ハイエクに2度目のノーベル賞を

世の中には、あらゆる分野に「主流派」がある。
だから、かならず「非主流派」とか「反主流派」に分類されるひとたちもいるのは、「分散」という意味で健全なのだ。
すると、「集中」とは、この意味では「不健全」だということになる。

また、すぐに世の中の役に立つ学問を、「実学」といって、「純粋学問」から分けてかんがえるひともいる。
ならば、「純粋学問」は世の中の役に立たないかといえば、そんなことはない。

この「実学」の典型が、「経済学」というひともいる。
ところが、最近の経済学が、「役に立たない」といって文句をいうひとがいる。
けれども、これは正しくは、「経済政策」のことで、経済学が基礎を支えていない、ということを端折っていっているのだろう。

先週発足したといわれている「バイデン政権」が、矢継ぎ早に打ち出した「経済政策」が、どんな「経済学」によって裏打ちされているのか?と問えば、こたえは「マルクス経済学」ということになるから、唖然とするのである。

なぜなら、ふつう「経済学」といえば、いわゆる「近代経済学=資本主義を前提とする」ことであって、この主流派も非主流派も反主流派も、「マルクス経済学」のことを経済学とは「認めない」という常識があったからである。

もちろん、アメリカでマルクスとは。

では、これら「経済学」の立場から、マルクス経済学はどういう位置づけなのかといえば、それは、「宗教」なのである。
だから、マルクス経済学を分析したりするのは、「宗教学」の分野とされていたし、そのなかの位置づけでも、「邪教」扱いがふつうだった。

これは、一般的な宗教(欧米では新旧約聖書の3大宗教)で信仰の対象となる「神を否定」し、「無神」を信じる宗教だからである。
しかしながら、神を否定するとはいえ、それ自体を「信じる」宗教的な思想と思考構造は、従来の宗教とおなじなのである。

その根底に、理屈ではない、「飛躍」があるのだ。
たとえば、神の存在を証明する「理屈=根拠」はないけど、「あることを信じる」という「飛躍」を前提にしていることを挙げることができる。
これがそっくりマルクス教にもあてはまるので、この宗派も既存宗教と同様に、「(他)宗教を否定」するのである。

およそ宗教というものが、それを信仰するひとたちを団結させる力があるのは、教義に対する「絶対」があるからである。
これが、世俗的政府の為政者には「危険」になるから、ローマ教会がひとびとの「心」を支配したヨーロッパでは、「政教分離」が行われたのである。

江戸時代までのわが国の歴史で、「斎主」である天皇が絶対的崇拝の対象にならなかったのは、信仰の対象となる「神社」に「絶対がない」という、世界的「珍奇」があったからだ。
それで、輸入した宗教にある「絶対」が爆発したのが、「一向一揆」だったし、「島原の乱」になった。

内乱阻止を宗とする徳川幕府における「重職」に、寺社奉行があるのは、まさに日本版「政教分離」だった。
これを、明治政府が「政教一致」にしてみせたのは、資本主義の前提となる、平等の実現に、欧米の神とおなじ「絶対」を求めたからであった。

天皇以外は全員平等だとする「思想」が、国民を団結させ、一家を成すことに成功したばかりか、一枚岩ゆえの自由も付与する「建て付け」で、資本主義の条件を整えたのである。
これが、アジアで唯一発展できた理由である。

何度も書くが、「人間宣言」によって上記の「発展基盤」が壊されたけど、日本教を信仰する世代のひとたちが寿命をえてから、わが国の衰退がはじまったのは、至極当然のことなのだ。

ハイエクが晩年に到達した、『法と立法と自由Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ』(1976~79)において、「部族主義=閉じた社会:家庭、企業、地域社会など」のなかにある「利他主義」が、自由をうしなわせる「内側の敵」であるという指摘と焦りともおもわれる「警告」が、アメリカで現実となった。

  

じつは、マルクス教も「利他主義」を説いている。
これがいまだに、善人で頭脳明晰なひとたちの「脳を汚染」する元凶なのだ。
しかし、マルクス教の「飛躍」は、利他主義の実現方法に「ある」。
美しく利他主義を説きながら、その実現方法が飛躍して、一切の記述が「ない」ゆえの宗教なのである。

一見、利他主義はよいことに見えるし、「道徳的」でもある。
しかしながら、これが「自己犠牲」になって、それを利用しようと計画するひとたちに、無限の権限委譲を伴うのだ。
つまり、善が悪に利用され、踏みにじられる「お約束」の結論を導く。

全体主義への道である。

先日、アメリカとカナダにまたがる「北米国際労働組合(LIUNA:Laborers International Union of N A)」が、バイデン政権を激しく批判するコメントを発表した。
彼らが一押しして選挙応援をしたのに、「公約」を破って、パイプラインの建設中止や、シェールオイルのフラッキングを禁止したからである。

雇用を重視する労組にあって、4万人以上が失業する可能性の現実化で、組織の存在理由が問われる事態になったのだ。

もちろん、政権が根拠とする理由は、「地球環境」ということになっているから、信者たちは彼らの失業を、美しき「自己犠牲」だと言い張るにちがいない。

ハイエクが1974年にノーベル経済学賞を受賞したのは、若い頃の経済分析をもって理由とされたので、同時受賞で福祉国家=社会主義を展開したグンナー・ミュルダールは、「どうしてこいつと一緒なんだ?」と文句をたれた逸話がある。

アメリカのいまをいいあてた、ハイエクがもう一回受賞しても、今度は誰も文句をいわないだろう。

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