「量子もつれ」の大光明

七草もすぎて、正月気分からの転換のために「賀詞」を書いておく。
「量子もつれの実験」が、2022年のノーベル物理学賞だった。

これを、NHKが「特殊な現象」といったから、どうにもならない。
もちろん、わたしはNHKだけでなくテレビを観ないので、「NHKがいった」というのは、ネット検索ででてくる「記事」をみたことによる。

とうとうこの公共放送局は、科学の解説すらテキトーになって、有料でみている視聴者を誤魔化している。
まことに、害悪しか社会に流さないので、もはや「反社」だといえる。

むかしは、原子が最小だったのだけど、それから原子核が陽子と中性子とでできていて、その周りを電子がクルクル回転していると習うまでになった。
だから、原子が最小ではなくなって、素粒子が最小に変わった。

ちなみに、素粒子にはまだ「仮説上」のものもある。

その素粒子のひとつである電子が、やっぱり素粒子(陽子や中性子などは「クオーク」という素粒子)からできている原子核の周りをグルグル回転しているかと思いきや、じつは「電子雲」という状態にあって、電子がどこに存在しているかの場所の特定は、「確率」になった。

なお、「原子」の大きさは、原子核を野球のボールとすれば、電子雲の大きさに換算すると、野球場を呑み込むほどもあって、この間にある空間にはなにもないという「スカスカ」なのである。

有名な二重スリットの実験で、まずは光が波動だとわかった。
粒子として、スリットを超えた側に筋となって届く(あとはクッキリ影になる)こともあるが、光源を動かすと影が縞模様になることもある。

つまり、スリットの裏に光が回り込んできて、波のような干渉をつくるから、粒のようで波のようだから波動であるとされた。
これでニュートン力学の限界となって、ニュートン破りをやったアインシュタインすらも量子の不思議な振る舞いには否定的だった。

この「不思議」が納得できないので、とある仮説を唱えたら、それが破られる実験結果がでたので、今回のノーベル物理学賞に至ったのである。

物理学が二系統になったのは、目に見える物質世界を対象にする、「古典力学」と、目に見えない極小世界を対象にする、「量子力学」になったからなのである。
その意味で、アインシュタインは、両者の橋渡しという驚くほど重要な役割を果たした。

量子力学がおかしなことになるのは、人間が電子という素粒子の位置を目で見て確認したら、その瞬間に素粒子が態度を変えるという現象がじっさいに起きるからである。

目に見えるとは、人間の網膜に光が入ってこれを神経細胞が捉えて脳に伝える、という手順がぜったいに必要なので、量子(この場合は電子)がもつエネルギーが変化するからだという。

ふつうの生活感からしたら不思議だけど、量子はかならずこうした態度をとるから、NHKの説明のようにぜんぜん「特殊なこと」ではない。
むしろ、これが極小世界では「ふつう」に起きている。

それでもって、「量子もつれ」とは、電子やら光子といった素粒子が、ある条件のスリットを通過したときに、二つに分かれて、これがそれぞれ逆方向に回転(スピン)しているのだけれど、一つの回転方向を観察すると、その瞬間に、もう片方の回転方向がその逆に決まるという現象を確認した実験がノーベル物理学賞になったのだ。

アインシュタインは、観察する前から決まっている、として有名な、「神はサイコロを振らない」といっていたのが、上に書いた仮説のことである。
しかし、観察するまでは決まっておらず、観察した瞬間に決まることが確認された。

このときの「その瞬間」が、光の速度よりも速いこともわかった。

だからなんなんだ?
となるけど、これは重大な発見で、最小単位の素粒子の振る舞いが、目に見える世界に影響するのは当然だからである。

つまり、古典力学の方に重大な影響が及ぶこと確実なのである。

それでどうした?

もちろんこの振る舞いを応用すれば、量子コンピュータやらの開発原理になって、いまとはケタがいくつも違う別世界の扉が開くことになる。
その最先端が、量子テレポーテーションの実用化で、実験室ではすでに実現している。

それゆえに、話は宇宙に飛ぶ。
じっさいに、宇宙での観測(見える世界)と理論の不一致が深刻で、見える世界が全体の5%ほどでしかないことはわかっている。

この空白を埋めるのが、目に見えないから名づけられた「ダーク・マター(暗黒物質)」と「ダーク・エネルギー(暗黒エネルギー)」だ。

2020年のノーベル物理学賞は、ロジャー・ペンローズを含む3名で、「天の川銀河中心のブラックホール」だった。
しかして、ペンローズ氏は「量子脳」についての提唱者でもあって、昨今のA.I.についても、量子論が入っていないことで否定的なのである。

 

この点で、数学者の新井紀子氏のベストセラー『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』の主張と合致する。

つまるところ、目に見えない世界の究極にある、人間の心、あるいは意識とは、量子の振る舞いであるという説だ。

これは、日本人のはるか祖先たちがかんがえていた、「たま・しい」とよく似ている。
「たま」とは、「御霊(みたま)」のことで、永遠不滅の意識のことをいい、「しい」とは、「肉体」のことで、こちらは着衣のように着替えるものという。

なので、死とはこれまでの「しい」を捨てて、新規の「しい」をみつけてはそこに入り込むという観念になった。

ちなみに、「勾玉(まがたま)」は、「たま」のかたちを表しているという。
翡翠(ひすい)の勾玉を、古代に、どうやって製作したのか?じつは不明だ。
翡翠の硬度は6.5~7度もあって、加工が極めて困難なため「オーパーツ」扱いされている。

これが、仏教の輪廻転生と結びついたのである。

なお、皇位が男系男子とされたのも、「玉(タマ)」がついている男性が発出する精液こそ、「みたま」の発露であるとかんがえた古代人には、それが母体で「しい」になることからだとの説がある。

さいきん、東大の研究で、宇宙の果てにある「壁」に、量子もつれによる一方のスピンが、全宇宙の物質に関しての情報を自動的に書き込んでいると発表された。
なので、わたしたちの「しい」も、「たま」としての記憶もぜんぶ記録されていると。

これは、死者もおなじなので、量子を応用すると「生き返る」ことになる。
物質としての肉体も、精神も性格も生存時の記憶も、再生できるというのだ。

「意識」が生命体であるとしたのは、あの『2001年宇宙の旅』シリーズでのアーサー・クラークの発想だ。
シリーズ最終作は、『3001年終局への旅』である。
全シリーズを読破してこそ、第一巻が理解できる。

問題は、人間の「意識」なのである。

見える世界しか見ないという態度こそ、唾棄すべき「大衆」なのである。
つまり、いま大衆である自分に発破をかけて、見えない世界も見る努力をするか、しないかが、「たま」となったときに大きくちがう。

これを、仏教が「悟り」といって、この世に生きている間に自身の心を磨くための「修行」を一般人にも要求したのに似ている。
すると、清浄なる心をもって現実世界を生きないと、宇宙に邪悪な精神が刻まれることにもなる。

まさに、道徳社会の実現こそが、大衆である個々人の「救済」をも意味するのだ。

これを、西部邁は『大衆への反逆』といった。

しかして、この救済は、「大光明」である。
宗教的な概念が、物理学によって証明されるのだ。

よって、人類が初めて地上に、道徳的かつ倫理に基づく社会を築く最大のインセンティブとなる。
すると、これこそが、アイン・ランドがいった、「未来のシステム」としての「資本主義」がようやく成立する条件となる。

人としてあるべき道を説く宗教を含めた倫理思想に、だんだんと物理学が接近していて、それが欧米発の思想ではなく、古代の日本人の思想と似てきている。
この分野こそ、日本人が世界をリードできるのは、道徳と倫理のエバンジェリストたる人類唯一の民族だからであるとかんがえる。

よきかな、よきかな。

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