ニーチェという虚無

ニーチェは思想家なのか?それとも、哲学者なのか?という論争がある。

そもそも、哲学は一般人の生活の役に立つのか?といわれたら、一般人の多くは、興味もないからあっさりと「役に立たない」と答えるだろうと、容易に想像できる。

このことは、「経済学」には「逆に」あてはまる。

とにかく大学に進学すること「だけ」をかんがえたら、あるいは、まったく大学がどんなところかを知らないで、「進学」=「大卒という学歴」にしか興味がないなら、「なんとなく」希望するのが「経済学部」だったりした。

ほかの「学部」つまり、学問分野よりも、「つぶしがきく」という、あの「うわさ」が原因である。

「つぶしがきく」とは、なにか?
よくいえば、「応用がきく」という意味になるし、「現代人の基本的知識」ともとらえられる。
わるくいえば、「どうでもいい」という意味になる。

日本における経済学の問題は、政府や自治体の「経済政策」に、「役に立たない」という経験を、一般人がしているからである。

このあたりが、複雑怪奇になるのは、「経済政策」を「立案」するのが、政党や政治家ではなくて、「官僚機構」になっているという事情があるからだ。

その官僚たちは、おおくが「法学部」の出であって、「経済学部」は少ないし、官僚機構の内部では「格下」にみられる傾向が強い。
それが、日本的「法治システム」になっているのだ。

加えて、「学位」についても「同様」で、「修士号」や「博士号」についての取得方法で、官僚機構独特の「格」が決まる仕組みにもなっている。
それは、官僚になってから取得する、というルールである。

公務員は、採用年次で基本的な序列化がされて、公務員試験の「成績順位」で各省庁からの「スカウト」がある。
よって、大学2年生や3年生で、「合格」した者が、とにかくは上位になるから、修士課程やらを経て公務員になることのメリットはなく、むしろ、「年次」でのデメリットになる。

なお、「外務省」は、別途、外交官試験があるけど、それ以外は「おなじ」である。

それで、役人の身分をもって「国費留学」し、外国の有名大学にて学位を得ることが、その後の役人人生にとって、おおきな「キャリア」になるのである。

だから、大学時代に「自腹」で留学したり、「大学院生」になるのは、官僚世界では「御法度」で、「公費」でまかなうことが重要なのだ。

そんなわけで、公務員も民間も、「哲学」なる学問を学ぶことは、ほとんど「ムダ」なことになったから、その後に、「政治家」に転じても、哲学を語ることができないのだ。

そうやって、哲学を知っている評論家から餌食にされて、評論家は「売文」ができるようになっている
一方で、「哲学者」があまり世情の批判をしないのは、「学術研究予算」が、官僚によって牛耳られているからである。

よって、現役を引退した、「名誉教授」が、手弁当で批判を開始する構図ができたのである。

ところで、経済学部が、「どうでもいい」という理由の一つに、日本の経済体制が、現代経済学の主流である、「アメリカ経済」とはちがっているからである。

ソ連崩壊後、日本の経済学の主流だった「マルクス経済学(マル経)」が、廃れて、教授陣は別分野の教授に転向した。
もちろん、人生をかけた「マルクス主義」を棄てたわけではないので、大学内で「潜行」したのだ。

数学を多用する、近代経済学なのに、「経済学部」が文系である理由は、1920年代に、ミーゼスが数学的にはとっくに破たんしていることを証明しても、生きのびた「マル経」が、わが国の主流だったからである。

法学部、経済学部といった「文系」の柱となるのは、文学部だ。
哲学はたいてい、ここに属する。
それでもって、西洋哲学とか東洋哲学というふうに、各専門に分科する。

なぜか、「日本哲学」はなく、日本史を排除した、無機質を極めた「J哲学」なるものはある。
「史」にからませれば、「日本思想史」、「日本哲学史」になって、「国学」はまた別にあるようだ。

ギリシア以来の西洋哲学を一種「完全破壊」した、ニーチェは、しかし、「答え」をひとつも見出さなかった。
ニーチェは、「巨大な問題提起」をしただけで、死んでしまったのである。
なぜなら、ニーチェが見出した答が、そのまま問題提起だったからである。

よって、ニーチェこそが、なんの役にも立たない哲学を提示した。

ニーチェが提起した問題を、誰も解いてはいない。
むしろ、「解けない」のである。
これは何百年も解けない、数学の問題ともちがう。

人類に、「解けない問いがある」ことをニーチェは示した。

すると、この世は「すべてが仮置き=虚無」となるのだ。
「テッパン」と思われている「制度」も、しょせんは「仮置き」だ。
それが、政治や行政の制度であれば、なんと「小さな」問題だろう。

ゆえに、「突破口」は必ずある、という結論になる。

しかして、その「突破口」も、「仮置き」にすぎない。
だからなにをしてもムダなのか?
それとも、やっぱり「突破口」を探り出して「突破」を試みるのか?

これが、「西洋人」の発想法の原点だ。

日本人が太古よりもっていた「智恵」とは、どうやら「系統」がぜんぜんちがう。
一点突破という発想ではない、もっと緩やかでやんわりとした、しかし、なにがあっても動じない意志の発揮がそれだ。

アメリカ主流経済学は通じないこの国で、突破が通じるようになったのか?それとも?が問われている。

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