パチンコで感染者はいるのか?

自粛要請をうけて「休業」をする店と、これをしない店とがあるが、なかでも一部の知事は、休業しない店名を公表する、とした。
しかし、この対象が、なぜか「パチンコ」だけ、なのである。
カジノ誘致には、熱心のようだが。

皮肉にも、公表された店には開店前からおおくのひとが行列して待っていた。
このひとたちは「馬」とか「鹿」なのだろうか?
それとも、いいだした知事や、知事を支持するマスコミが「馬」とか「鹿」なのだろうか?

まず、相手がパチンコだということをいったん忘れないといけない。
これは、事前に「フィルター」がかかって、冷静なかんがえにならなくなるからである。

不思議なことに、クラスタ感染していると発表される場所に、パチンコがない。
逆に、衛生管理が徹底している「はず」の、医療機関がおおくのクラスタ感染の発生場所になっている。

これはいったいどうしたことか?

横浜でいまやっているパチンコ屋をのぞいてみると、すでに「禁煙」が実施されていることもあって、なんだかむかしのような「空気の悪さ」がないし、かなり窓を開放しているから、特別な閉鎖空間にいる感じがしない。

店員さんたちは、それぞれ消毒剤スプレーを持っていて、よくみれば手袋もしている。
それで、お客が席を替わると、すぐさまハンドルと周辺を消毒しているのだ。

「接触感染」という医学用語が、日本語的混乱をもたらしたのは、「濃密接触」といういいかたで、ヒトとヒトが近くで会話することと混同してしまったから、転じてありえない「空気感染」までうたがうことになった。

「接触感染」の本意は、「なにかに触ること」の「接触」なのだ。つまり、英語でいえば「on」の状態だ。
「上に」と訳してはいけない。「なにかにくっついている状態」をいう。

だから、専門家がこの用語をつかって一般人に説明するときには、誤解がないように「手で触る」ことを強調しなければいけない。
けれども、専門家同士の会話とおなじ言葉遣いを貫いたのは、「不親切」どころか、「専門」「馬」とか「鹿」というのである。

もちろん、医学用語だから、「接触感染」はまちがった表現ではないが、誤解をまねくおそれがあると気遣うのも専門家の役割なのだ。
マスコミの「聞き手」が、これをわかりやすく解説するということをしないで、おなじ言葉遣いをオーム返しするのは、どういう了見なのか?もあるのは、伝え手としての業務も怠っているからである。

すると、よくわからないのが、専門家集団の「はず」の医療機関で、「接触感染」がどのように扱われているのか?ということだ。
不名誉で有名になった、慶應義塾大学病院での研修医の集団感染だって、「飲み会」が「けしからん」になっているけど、「接触感染」をどのように認識していたのか?の疑問にこたえてはいない。

「研修医」とは、「研修」がついてはいるが、みな「医者」である。
医師免許国家試験にパスしたから、研修を受けていた。
ならば、医師免許国家試験には、「接触感染」の対処方法が「出題されない」から、勉強しなくてよい、ということになっているのだろうか?

病院長が、「(この時期に飲み会なんて)医者としてあるまじき」と弁明したのは、教授職にある病院長も「接触感染」の対処方法をしらないからで、滋賀県の医師たちや、都立であろうがなんであろうが病院内でクラスタ感染する理由に納得できるこたえとなる。

ということは?
「営業自粛」に意味はないし、「三密」はデマである。
店内で、お客や従業員が「触った場所」を、その都度、徹底的に消毒し、手指の消毒も欠かさないようにするだけでよい。

なんだ、それならパチンコ屋さんがもうやっている。
この業界は、貸玉と出玉の状況を、リアルタイムで統計処理して利益計算をしているから、意外なほどに科学的経営をしているのだ。

なるほど、それでパチンコからクラスタ感染者がいないのだ。
だったら、知事職にあるひとは、パチンコ屋を閉店せよというのではなく、パチンコ屋のやり方に学べ、といった方がよほど「生産的」である。

もちろん、パチンコという遊技場をどうかんがえるべきかの議論をしているのではない。

たとえ自覚症状がない感染者が利用客でも、だれかが触った場所を消毒することで、他人に感染させない、ということを地道にやっていること自体は、対策の効果的事例として役に立つといいたいのである。
しかも、「理にかなっている」。

それが、あろうことか難関医学部教授職よりも、はるかに合理的な方法を実践しているという意味でも、「理にかなっている」のだ。

政府は自粛を延長するというが、並行して、パチンコ屋さんの対応を応用する店舗の営業再開を促すような誘導をすべきである。
もちろん、その「自信がない」という店舗は、営業自粛を継続することになるけど、接客業なら利用客に消毒にたいする積極的協力を仰ぐことは、効果を高めるのだから推進すべきである。

でないと、政府が「理にかなっている」ことを潰しながら、責任すらとらないお気軽な存在だと認めることになってしまう。

少なくとも、強権的な知事の猛省をもとめたい。

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