「部活」がない国

どちらが教育的なのか?
少なくとも、「二択」にしないで、「中庸」はないものか?ともおもう。
日本の常識が、世界の非常識なことがあっても、それはすぐさま卑下することなのか微妙なことだってある。

中学校にあがれば、何部に入部するのか?が真っ先にやってくる選択肢だ。
運動部と文化部があるけれど、むかしは総じて運動部に人気があった。
それでまた、個人競技か団体競技かに選択が分かれるものだ。
はるかむかし、父から団体競技を勧められて、バスケットボール部に入部した。

高校に上がれば、またおなじような選択肢がやってきて、こんどは「帰宅部」というやる気のない選択も加わる。
ただし、情報がある生徒には、中学や高校自体の選択に、「部活」が優先されることがあって、やりたい部にいきたいために学校を選択するという順もある。

こうした、「看板」が「部活」にあると、その競技なりの専門性と伝統とで、「名門」といういい方をされるようになるから、学校を運営する「おとなの事情」と絡み合って、無視できない「学校ブランド」となる。
いわば、全国大会の常連かつ、常勝ということがこれを裏付けるのだ。

すると、学校生活における配分が、「部活中心」となるのは否めない。
したがって、学業とのバランスをどうするのか?という問題になる。
しかし、本人も、また保護者(むかしは「父兄」といった)も、期待しているのは「部活」での実績となることがあるので、「二兎を追う者は一兎をも得ず」の原則としての割り切りも必要となる。

課外授業とはいえなくなるのは、こんなところに日本人の「真面目さ」がでるのである。
そして、これが、「教諭」たちの過労問題として話題になっている。

つまり、「教育問題」という範疇に、「労務問題」が含まれるということで、じつに「戦後」らしい問題が、ずいぶんな時間差でやってきたようにもみえる。

ここで、重要な指摘をしたいのは、「常勝の部活」には、かならず「優秀な指導者」が存在することである。

では、優秀な指導者の「優秀さ」とはなにか?
「指導者」とは、リーダーのことだ。
けれども、中学・高校の「部活」では、唯一の「おとな」を指す。
年長の学年にだって、生徒のなかに「リーダー」は生まれるのだ。

わたしは、完成されたおとな、だと定義したい。
前に、高校生のマーチングバンドの話を書いた。
チーム内に、すばらしいリーダーが生まれて、生徒たちを引っぱる。
これを、「おとな」の指導者が、遠目でちゃんとみているのである。

「中高一貫校」にだって、メリットとデメリットはあるだろう。
6年間をおなじメンバー構成の中で生活しないといけない。
ふつうなら、3年ごとに「卒業」して、あたらしいメンバー構成のなかでの生活になる。

生徒は全員が「10代」なので、1年の学年のちがいは人生の1割に近似するから、学年差が「絶対支配」となる傾向があるのは当然である。
すると、高校3年生から中学1年生を眺めれば、まったくの子どもにみえるだろうし、その逆は、汎用的な言葉遣いすら通じないかもしれない。

だから、「完成されたおとな」の「絶対」は、生徒から学年をとっぱらって水平化したうえでの「絶対」となる。
これは、明治(1868年)から昭和の敗戦(1945年)までの77年間、わが国に君臨した、「天皇」とおなじ構造なのだ。

当時だって、「現人神(あらひとがみ)」という「虚構」を、しらないひとはいない。
子どもだって、人間だというくらいはしっていた。

これをしっていながら、天皇を「現人神」をもって批判するのは、日本人ではないのだけれども、日本人ではない日本人が、GHQにおもねって、「おかしい制度」だと大声をあげても、支配者のGHQはこれを叱ることはなかった。

内心は、いかに下劣かとおもっても、一切顔に出さないのが支配者というものだ。

アメリカに、キリスト教の信仰があるように、日本にも天皇への信仰(これを「日本教」という)がなければならない。
しかし、戦後最大の侮蔑的政策が、「天皇の人間宣言」だった。
かくも、日本人を虫けら同然としたのは、種類の違う原爆を二発も投じた、アメリカ民主党政権である。

「札幌学派」を主宰する安濃豊氏は、ナチスが禁止されて何故アメリカ民主党が禁止されないのか?と、きわめて当然な主張をされている。

さて、英国の学校での課外授業に、ミリタリースカウトがあると書いた
ならば、「部活」はどうか?
なんと、日本的専門分野に特化する「部活」は存在しない。

若いうちは「広く浅く」。
なんでも経験することを優先させるから、「専門特化」はありえない。

「グランドツアー」の伝統でもあるのだろう。
貴族の子弟がローマへの物見遊山旅行した習慣が、大卒就職者たちの入社を数年間猶予する国柄だ。

わが国で、専門特化してはばからず、より先鋭化するのは、もしや、「天皇信仰」を失った反動なのやもしれぬ。
そうでもしないと、精神的にも肉体的にも安定しない。

すると、日本教の復活が、学校教師の過労を救うのである。
そして、日本教を理解していた年齢層が財界人だった頃の絶頂が、どうしてここまで衰退したかの理由も判明する。

なるほど。
天皇、おそるべし。

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