エビデンスと政治判断の倒錯

新型コロナの対策が混迷するのはどういうことか?

それは、あんがい簡単な言語構造があるからだ。
大臣職にある政治家が、エビデンスを語り、専門家会議の医師や学者が、政策を語るからである。

この倒錯が、混迷の原因である。

医師や学者が提供すべきが、エビデンスであって、これをもとに政策を決めるのが政治家の役割である。
それが、「逆転」しているのだから、混迷するのは当然である。
ならば、なぜこんなことが発生するのか?

わが国の「体制」が、行政府を筆頭とした「官僚政治体制」になっているからである。
すなわち、あろうことか「憲法違反の体制」が完成したということだ。

近代国家の憲法とは、国民から国家・政府への命令書である。
だから、憲法を守らなければならないのは、すべての公務中の公務員である。
公務員であっても、勤務を終えたら一般人になるので、公務中に限る。

しかし、わが国の近代史は、憲法を国民が書いた、という感覚を持たずに憲法ができた。
明治憲法も、その改正という形式をとったいまの憲法もしかり、である。

だから、国民は、憲法を護り守ることの重要性を、本気で意識してはいない。

憲法を護ることには、憲法改正・修正だってふくまれる。
一字も変えてはいけない、ということが、必ずしも「護る」ということにはならないから注意がいる。
むしろ、社会の変化で憲法自体が陳腐化してしまったら、かたくなに「護る」ことが、意図的な破壊行為にもなりえるのだ。

このときに変更を要するのは、事情変更の原則、がはたらくからである。
明文憲法が修正される理由がこれだ。
イギリスのように文章化されていない憲法なら、賢人がこれをちゃんと修正するようになっている。

さて、国民の代表が議員となる。

市町村から国家まで、この仕組みになっている。
でも、ふだんのふつうの生活で、憲法は遠くにある。
だから、選ばれたひとが、突如、憲法を護り守らないといけない、となっても戸惑うのである。

それで、一夜漬けになるから、ことばだけでいえばよしになる。
こうして、ちゃんと勉強したはずの高級官僚に、議員が口で負けるから、最初から議論を挑まないで鵜呑みする。

こうして、国家で決めるべきことがぜんぶ、政治家ではなくて官僚がその任を果たすことになった。
そしてこれが、官僚たちに都合がいいのは、「決済」だけを議員にさせるので、じぶんたちは無責任になれるのである。

お決めになったのは、議員の皆さまたちです、といえばそれで済む。

つまり、無限の無責任体制というのが、官僚政治体制の特徴となるのだ。
諮問委員会のメンバーを官僚が選ぶのも、専門家がいっている、という責任の所在をつくることで、官僚の無責任な立場が維持できる。
まことに官僚にとってのすばらしい、システムなのである。

ではいったい官僚はなにをしたいのか?
それは、あらゆる公的予算のカネを、官僚が差配して使いたいのである。
カネの使い途を差配できることに、利権がうまれるからだ。

この利権を得ること、これが目的になる。

こないだ山梨県笛吹市のスーパーでみつけた、自治体指定のゴミ袋。
レジ横の「ゴールデン・コーナー」にあった。
みると、10枚入りで300円だった。
おもわず、「驚くべき利権!」といってしまった。

この発見で、この市に住んではいけないことがわかる。
吸血鬼のいる市だと、宣言文を読んだ感覚になったのである。
住宅の3割が空き家の日本一は、こうしてつくられている。

このように、国民や住民のことはどうでもいいのである。

そんなわけで、たまに「とんちんかん」な政治家が現れる。
たとえば、福岡市長がいい例になる。
このひとは、福岡市における感染者数とGO TOにおける市域への流入数との比較ができるグラフをつくらせた。

すると、素人が見ても一目瞭然の、「無関係」がみてとれる。
それで、福岡市はGO TOを継続実施すると結論づけた。
まことに合理的、みごとな思考回路で「まとも」だから、哀しいかないまのわが国では、これが「とんちんかん」になるのである。

都道府県レベルになると、だんだん狂いだして、全国でも名が通った有名知事の発言と政策は、とうてい福岡市の比較にならない「分裂症」を発症する。
しかし、狂ったことが、「正常」だと変化するのだ。

どういう理由かわからないけど、飲食店の営業時間を「自粛」させることを好むのは、おそらく、自身がなにかをしたというアリバイ工作なのだろう。
もちろん、とてつもなく害を被る、飲食店経営者や従業員たちがどうなっても、このひとたちのしったことではない。

そして、とうとう国レベルになると、完全に倒錯して、専門家会議の座長という誰だか知れないひとが、GO TOにゴーをかけたりストップさせたりする発言を、さも正義のごとく発するけれど、こんな役割も権限もあるはずがない、というひとがいなくなった。

この勝手な発言を、単に受身になって、それでは困ると、内閣の大臣が、がまんできずにエビデンスを語るのである。
そして、肝心の国会が、脳死したままでいるのだから、国民もこのまま脳死するしかない。

まったくもって、怖いものがないようになったのが国会であって内閣である。

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