アイン・ランドの正統資本主義小説

日本でほぼ「無名」という、驚きの評価をされている作家が、アイン・ランドである。

逆に、アメリカでは、聖書の次に読まれている、という驚愕の人気作家だ。

ところが、聖書の次に読んでいるのは、「一般人」というカテゴリーであって、特に、「資本市場関係者」や「起業家」で彼女の作品を読んだことがないひとを「処女」という風習まである。

ここまで「有名」なのに、日本人のなかで「無名」なのは、紹介者がいない、という「偏見」があるからだという。
その「偏見」とは、「学会」とか「学者」、すなわち「大学教授」たちの批判的思想にあるといわれている。

簡単にいえば、日米ともに「リベラル」が、正確には「進歩派=社会主義親派あるいは左派」が大学を牛耳っているからだと説明されている。

つまり、「彼女」は、「リバタリアン」としての評価が高いために、そっち方面からの批判の対象であるから、「紹介しない」という態度になっている。
これは一種の、自主的「情報統制」である。

一方で、紹介する側にも遠慮がある。
たとえば、「最も危険なベストセラー」と表現したりするのは、おそろしい「学会」に忖度している、つまり、「言い訳」をしているのである。
陰湿な妨害やイジメを避けるためであろう。

それでも、日本で恐る恐る紹介されたのは、FRBのアラン・グリーンスパン議長(当時)が、自らアイン・ランドの心酔者であることを表明してはばからなかったからである。

帝政ロシアのサンクトペテルブルクに生まれた彼女(1905~82)は、その後のロシア革命によって、家業だった薬剤店を国家に奪われてクリミアに逃れたのは、そこが「白軍」の支配地であったからだ。

日本とおなじで、「干支」もあるのがロシアだ。
それでかどうだか、「紅白」という色彩感覚もあるから、「赤軍」に対抗するのは「白軍」なのである。
ヨーロッパが「青」を基調としたがるのとは、やっぱりちがうのだ。

ちなみに、中東アラブ圏では、憧れは「緑」だから、それを国旗にしたりするけど、彼らが公文書でも愛用するのが、「緑色インク」なのである。
「墨」の文化から、「黒インク」がふつうの東アジアとのちがいだ。
ヨーロッパは、ここでも「青インク」を好む。

彼女は、無機質な「名前」を自分で考案した。

男女とも、どこの国籍かもイメージできないことに、そのペンネームの特徴がある。
なお、本人が自らを「保守主義者ではない」と否定していたのは、「無神論者」だったからだ。

ふつう「無神論者」は、共産主義だと認定されるが、「生い立ち」から共産主義を「憎む」ことになったから、その心情はなかなか複雑だ。

しかし、その独特の「資本主義礼賛思想」は、保守派から歓迎されて、とうとう「保守の女神」と評されるに至る。
「反共」ゆえのことだと単純評価できないのは、アリストテレスに影響された知的基盤がプラトンを反面教師にするからであろう。

その意味で、「保守主義」を否定した「自由主義者」のハイエクに近い。
なので、「リバタリアンの女神」が、正解なのだろう。

ところで、このブログで何度も指摘している、「新自由主義」の間違った「解釈」の「正体」とは、「わざと」なのだとかんがえる方が正しいのではないか?と疑うのは、上述した「学者たち」の策略だと思えるからである。

大衆一般を「ミスリード」する。
そしてそれが、憎しみや憎悪となって、大衆一般から「自由を無価値なもの」と思わせれば、知的優位にある学者の立場は安泰だ。

それが、国家運営の「ために」を装った、官僚たちと同様に、つまり、官僚たちはその内なる組織の安泰の「ために」する、国民からの収奪の分け前となって、とうとう金銭的なメリットさえも享受できるのである。

そんなわけで、リバタリアンがいう「反知性主義」とは、こうしたひとたちから、「自由を取り戻す」ことを意味する。
つまり、「みんなでバカになれ」というのが反知性主義ではなくて、知的権威の大学や、知的エリートに対して懐疑的な立場をとるものをいう。

そんな知的エリートたちが「宣伝」する、「資本主義の終わり」で、全体主義化を画策することの邪悪を排除するための、知的武器(ワクチン)がアイン・ランドなのである。

さて、彼女の代表作は、『肩をすくめるアトラス』(1957年)だ。

  

ジャンルとしては、いわゆる「ディストピア小説」となっている。
しかし、アメリカの「図書館」における、「分類」では、この小説は、「自己啓発書」になっているのだ。

さてそれで、彼女の発想に、マルクスは存在していない。

つまり、共産主義思想を「なかったこと」として、「資本主義」を深く考察しているのである。
ちうなみに、ハイエクはとっくに「資本主義」という「用語」を、マルクスが「創作した」と論じていた(1963年「Capitalism and Historians」University of Chicago)。

だから、物語での「労使対立」とかという設定には、マルクスの思想はなく、むしろ「マネジメントの失敗」として表現されている。

かくして、彼女は宣言する。
「資本主義はいまだ未完成なのだ」と。
だから、資本主義社会とは「未来社会のこと」だと結論づけている。

ならば、その「完成の条件」とはなにか?
「徹底した個人主義」がこれを可能にするという。
えっ?「利他主義」ではないのか?

ちがう。
「利他主義」には、持続性が保障されないばかりか、害毒である。
ハイエクも同様の論をもっている。

彼女やハイエクがいう「個人主義」とは、「個人の好き勝手」をいうのではなくて、「個人の尊厳重視」をいう。
自分の尊厳を重視するひとは、自ずと他人の尊厳も重視しないと生きていけない。

個人主義=好き勝手では「ない」からである。

利他主義には個人の尊厳重視が欠けているから、じつは個人としての「人間否定」が含まれているのだ。
これが、特に、日本企業の「ブラック化」の原因だ。

利他主義が「美しい」と思ってはいけないのは、個人の尊厳を重視することでのバランスをとることが、よほど重要だからである。
「感情」に訴えて、利他主義を宣伝するマスコミが「確信犯」である理由がここにある。

つまり、「強い」道徳・倫理が個人に要求される。
それが、「本来の」資本主義社会をつくるから、いまの人類には、まだまだ、なのである。

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