天気がいいので散歩に出たら、ついうっかり「歩きすぎて」昼食時間帯をはずしかけた。
いつしか、「空腹感」すら忘れていたのである。
それで、腰を据えて「飲食しようと」横浜中心部にある初めての中華料理店に入った。
厨房からの洗い物の音が「小物じゃない」ので、店員さんに問うてみたら案の定、昼食時間と夕食時間のあいだに「休憩時間」があるという。
時計をみたら、まもなく「休憩閉店」となるのであった。
なんだかせわしく、つまみとセットだった2杯目のビールを飲み干して店を出た。
中途半端な腹具合だが、ふだんは2杯もやらないビール腹になってしまった。
それで、横浜人として(さいきんは「浜っ子」とはあまりいわない)、「昼呑みの聖地」とされる、桜木町駅前「ピオシティ」の地下2階の飲食街、通称「ピオ地下」を久しぶりに探訪することとした。
いわずもがな、ことしは「鉄道開業150年」の節目だ。
横浜でもなにかイベントをやっているらしいけど、桜木町駅の変遷についてはあまり語られていないようにおもう。
ただ、JR駅構内には「常設」で、往年の駅の様子が写真展示されていて、小学校の同級生にそっくりな子供の写真もあるから気になる。
もしや?◯◯君では?
なんだか、青森駅の橋上通路にある、「青函連絡船」の思い出写真展示に似ているのである。
東急東横線の廃止に伴う、駅舎の大改修工事で、なんと駅そのものが横浜駅寄りに「移動」した。
いま「北口」といっている、横浜市役所側の改札が、往年の桜木町駅なのである。
ここには、「鉄道開業100年」を記念した、土台に蒸気機関車の動輪を置いた「碑」があって、「落成式」も盛大に行われた記憶がある。
東横線の旧駅舎の解体だけでなく、JRの移転工事によってその「碑」も30mほど、「移転」したけど、わざわざ「ここ」という地図表示と、地面にはオリジナルの跡地と移転先とが点線矢印で示されていた。
いまでも「碑」はあるけれど、そんな「丁寧な扱い」を受けてはいない。
これが、文化破壊をやる「JR東日本」という会社の体質なのであって、これを許す現在の横浜市は、とっくに市民から「乖離」している。
ただし、役人だけが悪いのではなくて、市議会議員の劣化がそうさせているのである。
こうしたことがわかるのは、市議会議員がつかう「敬語」である。
彼らは、役人に対して「謙譲語」を用いるのだ。
おとなとしての「対等」という意味ではなく、役人のほうが序列が高い、という感情表現になっている。
偉ぶればいい、というものではないけれど、なんのための「議会」なのか?についての意識がないことを自己表現している。
それで、とってつけたような「後援」とかのポスター印刷をさせて、あたかも市役所だって関わっているのだ見せるけど、ならば「市役所口」となった駅前の「歴史遺産」を何故にないがしろにするのか?を質問する地元議員すらいないのである。
もちろん、全国で最悪の市民税流出が起きている横浜市にあって、「ふるさと納税」なるめちゃくちゃな「税制」をやらせた、張本人たる菅義偉氏も、この桜木町がある選挙区から当選しているひとだから、有権者の「間抜け」が糾弾されても仕方がない。
市民税の枯渇が、カジノ誘致になって、これを拒否するならば市民は市民税を横浜市に納めよう!という議員もいないのである。
そんなわけで、産業道路の「中州」にできたのが、かつて「ゴールデンセンター」で、いまの「ピオシティ」ビルなのである。
このビルが開業(1968年:昭和43年)してから、横浜市営地下鉄の桜木町駅ができた(1972年:昭和47年)。
なので、「野毛」に行きたいひとは、たいがいがこのビルの横か中を、地下通路で通り抜けることになっている。
東横線の終点だった時代の野毛は、まったくもって「おじさんの街」で、家族で賑わう伊勢佐木町とも、そのすぐ裏の夜の街、福富町ともちがう、より怪しげな雰囲気があったものだ。
これは、京浜急行のガード下に日ノ出町あたりから黄金町まであった、「旧赤線」の名残でもあったけど、新人類的だった中田宏市長によって完全排除された。
よって、横浜からいかがわしい「戦後」の姿がまた薄くなったともいえる。
そのいかがわしさを、これほど「地獄」として描いた映像はないのが、黒澤明『天国と地獄』であった。
若き山崎努の演技が光る。
野毛地区はいまや若者が中心になって、なんだか「おじさん族」には居場所がすくなくなった感がある。
その玉突き状態で、「ピオ地下」は、「聖地」的な要素でおじさんが蔓延しているのである。
まだ明るいうちなのに、どうしてこんなにたくさん呑んでいるひとたちがいるのか?
まったく不思議だが、自分もそのひとりとなって景色の中にあるのだから、妙な安心感に包まれるのである。
こんな時間からアルコールを入れるのは何年ぶりだろうか?と思いつつ、空腹にいれた2杯のビールが効いて、眠くなってしまった。
家に帰ったのは夕方6時前。
ふとんに包まれたら朝になっていた。
こんなことでは、人間がダメになる。
呑兵衛の鉄則は、やっぱり暗くなってから、を痛感したのである。