『2034 米中戦争』を読む前に

世界的ベストセラーになって話題の、『2034 米中戦争』(エリオット・アッカーマン、ジェイムズ・スタヴリディス、二見文庫)は、なんと言っても著者のひとり、ジェイムズ・スタヴリディス氏が、元「NATO最高司令官」(アメリカ海軍「提督」から初)だったことからの、「リアル」が売り、になっている。それに、現場目線の「リアル」は、元海兵隊特殊部隊で活躍した、エリオット・アッカーマン氏の執筆部分にちがいない。

ウクライナで緊張が高まる中、「NATOは米軍の下請け」と言ったプーチン大統領の今年最後の記者会見での指摘は、読書家の氏ゆえに、この小説を「当てつけ」にしたのだろう。
なお、氏は、日本が誇る『源氏物語』を酷評したことでも知られる。

「軍人」が書いた書物で、古典中の古典は、ガイウス・ユリウス・カエサル(シーザー)の『ガリア戦記』だろう。
彼が「現代作家」なら(ありえないけど)、その文章は「ノーベル文学賞」間違いなし、といわれるほどの名文である。

作家として古代のひとでよかったのは、もしも彼がこの作品で受賞してしまったら、翌年度からの選考結果が、「該当者なし」の連続となって、賞自体が1回で終わってしまうかもしれないからである。

 

そして、ヨーロッパの戦争は、とうとうカール・フォン クラウゼヴィッツによって、『戦争論』に至る。
この「大著」には、「公式ガイドブック」と評価されている、世界的権威マイケル・ハワードの解説本がある。

これを翻訳した、奥山真司氏は「地政学者」ということになっている。
わが国において地政学の普及に貢献したのは、『悪の論理』(日本工業新聞社、1977年)でベストセラー作家にもなった、亜細亜大学の倉前盛通教授であった。

「当時」は、米ソ冷戦の真っ只中であったから、読者は「ソ連の北海道侵攻」をイメージして読んでいた。
この本が出版された「翌年」の1978年に、中国で「改革・開放」がはじまったのである。

もちろん、さまざまな「学者」や「評論家」が、ソ連侵攻の「恐怖」を唱えていた時代であった。
その対象が自滅して消滅してから、人類は「新しい恐怖の対象」を求めて、コロナや地球環境を「創りだした」のである。

さて、当のソ連における1977年とは、「ブレジネフ憲法」が制定された年である。
この「憲法」は、建国から3度目のもので、いまでは「夢見る憲法」とも揶揄されている。

ちなみに、その前(2度目)のは、「スターリン憲法」と個人名で呼ばれているから、ブレジネフもこれを踏襲したのである。

なお、本稿の主旨から外れるけれど、「スターリン憲法」こそが、「日本国憲法」の下敷きだということは、条文を並べて読むとよくわかる。
ご興味のある向きは、是非お調べになって、その「コピー」の正確さに驚くだろうし、GHQの担当者が1週間で書いたという逸話の意味が、より理解できるであろう。

「夢見る憲法」とは、社会の現実を無視したことにある。
つまり、共産党の本質である「権威主義」の発露であった。
そこにあるのは、「ダブル・スタンダード(二重思考)」なのである。

それゆえに、現実の対策と理想がごちゃ混ぜになる、という当たり前の帰結がやってくる。
小学生でもわかるような間違いを、おとなたちが「まじめ」にやるから、社会が混乱してコントロール不能になるのである。

すると、まさに「革命」の準備をするのと同意となるので、なんとブレジネフは、革命後のソ連で革命の下準備をするという、驚くほどのトンチンカンをやった、ということだ。
しかも、ソ連は「憲法に忠実な近代官僚国家」であったともいえる。

これを、世人は「ブレジネフ時代の停滞」と呼んでいた。
対していまのわが国は、「憲法に不忠実な中世的官僚国家」に退化してしまった。

ソ連の「それから」を知っているいま、1991年にソ連国家は崩壊して、数日前の25日は「30年」というニュースになったのである。
ブレジネフ憲法から、たったの14年後のことだから、あのときの小学生はちゃんと「成人」していたのである。

さてそれで、今度は中国が相手になっている。

先ず、相手を知るためには、歴史をおさらいすることが基本だから、『中国の歴史』を読まないといけない。
たくさんあるけど、わたしは陳舜臣の作品が好きだ。
おそるべき「ワンパターン」が、何度も出てくる「退屈」は、一種の「デジャブ体験」を得ることができるのである。

いまの中国は、トップの個人崇拝という「デジャブ」をやろうとしていて、体制内の権力闘争がかなり激しくなってきていることが見てとれる。
なんといっても、党「機関紙」とか、軍「機関紙」で、双方の派のとんがった主張が繰り広げられているからである。

グローバリズムを基板に置く共産主義にあって、資本主義的グローバリズムを説いて成功した改革開放支持者に、毛沢東主義というナショナリズムを説く現在の指導者が、「決着がつく」まで文字どおりの「死闘」を繰り広げること確実な情勢になっている。

どちらも、負けたら肉体的にも一掃されることを承知しているから、ぜんぜん「論争」などという甘い物ではない。

しかし、一方で「世界」にも、「夢見る憲法」らしき、「SDGs」とか「脱炭素」とかいうダブル・スタンダードが蔓延している。
すなわち、あろうことか「ダブル・スタンダード」同士の戦いという様相をあらわすのが、「米ソ冷戦」とはちがった「新しさ」なのである。

中国側の事情に戻れば、改革開放側と指導者側における台湾をめぐる立場の違いは、おそらく「飲み込み方」にあるはずだ。

経済的利益を優先する改革開放側は、とっくに台湾を手中におさめていると認識しているはずで、軍事侵攻という経済リスクは「損」だから嫌うだろう。
しかし、自国経済力を落してでも「思想」という夢を優先させるなら、「現実」に軍事侵攻をして、思想の威力を見せつける必要が経済的損失をはるかに上回る価値なのである。

この闘争の谷間に、もっと気の毒なわが国がある。
「台湾有事が日本の有事」ではなくて、もうとっくに「有事」なのである。
戦闘がはじまってから戦争というのでは、遅すぎる。
外交が既に戦闘なのだ。

話し合いで決着しないから戦争になるのではなくて、話し合いという戦闘で負けたから、いよいよ軍を動かして戦争をするのである。
ただし、「口実」をつくるために、話し合いで負けることもある。
戦争は、一部のひとたちに莫大な利益をもたらすからだ。

それを、「誰だ?」と想像しながら「読む」ということが、どうやらこの小説の「読み方」なのではないか?と、作者の提督は教えてくれているような気がしてならない。

蛇足だが、本書の「解説」は、「朝日新聞」のひとが書いている。
これを、「まとも」とすれば、朝日新聞はいまの編集方針を変える「だけ」で読者を増やせるものを、あえて「しない」のは、ブレジネフや中国の現指導者と「同じ穴のムジナ」だからだろう。

「夢見る新聞」を読むひとはいないし、読む価値もない。
ならば、「紙ゴミ製造会社」という、反社的環境破壊をやっていることも自覚できないで、他人に地球環境の持続性を云々と押しつけるから、もっと読む価値がないのであった。

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