やっぱり「空気」で決まる

重大なことが、「その場の空気で決まる」というのは、あんがいと日本人が自覚していない「日本人らしさ」のひとつである。

「その場の空気」だから、別の日や別の場所、あるいは別のメンバーだと、「別の空気」になって、前に決めたことと別のことが決まると「大迷走する」ことになる。

それで、「責任者でてこい!」となると、「空気」なのでだれも表にはでてこなくて、事務局が弁明してお茶を濁したりする。
これを、「日本的無責任」というけれど、責任者たちにはあんがいと自覚がないという特徴がある。

いつからこうなったのか?

誇り高い武士が治めていた時代には、良くも悪くも責任をとっていた。
その究極が、切腹だった。
「詰め腹を切らされる」理不尽もあっただろうけど、それはそれで遺族に補償があったし、なかったとしても庶民には関係なかった。

もしも、切腹ではなくて、「お役御免」なら、それは「武士を辞めること」にもなって、関係者には大騒ぎになる。
武士を辞めることとは、「扶持」を失うことなので、一族郎党が失業する。
「扶持」自体が相続対象だから、どんな下級でもお家断絶だ。

その意味で、「浪人」というのは気楽な稼業にはならない。
いまの学生が「浪人」するのとは、意味がちがう。
むしろ、政治家が「落選」してただのひとになることに似ている。

武士が「家」に縛られながら、「家」にしがみついたのは切実な現実があったからだ。
そして、武士には権力が与えられたけど、財力は与えられなかった。
こうして、「天道」としての政治は、必然的にその前提に「現状維持」があったのである。

だから、江戸時代の「改革」は、ぜんぶ失敗した。
現状維持の前提に負けたのである。
そうやって、社会の発展圧力と政治のバランスが崩れて、内部から崩壊したともいえる。

しかしながら、明治近代が完全なる成功を収めたわけでもない。
長く安定していた、「家」による縛りからひとびとが解放されたのではなかった。
これを島崎藤村が、『家』で描いたけれども、いまだに引きずっている。

つまるところ、日本人という人間は「家」という「社会」で生きている動物なのだ。
だから、「家」という概念よりも「個人」が先に立つひとたちとは、文化があわない。

けれどもだからといって、欧米人が皆「個人」を優先させているかといえばそうではない。
王侯貴族から新興ジェントル層といった、経済的に成功した「家」は、かつての日本的な「縛り」が生きている。

すると、「個人」を打ち出した、「啓蒙主義」の意味するところとは、いまさらになんだったのか?
ジャン・ジャック・ルソーがいう理想の、「アトム」とは?あるいは、個人のあるべき姿とした「アトム」のことである。

もちろん、「隠れ(共産)党員」といわれていた、手塚治虫の『鉄腕アトム』の「由来」のことだ。
鉄腕アトムは小型原子炉内蔵のロボットだから、「原子(アトム)」から名づけたのではなくて、最初から「個(アトム)」としての原子をもじったのだ。

これは、王侯貴族から新興ジェントル層といった、経済的に成功した「家」という、為政者側からしたら、被支配者の結束を解く(溶く)という意味で有用な「思想」なのである。

だから、対抗するための「団結」を説くことをはじめたが、その団結とは、「個(アトム)」の団結であって、「家」という社会の団結にはわざと触れないばかりか、「家」への再結束は「反動」だとして、かえって「アトム化」の推進をした。

つまり、「同類」だったのではないか?
あるいは、王侯貴族から新興ジェントル層といった、経済的に成功した「家」にとって都合のよい、プロパガンダが啓蒙主義ではなかったか?

そんなこんなで、「空気」がわが国を支配するようになったのは、明治の近代化が作り出した「同僚」という「仲よしクラブ化」による居心地のよさがあるとかんがえられている。

しかし、「これだけ」ではなく、さらに3つの理由が挙げられる。
・サンク・コスト(埋没費用)の処理にたいするまちがい
・「未解決の問題」への心理的重圧から逃げたい心理
・人事評価制度の欠陥

選挙になるとウィルスの感染力が弱まって、選挙が終わると猛威を振るうという現象にあてはめれば、「PCR検査の精度調整」という人為があるのでは?と疑いたくなるほどに、諸外国でとっくに「終了:収束」した病気が未だある状態でもいえないか。

それで、いつもの政府委員たちが集まって、なにやら「対策」を練っている。
この対策が、いったいなんの「対策」なのか?

上記事例にあてはめたくなるのである。

それでもって、やっぱり「空気」で決まるなら、それはそれで「空気感染」なのだとおもわれる。

だから、サングラスでも眩しい炎天下に降り注ぐ、凄まじい量の「紫外線」で、1秒すらコロナウィルスが存在できない「科学の知見」をもってしても、呼吸が苦しいマスクをしても、手が荒れようがアルコール消毒をしても、「感染者」という「PCR陽性者」が減らないのである。

こうしたことの原因は、「その場の空気」を「悪くしない」ための精神的努力であるからだけど、それは、決して強い精神ではなくて、「優しさ=弱い精神」だから、犬に首輪をせずにハーネスを装着するのが流行るという現象にもなる。

首輪が可哀想で、ハーネスなら苦痛がないだろう、と。

しかし、コマンドを入れることができないので、飼い犬をコントロールすることがたいていの飼い主はできないために、優しさが犬を不幸にしている。
そんなわけで、現代日本人の「弱い精神」が、社会にサイコパスをはびこらせ、サイコパスたちに支配されるということにも気づかないのだった。

その場の空気をコントロールできないのは、精神の弱さと、目的合理性の欠如なのである。

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