民主主義がぜったいに正しい政治手法か?といえば、そんなことはない。
にもかかわらず、日本人は民主主義がぜったいに正しい政治手法だと思いこまされてきた。
この論理は、帰納法である。
なので、反対側からの演繹法だと、民主主義がぜったいに正しいとはいえなくなる。
帰納法は、論理による積み上げ方式の思考で、演繹法とは「はじめにありき」からの落とし込みの思考法なのである。
だから、あるべき姿を最初に設定して、それを実現するための方法をかんがえると、帰納法からの答と異なることはよくある。
いまある問題のより良い解決策を論理的に導く方法だと、あるべき姿という最終ゴールがわからなくなることがあるからだ。
なので、企業実務では両方のアプローチから解決策を「寄せる」ことがおこなわれてきた。
しかし、これがこと「国家」となると、検討すべき事項がやたらと増えて、なにがなんだかわからなくなって、ついには多数決で決めることに合理性があるようにみえるのである。
判断には、事前の情報がないといけない。
これを本業としたら、生活のための業務をおこなう時間がたりない。
それにまた、国民の全員が事前の情報に触れるのは困難だし、個人の能力には「ムラ」があるから、情報が与えられてもおなじ結論に至るとは限らない。
それゆえに、「代議制」が発明させた。
意見や思想をおなじくする大勢のひとたちの代表として選ばれたひとが、みんなに代わって情報の収集と判断をすることが、いちばん合理的だったからである。
対して、直接民主制をやっている国もある。
よくしられているのは、スイスだけれど、そのスイスのやり方の細かいところまでしっている日本人はすくないし、スイス人のかんがえ方の根本についてもくわしくしっているわけではない。
大雑把にいえば、スイス人は万遍なく優秀である、という前提がある。
この自画自賛の発想は、かつてヨーロッパ最貧だった山国のどこから生まれたのか?
あまりに喰えないために、ヨーロッパ各地の王侯に雇われた傭兵となって、出身地の村はちがえどスイス人同士が殺戮を繰り返していたのに。
逆に、そんな貧困が一歩まちがえると再び実現するので、「儲けること」についての貪欲さが他のヨーロッパ諸国よりも強烈になって、「一国平和主義」を国是とするようになった。
つまり、よその国がどうなろうが関係ない、というのがスイス人なのである。
なので、独特の民主主義を採用したのも、論理的帰結であった。
それが代議制と直接民主制の両方を採ったことにある。
ただし彼らの心の深層には、激烈なカルヴァン主義があるから注意がいる。
直接民主制のミクロな本音に、他人がどうなろうと関係ない、があるゆえに、政府や特定政党による宣伝工作で、投票行動への誘導がおこなわれているから、見た目では他の民主主義諸国と似たような現象にもみえる。
愚民がかならず混じっていることを懸念して、ふつうの民主主義国家では代議制が採用された。
しかし、代議士の愚民化で、代議という制度自体に疑問がうまれてきた。
そこへ、ネット社会の爛熟で、SNSという手段が愚民にも与えられたのである。
これは、あたらしい直接民主制を意味する。
ゆえに、SNS企業への政府の介在という憲法違反が内緒でおこなわれていたことが、「Twitter File」からバレた。
今後は、Twitter社から他社への疑惑解明というかたちで、さらなる情報開示がおこなわれるかどうかに興味が移りつつある。
おそらく、来年はこの話題で持ちきりになるだろう。
けれども、愚民の投稿問題という直接民主制を隠す話にもなりかねかい。
しかも、愚民のレベルが、「論破」を旨とする論理構築へと動いて、その内容がどんなにバカバカしくとも、論理さえあればこれを賞賛するのが、一段低い愚民なのである。
つまり、ネット社会の爛熟とは、愚民に階級をつくりだしたことを意味する。
文字も、文章もまともに書けないレベルを最底辺とすれば、あらゆる「屁」理屈を駆使してでも相手を「論破」できれば、それはあたかも「王」のように、ネット上で君臨できる。
しかも、こうしたやからの存在を許すのが、民主主義なのである。
悪貨は良貨を駆逐するという、「グレシャムの法則」を持ちだすまでもなく、愚論がまともな議論を駆逐して、最終的には「抹殺する」ところまでいく。
そのまともな議論とは、公衆の役に立つものだから、じつは公衆の福祉に反するのが、愚民たちの大量意見表明なのである。
厄介なのは、こうした言論をやめろ、と命令できないことにある。
さすれば、論破には論破でのぞむしかないのか?といえば、そうではない。
論破に論破でのぞむとは、愚民の土俵にあがることになって、もっと混沌が深まるからである。
残念ながら、時間をかけて「再教育」を社会に施すしかない。
それが、「修身」ということになる。
民主主義は、参加者全員が「修身」を修めてこそ実現する、高度な倫理を要求するものだからである。