デマがまかり通る阿呆国

街からマスクが消えたとおもったら、トイレットペーパーも、ティッシュペーパーも消えている。
石油ショックのとき以来の、愚挙がはじまった。
この「集団心理」とは、いったいなにか?

結論からさきにいえば、政府が信用できないことからの「自己防衛」である。
そして、これをあおるのが、愚劣なマスコミであり、愚かな政府が油をそそぐ。

福島第一原発のときは、「マニュアルをみない」ということによる「人為的災害」になって、数万年におよぶ厄災をもたらした。
今回は、「マニュアルがない」という、やっぱり「人為的災害」になったけど、「ある」ものをみなかったというのとちがって、あるはずのものが「ない」という現実をみせつけられた。

厚生労働省をはじめとした「日本国政府」には、危機管理マニュアルが「ない」のである。
こんな「まさか」が、露わになったから、国民が自己防衛に邁進して、じぶんさえよければそれでいい、という戦後的価値観がむき出しの社会になった。

これを「顕在化」という。

紙でできている「簡易マスク」が、いつまでたっても供給されず、それがあらぬ妄想から、「紙がなくなる」になってはじまったのが、トイレットペーパーとティッシュペーパーの買いだめによる「不足」である。

突然に、この事象がテレビで放送された。
すると、たちまちにして人びとが「一斉行動」にでたのである。
それであわてたテレビが、こんどは「デマ」だといっても、もう信じないどころか、行動に拍車がかかっている。

わたしの驚きは、いまの時代、世の中にこんなにテレビの影響を受けているひとびとが存在していることの方にある。

そもそも「マスク」だって、ウィルス感染の予防には役に立たない。
けれども、これをしないことが「排除」の対象にまでなってしまった。

九州の鉄道車内での「くしゃみ」や「咳」を、マスクをしないでしていたら、緊急停止ボタンがおされた「事件」も、ガマンができない社会が「排除」をもって対処しようとしたものだ。
ボタンを押した高齢者は、「くしゃみ」=「緊急事態」と発想したのである。

こんなことで電車がとまって動かない状況に耐えられなくなった若者が、高齢者に悪態をついたから、動きだした電車の次の駅で両者が降車させられたという。
はたして、くしゃみや咳をしたひとは、どうしたのかは不明である。

すると、とうとう、紙のマスクを洗濯してつかうひともあらわれている。
マスクを着用しないことが、社会からの排除原因になることを怖れるからである。

まさに、このようにして「ユダヤ人」は、ドイツ社会から排除されたのだ。

現実に、わが国は「無政府状態」になりつつある。
それは、政府が崩壊するのではなくて、国民が崩壊しだしたからである。

いまさらアリバイをつくりたい政府は、なんでもありの政令を乱発して、すすんで「無秩序」な行動を率先垂範しだしてしまった。
過去の感染症流行の経験をもって用意する、行動マニュアルがなかったことをごまかすための欺瞞行動である。

自立の努力をおしまない台湾と、かくも「逆転格差」が生まれたのは、政府とはなにかをかんがえたことがなかったことの「ツケ」である。
すなわち、国民の劣化が政府の劣化をまねくというセオリーどおりがおきただけである。

学校が休みになっても、親は仕事を休めない。
それで、こんどはインスタントやレトルト食品が不足することになった。
子どもが自分でつくれる食事を用意するのは、親の責任であるからだ。

パニックがパニックを呼び込む「連鎖」がはじまっている。

「風が吹けば桶屋が儲かる」のように、政府が計画する発想とはことなる「自由発想の次元」での連鎖反応は、いったいどこまで進むのか?

一方で、ニューヨークでは、「マスクを着用していた」アジア系の乗客がボコボコに暴行された事件は、わが国とは真逆の反応になっている。
すなわち、マスク着用者が「保菌者」あつかいされて社会からの排除を受けている。

一歩まちがうと、みごとな人種差別となる。

すると、マスクを着用していると排除されるのではなく、アジア系は「マスクをしろ」に転換されるかもしれない。

マスクをしない快適は白人に。
マスクをする不快と経費はアジア系に。
こうなると、時代は一気に19世紀的となる。
そこには、忌まわしい「黄禍論」が横たわっている。

われわれ日本人も、黄禍論から逃れることはできない。

もはや「デマ」がまかり通る阿呆国は、国内だけの問題ではなくなっている。

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