「総合雑誌」という分野

「出版文化」の衰退が著しい、と言われ続けて半世紀。
『文藝春秋』や『中央公論』それに『世界』といったものが、正統派として現存していて、「オピニオン誌」という傍流がいくつか残っている。

高校生のときから「愛読」していたのは、『文藝春秋』で、大学生になったら、『諸君!』と『世界』、『正論』、『VOICE』が加わって読み比べたものだった。
たまに、『論座』とか『前衛』なんてものも目にしたけれど、納得できる論文は皆無であった。

社会人になったら、自社の広告が必ず出ているので、やっぱり『文藝春秋』は定期購読していたし、『諸君!』も定期契約をしていたけれど、20年ほどまえに、「論調が変わった」ことに気がついて、まずは『諸君!』の購読をやめた。

それから、『WILL』とかに「切りかえた」のだが、やっぱり違和感があって購読をやめた。
そして、ついに2009年の6月号を最後に、『諸君!』が「休刊」になったとニュースになったけど、さもありなん、と特に感慨はなかった。

記憶がはっきりしないけど、同じような時期に、高校以来の『文藝春秋』も定期購読をやめて、しばらくは電車内の中吊り「広告」次第で単発購入をしていたけれど、これも「続かず」とうとう一切読まなくなった。

これにはいろいろ理由が考えられる。
しかしながら、第一には「読み応え」ということが薄くなったからだと思う。
「往年の執筆陣」が、物故するなりしてしまったのだ。

福田恆存とか、小林秀雄とか、あるいは江藤 淳とかといった「豪華」な面々が繰り出す「評論」には、大概感心したものだった。
いわゆる、「保守論壇」というものが、存在していた。

また、識者100人インタビューとかの「特集」も、忘れられないものがあった。
『文藝春秋』なのに、日本を代表する識者の「人生を変えた記事」では、『中央公論』の「文明の生態史観」(梅棹忠夫)が圧倒的支持で、すでに「アマゾン」で検索する時代になっていたけど、単行本になった「初版」は1円で購入できた。

これが、わたしと梅棹先生の「出会い」となった。

しかし彼らがいなくなってから、なんだか「薄く」て深掘りが足らないのである。
その意味で、読者が離れていった、というのは、「活字離れ」という理由ではない。

むしろ、活字に飢えているのに、提供される「論文」がつまらないのである。
この欲求不満が、ネット社会という「たまたま」によって「解消される」ということでの、「ネトウヨ」になったと思われる。

不思議なのは、「ネトウヨ」はあっても「ネトサヨ」とは言わない。
これは、基本に左翼思想が鎮座ましましているからだろう。
つまり、浮いているのは「右派」ばかりなり、ということになったのである。

これを、「軸のぶれ」というのは簡単だけど、どうして「ぶれたのか?」といえば、「売文」をもって商売としているから、多数に流れるのは、需要と供給の大原則からすれば,当然の帰結となる。

なにも他人の批判ではなくて、だれだって自分の考えに近いものを「読みたがる」し、「見たがる」のは、なんだか犬に似た習性なのだ。
なので、「読みたがる」満足が満たされなければ、購入しない、という行動になる。

あるいは、なんでもいいから「話題性豊富」な「論文」を読んでみたい。

ところが不思議なのは、ならば「市場」に追従しているはずなのに「部数」が伸びずに「廃刊」に追い込まれるのは何故なのか?
誌面での「論争」も緩くなって、緊張感すらなくなったからなのか?
それとも、執筆陣の顔ぶれが狭まって、マンネリ化したためか?

そんななか、「久しぶりのヒット」に、財務省の矢野康治事務次官が寄稿した論文がある。
8日発売の『文芸春秋』11月号に掲載された。

お題は、「財務次官、モノ申す『このままでは国家財政は破綻する』」で、10ページにもわたって日本の「危機的な財政」状況を解説してくれている。

なんだか、「懐かしさ」を感じるのはわたしだけか?
こうやって、過去、さまざまな「増税」がされてきて、めったに「減税」はなかったものだ。

たとえば、「消費税」だって、「税率」ばかりが議論になるけど、「免税点」が引き下げられるという「増税」は、だれも議論しない。
「省令改正」という奥の手で、3%の時代から「大増税」されている。
これを、「益税」という「不公平の解消」と、役人は説明していた。

さて、「危機的な財政」というのは、どんなことなのか?
わが国の、「政府の会計」は、種類がいっぱいあって、まず「どの会計」のことを言っているのかが「不明」だから、「不毛の議論」になる。

それに、中央も地方も、基本的に「単式簿記」なので、「会計」毎に「やり繰り」するようになっているのである。
つまりは、「家計簿」とか、子供の「お小遣い帳」とおなじで、年初に「入金」してから、あとは「つかった分」を引き算するだけだ。

それでもって、年度末に「残高をゼロ」にするように「調整」するのが、各役所の「会計課長」の「腕」なのである。
年度末に、道路工事が盛んになったり、出張が増えるのはこのためだ。

しかも、「国会に報告義務」がある「会計」とは、「一般会計」だけで、あとはわからない。
だから、「予算」も「決算」も、それ以外の「会計」でどうなっているのか?実は、全部を把握している者は「いない」という状態なのだ。

会計検査院が、とっくに追及をあきらめている。
このことが、すでに「財政破綻」なのである。

過去に破たんした企業でいえば、「簿外資産」が「不良化」していることに突如気づいて、倒産するようなものだから、ほんとうは、「財務省」も「わかりません」といえばよかった。
でも、そんなことは死んでもいえない。

もちろん、財政を圧迫する「元凶」の、公的年金とかは、「完全なるネズミ講」状態で、「積立金」とか「掛け金」とか、あるいは「賦課方式」なる、それらしい「用語」でごまかしている。
今集めたおカネは、今の支給につかわれているにすぎない。

しかも、もっともムダな「環境対策」に、年間20兆円もドブに捨てているのを「決してやめない」ばかりか増やすというのだ。

そんなわけで、やっぱり「読むに値しない」けど、「増税準備」の政治的「仕掛け」なのだ、と読める「一篇」であった。
財務省とかの経済官僚と、血筋が濃い、隠れ共産主義者「岸田家」ならではともいえる。

なんだか、「昭和の黒い霧」のままなのだ。
それならいっそ、共産党親派だった松本清張でも読んだがいい。

めでたしめでたし。

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