一党独裁への愛が強すぎて

オギャーと生まれてから10年あまり、小学校の高学年である5年生や6年生にもなると、クラス運営にあたっての「民主主義」を体得するようになる。
「意見の違い」という問題が噴出するからである。

それが、思春期のはじまりにあたる中学生になると、簡単に収拾が付かない状態になって、「会議のすすめ方」という国語の副読本での解説が妙に役に立ったことを覚えている。
最近では、思春期のはじまりがだいぶ早まってきているだろう。

会議のすすめ方の第一に、「会議の目的」がある。
目的に沿った議論をしないといけないのは「自明のこと」だけど、かんたんに「脱線」するのは、意見のなかに「屁理屈」が入りこむからである。

とくに、自我に目覚めた子どもは、「屁理屈」をいうことが恥ずかしいというレベルに達していないので、こじゃれた子どもほど「屁理屈」をいって、自画自賛する傾向がある。
このままおとなになると、面倒な奴になる。広義の発達障害であろう。

しかし、屁理屈も論理のなかに含めると、論理展開という意味での訓練にはなる。
正しい論理の導き方を学べば、ちゃんとした「理屈」をいうようになるから、「屁」がとれる。

だから、おとなは子どもに、「論理」を教えないといけない。
むかしは、「お天道さまが見ている」といって、道徳を教えて常識人をつくったけれど、これを、さいきんは「ロジカル・シンキング」といっている。
どことなく、無機質なのは「常識」もロジカルでないといけないからだ。

学校なら教師が、家庭なら保護者が、そして、社会がロジカル・シンキングを常識とすれば、「世迷い言」がずいぶん減って、その分、社会も明るくなるはずだ。

コンサルタントの仕事をしていて気づくのは、「いい会社(良い会社ではない)」は、社をあげて常に、ロジカル・シンキングをしていて、その結果をメンバーの誰もがきちんと行動に移していることである。

逆に、うまくない組織は、これがぜんぜんできていないばかりか、ロジカル・シンキングということさえ知らない文化があるものだ。
だから、上からいわれたコトしかしない、ということが日常になる。
メンバーはバラバラで、全体のパフォーマンスが上がらないのである。

しかも、こうした組織のトップは、パフォーマンスが上がらないことの責任を、自分より下の組織メンバーの「資質」に求めるのもよくある話だ。
「うちの従業員たちは、やる気のないバカばかり」という本音は、「いい会社」がどうやって運営されているのかを知らない、自虐的な告白でもある。

さて、これを国家にあてはめて、本来、野党の存在意義はなにかといえば、与党の施策に対する「論理的批判」である。
当たり前に見えるけど、その「論理的批判」のベースに、かならず「政権交代」を意識していることが条件なのが、本来の「当たり前」である。

批判のために批判する、というなら、「評論家」に任せればよい。
野党といえども、メンバーは選挙で選ばれた、「国民の指導者」のひとりなのである。

この度の「日本学術会議」の任命人事について、たいへん興味深い「屁理屈」を展開しているのが、任命拒否された本人たちと野党と、そのシンパと見なされるひとたちである。
人数にすると結構な日本人が、はからずも旗幟を明らかにしているのは、一種の「あぶりだし」のようにもみえる。

また、その「屁理屈」の論理展開が、ちょっと前の「検察人事」のときと似ているばかりか「そっくり」なのである。
やっぱり、同じひとたちが、同じ屁理屈を掲げているのが滑稽なのである。
こういうのを、懲りないというのだろうけど、ぜんぜん反省もしていないから、悪質なのだ。

彼らの「世迷い言」とは、「議院内閣制の否定」がその根底にあるからだ。

わが国では、国政選挙のうち、下院にあたる衆議院議員選挙が行われて、当選者多数の支持を得た政党が、議員のなかから「首班」を選んでつくるのが「内閣」としている。
これを、弁護士でもあり、民主党政権で官房長官をやった、いまの野党党首が知らないはずはない。

しかし、彼らは、「行政官」である「検察官」の人事に、行政当局の、会社にすればいわば「取締役会」にあたる内閣の介入を「無法」だと強烈に批判したのである。
そして、検察官の人事は検察官に任せろと主張した。

検察官の人事に、ときの政権が介入すれば、政権の不法行為を取り締まることができない、と。
しかし、民主主義のルールでは、政権の不法行為を取り締まるのは、検察ではなくて、国会である。そのために、衆参両院という二院制なのだ。

この意味で、一院制ではあぶない。
参議院不要論があるけど、そうではなく、上院としての参議院の権限を強化する必要があるし、もっといえば、選挙方法を変える必要もある。
衆議院のコピーだから、不要論が出てくるのだ。

野党が弱小だから、国会で取り締まれない、ということの論理は、小数の国民しか自分たち野党に投票しないから、でしかない。
つまり、「国民がバカだ」といっているに等しく、どうして国民が支持しないのか?というマーケティングすらしない独りよがりを貫いている。

予算を全部国から得ている学術会議という組織が、組織内部で決めた人事に内閣が口を出すなという論理は、上述の検察官人事と同じなのである。

これは、共産党が決めた人事に政府が口を出すなという論理そのものだ。
わが国が、一党独裁の政治体制ならば、「通る」話しではあるけれど、いまは一党独裁どころか、官僚独裁で政権党は官僚のいいなりだから困るのだ。

つまり、一党独裁への愛が強すぎて、もうすでに一党独裁になっている、という「白日夢」を見ているひとたちが、自分からそれを「告白」しているのが、「学問の自由を守れ」という、人事とは関係のない議論のすり替えをしているにすぎない。

哀れな精神病理がここにある。

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