世界は「虹色」でできている

雨上がりの晴れ間に、太陽の位置とは反対側に現れるのが「虹」である。

ほんとうは、「円形」だけど、地平線が邪魔して「半円形」に見えることの方が多いので、「虹の架け橋」ともいう。

太陽光をプリズムに通すと、「スペクトル」が現れる。
それで、「波長」の短いものが「紫色」で、長いものが「赤色」だから、もっと短いものともっと長くて「見えない光」を、「紫外線」とか「赤外線」と表現することにした。

だから、「外」とは、人間の目で見えない光のことを指して、電波や放射線とおなじになるから「腺」とした。

逆に、見える光を「可視光線」と呼んでいる。
さまざまな「色」は、可視光線が反射して、「視覚」を通じた「脳」が作りだしている。

パソコンの画面の見すぎから発生する、眼精疲労が原因の肩や頸のコリは、画面から発生する「光の波長」が、自然光とはぜんぜんちがう「特定の領域」ばかりなので、人間の視覚と脳がくたびれて、血流が停滞するために起こる、「辛い症状」だ。

その主たる犯人が、「ブルーライト」だとされて、「ブルーライト・カット」という機能性のあるレンズを入れた眼鏡が人気をはくした。
「紫色」の隣あたりになる「青色」のことをいう。

さいきんでは、アメリカの研究で、ブルーライト・カットの「意味なし」が報告されて、なんだか急に価値がなくなった。
しかしながら、被験者が「青い目」のひとにとってなのか、「灰色の目」のひとなのか、それとも「黒い目」のひとなのか?でどう違うのかがわからない。

外国のホテルのロビーや、客室における「照明の照度」は、日本人には「暗い」けど、白人には「ちょうどいい」のである。

年齢と共に、目の方も「老化」して、だんだんと「眩しく」感じるようになるのは、「乱反射する光」を処理できなくなるためだ。
その「波長」が、だいたい「黄色(580nm付近)」にあたるから、このへんを「カット」するレンズの効果は、「くっきり・すっきり」する。

いわゆる「コントラスト(明暗・彩度の差)」がはっきりするのである。

ところで、「580nm付近」という数字は、デジタル風ではあるけれど、だらだらとつながっている。
これが、「アナログ」であって、ラジオ放送もむかしのテレビも「これ」だ。

すなわち、「虹色の延長」にある。

人間という「生体」は、電気信号をもって様々な動きができるようにしているけれど、これもやっぱり「アナログ」なのである。
だから、「アナログ人間」と他人から言われることは、べつだん「ふつう」の人間だということで、むしろ、「デジタル人間」の方が気持ち悪い。

ところが、人間の「思考」となると、様子がちがってくる。

人類最古の経典宗教は、ゾロアスター教だ。
「火を拝む」から、「拝火教」というけれど、他の動物にはなく人類しかコントールできない「火」とは、「暖をとる」以前に、「灯り」を意味する。

それで、「明」と「暗」のコントラストをもって、「善」と「悪」の「二元論」を思いついた。
これはなんと、「デジタル」の発想なのだ。
「ゼロ:0」か「イチ:1」、「マル:◯」か「バツ:✕」。

「ゼレンスキー:◯」、「プーチン:✕」も、おなじ発想だ。

「ゼレンスキー:◯か△」、「プーチン:✕か△」という発想をして、「なんだどっちも△」とすると、なんだか「気持ち悪い」ようになっている。
まったくもって、「イエス or ノー」の選択が「楽」だと、「脳」がその居心地のよさを命じている。

生体としては「アナログ人間」なのに、思考としては「デジタル人間」になる。
これはどうやら、歴史的にも人間の「習性」のようである。

さてそれで、子供の脳は、「あらゆる可能性に満ちている」のに、おとなになると「ほぼ全員が凡人になる」のはどうしたことか?

このときの「あらゆる可能性」とは、「アナログ」の広がりのことをいう。
そうすると、「凡人」とは、「デジタル人間」のことなのだ。
「◯と✕」で判断すれば、たいていが「おなじ答え」になるから、「凡人」になる。

だれが考えついたか知らないけれど、「SDGsバッジ」なるものを襟元に付けているのは、デジタルゆえの「命令」に従ったからだろう。
「着用:◯」、「拒否:✕」なのだ。
しかして、そのデザインは「円形の虹」に見える。

「アナログ」を「二元論」に「変換」して扱っているのだ。
これぞ、人類史の転換だといえる。
「革命的発想の表現」が、このバッジ「デザイン」とその「装着の有・無」で表す「本人意思表示」の「組合せ」なのである。

それで、「多様性」をいいながら、全員をおなじ方向の価値観にせしめるというのは、見事なダブルスタンダードで、目的は「全体主義の世界統一」なのだとわかるのだ。

「人類の普遍的価値観」とは、「やばい」表現である。

だから、「経験者」の旧ソ連・東欧圏が、抵抗勢力として期待できる存在なのだけれども、それを阻止して飲み込もうとしている全体主義の行動が、ウクライナでの闘いになった。

そのウクライナに、ヨーロッパで唯一距離を置くと表明した、ハンガリーの抵抗が、人類の「灯り」になっているのに、ハンガリーのひとびとは気づいているのだろうか?

日本人が応援すべきは、かつての「防共」の仲間にしていまや「唯一」となった、ハンガリーなのである。

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