すこやかな子供

「産後の肥立ち」の良し悪しが、母体に直接関係していたのは、「食」と「生活」の「貧困」が、命に関わることだったからである。
それでもって、乳幼児の生存にも影響したのは、母乳の出にも影響するからで、もちろんさまざまな「病気」が子供をおそっても、おいそれと医者にかからせることもできなかった。

たとえ病気になって医者を呼んでも、こんどは処方される「薬」だって、いまとはぜんぜんちがう。
人類初の抗生剤、「ペニシリン」が発見されたのは、1929年のことだったから、まだ100年も経っていない。

つまり、いまからしたら驚くほど「効かない薬」が、ふつうであって、それがまた「高価」であった。
なので、事実上の自然治癒力がないと、生き残れない、ということになっていた。

これがまた、「優生学」を生む土壌でもあった。

さて、ときどき「旧暦」を語ることがあるこのブログだ。
今年は、新暦の6月3日が、旧暦の5月5日「端午の節句」にあたる。
ちなみに、3月3日の「桃の節句」は、新暦の4月3だった。

新暦の3月3日に、桃の花は開花しないが、旧暦の頃には「見頃」となるようになっている。

すると、旧暦の端午の節句は、なんとなく「梅雨」の時期になるから、「五月晴れ」の意味も、ただスカッと晴れた日を指すのとはちがったニュアンスがある。

そこで出てくる、「菖蒲湯」とか「よもぎ餅」、あるいは「柏餅」の意味には、「邪気払い」という共通があることに気づく。
もちろん、「鯉のぼり」もだ。

「邪気」とは、単に病気になることだけではない。
それに、「邪気払い」も、単なる「まじない」ではなかった。
いまでは想像もつかない、「信用度」があったのだ。

ところで、女の子の節句が「桃の節句」で、男の子の節句が「端午の節句」だった。
わが国における「桃の節句」の歴史は、えらく古く、縄文時代に遡るという説もある。

それに比べて、端午の節句は、中国からの輸入で、時期は奈良時代にあたる。
この「時間差」こそ、フェミのひとたちは注目しそうなものだけど、そうではないから、ひとかどではない。

日本をぶっ壊す!ことに躍起だったGHQは、「戦争犯罪」にあたる、敗戦国の「文化破壊」もやって、いまだに知らんぷりをしているし、この「文化破壊」を、よろこばしいもの、とかんがえる「犬たち」も増加した。

この意味で、男女を問わない「こどもの日」が、国民の祝日として「法制化」できたのである。
なお、「子供」と書かず「こども」とすることにも意味がある。
「供」の字が、卑しいとかんがえる犬になった学者がいたからである。

それでもって、「こどもの日」の趣旨は、以下のとおり。
「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」ことを趣旨とした国民の祝日。
制定は、1948年(昭和23年)と、しっかり、占領期なのである。

「母に感謝する」ことは、法律にあるけれど、「父に感謝する」ことは、「ない」というのも、なかなかの「趣旨=意図」に読めるのである。
それに、「こどもの人格を重んじ」が、「こどもの幸福」の「前提」になっているけれど、未発達のこどもの人格とは何か?についての説明はない。

「人権」ならまだしも、なのである。

そんなわけで、「こどもの日」とは、けっこう「政治的」な意図をもって決めた「祝日」だということは、知っていていい。

なので、ずっとさかのぼって、「端午の節句」に戻ると、邪気払いを含めた、すこやかな成長を願ったことの「健全性」と、夭折するふつうからの「切実さ」が、よほど「健全」だということがわかる。

それに、「男」はいずれ成長すれば、さまざなま「闘いの場」に出て、「勝負」しないといけない「運命」があった。
だから、「菖蒲」という植物が「げんかつぎ」にもなって、伝統的なデザインとしても用いられた。

たとえば、山梨県にある伝統的工芸品の「印伝」にそれが残っている。

ちなみに、印伝の模様には、飛鳥時代からの糸で隠して「煙:タール成分」を用いて線型図を描く手法と、漆をインクにした「印刷」手法とがあって、後者には「伊勢型紙」がいまでも用いられている。
だから、三重県鈴鹿市の伊勢型紙が途絶えたら、えらいことになる。

けれども、型紙に掘り出す前の「紙」は、「美濃和紙」なので、美濃和紙がなくなると、えらいことになる。
そのまた、原材料の「こうぞ:楮」を畑で栽培することからしないと、えらいことになるのである。

おとなは子供をみて、「すこやかな成長」を願うのだけど、子供はおとなをみて育つ、ということを同時にいわないから「片手落ち」になっている。
これを言わないでよかったのは、おとながおとなだったからで、「言わずもがな」だったのだ。

いまは、おとなが子供のままに「発達不足」しているから、「子供はおとなをみて育つ」をわざわざ言わないといけなくなった。
すると、「父ちゃん坊や」は、子供にみられている、ことをどうおもうのだろうか?

じつは、こうした「発達不足」になったひとは、個人主義を誤解した親による、「自己中」、「利己主義」の被害者ではある。
「他人の迷惑にならなければ、なにをしてもよい」という、「思想」は、「利己主義」による「ごまかし・まやかし」なのである。

ゆえに、他人がどうおもうのかに「関係なく」、身のこなしからなにからを「しつけた」のである。
それが、おとなになると「育ち」として、わかるひとには評価されることになって、「身を助ける」こともあったのである。

いま街中でそれを確認できるのは、「犬の散歩」だ。
子供のしつけができなかったひとたちが、「飼い犬」のコントールもできないで、犬に散歩をされている人間のかくも大勢いることか。

バカ犬ではなくて、バカが飼い主なのである。

子供が生意気になってくるのは、だいたい小学校の高学年あたりからなので、10年もすれば、なんと「18歳成人」となる。
すると、現在の子供には、絶対に「すこやかな成長」を遂げてもらわないと困るのは、現在のおとなの側なのである。

そしてそれが、「人生100年時代」ともなれば、現在10歳の子供は、あと80年は「おとな」として生きないといけないことになっている。

一歩まちがうと、ずっと悲惨な人生になる。
それでか、わが国は、世界で一番「子供が自殺」して、若年層の死因のトップが、自殺だという「唯一の国」になってしまった。

それがなんだか、芥川龍之介がいった「漠然とした不安」のように、「なんとなく」という「理由」なのである。

すこやかな子供は、ちゃんとしたおとながいないと、すこやかに成長しないのである。
だから、こどもの日ではなくて、おとなが反省する日、が正しい。

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