アメリカの大学で教鞭をとる堀内勇作氏らのチームが『コンジョイント分析』という手法を用いて実施した実験的調査」と紹介しているので、アメリカでは政治のマーケティング視点はふつうにあるのだろう。

それは、政党への「寄付金」を集めるための道具にもなるだろうし、「選挙」の勝敗が「資金額」で決まるともいわれていることからもうかがえる。
実際に、民主党は大富豪からの大金を集めるのが得意で、共和党は小口(10ドルほどから)の寄付が断然目立つのである。

つまり、民主党と共和党の二大政党は、明らかに支持基盤がことなっているから、それぞれのマーケティング戦略が自陣営の票確保と他陣営からの奪取に大きな影響があると想像するのは容易である。

しかしながら、わが国の場合は、まったくちがう「(得票)マーケット」が形成されているので、わが国の「政治学者」として、「驚いた」こと自体に、わたしのような素人が驚くのである。

そして、すぐさま「なにをいまさら」と思ってしまう。

もちろん、これには「マスメディア」も多大なる影響を与えていて、とっくに「情報操作」をしていることでの「部数」や「視聴率」を落したことで、相対的に「政府広報予算」が、あたかも公共事業に依存した、かつての土建業のようになって、スポンサーたる政府の政権批判をしない、ということの問題があることは無視できない。

すると、政治学者が政治「学だけ」をやって、マスコミの世論操作に無頓着でいられたことの告白こそ、政治人としての「たこつぼ(学者世界での政治)」状態を想起させるから、この部分(たこつぼの中)だけの「政治人」はいるのだとわかるのである。

なるほど、それで政治の専門家は、「政治家の世界:略して政界」をしきりに分析するけど、それがどう国民の幸福につながるかを無視するのは、経済学に似て非なるものになっているのだ。
少なくとも、経済学は「国民所得の増減」は議論するからである。

はたしてこれが、日本国内の特殊事情で問題ないのは、アメリカの場合は、厳しい調査結果が容赦なく発表される「マーケティング」があるからで、これをしらない政治学者たちのおかげで、政治家は国民を無視できるのだと、日本国民の方がしっていればよいことだからである。

旧態依然とした「内閣改造」がいまだに行われていても、その浮ついた感が顕著なのは、遅ればせながら日本にもやってきた、政界のマーケティング視線がそうさせている。

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