【2021年頭】道徳と倫理を問う年に

謹賀新年

今年は、いつになく「道徳」と「倫理」を問う年にしたい。

じつは、「倫理」と「道徳」にはちがいがある。
「倫」には、「人の道」という意味があるから、道徳の「道」でつながる。
それで、ちがいがあることをうっかり忘れてしまう。

「道徳:moral(モラル)」は、善悪をわきまえるために、守るべき規範のこと。
「倫理:ethics(エシックス)」は、生きていく上で、人として守るべき道のこと。

だから、道徳は広く社会的であるから、義務教育のなかで教えられていた。
ほんとうは、子ども相手だから「修身」の方が正しいとおもうけど。
一方、高等学校では、「倫理社会」がある。
「倫理」は、道徳に対して外向きで、特定組織内とかが対象になる。

つまり、道徳は個人の「内的な自発性」を重視するのに対して、倫理は「客観性」を重視するのである。
よって、「交通道徳」とはいっても、「企業道徳」とはいわず、「企業倫理」というのである。

また、「倫理」は、守らないと「罪」に問われるのは、客観性があるからだ。その典型が、「政治倫理」である。
だから、いわゆる「ブラック企業」も、「企業倫理」が問われて、一歩まちがうと社会的制裁を受けることになる。

道徳は、人間内面のモラルだから、ここには「善」と「悪」、「正」と「邪」を自分で認識できることが重要だ。
一方で、倫理は、倫理観というように、個人でも他人に発信することを意味している。

今年が、これら二つを問う年になるのは、人類社会に重大な影響を与える、二つの勢力が、「対決」を露わにする年になるからである。

すでに、昨年からのアメリカ合衆国大統領選挙における混沌が、だんだん霧が晴れるように見えてきた。
日本における七草(アメリカの6日)に、首都ワシントンにおける決定的な動きがあるのは、昨年末から書いてきたことだ。

対峙する側は、今年「結党100周年」という節目をむかえる。
まさに、正と邪の双方で、大イベントが予定されている。

こうした、一見、個人ではどうにもならないようなことでも、第一に「道徳」で、第二に「倫理」をもってあたれば、おのずと答はみえてくるものだ。
個人が参加する、企業には、「企業倫理」としての責任が問われる年になるということでもある。

すなわち、人権を蹂躙する行為に、企業として加担していないか?
たとえば、昨年は「ナイキ」や「アディダス」の靴が、これに触れて、倫理観の強いひとたちから不買運動を受けている。

「SDGs」に道徳も倫理もないと、わたしが批判するのはこのことだ。
むしろ、人々の道徳と倫理を悪用しようという魂胆が、より一層、邪悪なのだと確信させるのである。

そんなわけで、さまざまな観点から、「道徳」と「倫理」が問われる年になる。
だから、自分から、「道徳」と「倫理」を問う年にしないと、翻弄されることになるだろう。

すでに、コロナの政治利用で、わが国も「政治倫理」が狂ってしまい、煽るマスコミはさらにあおり続けているではないか。
つまり、もはや道徳までも壊れだしたのである。

気を確かに!

正月・元旦に、あらためて思うのである。

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