『風と共に去りぬ』の再評価

二度と作れない映画というものもある。

それは、出演者だけの組合せではない。
スポンサーである出資者はもとより、プロデューサーから監督、スタッフもふくめて、全員の一致が「その瞬間」に集約される、その場限りの「プロジェクト」だからである。

この意味で、映画作りとは、「刹那的」である。
けれども、予算も人員も期限(納期)もあるのが、「プロジェクト」だから、PM(プロジェクト・マネジャー)という職種だって、もう珍しくない。

むしろ、PMが仕切る「仕事」が、企業内の「花形」職種になっている。
「ルーチン」業務だけでは仕事にならない(=儲からない)ことになったからである。

とっくのとうに斜陽産業になった映画界と、その映画界を斜陽産業にした、テレビ業界も、とうとう斜陽産業になってきた。
どちらの共通は、「絶頂」における「あぐらをかく」という顛末があって、安易な「量産」が致命傷になっている。

「他山の石」というべき「反省」も、「自己分析」もできなかったのはなぜか?は、映画産業を衰退させたテレビ業界人に問われるものとなっている。

しかし昨今の、さまざまな政治的「妨害」があきらかになると、製作現場をこえた、「社会思想」という枠組みまでもが、映画やテレビの作品を作る原動力なのだということが、素人にも理解できるようになった。

ある特定の思想をもった作品「しか」つくられないのは、その特定の思想をもったスポンサーをはじめとしたひとたちの、「意向」を無視できないからである。
これで、すっかり視聴者が置いてきぼりを食っている。

けれども、そういった作品しか供給されなければ、視聴者はやがてその秘められた思想に共感するようにされられて、いわゆる、「洗脳」が完成する。
だから、視聴者は、ダラーっとした娯楽として、もはや映画やテレビを楽しむこともできない息苦しさがある。

さてそれで例をあげれば、栄光の「日英同盟」が、どうして「鬼畜米英」になったのか?
それからつぎに敗戦したら、「日米同盟」になって久しい。

しかし、よくよくかんがえると、学校の授業で、英国の歴史を通史として習わないし、米国の歴史も断片的なままである。
わが国の教育を、厳しく規制しているはずの文部科学省にあって、いかなる「教育方針」を「同盟」にあてているのか?

たとえば、エリザベス二世陛下(本名は、エリザベス・アレクサンドラ・メアリー・ウィンザー)の「ウィンザー朝」(1917年)に焦点をあてれば、たったの「4代」で、わが天皇家(126代)と比べようがない「浅さ」がばれてしまうし、苗字がある。

アメリカの建国が1776年7月4日の「独立宣言」をもってしたとすれば、ウィンザー朝の短い歴史は、アメリカよりもあたらしいことはいうまでもない。

現存する世界最古の「王朝」を、日本政府がいいたくないのは、革命政府としては当然だけど、日本国民としては別である。
政府と国民が分離してきたことを「分断」というのだとしたら、21世紀の潮流はこれだ。

だから、革命政府の文部科学省は、同盟国アメリカの内戦、「南北戦争」の意義を奴隷解放「だけ」にしたい。
それで、工業が進んだ北部が勝って、奴隷農業の南部が負けたのは、工業の勝利だけでなく、ヒューマニズムの勝利としたいのだ。

これが、「殖産興業」の国是と合致し、戦後の「農地解放」と合致した。

何度も書くが、「北部(ヤンキー)」とは、いまとなっては「民主党配下」の州をさす。
つまり、わが国の「農地解放」をやったのは、GHQ=アメリカ「北部」民主党なのであった。

わが国の歴史を無視しても、「農地解放」が正義だったのは、北部の勝利者の論法を押し付けただけである。
そうやって、国民を縛る「民法」もひっくり返した。
政府を規制する憲法よりも、国民生活を規定する民法の大変更こそが「革命」だったのだ。

わたしは「農地解放」を否定しているのではないので誤解なきよう。
ただ、もっと時間をかけるべきだった、といいたいのである。
わが国の戦後、「先祖代々の土地」という、農民のウソがまかり通った。
これをいうのは、まず自作農ではないし、旧地主でもない。

ウソを正義とするのは、革命だ。
それで、可哀想な農民、が逆差別の対象になって繁栄したかにみえたけど、結局無理の永遠はなく、とうとう農業が没落した。

アメリカ人への理解がすすんだ昨年の大統領選挙で、ようやく「南部気質」がみえてきた。
壊滅的な「敗戦」を経験した南部人こそ、わが国の壊滅的被害と、戦争目的に理解をしめすであろう。

しかし、あろうことか、反日思想の現・日本政府は、これをゆるさず、北部の民主党を歓迎するのだ。

あらためて、『風と共に去りぬ』を観れば、そのことがよくわかる。

北部で働いたことのある、レット・バトラーがいうセリフ(南部への憐愍と圧倒的不利での自身の志願)には、本来の資本主義の精神があって、悲惨にあってのスカーレット・オハラ(アイルランド人の象徴)の叫びとは、中世の詐欺・掠奪を是とする決心なのである。

「タラ」とは、野口悠紀雄氏のいうとおり、そのむかしケルト族がアイルランドを支配した時代の聖地「タラの丘」への望郷から名付けた土地をいう。
そのアイルランドは、19世紀ヨーロッパに広がったジャガイモの病気伝播によって、大飢饉となった。

これが、近世の貧困のアイルランドからのアメリカ移民を生んだのだ。
ケネディーやディズニーの祖先たちも、こうして移民してきたのだ。
この映画の登場人物名に注意されたい。

ラストのレットとスカーレットの別れ、とは、スカーレットの資本主義の精神への目覚め、としてみたら、かんがえすぎか?
単なる夫婦の破綻劇とはおもえない。
ただなんとなく、シェークスピアの『じゃじゃ馬ならし』がちらつくのである。

 

それにしても、南北戦争(シビル・ウォー)とは、はたして「奴隷解放」だけが目的だったのか?
その驚くほどの「複雑さ」は、あんがいと、白黒に分けたがる日本人には理解困難なのである。

トランプ氏と民主党の「死闘」によって、最近、南北戦争のよき解説書があいついで出版されているのは、結構なことではある。
ただし、名著の誉れがたかい『Battle Cry of Freedom』の翻訳がないのは残念だ。

  

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