スイスの貧困からの知恵

35年以上も前に、スイスと北イタリアを二週間、一人旅したことがある。

美しいが、いっさいの「生活臭」を感じないスイスから、イタリア国境を越えた途端に、路地を挟んだお向かいどおしのおかみさんが、窓越しに大声で笑いあっている光景や、大きな洗濯物をみて、なんだかホッとした記憶がある。

日当たりのない、古い住宅の谷間にかかるシーツの洗濯物は、ぜんぜん脱水されていなくて、ぽたぽたと水が垂れていたけれど、合間の路地下を行く通行人もぜんぜん気にしないで通りすぎていた。

空気が乾燥しているからすぐに乾くので、かえって「おしめり」がありがたいのかもしれない。
喧噪のカイロ住まいだったわたしには、絞りきれないジーパンも2時間でパリパリに乾くのに慣れていたから、丁度よい気温で乾くのがうらやましくもあった。

しかし、スイスとイタリアを比較するのはあんがいと難しい。

われわれが知っている「イタリア」が、いまのような統一された国としてのイタリアになったのは、なんと第一次世界大戦が終わってからだから、ようやく100年になったに過ぎないのである。

一方のスイスも、ヨーロッパ・アルプスの山国だけど、日本のような森林資源も少ないので、その「貧困」ぶりは、信州・長野県の比ではなかった。
主たる「産業」が、「傭兵」として周辺各国での「出稼ぎ」だったのである。

それだから、ヨーロッパでの戦争は、じつはスイス人傭兵同士の殺し合いで、当事国の兵はいなかったという記録もある。
このとき、イタリアは小国に分立していたから、スイス人傭兵を雇った側になる。

田んぼや畑を「耕す」という仕事から、農閑期の「出稼ぎ」で、建設労働者になるという「日本式」は、この意味で文字どおり「生産的」であったのだ。
スイス人が羨むことにちがいない。

つまるところ、スイスは貧乏すぎた。

ゆえに、頭脳を使う、ということに追いやられたともいえる。
身体を使うだけなら、傭兵になるしかなく、自分の命をかける価値のない他国同士の戦争で命をかけたからである。

もちろん、「傭兵」は、「契約」による「商売」である。
戦闘での「働き」についての「評価方法」も、当然ながら戦死したばあいの「死亡退職金」についての条項もあった。

だから、とくに本人が死亡したときの「退職金」を、あらかじめ指名された家族に「送金する」ということが、「確実」でないと、この商売はやってられない。
死んでも死にきれぬことになる。

それで、送金のための「国際金融機能」が発達したし、もしも契約相手国が反故にしたときの「国際訴訟」や、「証拠保全」のための「契約書管理(いまなら「データベース化」)」も発達したのである。

もちろん、契約相手国には、その国の「通貨」での支払という「当然」があるから、傭兵料をもらう側の都合とは一致しないこともある。
それがまた、各国通貨の「両替需要」という、実需をうんだ。

狭いヨーロッパ地域に小国が乱立するのがふつうだったから、ちょっとした距離の移動で、外国になる。
それゆえに、ヨーロッパでは、「小切手」が普及した。

これを、「使える」ように計らったのが、いまでいう「国際金融資本」で、その中心地がスイスになったのだ。
それから、スイスは中心地としての「あるべき姿」を自分たちで作っていまがある。

わが国の江戸時代、「内国為替」が発達したのとはちがうのが、以上のようなヨーロッパの事情だった。

これが明治になって、外国人との取り引きで必須ゆえに、「小切手法」ができたけど、日本人に理解が困難だったのは、「内国為替」で用が済んだ「便利」があったからである。

つまり、幕府が定めた「共通通貨制度」があったので、国内での「両替」とは、流通している金と銀の含有量にもとづく「評価」をすればよく、「内国為替」一枚を発行すれば、全国で「現金化」ができたのである。

これは、「弥次さん、喜多さん」で有名な、『東海道中膝栗毛』にも、「護摩の灰」にしてやられて持金全部を失ったにもかかわらず、ぜんぜん慌てずに、友人宛に借金を申し込んで、その友人から早飛脚で「為替」が届いて事なきを得るという、あっけらかんとした話がある。

各宿場に両替商がいたし、飛脚問屋も手形の割引をやっていた。
なお、わが国で「為替」ができたのは、なんと「鎌倉時代よりも前」なのである。

同時代のヨーロッパ人がこれを聴いたら、驚くほどの「先進国」が極東にあると思っただろう。

なぜなら、為替だけでなく、ヨーロッパで庶民が物見遊山の旅行(=観光旅行)ができるようになるのは、ずっと「後」の、産業革命後に、「労働者階級」ができてからなのである。

もちろん、道中の「治安」については、よほど危険であったのはいうまでもない。

ならば、スイスが大発展して、長野県が「信州のまま」の状態で留まっているのはなぜか?
明治に「長野県」になって、当時のひとたちが日本でもっとも「教育」に力を入れた「まで」はよかった。

県内各地にある小学校が、「文化財」になるほどの建築を施したのは、県民による「寄付文化」という、「自立の気概」があったからである。
しかしてその後、国家依存という「麻薬中毒」になってしまった。

空き家率日本一(約3割)の山梨県しかり。

長野県と山梨県が、共に「自由経済特区」になって、スイス・モデルを追及するとよいけれど、スイス人は「自然」にこれをやってのけたから、政府が「特区にしてやる」ということでは無理だ。

それで、両県の国会議員と県知事は、相変わらず「麻薬」を県民に与え続けているのである。
これも、「全国一律」になっている。

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