あたらしい日常のアブノーマル

さいきんでは、政治用語に英語らしきモノが入り込むという、「流行」がある。
「ニュー・ノーマル」なのか?「あたらしい日常」なのか?
今年の「流行語大賞」に、どこまでランクインするかわからないが、ようは以前とはちがうという意味だから、「アブノーマル」をさす。

日本の学校でならう「歴史」の授業で、「歴史とは何か?」とか、「歴史を学ぶ意義」とかをならうことがない。
いきなり、「事件史」となって、年代暗記を強制される。

もちろん、「歴史の連続性」についても、ほとんど解説されないのは、戦前・戦中と戦後の「断絶」が「ほしい」からである。。

いまは刑務所に囚人としている、朴槿恵前大統領の名言に、「歴史を忘れた民族に未来はない」があった。このひとやこの国、あるいはその周辺国などからいわれるのか?という、「どの口でいう」はさておき、文言自体に文句はない。

その意味で、わが国も、そして、わが国の周辺国も、けっこう意図的に「歴史を忘れた民族」ばかりがあつまっている。
そんなわけで、どちらさまも「歴史的少子」という「共通点」をもっていて、「未来はない」ようなことになっている。

ウィルスのばあいは、「再生産数」で「1.0」を下回って「0.7」も下回ると、感染者が増えない、と判断されて待機命令を解除する「国際的常識」がある。ひとりの感染者がうつす相手が、ゼロコンマ状態になれば、どんどん減っていくからである。

人口のばあいは、「特殊出生率」といって、「2.1」を上回らないと人口はふえず、「1台」になったら人口は減るのは、男女ふたりから出生するからで、ネズミ算とおなじである。

世界で特殊出生率が最低なのは、「1」以下の「0.9」になった韓国だ。
だから、人口減少分野における、最先端はわが国ではない。
次が、台湾で、その次にわが国がランクインする。
中国の数字は、「よくわからない」ので、「欄外」だが、かなり「低い」ことは確実である。

すなわち、「未来がない」国々が、東アジアに集中している。
なお、「北」は、「飢饉」という別の理由が喫緊の問題になっている。

「人口」というのは、社会のボリュームを示すから、需要の大きさにもなる。
人口がふえるのに、「需要」に「供給」と「所得」が追いつかなければ、待っているのは「貧困」になる。物価が高騰するからである。

アジアや南米、それにアフリカの「貧困」は、このパターンだ。

一方、人口が減れば、「需要」も減るから、供給がおなじなら「デフレ」になる。
わが国周辺諸国は、今後「デフレ」の問題に直面することになっている。

しかし、人口が減る前からデフレになったわが国は、別の理由、「内外格差」のダムが決壊したからである。これに、金融政策で対応するというトンチンカンをずっとやっている。
これからは、人口減少のデフレも加算されるので、トンチンカンも加算される可能性が高い。

つまり、あたらしい日常は、「デフレ時代」という「平成時代」をつうじて、とっくにやってきている。
昭和60年代生まれから、それ以前の世代がしっている「好景気」を体感した国民は「いない」ので、いま30代半ばから若い世代と、その上の世代との感覚の違いは「決定的」なのだ。

すると、「バブル入社組」が50歳代に突入したいま、「景気回復」をいうときにイメージする「景気」とは、いったいなんのことをいうのか?
古い世代には「バブル前」の「昭和の好景気」にちがいないが、すでに「中堅」以下の若い世代には、「ちょっと、よくわかんない」が本音だろう。

現象としてこのことと似ているのが、わが国のウィルス「再生産数」の扱いである。
3月中旬(緊急事態宣言が出る前)に、「0.5」を下回っていた(上回ったことがない)から、国際常識とはかけ離れて、どうして日本が「緊急事態」なのかわからない、という問題がある。

まるで、「ファッション」の世界時流に乗り遅れまいとしただけだから、「けなげ」といえばけなげだが、発想が幼稚で単純である。

昨日、地方の39県で、緊急事態が「解除」されたが、例によって、意味不明の指標である「感染者数」がつかわれている。「専門家会議」は、週での新規感染者、人口10万人あたり0.5人を目安にするいう。

ウィルスによる感染症である、インフルエンザの場合は、「患者数」だ。
感染者数は計り知れない。それで週での新規患者数が40万人を超えて「注意報」、100万人を超えて「警報」をだしているのは、死者が1万人を超えるからだった。今回、「患者数」が発表されないのは、だれかに都合が悪いからにちがいない。

かくも「特別扱い」のコロナとは、社会が「アブノーマル」になったからである。

「社会不安」が政府の存在価値を高める一方、「将来不安」になって、少子を加速させる。

「歴史は哲学である」ということを忘れた民族は、滅亡する。
2千年続いたからといって、ただ続くことなどどこにも根拠はない。

哲学とは、人生を生きる意義である。

私たち日本人の哲学とはなんなのか?
他人ではなく、自分でかんがえることが必要となったのも、戦後価値では、「アブノーマル」なのである。

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