ユニバーサル・デザイン

からだの不自由なひとが楽につかえるなら,健常者にとってはもっと楽につかえるように工夫されたデザインでつくるものをいう.
簡単そうだが奥が深い.
「楽で便利だ」ということはなにか?を追求しなければならないからだ.

たとえば,街のなかにはさまざまな「標識」が設置されている.
なかでも,「交通標識」は事故防止という観点からも重要な役割があるし,「方向表示」では,目的地や自分のいる場所をおしえてくれる.
基本的な標識のおおくが国際的にも共通だから,外国人でも,われわれが外国に行っても,意味を理解して行動できる.

おなじように,建物の中の避難口の案内や,はたまたトイレの案内などの表示も,国際的に似ているから,これもとまどうことがすくない.
つまり,「公共の場」はそれなりに「ユニバーサル・デザイン」が普及している.

じっさいにユニバーサル・デザインをかんがえるには,さまざまな制約をもうけて「体験する」という方法がとられる.
その制約とは,視覚,聴覚,触覚,味覚,嗅覚といった「五感」にたいしてである.
なかでも,視覚,聴覚,触覚のそれぞれについては,視野を狭めたり疑似白内障になるためのゴーグル,聴覚を遮断するイヤーマフ,触覚を鈍感にさせる手袋などをつかって実験をくりかえす.
さらに,車椅子の利用などもくわえての研究となるから,大がかりになる.

ちなみに,日本のものづくりにおいてのユニバーサル・デザイン研究では,東芝がリーディングカンパニーだった.
医学的所見や人間工学といった分野の学際的研究を,製品作りのデザインに落とし込むことができるのは,大資本ならではのことだからだ.

「多機能」だがつかわない機能にまでコストを負担させられる,という意味での高単価戦略は,日本製品の魅力をかえってそこなったのではないか?「単機能」だが安い,というアジア製との競争に,負けてしまった.
「単機能」のようにみえるが,そこに「すごいノウ・ハウ」がある,という合理性をもとめられているのに,である.

これは「ニッチ」ではない.
たとえば,「バルミューダ」というあたらしい電機メーカーが打ち出す商品の需要の高さが証明している.需要だけでなく,「憧れ」という地位までもあるのが特徴だろう.
大手家電メーカーの製品に,はたしていま「憧れ」がどこまであるのか?

メーカーの世界では,自社製品にどんな「価値」をもたせるのか?が決定的に重要なテーマになっている.
世界史的・人類史的な意味で「超高齢化」し,「急激な人口減少」が予想されているのは,なにも日本だけではない.

さいきん,「一人っ子政策」を中止した中国とて,なぜ廃止したのかをかんがえれば簡単で,巨大な人口が「超高齢化」するのが確実だからである.
「少子」という意味で,わが国より深刻な特殊出生率の低さをたたきだしているのは,韓国と台湾である.
奇しくも,かつての大日本帝国は,おそるべきスピードで人口が消滅の危機をむかえている.

つまり,東アジアという地域全体で,ユニバーサル・デザインが要求される時代になっているのだが,日本企業は鈍感にすぎないか?

これは,観光関連も同様である.
だれにとって,なにがどう便利なのか?という問詰めができていない.
ようするに,哲学軽視ということだ.
それは,「マーケティング」に対しての薄くて軽い理解の証明でもある.

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