一発屋ではない「一曲屋」

西田敏行の『もしもピアノが弾けたなら』は、1981年、作詞は阿久悠、作曲・編曲は坂田晃一のコンビがなした、ドラマ『池中玄大80キロ』のテーマソングであった。

しかし、わたしにはとある思い出があって、先輩にむりやり連れて行かれたスナックで、人生初めてのカラオケで歌った曲である。
スナックも、カラオケもどちらも「初めて」だったけど、人前で歌を歌わせられたのは、小学校の合唱コンクール以来であった。

発声のための腹筋や発音の滑舌を鍛えているのが「俳優」という職業だから、これに音程がくわわれば歌手になる。
ただし、「美空ひばり」は別格で、いまだに感心するのは天才ゆえだと納得するしかない。

すでに発表されて何年も経過しているから、しっているひとには有名人なのだろうが、突如またユーチューブにあらわれたのが、海苔養殖を専業とする漁師のおじさんが奏でる『ラ・カンパネッラ』であった。

『のだめカンタービレ』の主人公も、佐賀県の海苔養殖の家の長女という設定だったから、まさに「外伝」としてなりたつドラマになるとおもえた。

 

海苔漁が暇になる夏場、趣味のパチンコで70万円もの負けがでて、奥様の財布からこっそり紙を抜きとったら、そこに「とるな」と書いてあったという。
「これはいかん」とおもって、パチンコをやめたというから、ここに本人の資質の一端がみえてくる。

時間つぶしに観ていたテレビに、フジ子・ヘミングが演奏する『ラ・カンパネッラ』が放送されて、「これを弾けるようになりたい」と決心したというから驚きである。

それに、奥様は、音大出のピアノ教師であった。

そこで、まずは相談すると、血相変えて「できっこない」と断言されるのだ。
「わたしにだって弾けない曲を、ピアノに触ったこともないひとができっこない」と。

このとき、本人52歳。

しかし、物怖じしないひとはいるもので、自宅にあるピアノに向き合うこと、1日8時間。
けれども、ピアノが弾けない前に、楽譜が読めない。
そこで、かんがえついたのが、ネットにある鍵盤が光る動画をつかうことだった。

そして、動画を一コマずつうごかしては止め、いちいち指の位置を確認するという方法だった。
どうかんがえても「無謀」ではあるが、からだが覚える、という回数をこなしたのである。

それから、8年。
とうとう、フジ子・ヘミング本人の前で演奏を披露したいという「夢」を、明石家さんまの番組で実現する。
その驚きの演奏は、感動的である。

フジ子・ヘミング自身、NHKの教育テレビに出なかったら、いまはない。わが家でも、たまたま、スイッチをつけたら出てきて驚いたのだ。
「なんだこのひと?」

 

「異例」というのは、再放送の回数で、教育テレビ史上初だったのではないか?しかも、続編までもできた。
「超絶技巧」を要求されるリストの難曲を難なく弾くというよりも、その「鐘の音」に、人生の意味がこめられている。

CD『奇跡のカンパネラ』は、国内で200万枚をこえるセールスを記録している。

彼女のリサイタルには二度行った。
周辺から、すすり泣きが聞こえてくるのが特徴である。
ひとつ「不満」をいえば、拍手が早いことである。
残音が味わえないのだ。

夢をかなえる企画で招待された福岡のリサイタル後、本人は、フジ子・ヘミングのマネジャーに会えると聞いて入室する。しかし、そこには独特のファッションをまとった老婆しかいない。その後、感激のあまり無骨な男が涙ぐむのを、じっとみつめるフジ子がいた。

漁師の手は節々がごついが、フジ子の手もごつい。
フジ子は、このひとの手をみて、「ピアニストの手だ」という。
こういう「手」でないと、いい音楽は奏でられないと。

しかして、本人も感心する演奏ではあったが、ちゃんとフジ子はフジ子らしいことをいう。
「奇跡だ」といった後の「雑音がある」。
それで、手本をみせるのだ。

改善の可能性のある証拠である。

フジ子・ヘミングは、無名時代、ヨーロッパ各地でピアノ教師をして生きてきたひとである。

さて、もっとも身近なピアノ教師である奥様はどうなのか?
もちろん、もはや「バカにする」はずもなく、その努力の成果を見あげているのである。
「よく続いた、それだけでもすごいのに」

たしかに、やったことがあるひとならだれでも思うことだろう。
そういえば、つまらない理由に「バイエル」があった。
延々と続く、つまらない練習。
最近は、バイエルの否定もあると聞く。

子どもの才能をうんぬんするなら、功罪はいろいろありそうだが、このひとのように、中高年になって、いきなり「難曲に挑む」という方法は、なかなか思いつかない。
一種の発明だ。

指揮の世界には、ギルバート・キャプランという「名手」がいた。
世界ホテルランキングで有名な、アメリカの経済誌「インスティテューショナル・インベスター」の創刊者である。
彼は、グスタフ・マーラーの交響曲二番『復活』だけを指揮する。というか、大好きなこの曲しかできない。

少年のころからの夢であった『復活』の「指揮」。
40代なかばで自費による最初で最後のはずのコンサートを行ったが絶賛を浴びて、その後世界的なオーケストラから客演依頼が殺到した。

1988年に発売したロンドン交響楽団との演奏は、マーラー作品のCDとしては史上最高の売り上げを記録したし、2002年には、発見されたマーラー自筆楽譜を私財をはたいて買い取って、なんとウィーン・フィルとの録音もしている。これは「キャプラン版」という。しかも、CDは、ドイツ・グラモフォンからでた。

やればできる、をやるひとがいる。
一発屋ならぬ「一曲屋」とは、初夏の風のごとく爽快である。

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