カリスマ講師は文科省のおかげ

わが国の省庁は,明治以来かわらずに一貫して現在までも,「産業優先」を政策コンセプトにしている.これは,本ブログでもくり返している.

このところ,大手予備校が中学・高校での出前授業を請け負っているというニュースを目にして,さもありなん,とおもったので書いておこうとおもう.

わが国には二種類の教育機関がある.
文科省の支配下にある教育機関と,そうでない教育機関である.
憲法89条は,私学助成金にかんする議論をよんでひさしいが,国の支配下であれば助成金の支出は合憲と解釈することを根拠に,いわゆる「学制」がさだめる「学校」は,「私立」であれ助成金を受けられるようになっている.

つまり,「私学」ゆえの特徴ある「建学の精神」も,国家から助成金を受領するという「アメ」をもって,学習指導要領などもふくめた,文科行政の支配下にはいるという「ムチ」でからめとられているのがわが国教育機関の現状なのである.
だから、国公立の大学と私大がおなじ土俵で評価されることに不思議はない.

ところが,アメリカでは,連邦を「国立」とすれば,12の「大学校」しかなく,7校が軍事,5校が非軍事とはいえ外交官養成,法施行養成,鉱山安全,FBI,消防という特殊性のある教育機関でしかない.それで,「州立」ということになるが,こちらもおおくが「職業訓練」を趣旨にしているから,日本の公立大学とは様相がちがう.

逆に,英国はほとんどの大学が「公立」なのが特徴だろう.しかし,「公立」といっても,日本のような形態ではなく,「基金」をもとにしているから,運営形態はまったくちがう.公的資金を一切得ず授業料だけで運営する大学を「私立」とするなら,1976年開学(マーガレット・サッチャー教育相)のバッキンガム大学が初になる.なお,女史は後にこの大学の総長もつとめている.

旧社会主義国ではどうか?ポーランドでは,すべての大学は国立で,私大はない.また,大学入学は基本的に「高校卒業資格」のうちの優秀者にあたえる「大学入学資格」によるから,学校間での「格差はない」という.それで,おおくが地元の大学に進学するが,なかには首都での生活をしてみたいという贅沢な希望で,ワルシャワ大学に入学するものもいる.教授陣も分散しているというから,教授が転勤すると,学生も住居移動することがある.国家の頭脳を育成しているという原則から,授業料は「無料」.そのかわり,1単位でも落とすと「放校処分」という厳しさであるから,そもそも「卒業」できる割合が極端にすくない.それに,どこの大学を出たか?という大学名における帰属意識が「まったくない」ので,貴重な「大卒という学歴だけ」で社会に通用するという.

さて,わが国の事情にもどると,文科省の教育行政のトンチンカンはむかしからではあるが,教育内容までの「指示・命令」は,国家主義の残滓ともいえるだろう.
さまざまな規制(物理的なものだけでも敷地面積・建物・教室空間の規定などなど)から,助成金なくしては運営が不可能なほどにしばりがあるので,江戸時代のような「寺子屋」を設立しても,「卒業資格」や「学位」を得ることはできない.もちろん,江戸時代には「学位」などなかったが,これは,むしろ,文科省支配下にするための規制であるとかんがえればわかりやすい.
ならば,ポーランド方式がなじむのでは?ともおもうが,「東大卒」をはじめとした「学校名」に強いこだわりと帰属意識があるし,単位をおとして「放校」ともなれば,「学生ストライキ」になると「教授陣」がおそれているらしいから,何をか言わんやである.

その文科省が打ち出したのが,小学校からの英語教育導入である.
すでに導入されてはいるが,2020年から「義務化」されることがきまっている.
それで,昨年17年度から,大学の教育課程の学生に「英検2級」(高校卒業レベル)取得を要請しているというトンチンカンぶりだ.
現状の日本の小学校教諭のほとんどが「英語ができない」ので,せめて新任教師はという窮余の策であるらしい.

こんな実態があるのに,なぜだか親からの不安の声が聞こえてこない.
国会をゆるがすべき問題は,「忖度」がどうのではなく,ほんとうに小学校から全国一律で英語教育ができるのか?というリアルな問題なのではないか?(英語教育の賛否ではなく,できるのか?という方法論だ)
中学入学前に「英語嫌い」をわざと量産する意図がある政策ではないか?つまり,鎖国化をうたがう.

小学生が相手なのだから,英検2級もあればダイジョウブ.
これに,英語が母国語の外国人の「補助員」を採用させれば,「生きた英語」をまなばせられる,と.
本気でかんがえているのだろうか?
これに,わが議員たちはみな賛同しているのだろう.

外国人に日本語を教える「日本語教師」には,「日本語教育メソッド」がある.
ただ日本人だというだけで,外国人に日本語を「プロ」として教えることはできない.だから,「日本語教育メソッド」を学んだひとが日本語教師になる.
これは,おもに「日本語文法」を,外国語の文法と比較して教えるという方法なのだ.
すると,英語を母国語とする外国人といえども,「日本語文法」を知らずして,ただ英語を話しても生徒には理解できないし,なぜ生徒が理解できないかを理解できないだろう.

注意したいのは,小学校・中学校の「国語」で習う「文法」(「学校文法」という)と,「日本語文法」は別物であることだ.
学校文法は,将来=高校での「古文」を習う準備としての「文法」なのだ.
しかも,学校文法を教える教師は「国文科卒」のはずだし,一方の「日本語文法」も「英文科」で主に教えているわけではないから,英語教師にもなじみがあやしい「教育の谷間」になっている.
この「違い」を知らないで,外国語である英語を子どもに教えるとどうなるのか?

外国人への日本語教育で著名な先生にうかがったはなしでは,日本人が外国語を不得意とする理由に,「日本語文法」をしらない,という問題があると指摘されたことだ.
日本語をあたかも外国語としてみる「日本語文法」を理解すれば,文法が厳密なおおくの欧米語の習得が楽になる,ともいわれる.

「不安」はつのるばかりだが,どうしたらよいかがわからなくなれば,だれかに「依存」したくなるのは人情である.
それで,文科省の教育行政支配の外にある「予備校」に目が行くのは自然のなりゆきだろう.
もはや「現場」からの要請で,予備校講師が教壇にたつのが常識になりつつある.

文科省は,はからずも少子で苦しむ「予備校業界」活性化の救世主になった.
すると,本業の「教諭」は,いったいなにをするひとになるのだろう?
まさか,講師選定の「入札条件」を書く「役人」になるしかないなら,銀行のリストラにつづく,教師の大量失業時代があんがいはやくやってくるのかもしれない.

ならば,予備校講師が学校を乗っ取れば,自治体に家賃をはらうことで,完全授業料運営の学校に変身できるかもしれない.
地域のおとながその気になれば,学校から文科省の影響を排除できる可能性がでてきた.
その原因を,文科省がつくったのだから,これを自業自得というのだろう.
しかし,これが学校間の「競争」になるから,いまより悪いことはないはずだ.

「英語」という「アリの一穴」が,文科行政ひいては教師の特殊な身分という岩盤を突き崩す破壊力をもっている.
「その他の教科」にもかならず波及するはずだから,これは「見もの」なのだが,その間の犠牲者は「子どもたち」である.なんとも切ないはなしだ.

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