おしえ方をならわない教職課程

そういえば、教職課程というものが大学にあった。
ふつうの卒業単位とは別に取得しなければならないけれど、教育実習もちゃんとこなせば、学士卒業といっしょに「教員免許」がもらえる制度である。

この免許があれば、一般大学出身者も、中学校や高等学校の教員に採用される可能性がある。
小学校は、教育学の専門学部や専門大学出身者になるから、別扱いにする。

免許があるからといって、教員に採用されなければ教師にはなれないから、自動車運転免許があってもクルマを運転しないのと同様に、「ペーパー化」することだってある。
むしろ、生徒数も減っているから教員採用数もすくなくって、「ペーパー・教員」はふえているのではないか?

そうすると、高学歴化と「ペーパー・教員」の関係はどうなっているのだろうか?
つまり、教員免許をもっている親が、学校にたいしていろいろ発言するのと、なんらかの関係があるのだろうか?という疑問である。

その目線で、世の中の話題をながめると、学校と保護者との問題で、「授業でのおしえ方」が話題になっているのを聴かないことに気がついた。

教職課程では、専門の「おしえ方」をおそわらないのだ。
だから、授業参観でも、授業のテクニックについて話題にならないのではないか?

すなわち、教員オリエンテッド(志向・優先)なのである。
これは、以前に「教え諭す」と書いたとおりだ。
つまり、教師 → 生徒 という一方向の矢印であらわせる。

おしえ方を大学でならわなかった新任教師は、どうやってじぶんの専門授業をするのか?
それは、教師用の教科書である「手引き」がおしえてくれるようになっている。

学習指導要領と教科書検定は、セットものの定食のようになっていて、どの出版社の教科書を選定するのか?が新聞ネタになっている。
しかし、新聞ネタになるような、たとえば「近現代史」では、なにが教科書にかいてあろうが、授業ではどうせやってもせいぜい昭和のはじめまでである。

授業での場面でしか、生徒のほとんどは教科書を読まないから、日本国民のおおくが、近現代史の「戦中と戦後」をしらないで、とにかく「戦争はいけない」とおそわるのである。

だから、セットものの定食の中身はどうなっているのか?について、たとえ議論されても「教科書」のほうだけで、「学習指導要領」とその「手引き」が話題にならない不思議がある。

ここにも、教員オリエンテッド(志向・優先)が存在している。
すなわち、先生用の虎の巻には、なにが書かれているのかを保護者も、世間もしるよしがないのだ。

無気力な教師がいるのはむかしからだが、無気力でもいちおう授業が成りたったのは、この「虎の巻」のおかげではないのかとおもえば、やはり気になるのは人情だ。

しかし、一方で、上手の手から水が漏るような情報をえることもある。
来日したオーストラリア人一家が、日本でみつけた珍しいものの筆頭に「鉛筆」があったのだ。

母親は、オーストラリアの学校では、全員がタブレットをつかうので、ペンや鉛筆すら子どもは持ち歩かないし持っていない、という。
ましてや、もう店で鉛筆を売っているのをみたことがない、と。
それで、「懐かしい」といっていたのが印象的だ。

道具(ハードウェア)が問題なのではない。
だから、日本ではいまだに黒板と鉛筆がつかわれていることが、「遅れている」といいたいのではない。

これは、何度か書いている「教育用電卓」の授業での活用が、先進国で日本だけ導入されていない、ということの本質である。
なにをおしえ、理解させるのか?
についての「研究」とその「成果」が気になるのである。

つまり、生徒にぜったいにわからせる、という決心の表現なのだ。

子どもへの教育は、その国の将来をきめる。
官僚になれ、などという野暮なことではない。
よきクリエーターであり、ビジネスマンたるには、よき教育が必要不可欠だからである。

わが国がアジアのなかで唯一の成功体験ができたのは、教育にあったとはだれでもしることだが、明治期からのほとんどおなじ教育方法で、21世紀にも成功体験ができるとはかんがえられない。
これには、学校制度もふくまれる。

なのに、あいかわらずの変わらない発想で、プログラミングを重視するというのは、あまりに貧弱すぎる。

もはや、学校はレジャー化がすすんで、小学校までもレジャーランドになっている。
一方で、学力のほうは、民間の「塾」がたよりだ。

さらに、ネット空間では、動画再生回数が報酬をきめるというルールで、すぐれた「教員」が、免許の有無にかかわらず、すぐれた「授業」を制作して無料視聴できるようになっている。

そこには、ぜったいにわからせる、という決心にあふれているから、生徒が陥るだろう「わけわからん」の分岐点を先回りして、しっかり捕捉し、すっきりと「わかった」に導いている。

おしえ方がわかるのは、わからないがわかるからだ。

ネット動画の「ぜったいにわからせる授業」が、教育分野における「イノベーション」なのであって、学校でおこなうパソコンをつかったプログラミングの授業なのではない。

おとなはこのちがいを、ちゃんと認識しなければならない。

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