ひもパン・マスクの心

強烈な場面がニュースとして配信されている。

26日、南アフリカのスーパーマーケットでの一幕である。
レジ待ちのために行列ができているなか、次の順番になった白人女性が、スタッフからマスクを着用していないことをとがめられ、即座に着用するか退店を迫られた。

すると、この女性は、なぜか着ているワンピースの下に手を入れて、自分のひもパンを頭からかぶって「マスク」にしたのである。
「ハッピー?(これでいいでしょ!)」

すぐ後に並んでいた女性客は、「うまい方法」といい、拍手した。
そして、「まぁ、個人的に許容できるマスクだ」と評価しつつ、「率直にいってあなたのパンツのバクテリアはマスクよりも少ないと思います」と。

おなじような「事件」は、ウクライナの郵便局でもあったというから、一種の「世界潮流?」なのかもしれない。

これは、庶民感覚での「反抗」である。

しかしながら、わが国ではおよそ想像がつかない行動だ。
そのわけは、単に「不衛生」ということではない。
むしろ、「不衛生」よりも、自分の下着を他人の目のまえで脱ぐ、ということすらしないし、それを頭にかぶって口を覆うためのものにする、という発想がないからだ。

興味深いのは、後にいたひとの発言には、「バクテリア数」という具体的な衛生の要素があることだ。
すなわち、「視点」が、その「もの」や「こと」に限定されているのである。

「もの」として、たぶんそんなに汚くないなら、行為の「こと」として、許容範囲だといっている。
こうしたことがいえるのは、行為者本人の「みなり」から、シャワー後に履き替えたばかりという感じを想像したからかもしれない。

しかし、日本人は、「汚い」か「汚くない」かを問わない。
「穢(きたな)い」からである。
衛生的か衛生的でないか、ではなくて、それが「穢(けが)れ」ている可能性があるなら、絶対に拒否するのである。

これは、衛生概念ではなくて、宗教的概念だ。

日本人が、世界最大・最強の宗教的民族であった片鱗である。
けれども、過去形なのか?
尾てい骨のような、「退化」中の「片鱗」だと決めつけてよいのか?

マスク不足を克服するために、呉服屋さんがつくったのは、着物や帯の古着を素材にしたマスクだ。
以来、さまざまな柄の「布(ぬの)」でつくられたマスクが、「おしゃれ」にもなった。

ときに、アメリカ大統領選挙では、政党がオリジナル・デザインのマスクをつくって、これを選挙キャンペーン・グッズとしたし、候補者も、政府高官もこれを着用した。
しかし、たとえば、小池百合子都知事が着用した、「歌舞伎マスク」は不評を買った。

さて、これはどういうことか?

はじめに、アメリカ人は、マスクの機能性を重視するから、「規格」がある。
工業大国のはずの、日本には規格がない。
一応、医療用(手術用)は、アメリカの規格に「準拠」しているだけだ。

かんたんにいえば、マスクに「JIS」がないのだ。
どうしてか?
医療用を除けば、「一般的なマスク」に効果がないのをしっているから、ムダなのである。(工業用はまた別である)

ならば、なんのために着用するのか?
「穢れ」を避けるためである。
もっといえば、自分が「えんがちょ」にならないためだ。
テレビが奨励しているのも、「衛生」にかこつけてはいるけれど、「えんがちょ」を煽っているのである。

つまり、その辺にある布地でマスクをつくって、これが、「売れる」のは、ウィルスを防ぐ機能に期待なんかぜんぜんなくて、「仲間」である旨の記号が「需要」だということを見抜いたからなのである。
そして、この記号を購入することで、自分が「えんがちょ」にならないことを「予防」しているのだ。

アメリカ人にも分類がある。
それで、マスクを強制する州などと、真逆の州などがあるのだ。
民主党の州は「強制」で、共和党の州は「自由」。
時間の経過で、「強制」の州は効果なく、「自由」の州はこれまでどおりだ。

とくに、強い「強制」をしたカリフォルニア州やニューヨーク州では、知事罷免の動きになって、「自由」を徹底保持したサウスダコタ州では、全米で最低の失業者を誇り、経済への悪影響もない。

そんなわけで、アメリカでは、「宣伝グッズ」に化した。

かたや、わが国では、最初から物性としての「機能」に期待をしていない。
なのに、物性としての機能に期待して「強制」をいうから、デザイン・マスクをした知事が嫌われたのである。

つまり、小池氏は、日本人の宗教的民族特性を理解していない、ということになった。
ただし、これは、日本政府・与野党をあげてのことであるから、わが国の為政者は「日本人ではない」ことも判明した。

さて、わが国では、古来、パンツを履く習慣が女性にはなかった。
男性に、「下帯」があったのは、とめないとすわりがわるいからであるし、「急所」なので保護を要する。弱いショックでもそれが連続すると、体調を崩すのが男性なのだ。
ランニングにだってサポーターがいる理由だ。

1932年(昭和7年)の、「日本橋白木屋の火事」による、女性犠牲者の多さは、パンツを履いていなかったから、という「通説」に対して、真っ向否定の「真説」を述べたのは、井上章一『パンツが見える』であった。

明治中期生まれの祖母は、最期まで着物で通していたから、生涯パンツを履いたことなく世を去った。
なぜ、女性はパンツを履くのか?
基本、それは、肝心のものを隠す、いまどきの「見せパン」だったのだ。

すると、マスクにした女性も、なんのためにパンツを履いているのか?が、つぎの自問となるにちがいない。

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