メーデーをやめる労働運動妄想

昨年暮れに公開された映画『マトリックス』が、あんがいと「難解」なのにもかかわらず、あいかわらずの人気であった。
第一作が1999年だったから、シリーズの「息の長さ」にも驚く。

そもそもが、「現実世界」と「バーチャル世界」という二つの世界を、行き来して、バーチャル世界を支配するコンピュータと人間の闘いを描いたものだが、コンピュータの「プログラム」を作ったもの(ひとりの人間)が、究極の支配者であった。

すなわち、二つの世界全体をデザインする、ということを「アーキテクチャ:構造」と呼んだのである。

すると、レビ・ストロースが中心となった、「構造主義」がヨーロッパからアメリカに伝播して、それが本作の「物語設計」の骨格を作ったともいえそうだ。

レビ・ストロースは、「神話の構造」を分析してみせたが、「構造から神話」をつくったのがこの映画だったといえる。

第一作で主人公「ネオ」の人生を変えた「分岐点」を印象づけ・それが能動的なものであると強調したのが、あんまり飲み込みたいとは思えない大きさと色合いの、「赤いカプセルと青いカプセルの選択」場面だ。

「現実世界」に「目覚める」効能がある、赤いカプセルを、劇中では「赤いピル」と表現していた。
そして、いままで通りの「深い眠り」でいられる効能があるのは、「青いピル」であるから、これを選べば、この選択をしたことも忘れる。

しかして物語は、主人公が「赤いピル」を選択したことでの、想像を絶する展開をみせるのであった。
それもこれも、「自分で選んだ」ということに端を発するから、人生は見事な「自己責任」だという常識が前提に組み込まれている。

ここに、本来の「個人主義」がある。
ひとりで生まれて、ひとりで死んでいく。
その間の人生は、個人と個人の「つながり」が網のようにできている。
「自分勝手」とか「ひとりよがり」が、「個人主義」ではない。

しかしながら、発展しすぎた近代文明社会の、とくに自由主義先進国で一般的となった、「なんとなく生きている」という「ふつう」からしたら、「赤いピル」を選ぶという行為自体が、もはや「英雄伝」になる。

別にいえば、「なんとなく」でも生きていけるから、贅沢にも不安になるのだ。
「食う」ことが先決だった人類史が行きついた、逆説世界なのである。

また、そうではない、途上国における、たとえば「貧困」に生まれたら、どこにも「選択肢もない」という冷厳な事実がかんたんに予想できるようにもなっている。

そして、「グレート・リセット」を、堂々と標榜して、その趣旨である、あたかも「優生学」的な、富豪による人民支配を理想とした政治活動が、リアルな世界で計画・実行されていることすら、「知らないひと」・「信じないひと」対「気づいたひと」という構造ができている。

公開されたホームページに「書いてある」から、みないひとが悪い、という状態は、あたかも、国民への周知徹底を条約締結国に義務化した、(戦時における文民の保護に関する)「ジュネーブ4条約」を、締結国であるわが国では、防衛省のホームページをみにいかないとわからないのとおなじだ。

不毛の「専守防衛」論とおなじく、この4条約を国民に政府が積極的に知らしめることも、「戦争を受け入れる」と解する、残念な思考構造のひとたちからの批判を、面倒くさいがために、国民全体への周知徹底を積極的にしない、と決めたにちがいない。

よって、日本国民は、戦時における文民の保護に関する国際ルールを知らない。
ウクライナ大統領が、自国民に向けて発した「命令」は、民間人が戦闘に加わるようにしたから、完全に「このルール違反」なのである。

すると、対する敵国軍隊によって、自国民間人が殺戮されても、「国際法」は、文句をいえないことになっている。
そんな状態の国に、日本人善男善女がさまざまな「支援」をするのは、敵国認定されても文句はいえない、戦争加担行為なのである。

しかるに、統治能力を失った日本国政府は、国民にこの「危険」を知らせないから、確信犯だといえる。

さてそれで、今日はメーデーだ。

はじまりは、ソ連でも毛沢東の中国でもない。
1886年(明治19年)に、アメリカはシカゴで行われた「統一ストライキ」であった。

ちなみに、ロシア革命へとつながる「2月革命」は、1917年(大正6年)のことである。
日本では、1920年(大正9年)に、上野公園で開催されたのをはじまりとするから、ロシア革命「後」にあたる。

果たして、さまざまなことが「仕組まれている」とばれてきたのが、「コロナ後」のいま、なのである。
欧米でほとんど「収束」し、各種規制もほとんど撤廃されているのに、なぜかわが国では「2類のまま」放置されているけど。

それで、ロシア革命さえも、西側大富豪による資金提供なくして達成できなかったことも、「史実」としてみえてきた。
彼らの「サジ加減」で、さまざまな「ストーリー」が計画されて、実行される。

「本家本元」の、カール・マルクスさえ、この大富豪の家系にあることも発表されて、ぜんぜん「貧困にあえいで」なんかいなかった。
むしろ、「書かされた」といっても過言ではないほどなのである。

すると、「赤いピル」を飲んだつもりになってみたら、労働者と資本家は、ほんとうに「対立する構造」にあるのか?という、大問題が浮かび上がるのである。

そうやってみると、「労使双方」ともが、「対立しているもの」と思いこまされていないか?
とくに、失われた30年を振り返れば、従業員から昇格するわが国の企業経営者が、強く「思いこんでいる」ふしがある。

そんなひとたちが、「労使協調」を臆面もなく口にするのは、いったい新入社員時からの「組合員」として、どんな教育を労組がやったのか?

双方で、おおいに反省すべきなのである。

そして、双方共通の「敵」とは、金融(=虚業)資本主義という、外部の第三者が、実業を支配することができるようになった(した)、株式取得を中心とした「構造」にこそあることに気づかないと、はなしにならない。

こんな話を、メーデーにしてほしいものである。

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