争点がない総選挙という堕落

もうすぐ投票日の「今回の総選挙」では、これといった「争点がない」という堕落が起きている。

支持率がわずかしかない「野党第一党」は、どうした神経か「政権交代選挙」だと寝ぼけたことを主張している。
このトンチンカンぶりは、みていて気の毒になるほどで、世界企業「トヨタ」の労組30万人からも見限られた。

こうでも言わないと、存在価値がないという思い込みが「病気」なのだ。

もちろん、この政党のスポンサーであり支持団体といえば、「旧日本社会党」からの「腐れ縁」で、「連合」という労組の集合体である。
しかしながら、バリバリの左派を内包していた「総評」と、わが国では「右派」と位置づけられる「同盟」が合体してできた「無理やり」があった。

自分の身の丈にあった「ライバル」の存在とは、実は「自分の鏡」ともなるので、本人同士にとっては大変重要な役割を担っている。
「一流」ともなれば、ライバル同士は互いに「尊敬」しあうのも、そのあらわれなのである。

だから、不幸にも事故や病気でライバルを失って、その代わりがみつからないと、気がついたときには、自分の行くべき方向性まで失っていることがある。
かくほどに重要なのが「ライバル」なのである。

そんなわけで、労組のライバルとは、「財界」である。
そこで、財界はどうなっていたのかといえば、あんがいと重要だったのが、2002年に「経団連」が「日経連」を吸収合併したことだった。

これまで、わが国の「財界」は、労組との「団体交渉」において、日経連を「ヘッドクォーター:司令塔」に置いていた。
すなわち、日経連が財界の「頭脳」だったのである。

対する、「経団連」は、近衛内閣の「(革新)新体制」というスローガンのもとに作られた、「大日本産業報国会」が前身で、「戦争遂行」を目的としていた。
この対岸の「政界」では、「大政翼賛会」というカウンターパートができた。

戦後になって、「産業報国会」は「解散」したことになっているけど、その思想的つながりは消えないし、戦後経済の立て直しのために「報国」する必要が、「官」「民」であったから、「経団連」ができた。
つまり、経団連とは、加盟各社の「本業」を通じた「連合」なのだ。

ところが、一方で、アメリカ民主党という左翼政党が国を支配していたので、その「出先」である、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が占領当初にとった、左翼政策による数々の「命令」で、「日本解体」を目指した。

この中に、「急激な労働運動の容認」があったので、まさに「雨後の筍」のように「労働組合」が設立された。
しかも、戦前からの「名経営者」をつぎつぎと「公職追放」したから、安穏としていた部下たちが「企業経営者」に、やっぱり「雨後の筍」のごとく「昇格した」のだった。

それで、困ったのが、組合対策の「手」が、「へぼ」すぎて思いつかない。
この頃の組合は、戦前までの「ホワイトカラー」と「ブルーカラー」の身分的区別があったので、組合も、「別」だったし、中間管理職も「へぼ」が経営者になって君臨したのを認めないので、組合に加入した。

こうした「へぼ」が、「頭脳」を求めてつくったのが「日経連」なのだった。
つまり、ここでいう「へぼ」とは、「公職追放」時期の経団連のことをいう。

「表看板」の「会長」は立派でも、中身は「へぼ」ばかりなのだ。
いまは、「表看板」も「へぼ」丸出しで臆面もない。

本腰を入れて組合対策をするには、筋のある思想が必要だ。
そこで、日経連のモットーは、「健全なる労使関係」としたのだった。
結局のところ、日経連の「研究」は、学術的でもあって、急ごしらえの労組では対抗できない。

それで、互いに「研究」を積むことになったのである。
しかして、GHQは、天皇の上におわす唯一絶対神として、「左翼思想による日本解体」というDNAを労働運動に移植したので、多分に労組は「政治的」になったのである。

この意味で、労組は日経連のよきライバルとしての敵ではなかった。
されども、「へぼ」の譜系にある「経団連」が、「へぼ」のDNAをもってして日経連を取り込んだら、「生命」がかつては「外部」にあったミトコンドリアを取り込んだような画期的効果はなく、むしろ堕落した。

このことが、労組にも影響して、堕落が堕落を生むのである。

そして、その堕落が「与党」にも及んで、「自由」も「民主」もなく、「成長と分配」なる用語をもって、社会主義に堕落した。

つまるところ、総選挙の「争点がない」のではなくて、「同じことを言っている」という状態に陥ったのだ。
どちらも「赤い」けど、「薄めの赤」が好きなのか、「濃いめの赤」がいいのか?という選択を国民は迫られているだけなのだ。

しかも、カウンターパートのアメリカも、あろうことか民主党のしかも「左派」が牛耳っている。

ところが、「3.5兆ドル」の社会主義政策に、民主党でも中間派が反発して、よもや「反対」となれば、連邦上院における少数派は民主党になってしまうかもしれない事態となった。

アメリカ人には、まだ社会主義へ抵抗する根性があるけれど、日本人にはもうない。
これが、ほんとうに「労働者:働く人たち」の生活向上になるのか?は、「ならない」という解答を歴史が示している。

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